第5話 木立の風

 学校のそばに人が寄りつかない木立がある。

 現代人が貴重とする緑があって、適度に街中にあり、そのうえ読書にはもってこいの静けさが嬉しい場所である。

 それでも人の姿がないのは、噂のせいだ。

 ここで人が死んだとか、木立の影に死者が現れるとか、怪談じみたこじつけの逸話があふれている。

 死者だなんて……。

 そんなことが現実にありえるならば大歓迎だ。幽霊でも何でもいい。君に逢いたい。

 女々しい願いを抱えたまま、毎日のように木立のもとへと通う。いつしか、変人と呼ばれるようになったのを、先日、友人の口から聞いた。



 木立の下には白いベンチがあった。

 それほど汚れてはいない。

 ちょっと埃を手で払って、あまり気にせず腰を下ろした。木陰に入っても少々汗ばむ。ここ2・3日、例年よりも暑い日が続き、この街はすでに猛暑の夏を迎える準備に入っていた。のびてきた髪をかきあげわずかばかりの涼をとり、いつもと同じ本を開く。

「ちょっとぉ、今日バイトなんだってばあ」

 木立の向こうから聞こえた声に、ページをめくる手を止めた。大声を張り上げる声の調子が君にそっくりだったのだ。その瞬間、本人ではないかと思ったほどで、しかし、冷静に考えたならそれはただの願望でしかないと気づかされた。

 だから思ったんだ。木立の風が君をこの世に連れてきてくれたんだと。噂の通り彼女が幽霊だとしてもかまわなかった。いや、いっそ幽霊であって欲しかった。



 背を向けたまま、彼女は立ち止まり空を見上げる。いや、視線の先にあるのは幾重にも重なる木の葉たちだった。塗り固めたような濃い緑の葉を見上げ、背を向けたままの彼女が柔らかく笑んだように見えた。彼女は葉を見上げたまま、友人たちの声も届かないようで、少しも動かない。友人たちもあきらめたようで、顔を見合わせその場から立ち去っていった。

彼女はそれでも木の葉を見上げている。数分経ってようやく動いたかと思うと、両腕を大きく広げ息を吸い込んだ。

「ああああああああ!!」

 彼女が声を上げた。

 本当に彼女の口から発せられたのか疑わしいほどの音量で木立の葉を揺るがす。揺れた木の葉が落とす陰の下、彼女がゆっくりと振り返った。

 まだ顔は見えない。

 光と影が交じり合った空間に彼女の表情が照らし出されていく。肩を撫でる細い髪が風に遊び、彼女の登場を待つこの心を焦らすのだ。気が逸り、立ち上がったときに本を落としたことにも気づかなかった。

 小さな音が彼女の視線を導いたようだ。

「あ……ああ」

 君の名を呼びかけた。呼びかけた。呼びたかった。なのに、

「わあ! あなた、アレでしょ? 噂の変人君。お会いできて光栄です」

 元気いっぱいに《変人》と呼ばれてしまった。しかも君と同じ顔、同じ声にだ。

「し、失礼だ。初対面の人間に《変人》呼ばわりされるいわれはないよ」

 落とした本を拾いながら、彼女の表情を盗み見た。彼女は笑顔を満たしたままで、何かを期待するように左右に揺れている。

「こんなところで大声を張り上げるなんて、あんたのほうが変人じゃないか」

「《あんた》って、年上に対して失礼ね。あなた、そこの生徒でしょ?」

 後方に見える高校の校舎を指差した。

「私はこれでも大学生ですぅ」

 《うぅ》とすぼめた口がなんだか無性に腹立たしい。しかしその表情も君のいたずらな表情にそっくりで、だんだんかわいらしく見えてくる。そうだ。君は僕の失敗を見つけると、勝ち誇ったような表情で、いたずらな瞳で笑うのだ。

「じゃあ。どうしてこんなところで叫んでるんですか?」

 敬語に直すと彼女は満足そうに笑った。

「大声じゃないと彼のもとには届かないの」

 彼女の声は弾んだままだったが、表情にすこし陰りが見えた。死んでしまった恋人か?それとも遠くにいる大切な誰かか? 誰を思って声を張り上げてるかは知らないが、きっと本当に大切な人なのだろうと、なぜか何の疑いもなくそう思えた。

 だけど思いの強さがすべてではないことは、誰よりも知っているつもりだった。どんなに大きな声で君の名を叫んでも、何も返らない。君の名を呼ぶことは、この世で一番意味のない行為かもしれない。

「届くわけないよ」

 その一言は、彼女の行動だけでなく、今の自分の姿さえも否定してしまっていた。口をついて出た言葉に、彼女は怒る様子もなく、逆にいたずらっぽく笑った。

「届くよ。きっと届く。同じ空だし、同じ雲もある。葉っぱも同じ緑色。春には彼の大好きな桜も咲く。私がいる場所も、彼がいる場所もつながっているの。

 この木立の風が、きっと彼のもとへ声を届けてくれる。だから、離れていても、もしかしたらもう逢えないかもしれないけれど、それでも全然哀しくないんだ」

 彼女は視線を落とし鼻歌をうたう。

 聞いたことがない旋律だった。

 眠たくなるようなクラシックにも聞こえるし、若者向けのポップスと言っても悪くない。ときどき明らかに音をはずしながら君の声で彼女がうたう。それは全ての記憶を呼び覚まし、頭の中、否、胸の奥深くからも君の思い出を引き出し、目の前の色をさらっていった。

 緑はきれいだったろうか。あの頃の葉は美しく色づいていただろうか。風はどんな色だった? 僕は全てを忘れずにいただろうか?僕のもとに残ったものは君の全てだったろうか? 僕はたしかに君を想い続けていただろうか? 今残っている君の影は本当に君だろうか? わずかな間に作り上げた自分勝手な幻想ではないだろうか? 目の前の彼女と君の違いを、僕はひとつでも見つけることができただろうか?

 君といた日、木立の風は今と同じようにそよいでいた。優しく僕らを包み込むように、こんな日が来るのを、あのときから知らせ続けていたのだろう。

 風にふかれ、ひらりひらり、緑の木の葉が舞い降りる。彼女との間を通り過ぎ、2人の足もとに落ちて、君へとつながる一瞬を閉じた。彼女の歌が止み、ひとつ、強い風が足もとの乾いた砂を巻き上げた。

「突然ゴメンネ。君の噂を聞いて、この曲を教えてあげたかったんだ」

 音痴だという自覚があったのか、曲の終わりに、彼女はぺろっと舌を出しておどけた表情をみせた。

 君がいとおしくてしょうがなかった。

「本当は、幽霊になって会いに来たんだって思いたかった」

 それを願っていたのは真実だったし、そんな君への想いを尊いとまで思っていた。そうして自分自身を、自分の思いを正当化し、考えることをやめていた。僕は逃げていた。君が一番嫌うような生き方をしていたんだ。

 だけど彼女は笑顔だった。

彼女は大きな声で笑って、笑いたいだけ笑って無理に真剣な顔を作った。

「過去に捕われそうになったとき、この曲は君を救ってくれるよ」

 あまりに自信たっぷりなので、思わずこわばった表情がゆるんだ。気づくと僕は声を出して笑っていた。こんな風に笑ったのは、君がいなくなってから初めてのような気がした。

「大丈夫。天才直伝の鼻歌は強力だから」

 彼女の笑顔が君とは別人に見えた。

 僕は当然のようにうたを口ずさみ空を見上げた。

 陽が揺れる。

 片手で陽を遮りながら大きく息を吸い込んだ。この空はきっと君のもとへとつながっている。それが未来ではなく過去でしかなくても、きっとつながっている。

 一足先に彼女が叫ぶ。

 僕は大きな声で笑ってから彼女に続いた。君の名を呼ぶ。精一杯の希望を込めて。

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