僕の名探偵様

南野海

プロローグ1


「一郎、きょうからおまえは俺の息子じゃない」

「はあぁ? なにをいってるんだよ、父さん?」

 僕は一瞬耳を疑った。

 だが目の前にいる父さんは冗談をいってる風ではない。もともと堅苦しい頑固親父で、冗談の類を息子にいう男ではない。普段はいかにもビジネススーツで身をまとったエリートといったいでたちなのだが、きょうはむしろ憔悴しきった感じで、白髪交じりのオールバックの髪も心なし乱れ、スーツはよれよれだった。痛ましいくらいに。それどころか、僕が目を見ると、視線をそらした。

 本能的にいやな予感がした。それも過去最大限の厄災が来そうな……。

 そもそも日曜日に、訳も知らされず、見たこともないようなでかい屋敷の中に連れてこられた時点でなにかそういう予感はあった。あったが、おそらく予想が大きく外れそうな気がした。悪い方に。

「まあ、おまえももう高校生になったわけだし、いつまでも親のすねかじりでもないだろう」

 父さんは僕の目を見ないまま、そういった。

「説明してよ。わかんないよ、まったく」

 そういいつつ、僕はちょっと怖かった。父さんがなにをいいだすか、ほんとうは聞きたくないというか……。すでに悪い予感は過去最大限フルマックス。

「おまえを売った」

「はあ?」

「おまえは奴隷だ」

「はあああああっ?」

「すまん!」

「まじっ? まじなの、それっ!」

「まじだ。すまん」

「すまんじゃねえぇええ!」

 い、いや、聞き間違いだ、きっと。そんなこと、平成の日本であるわけがない。法的に許されるはずもない。

 そう思いたかった。だが、目の前の父さんの様子はそうはいっていない。いつも尊大な父さんのかつて見たこともない卑屈な態度が物語っている。

 悪い。信じられないだろうが、ほんとうのことだ。すまん。

 体全体でそういっている。

 いや、ちょっと待て。整理しろ。売った? 誰に? 僕は誰の奴隷になったんだ?

 そもそも奴隷ってどういう意味だ?

「僕はこれからどうなるんだよっ?」

 思わずさけんでいた。

 もう僕の予感が悪い方に外れるというのはまちがいない。それも限りなく果てしなく。

「わからん。それは俺にもわからん。わかるのは……」

「わかるのは……、誰さ?」

「おまえのご主人様だ」

 ご主人様。僕はその言葉を聞いて目眩がした。ほんとうに奴隷になった気がしたからだ。

「誰だよ、それは……」

「すぐ来る。ここに」

 僕は思わずあたりを見まわした。

 応接間らしき広い部屋。家具は高級なアンティークらしいもので揃えられ、今座っているソファもやけにふわふわしている。たぶんこの家の持ち主、つまりご主人様とやらは大金持ちなのだろう。いや、それはここに来たときからわかっていた。なにしろ都内にこんなお屋敷があるのかと疑問視せざるを得ない大邸宅で、メイドに案内されてこの部屋まできた。大金持ちに決まっている。

 だが、その大金持ちがいったい僕になんの用だ?

 金持ちなんだから人手は足りてるだろう。現にメイドだっている。あれ、ひょっとしてあのメイドも……。

 なにしろ僕と同じくらいの年だったし、これってコスプレですか? ってないかにもなメイドの恰好だったし、顔だって美形だった。あれはいわゆる性的な意味の奴隷なのか?

 ま、まさか、僕も……。

 妄想が暴走しそうになったとき、部屋のドアが開いた。

 反射的にそっちを見る。脂ぎったじじいを想像したが、そこに立っていたのは美少女だった。

 ショートカットの子で、スリムで小柄な姿は少年のようだ。Tシャツとジーンズといった飾り気のない恰好もそれを助長する。だがまぎれもない美形だ。小さいながらツンと尖った鼻。切れ長の目。きりっとした唇。

 え? っていうか、こいつは……。

「ボクの家にようこそ、一郎君」

「き、君は……」

 僕のかんちがいでない限り、こいつはクラスメイトの……。

「そうだよ。ボクは貴麗院薫きれいいんかおる。君のクラスメイトだよ」

「その貴麗院さんが……」

 いいかけて、僕は思い出した。彼女が大金持ちだって噂を。

 不覚にもこの家に入るとき、表札を見逃してしまったが、おそらくそういうことなのだろう。

 彼女はこの家の娘だ。

「ま、まさか……」

「うふふ。そう、そのまさかなんだよ、一郎君。ボクが君のご主人様っていうわけ」

 頭が混乱した。いったいどういうことだ?

「よくわかっていないようだから、説明するよ。つまり、ボクが君を奴隷にするために、君のお父さんを追いこんだんだ。二十億の借金を背負わせて、それを帳消しする代償として君をボクに差し出すようにね」

「なんで?」

 僕はとうぜんの疑問を口にした。

 もし逆の立場ならわからないでもない。つまり僕が美少女なら、奴隷にしてそれこそ、あんなことやこんなことを強要したいわけだ。

 だけど、僕はただの平凡な男子高校生で、際だった美形でもない。マッチョとかデブとか一部のマニア受けしそうな属性もない。つまり性的な玩具にする価値なんかないし、なにかに才能あふれて利用価値があるわけでもない。

 なんでそんなこみいったことをしてまで、僕を奴隷にしたいんだ?

「直感だね」

「は?」

「君ならボクの探偵助手にぴったりだっていう」

「え?」

 本気で聞き間違えたかと思った。というか、この女が自信満々でいってる言葉の意味がまったく理解不能だった。

「名探偵には助手がつきものなのさ。事件の間パシリをやって、最後には事件を手記として残す助手がね」

 薫はなぜかドヤ顔。だが、なんとなくいいたいことはわかる。そこまでは。

 小説の名探偵にはたしかにそういう人物が助手としてつくことが多い。一番わかりやすい例でいうなら、ホームズに対するワトソンだ。

 なんでそんなことがわかるかといえば、じつは僕はミステリーマニアだ。それも読むだけでなく、自分で書いたりもしている。学校では秘密だけど。

 つまり貴麗院薫は自分を名探偵と思いこんでいて、ワトソンがほしいわけだ。そこまではわかった。

 問題はなぜそれが僕なのかっていうことだ。

「なぜ自分が指名されたのか、わからないって顔だね?」

「そりゃそうだろ? っていうか、訳があるならぜひ教えてもらいたいよ」

 なにせそのためだけに、父さんを嵌めたわけだ。尋常じゃない理由があるとしか思えない。そんなことにこれっぽっちも心当たりはないが。

「だから直感だよ」

 今度こそほんとうに耳を疑った。ほんとうにそれだけのために……。

「もちろん、それなりにデータはあるよ」

 薫は出来の悪い生徒に説明するようにいう。

「たとえば君がミステリーマニアで、ミステリーの賞に応募した経験があるとか」

「なんでそんな僕のプライバシーを知ってるんだぁあああ!」

 だが薫はにっと笑っただけでそれには答えない。

「たぶんそんなやつはうちの学校には他にいないよね。それだけでも理由になるとは思わないかい?」

「思わない。ぜったい思わないよ、そんなこと」

「それだけじゃないよ。そもそもそんなことは重要じゃない。重要なのは相性だよ。だいたい名探偵ってのはわがままで変人じゃないか。助手タイプの人間はそういうやつにふりまわされるのが大好きな人間なんだ。まあ、マゾっ気がなけりゃつとまらないよね。君みたいに」

「勝手に決めつけるんじゃねぇええええええ!」

「え? ちがうの。いや、そんなはずはないなあ。ボクの目に狂いはないもの」

 薫はまちがいをぜったい認めようとはしない。

「君はぜったいMだよ。それも名探偵に振りまわされたがってるワトソン型M。まちがいない」

 薫はどうだとばかりに僕を指さした。

 ワトソン型M。そんな単語は生まれて初めて聞いた。じゃあ、おまえはホームズ型Sか? とつっこみたかったが、どうやらそんな場合じゃなさそうだ。

 だがそう断言されると、ちょっと考えてしまう。ひょっとして僕は今までミステリーを読むとき、名探偵にふりまわされる助手に感情移入していたのか? それが快感だったのか?

 いや、ちがう。そんなはずはない。……っていうか。

「それだけの思いこみで、僕を奴隷にする気かよっ!」

「そうだよ。悪いかい?」

 薫は真顔でいった。金持ちが一般市民を奴隷にしてなにが悪いと思ってるらしい。

「そ、そんなの、僕にひと言いえばいいじゃないか。探偵ごっこの助手役をやってくれって」

「探偵ごっこ?」

 そのひと言で薫は明らかに不機嫌になった。頬をふくらませながらいう。

「ぜんぜんわかってないようだね。ボクが興味があるのは本物の事件。それも不可解な殺人事件だよ。それにつき合わせるんだから生半可な覚悟じゃ逃げるだろ、君だって」

 ま、まあ、そりゃそうかもしれないけど。

「それにボクは無茶な命令もするしね。逃げ出さないためには縛りが必要なんだ」

 無茶な命令ってあんた、僕にいったいなにをさせる気ですか?

「あと、性的な目で見られても困るし。名探偵と助手は性的な関係になっちゃいけないんだ。興ざめだろう? そんなことになっちゃ」

 奴隷はご主人様に手を出してはいけないということらしい。つまり薫は、男としての僕にはこれっぽっちも興味がないってことだ。

「いいかい? 条件はボクの探偵助手になること。だから、事件捜査に関する命令には絶対服従するんだよ。ただし、それ以外のことでは命令しないし、仮にされても聞く必要はないからね。あと、敬語を使う必要もなし。ましてやご主人様とかいうこともないから。呼びたきゃ薫って呼び捨てでもかまわないよ。むしろ学校じゃ自然に接して。この契約のことは秘密にしておくから。あとは、けっしてボクを口説かないこと。契約期間は高校卒業するまでの間。もっとも契約違反の場合は、無条件に二十億一括返済だけど、違反さえしなければどうってことないし、違反しないのはそうむずかしいことじゃないずだよ。どう? 悪い条件じゃないだろう?」

「ど、どうって?」

 いったいどう答えりゃいいんだ。

 奴隷なんていうから、それこそ女王様との変態プレイを内心想像していたが、それに比べればどうってことないというか、まっとうなビジネスの契約にすら思える。名探偵助手っていうのが、まっとうなビジネスの範囲ならの話だけど。

 そう思った僕の心を読んだかのように薫はいう。

「ま、奴隷っていったのは言葉の綾さ。じっさいは僕の助手を務めてくれればそれでいい。ただし勝手にやめる選択肢はないけどね」

 口ごもっていると、父さんに肩を叩かれた。

「頼む、一郎。俺に二十億を返す器量はない。薫君のいうとおり、どうってことないだろう? 部活で探偵部に入ったとでも思えばいいじゃないか」

 探偵部? そんな奇天烈な部活は学校にねえっ!

 そういいたかったが、涙目で頼む惨めな父さんに、僕は否定の言葉を掛けられなかった。

「ふふ、悩む必要なんかないよ、一郎君。どうせボクの命令と、君の願望はいっしょなんだから」

「それって、どういう……」

「ボクは君を振りまわしたい。君はボクに振りまわされたい」

「そんなわけないだろ?」

「いいって、いいって。無理にとりつくらなくたって。どうせすぐばれるんだしね」

 なにをいってるんだ、こいつと思ったが、僕にはどうにもなす術がない。

「わかったよ。受けてやらあ。で、どうすりゃいいんだ?」

 半ばやけくそで俺は答えた。

「とりあえず、学校休んでボクとフィリピンのリゾートに行ってもらうね。そこでボクといっしょにダイビングやろう」

「はい?」

 ええっと、いいのかな……ダイビングなんて。ちょっとやってみたいけど。

 薫は小悪魔のような笑みを浮かべ、ウインクした。

「フィリピンのリゾートでボクと泊まるんだよ。いっしょの部屋でね。だけど、ボクに手を出しちゃだめだよ」

 意味わかんねえ。

 事件となんの関係が? やっぱりこれって女王様のSM調教じゃないの? おあずけプレイとか。

 とはいえ、僕も健全な十代の少年だ。同い年の女の子と、リゾートで同室って……。

 う、やばい。すこし緊張してきた。なんだこのラブコメ展開? 実体は奴隷契約だっていうのに。

 ちょっと妄想してしまう。リゾートでの甘い展開を。

「うふふ。一郎君。ボクはほんとうは君のことが好きだったんだ。だから、あんな契約をしたんだよ」

 うす暗いリゾートの一室で服を脱ぐ薫。

「薫」

「さあ、ボクの唇を奪ってくれたまえ」

 そっと唇を近づけ、優しく吸うと、舌を絡ませ、その柔らかい感触に酔う。

「奪ったね。ははは。じゃあ、二十億即金で払ってもらおうか?」

 ……やっぱだめだ。そんなラブコメはねえ!

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