プロローグ2
水は限りなく透明に近かった。
こんなことは、比較的透明度が高いといわれているフィリピンの海でも、非常にめずらしい。百メートル先の魚すら見えるような気がした。
わずかなブルーを帯びながら、空気のように存在感のない水。海面を見上げれば、ぎらぎらとした太陽がまるですぐそこにあるかのようだ。温かい水はラニの肌を優しく包み、海中にいるように感じさせない。ラニは泳いでいるというよりも、空を舞っているような気がした。しばらくの間はまったく息苦しさを感じないことも、水中を意識させない原因のひとつだ。
魚たちもいっしょに空を飛んでいる。一面のテーブルサンゴの上を花びらのように乱れ舞う、オレンジ色のキンギョハナダイやコバルト色のアオバスズメダイ。犬のようにラニにまとわりつくナポレオンフィッシュ。ドロップオフの底から湧き上がってくるギンガメアジの大群が作る渦。そしてラニのそばで踊るように舞う、空飛ぶ絨毯マンタ。
魚たちがまるでラニの思うがままに動いているような気がする。潜っているときは、自分は人間でなく、魚たちの仲間だと思っている。
こんなときのラニをダイバーたちが見れば、人魚だと見間違うかもしれない。いや、事実この海で人魚が出るという噂は、それが原因なのだろう。
いっさいのダイビング器材を着けず、それどころか全裸の美少女が水深二十メートルくらいで三十分以上も魚と遊んでいた。彼女は褐色の肌をした健康的な肢体を惜しげもなくさらし、愛らしい顔でほほ笑んだ。あれは人魚に違いない。そんな噂だ。
もちろんその話には尾ひれが付いている。全裸ではなくビキニの水着は着ていたし、フィンとマスクもしていた。それにいくらラニといえど三十分は息が続かない。せいぜいがんばっても五分というところだろう。しかし人魚の噂が自分のことであることをラニは自覚していた。そして水中でダイバーたちに出くわすと、目を見開いて驚くのが可笑しかった。
ラニは別段島に来るファンダイバーたちに悪感情は抱いていない。そのほとんどは日本から来る観光ダイバーであり、彼らは魚を捕ったり、傷付けたりはしない。むしろラニが嫌うのはときどき近くの島からやってくるスピアフィッシャーたちだ。彼らはスピアガンを片手に純粋に獲物を求めてやってくる。ついこの前も、ラニやルフィーの目の前で魚を突いて見せた。ラニにとって許せない存在だった。
きゅうううううぅ。
水中をソナーのような音が響く。
ルフィー。
ラニは近寄ってきた雌のバンドウイルカに心で話し掛ける。ルフィーは応じるようにラニに体を寄せた。
ルフィーの背中に捕まると、いっしょにダンスする。くるくると回転するのだ。
楽しいね、ラニ。
ルフィーの心の声が聞こえるような気がする。いつも思うことだが、これはラニのひとりよがりの思い込みなどではなく、本当に心が通じているのに違いない。なぜならルフィーはいつも自分の心を読んだかのような行動をとるからだ。こちらの心がわかるならば、ラニに聞こえるルフィーの声だって本物に違いない。けっして自分の思い込みや幻想ではないはず。
ルフィーは頭がいい。
ラニはそう確信していた。だからこそ自分と心が通じ合う。
イルカというのはもともとかなり頭のいい動物だ。ルフィーはイルカの中でも格段に頭がいいと思えた。教えてもいないのに、海に落ちている棒を口にくわえ、それで石をぽんぽんとサッカーのリフティングのように跳ね上げて、遊んだりするのはその証拠だ。きっと海面から子供がボールで遊んでいるのでも見て、覚えたのだろう。普通のイルカだとこうはいかない。
さらに感情が豊富という点でも際だっている。ラニに対する愛情の深さはいうまでもなく、海を荒らす連中には明らかに嫌悪感を示す。それはとても気のせいとは思えない。喜怒哀楽、そして愛情と憎悪、そういうことを人間並みに感じられるのだろう。
だからこそルフィーとは友達でいられる。
いや、ラニにとってルフィーは家族の一員なのかもしれない。
サンゴのステージで、色とりどりの魚たちに見られながらダンスを堪能したあと、息苦しくなってきた。ルフィーはそんな心を読んだかのように、ラニを掴ませたまま水面に向かう。まるで輝く太陽に向かって飛んでいくようだ。
ルフィーは水面をジャンプした。力強いフィンキックによって、ラニを乗せたままでもかなり高いところまで飛ぶ。まるで空を飛んでいるような気分になる。
ラニは肺に新鮮な空気をいっぱいに吸い込み、ふたたび海中に向かう。少し沖に出ると急に深くなり、底は見えなかった。ただひたすら濃い藍色の空間が広がっている。
水底を目指し、深度を落としていくと藍色の世界に体が溶けていくような気になる。とくにきょうのように格段に透明度がいいときはそんな気分だ。
いや、ラニは溶けてしまいたかった。ルフィーと共に。
そうすればルフィーとひとつになり、人魚に生まれ変われるような気がした。
普通の人にはわからないだろう。そんなことを感じるのは自分が前世で人魚だったと信じているラニだけのことかもしれない。
ルフィーは深場から、浅瀬に戻った。浅瀬にはサンゴがある。その上を舞う魚たちがいる。
こうしてルフィーに捕まりながら、珊瑚礁の上を飛ぶように疾走していると、すでに自分は人魚なのかもしれないという気になる。
前方に男がひとりいた。来島したファンダイバーだろう。案の定、ラニを見て驚いている。
ダイバーの前で止まり、顔を見つめるとその男の目は見開いていた。ラニはそれを見ておかしくなった。
その笑みを見て、気を取り直したのか、男の表情は驚きから笑みに変わった。そして手をラニの前に差し出す。「手をお出しください、お姫様」といわんばかりに。
つい悪戯心から、うやうやしく男の手を取った。
その瞬間、男の表情が変わった。
優しそうな笑顔から、どこか歪んだ笑顔に。なにか良からぬことを企んでいる顔に。
同時に、ラニの手を掴んでいる力が強くなる。けっして離さないぞという意思表示だ。
心臓が激しく高鳴った。リラックス状態が解け、緊張状態に陥る。ラニはとたんに息苦しくなった。必死で腕を振り解こうとする。
しかし男は決して腕の力を緩めなかった。顔の笑みには狂気が走っている。まるで「偶然手に入れたこの人魚を逃がすものか」とでもいいたげに。
ルフィーが攻撃的な気を発し、男を小突きだしたが、効果はなかった。
男の顔は悪魔そのものになった。
そしてそのとき、ラニは思い知った。
自分は人魚なんかじゃなかった。人魚になりたかったひとりの少女に過ぎない。
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