第3話 秋の雨
みどりがあり、さらに水辺なんかがあると、それは自然だともてはやされる。けれど、ちょっとワガママを言わせてもらえば、沼よりは湖がいい。もっと言うと、透明度は高くなければいけない。虫がいてもいけない。ぶよや蚊は最低。蜂のほうがまだかわいい。
だけど、雨の中を歩くときは、全ての条件がそろっていなくても、何だか嬉しくなってくる。水面を埋め尽くす波紋を見るだけで、幸せな気分になるのだ。水面に咲いた、円が描いた花々は、幸せな気分を与えてくれるのだ。
たとえ恋人の車で訪れた水辺の観光地に、たった一人おいてけぼりにされても、幸せな気分になってしまうのだ。
幸せなのはいいのだが、さて、どうやって帰ろうか。
市街地までは車で二・三十分。他にも手段はあるが、何せ、持ち合わせがない。誕生日を祝ってくれると言うので、たいして財布に入れてこなかったのだ。ヒッチハイクでもするかと、若干腹をくくりかけた。
そのとき彼に会った。
コンビニで売っている、透明なビニールの傘を差し、独り水辺にたたずんでいた。水面では雨にも負けず、大小の魚が後を追い合いながら宙へと跳ねている。彼の目はそこへと向けられていた。
「さかな。すごい元気だね」
気づいたら彼に話しかけていた。
「僕、魔法が使えるんです」
彼がこちらに目を向けた。何も言わずに傘を手向けた。
「秋とはいえ、もう二週間もすれば雪が降ります。北国の秋を甘く見てはいけませんよ」
傘を手渡すと、空になった手でジャケットをかけてくれた。少し心地悪かったが、たしかに温かくなった。
「あなた、信用していないでしょう?」
彼は傘を取り返し微笑んだ。
「この魚たちも、僕の魔法で跳ねています」
「さかなが?」
どう見ても自然の風景だと思う。
しかし彼は自信たっぷりに言う。
「いまいち」
率直な感想を述べると、彼の背中は急に小さくなった。
彼は本気で言っていたのだ。彼は本当に魔法がつかえたのだ。
彼の魔法は言葉の魔法。言葉に奇跡が宿ると言う。彼のつく嘘は真実となり、魚が飛び跳ね、小鳥が目の前に姿を現した。他にも、急にどしゃ降りになったり、目の前でボートから人が落ちたり(雨なのにボート……)、とにかくいろんな奇跡を見せてくれた。
「もっと見せてよ」
半信半疑で……信じる気持ちなんてこれっぽちもなかったけど、暇つぶしにはなると思って彼に寄り添った。上手くいけば、街までのアシにもなるかもしれない。
彼の表情は険しかった。視線をめぐらし辺りをさぐる。視線の移動にともない木々が揺れた。辺りには風もない。雨の粒も小さく、空気を湿らす程度だった。
つまり、彼の見つめた場所だけが揺れていたのだ。
その瞬間、《半信半疑》の《信》の割合がちょっとだけ増えた。
彼の視線は最後にこの顔を見た。
「僕は魔法使いなんです。全てのものが僕に教えてくれます。だけど、僕はそれを誰かに伝える事ができないのです」
彼の右腕が宙に向けて差し出された。長くて強い腕だった。自然に、しかしオブジェのように美しい線を表わしていた。彼の腕にも細い雨が当たる。その雨はやがて彼の腕を避けるようになった。
目の前の彼は一度振り返り、こちらに顔を向けたまま手のひらを天に向けた。
「あなたのいい人の代わりにはなりえませんが、よろしければお相手させていただけませんか?」
彼の手のひらに雨が溜まり、彼の笑顔とともに弾け飛ぶ。水滴で作られた七色の鎖がこぼれ落ち、水中へとダイブする。
厚い雲の下にもかかわらず、その鎖のつなぎ目には淡い光がさしているように見えた。
新しいナンパ法かとも思った。だけど、彼の目を見つめたとき、確かな安心感があった。
成り行きで、彼と一緒に公園内を散歩することになった。
暖かい日が続いたせいで、まだ公園の木々は満足のいく色づきではない。でも、私はこれくらいの頃が好きだ。新緑を思わせるほどの鮮やかな緑、そのすぐ隣りに、銀杏の黄色がせまる。それを見守る母のように紅い葉がそれぞれの葉の奥にひそんでいた。
一つの色でも、きっと人の目を楽しませることができるだろう。だけど、私はこの色が好き。わずかな時を分かち合う、この色たちの一瞬が好き。
「おめでとうございます」
恋人においてけぼりにされたいきさつを話し終えると、思いがけないお祝いの言葉をもらってしまった。「かわいそうに」とか「さんざんな誕生日」とか言われると思っていたのに、本当に満面に笑みをたたえて、自分のことのように喜んでいる。その笑顔が問いかける。
『あなたはそう思わないのですか?』
「めでたいです」
投げやりな言葉を発していた。
彼にもそれが伝わっていたのだろう。しかし、彼は少し笑ってうなずいた。
「ところで、そっちはひとりで何してるの? 観光?」
愚問だったろうか。
「あなたの誕生日を祝いに来たのです」
彼はそう言ってポケットから一枚のコインを取り出した。それを手渡す。
「あなたのいい人をここに呼び戻して上げましょう」
「ムリだって。たぶん嫌われちゃったよ。それとも魔法でなんとかしてくれる?」
彼は何も言わずうなずいた。
「あなたのいい人は、あなたを嫌ってなどいません。そしてこの場所にあなたを迎えに来るでしょう。僕の嘘には奇跡が宿る、
《この言葉は真実になる》」
彼が魔法をかけた。
気のせいか、恋人が呼ぶ声が聞こえた。彼の魔法が成功したなら、けして不思議なことではない。
「嫌ってなんかない、ここに迎えに来る。でも、それは本当は嘘」
彼の言葉を自分の口で言いなおす。
「待って! やだ! 迎えに来たって、嬉しくなんかないよ。だって、魔法でしょ? 好きって気持ちも……。それなら、いらない」
自分の名前を呼ぶ声から逃げるように、その場から離れようとした。しかし、彼に腕をつかまれる。
「すみません。冗談が過ぎました」
彼はそう言って傘をくれた。
「僕の魔法には限界があります」
「……え?」
「僕の魔法では、人の感情まで支配することができません。僕の魔法は、あなたたちの仲直りにきっかけを与えただけです」
彼は眉をハの字にしながら、優しく微笑んでいた。
「試しに、あなたに魔法をかけてみましょうか? あなたは僕を好きになる、と」
彼の言葉に思い切り首を振った。いや、もちろん、彼を拒絶したわけではなかった。
だから彼の顔を見つめ、同じように笑顔を返した。
彼はいっそう優しい笑顔を見せた。
「ぜんぶ、知ってたの?」
問いかけに対し、彼は少し悩んで、そして小さな声で言った。
「僕は魔法使いです」
彼の言葉をフォローするように、木々が揺れた。これも彼の魔法だろうか。色づく季節を待っていた木の葉たちが、私の顔に合わせて紅潮していった。それはまるで、やさしく灯るキャンドルのよう。そう。それは彼からのバースデープレゼント。
「ハッピーバースデー」
弾む声に空気までもがざわめいて、厚い雲を押し除ける。線の花に光が差した頃、彼の姿は秋の雨とともに消えていた。
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