第2話 夏の花火
宵口の冷たい空気に、ただ一度身を震わせた。夏であるにもかかわらず、口の端にわずかながら緊張を感じる。
夏のはじめ、欠けた月の浮かぶ夜だった。
真横から見上げた花火を想像したことがある。大輪の花を横から見たなら、やっぱり薄っぺらく見えるのだろうかとか、その分迫力がなくなってしまうのではとか、繰り返し考えては要らぬ心配をした。
「昔さあ、花火を横から見るかそれとも正面から見るかって、そんな番組あったよな?」
数式を解いていると、隣の席から声がかかった。
くそっ。
変なとこで声をかけるから、九×八を四十二と書いてしまった。おまけに、直そうと思い消しゴムをかけると、プリントにきれいなさけ目ができた。
(提出しなくちゃなんないのに)
腹立たしさをぶつける当てがなく、自然と彼を睨みつけた。
彼は何食わぬ顔で計算を続けている。その姿を見て、余計に腹が立った。
手を止めてこちらに目を向ける。
「おまえ、人の話聞いてんのか?」
人の気も知らない。飄々とした面持ちで、答えを待っている。
「それが何?」
あやふやに返し、プリントの修復にかかる。しかしセロテープが上手く切れない。
今日は何だかついていない気がする。
「さみしいねえ、その反応。せっかくの自習時間なんだからさあ、親睦を深めようぜ」
彼が椅子を近づける。……冗談じゃない。
「提出しなくちゃならないんだから、邪魔しないでくれる?」
自分でも声が尖っているのがわかった。だが、彼は引き下がらない。頬杖をついて、机の上を占領する。
彼の顔が笑顔になった。
一見人当たりがよさそうに見えるが、勘違いしてはいけない。この笑顔は友好的な意思表示などではないのだ。この笑顔は緊急警報。彼が笑顔を見せた後は、どんな奴よりもたちが悪い。
この笑顔が出てしまったらもう駄目だ。立ち向かうことは時間と体力の無駄なのだ。
「わかった。その代わり、これが終わってからね」
「よっし! すぐ終わる! 今終わる!」
立ち上がったついでに大声を上げる。教室中の視線が彼に集中した。彼は気づいていないようだ。彼の行動には慣れたが、やはり、注目を集めるのはあまり心地の良いものではない。特に、彼とセットで扱われるのは、正直ゴメンだ。三日前の席替えのくじを、もう一度引きなおしたいと願っている。それが叶うならば、次のテストはE組の武内にトップの座を譲ってもいい。それくらい、この席が嫌だし、彼が嫌だ。
……だけど、ときどき、彼のことがものすごく羨ましくて、代わりに、自分が酷く浅ましい存在に思えた。
表情もそうだが、彼の声は良く変わる。抑揚どころじゃなく、まるで人格が入れ替わったかのよう。その調子で延々と話し続ける。最初は怖かったが、慣れると(できれば慣れたくなかった)、不服ながら見入ってしまうのだ。彼の持って生まれたものか。良くも悪くも、彼は人の目をひきつける。
彼が尋ねてきた番組は知っていた。一時間くらいのテレビドラマだったと思う。ただ、何年も前のことだったので、はっきりは覚えていない。だいたい、今となってはそんな二択はくだらなさすぎる。
「なのに、なんで見ようとしてるわけ?」
怒りというより、呆れていた。
午後七時半を過ぎ、空は青空を残しつつも、すでに一番星を迎えていた。
彼は今日の花火大会を、何日も前から狙っていたようだ。
彼が案内してくれた場所は、二人の他に人の姿はなく、また、花火を見るには程よい高さの丘であった。
日が落ちたばかりかと思っていたが、辺りはすっかり暮明へと変わっていた。ここには外灯すらない。丘の下、街を照らすネオンだけが、足もとを映す。
膝をも隠す草むらに立ち尽くす。
彼は何も言わず、真剣な面持ちで空を見つめていた。今のところ花火は見えない。予定の時間までまだ十分以上もある。
「花火は薄っぺらじゃないんだってば。くだらないこと考えないほうがいいよ」
「いいから」
振り返った彼の顔には笑みが差していた。
彼のしようとしてることは、あまりにもくだらない。受験生のくせして、花火なんかを見に来てるだけでもどうかと思うくらいなのに、この男は、見えるはずのないものを期待しているのだ。そして、その誘いを断れない自分もどうかと思う。……いや、確かかたくなに拒んだはずだ。なのに何故かここにいる。
仕方ない。今さら抵抗しても体力の無駄だ。今日だけは、ゆっくりしてみよう。
「きた!」
彼の声が早かったか。
細い音を伴い、宙をかけ昇る。空にとどいたかと思うと間もなく弾け、数十倍に膨れ上がった。
彼の期待していたものではなかったろう。
しかし彼は、まだ黙ったまま、その穏やかな眼差しで空を見つめていた。
彼はしばらく動かなかった。呼吸をしているのかさえ疑わしいほどに、微動だにせず、時々、思い出したかのように蚊を払い落とす。
やがて彼は腕時計を睨みつけた。
彼が振り返る。
「これ、ちゃんと見ろよ!!」
花火にも負けない大きな声だ。
打ち上げられた花火は、現代人が作り上げたくだらない夢の形。
「見たか?!」
また振り返り確認する。妙に力が入っているのは気のせいじゃない。
「見たよ。ネコ型花火」
本当にくだらない。こんなものを作るのに無駄な能力を注ぐなんて信じられない。
彼から視線を外し、もう一度空を見上げた。
「違うって! あれ! 花火の……!!」
「…………側面!!」
それは確かに真横から見た花火だった。正面から見たならば、確かに猫の顔に見える。しかし角度を誤れば、それは幼い頃に思い描いた薄っぺらな花火。
「この花火、見せたかったんだ」
彼の横顔が花火に照らされる。
「どうして?」
「いや、隣の席だったからさあ」
躊躇することなく彼の口から出た答えは、なんとも間抜けであり、何の道理もない答えだった。だんだん頭が痛くなってくる。
「普通、友達とかと来るだろ……」
「何? 俺とおまえが友達? そりゃ、初耳だ」
「……こっちだて初耳だよ。まったく。人の話をちゃんと聞けよ」
彼にはかなわない。
「俺の友達って誰だ。……中村とかか?」
げらげら笑って人の肩を叩く。
「それも違うと思う」
「そうか」
《友達》を知らない彼は肩をすくめた。季節には不似合いな、冷たい風のせいだっただろうか。その背中を見ながら、誰に対してか何に対してか、なぜか申し訳ない気持ちに駆られ、花火の爆音が重なるごとに顔の火照りが強くなっていった。
「おい! これ見ろよ!」
登校するなり人の机に座り、顔の前にDVDを突きつける。
「横からか正面からかじゃなくて、下からか横からかだったよ」
どこから探してきたのか、例のドラマのDVDだ。間違いがあったらしく、大きな声で嘆いている。
彼は今日も注目を浴びる。その行動に慣れたくはないが、二学期連続で隣の席に座ってしまったら、悲しいかな、笑顔で見守る余裕ができてしまった。やはり彼にはかなわない。
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