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「かっがみくーん! ちょっと待ってー!」
廊下を歩いていると背後から聞き慣れた声が聞こえてきた。俺は振り向いて顔を確認すると、やはりその声の持ち主は思った通りの人物だった。俺より一学年上の生徒、西条柚野先輩だった。
「ああ、西条先輩。何か用ですか?」
走ってこちらにやってきた西条先輩にそう訊くと、西条先輩は少し息を切らしながらこう問いかけてきた。
「あのね、鑑君、この後……予定あるかな?」
「いや……特にこれといって予定はないですね――先輩、もしかしてまた料理を作りすぎちゃったんですか?」
西条先輩は料理研究部の部長で、よく一人調理実習室で料理を作っている。だが、その料理の量がとても西条先輩一人では食べきれない量にいつもなってしまうらしい。俺はその料理の処理を任されることが多々あった。料理研究部員でもなんでもない俺がこんなことを頼まれるのは単純に俺が頼みやすい人であっただけということはわかっているけれど、俺に料理を食べさせるためにわざとやっているのではないかと思ってしまうほど、西条先輩はいつも料理を作りすぎてしまっていた。
「いやいやいや、今日は違うんだよ? いつも作りすぎちゃっているけれど、今日は違うんだよ? 今日はね、料理の処理じゃなくて――鑑君に私が作った料理を食べてほしいなーと思って」
「先輩、内容が全く同じに聞こえるんですけれど?」
「あ、あはは。そう聞こえちゃうかな?」
西条先輩は少し口が引きつりながら笑うと「と、とにかく。今から調理実習室に来てくれるかな?」と俺に頼んだ。断る理由もないので二つ返事で答えると、西条先輩はにこやかにありがとうと言って俺の手を掴み、調理実習室まで俺を引っ張っていった。
……なんなのだろうこの人は。女子というものは皆こういうものなんだろうか。とっつきにくいというか、なんというか、とにかくボディタッチが多いというか、紛らわしい行動が多すぎる。俺のようないたいけな男子は自分に対して好意があるのかとすぐに勘違いしてしまいそうだ。無論今の俺は西条先輩の紛らわしい行動に耐性があるので今は何とも思わないけれど。今は。
……西条先輩に彼氏がいると知った時は驚きだったな。色んな意味で。
そんなことを考えているうちに調理実習室に着いた。西条先輩はポケットから鍵を出して扉の鍵を開け、扉を開いた。
「先輩、実習室に着きましたが、具体的に俺は何をすればいいんでしょう。いつもの処理とは違うんでしょう?」
「ん、何もしなくていいよー。ちょっと椅子に座って待ってて」
西条先輩にそう言われたので俺は手近な椅子に座った。西条先輩は急いだように調理実習室の奥へと消えていった。たしか向こうは準備室に繋がっていたはずだ。そこには冷蔵庫があるから、そこから余った料理でも取り出すのだろうか。
「んしょ、んしょ」
重そうに段ボールを抱えた西条先輩が奥から現れた。
「手伝いましょうか?」
「いや、いいよいいよ。今日の鑑君の仕事は待つことと、私の料理を食べることだけだよー」
「……そうですか、わかりました」
西条先輩は抱えていた段ボールを調理台の上に置くと、その中から色々な食材を取り出す。その時、先輩は制服の上にエプロンを着ていた。準備室に行った時に着たのだろう。
「え? 今から作るんですか?」
「そだよー。いつも作って時間を置いたものを食べてもらっているし、今日は出来たてを食べてもらおうと思って」
「それはどうも。部費の一部を俺の為に使ってくれるなんてとても嬉しいです」
「いやー、中途半端に食材が余っちゃったから……ね?」
ですよねー。……って、それは俺に余った食材の処理をさせているだけなのではないだろうか。いつもの料理の処理とやっぱり違わないんじゃないだろうか。
「……それで、今日は何を作るんですか?」
「カレーだよ」
「カレーですか」
「カレーだよ?」
「何故に疑問形? しかしカレーって。カレーってもう、余った食材を鍋にぶち込んで煮るだけじゃないですか」
「いやいや、それは違うよ鑑君。それは違うんだよ鑑君。カレーという料理はね、鍋に食材をぶち込んで煮るだけの料理じゃないんだよ。そんなテキトーな感じの料理じゃないんだよ? テキトーな料理じゃなくて適当な料理なんだよ。もー、わかってないなあ」
西条先輩は人参を片手に持ちながら得意げにそう言った。
「いいから鑑君は見ているんだよ? 今からとびきり美味しいカレーを作るから」
「……わかりました」
俺が頷くと、西条先輩は元気よくにひひと笑って人参を調理台の上に置き、段ボールを床に置いた。食材は人参で最後のようだった。
「よーし、じゃあ始めるよー」
西条先輩はそう言って調理に取り掛かった。それを眺めている俺は、日頃しっかり寝つけていない所為か瞼が重くなってきて、ついうとうとしてしまう。
いかんいかん。折角西条先輩が食材の処理のためとはいえ俺の為にカレーを作ってくれているんだ。しっかりしないと。しっかり、起きて、おか……と
「……くー」
俺の意志はとても脆かった。いや、むしろこれは仕方のないことなのかもしれない。誰だって毎日うまく寝つけていないのなら、時間が空いている時に睡魔が襲ってきてそれに負けてしまう筈だ。そうだ。だから俺は悪くない。全てはあの夢が悪いんだ。
「……」
そして、俺の意識はいつの間にか何処かに飛んでしまっていて、魂の抜けた体はだらりと項垂れていた。
――そこはとある田舎だった。何処かはわからない。ただ、ただそこが田舎のような場所であることは感じとれた。辺りは林、その中に幼い俺とまた一人幼い少女がいて、その少女の足元には犬が横たわっている。少女は笑っているけれど、それ以外少女の情報がわからない。姿形が白くぼやけていて、背丈もどんな服を着ているのかもわからない。とにかく、姿がぼやけた少女が口を大きく開いて笑っていた。
「……っ」
幼い俺が、この光景を見ている俺が、息を呑んだのがわかる。得体のしれない恐怖。その恐怖の正体がわからないけれど、ただとにかく怖かった。状況も呑み込めていない状態で、ただ恐怖だけが俺の体を支配していた。
「 」
少女が何かを言った。その言葉は聞き取れなかったけれど、何か言葉を発したのはわかる。そして、その一言が俺を震え上がらせる言葉であることもわかった。
そして世界が、世界そのものが白くぼやけていく。林も、犬も、少女も、そして俺自身も。
ぼやけて溶けて混ざって。
やがて全て真っ白になって、消えた。
「もう鑑君! 私が頑張って鑑君のためにカレーを作っているというのに寝るというのは一体どういうことなのかなっ!」
西条先輩のその一言で目が覚めた。
「……あ、西条先輩おはようございます」
顔を上げながら俺はそう言った。西条先輩は仁王立ちをしてこちらを見ている。先輩の後ろのコンロには大きな寸胴鍋が置かれていた。カレーは完成したのだろうか。
「おはようございます、じゃないよっ! 人が苦労している時に! もう!」
西条先輩は頬を膨らませてそう言った。すげえ、ハムスターみたいだ。流石にアレ程膨らんではいないけれども。
「カレーはできたんですか?」
「もうとっくにできてるよっ! むしろ冷えないか心配していたところなんだよ⁉」
「それはすみません。ちょっと最近寝不足で」
「……鑑君? 汗が大変なことになってるよ? まさか、またあの夢を見たの?」
西条先輩が俺の顔を覗き込むように屈んでそう訊いてきた。
「……あー」
そういえば、あの夢の話は西条先輩に相談したことがあった。あの、早見に殺される夢。早見に悪いと思って早見に殺されるという内容は伏せたけれども、その夢のことを俺は西条先輩に相談したことがった。そう思い返せば、俺があの夢に悩まさるようになってからじゃなかっただろうか。俺が西条先輩と話をするようになったのは。……いや、それは当然か。俺があの夢に悩まされている時に西条先輩が親切にも声をかけてくれたんだった。今思えば、あの時に西条先輩に声をかけられていなければ、あの時に俺と西条先輩が知り合わなければ、俺はあの夢に今も苦しめられていたかもしれない。そして、それからどうなっていたかは今の俺には想像もつかない。考えるだけで――恐ろしい。
そう思うと、西条先輩は俺にとって命の恩人のような存在だ。西条先輩がいなければ今の俺はないと言ってもいい。感謝してもしきれない、あの時に西条先輩が俺に声をかけてくれたから、今の俺が存在できていると言っても過言じゃない。
「ありがとうございます」
「えっ? と、突然どうしたの? 私、なにかしたかな?」
「いえ、何でもないです。ちなみにこの汗はですね――暑いからですよ。最近急に暑くなりましたよね。あー暑い暑い」
俺はとっさに誤魔化した。俺は何か悪夢を見たような気がするけれど、迂闊に悪夢を見たといえば西条先輩を余計に心配させかねない。
「……そう? ならいいんだけど――また何かあったら相談してくれてもいいんだよ?」
「ありがとうございます。また何かあった時はお願いします」
「うむ! よろしいよろしい!」
先輩は笑ってそう言った。西条先輩は明るくて本当に良い人だ。彼氏持ちじゃなかったら――おっと、この話はやめよう。不毛だ。引き摺るわけにはいかない。
「ところで、鑑君。思い出させちゃって悪いけど――あの夢に私って、出てきたり、するのかな?」
不意に。不意に西条先輩は心配そうな、不安げな表情で俺にそう問いかけてきた。
「へ? いや、あの夢に先輩は出てきませんが……どうしたんですか、突然」
「いや、その、ちょっと気になっただけ。ごめんね、変なこと訊いて」
俺の答えを聞いた先輩は安堵したかのような笑みを浮かべ、そう言った。そういえばあの夢の登場人物について話をしたことはそんなにないけれど、西条先輩に出逢う前に先輩があの夢に出てくるわけがないと思うんだけれど……。まあ、先輩もちょっと気になっただけらしいし、俺が気にすることはないだろう。
「じゃあ、カレー食べよっか。冷めちゃうと美味しくないし」
「そうですね。食べましょう」
俺はそう言って立ち上がった。食器は……もう用意されている。あとはご飯とカレーを器によそうだけのようだ。
「鑑君は座ってていいよ。私がよそうから。ちょっと待ってて」
「あ、はい。ありがとうございます」
西条先輩に制されて俺は再び席につく。西条先輩は鼻歌を歌いながら器にご飯を盛り付けていった。
「先輩、なんか機嫌よさそうですね」
「えっ? そうかなあ? そう見える?」
「はい、なんとなく。……何かいいことでもあったんですか?」
「うーん。あった、というか……これから、かな? たっくんにねー、もうすぐで会えそうなの」
「そうなんですか」
たっくん、というのは西条先輩の彼氏である寺島拓海という人物のあだ名だ。年齢が西条先輩の一つ上で、都内の大学に通う大学生だ。けっこう遠くの大学を選んだ所為で今は西条先輩と遠距離恋愛をしているらしい。西条先輩の話を聞いただけで実際に会ったことはないけれど、イケメンで性格が良い好青年らしい――あくまで先輩の主観だから本当はどうかはわからないけれど、話を聞く限り性格は良さそうだった。
「そのたっく――寺島さんが帰ってくるんですか? この夏休みに?」
「ううん、私から会いに行くんだー。この夏休みにね、突然おしかけてやろうと思って。ばあっと出て驚かせてやるんだよっ!」
西条先輩は満面の笑みでそう言った。まったく、先輩はたっくんの話をする時はいつもいい笑顔になる。くそ、たっくんめ、羨ましいぞ。西条先輩をこんな顔にできるのはお前だけなんだから、早く西条先輩を迎えに来てやれ。まあ、来年になって西条先輩が高校を卒業すれば西条先輩の方から会いに行くだろうが。それでも、たっくんの方から迎えにくるべきだと俺は思う。くそー、この幸せ者め。西条先輩を幸せにしなかったらたとえ神が許しても俺が許さないからな。
「西条先輩にこんなに好かれるなんて寺島さんはさぞ幸せ者ですね」
「え、えええ? もうっ、恥ずかしいこと言わないでよー。……でも、そうだといいな。そうだと嬉しいな」
「……っ」
しまった。ちょっと意地悪なことを言ったら自分に跳ね返ってきた。駄目だ。先輩はこういう人だと俺は知っている筈なのに……。というか、なんと小さい男なのだろう俺というやつは。傍から見ている立場だったら迷わずぶん殴っているところだった。危ない危ない。
「っと、そんなことを話している間にカレーが冷めちゃう。はい、鑑君。私のお手製カレーだよっ。召し上がれっ」
どうやらこんな話をしているうちに西条先輩はカレーの盛り付けを終わっていたらしい。先輩はカレーが入った器を俺に差し出した。
「……けっこう美味しそうですね」
「でしょー? 食べてみて食べてみてっ」
俺は置いてあったスプーンを手に取り、カレーをすくって口に運んだ。
そのカレーは今まで食べたどのカレーよりも美味しかった。
それから数十分後、結局、カレーは食べきれなかった。寸胴に半分くらい残った。おかしいな。三杯は食べたのに。
「……先輩、また作りすぎてますね、コレ」
「うん、そうだね……作りすぎちゃったね」
先輩は苦笑いしながらそう言った。うーん、なんだろう。これはもう西条先輩の宿命か何かなのだろうか。こう、必ず料理を作りすぎてしまう呪いか何かにかかっているというのだろうか。
「残ったカレーはどうしますか?」
「うーん、捨てちゃうのは勿体ないし……そうだ! 鑑君、明日は何か予定あるかな?」
「いや、特にないですね」
「じゃあこうしよう! 明日もここに来てカレーを食べる!」
「あー、成程。いつもの残飯処理ですね」
「残飯処理って言わないのっ!」
先輩は頬を膨らませた。こんな可愛い顔が見れるのならからかいがいがあるというものだ。
「わかりました。では明日もここで。時間は何時ですか?」
「えっと、この量だから、朝からの方がいいかな?」
「まず朝ごはんとして食べて、それでも余ったら昼ごはんに、という感じですか」
「そうそう。そんな感じ。八時になったら門も空いているだろうから時間は八時半くらい、でどうかな?」
「わかりました。では八時半で」
余ったカレーを翌日に持ち越さずとも密封できる容器に余ったカレーを入れて持って帰ればいいことに俺は気付いていたけれど、それは言わなかった。明日も西条先輩と会えるなら、それでいい。わざわざ自分から機会を潰す理由はない。
「じゃあ私はこのカレーを冷蔵庫に入れるね」
西条先輩は寸胴の取っ手を両手で掴み、そう言った。どうもこのまま冷蔵庫に入れるらしい。確か調理準備室の冷蔵庫はとても大きかったけれど、鍋をまるごと入れることもできたのか。
「俺も手伝いましょう。鍋、重そうじゃないですか」
「いやいやいいよいいよ。鍋は私が運ぶから。鑑君は……そうだね、使った食器をシンクに入れてもらえるかな? 水が張ってあるから、そこに放り込んでおいて」
「了解です」
俺は使った食器を重ねて台所の方まで持っていく。一つだけ水の張ったシンクがあったので俺はそこに食器を沈めた。
「他にやることはなんですか?」
「大丈夫! 今日はもう終わりっ! また明日にしよう!」
調理準備室の方から西条先輩の声がした。寸胴を冷蔵庫の中に入れ終わったらしい。
「片付けはまた明日ねっ! 鑑君にはその時に食器を洗ってもらおうかな?」
「わかりました。任せてください」
俺は親指を立てた拳を前に出し、そう答えた。皿洗いは得意というほどのものではないけれど、ほぼ毎日食器を洗っているのである程度は食器を綺麗にできるだろう。寮生活を営む男子学生の本領が発揮できそうだ。地味だけど。
それから俺と西条先輩は少しばかり他愛のない話をして、解散した。解散した後俺はすぐさま高校付属の寮に帰った。ちなみに俺はオカルト研究部という部活に所属しているけれど、研究部の部長から「部活には来なくてもいいけれど所属だけはしておいてほしい」と言われたので今まで一度も部活動に参加したことはない。俗にいう幽霊部員というやつだ。オカルト研究部だけに、とは言うつもりはないけれど。部活に行かない理由は単に俺が部活動に興味がなかったというだけで、他に理由はない――ない筈なのだけれど、何かが心の奥に引っかかる。なんだろう。部活に行かない理由。本来部活がある時間に別の何かをしていたからのような気がするけれど、思い出せない。あれ、俺はいつもこの時間帯に何をしていたんだっけ――? 思い出せない。謎の気持ち悪さが俺の頭の中を支配する。記憶が千切られて、無理矢理はっつけられたかのような気味の悪さがある。――でも、案外記憶というものはこんなものなのかもしれない。○○の後に××をした筈なのだけれどその間が思い出せない、そんなことは誰にだってある筈だ。だから、俺が今感じているこの思い出せない気持ち悪さは誰にだってある筈だ。ああ、そうか。そんなもんか。なんだ、そんなに気にすることでもないか。俺はくだらないことに神経質になってしまうことがよくある。やれ食器の位置が変だの本の巻数の順番が間違っているだの。それと同じようなもんか。なら気にするだけ時間の無駄というものだ。
「あー、なんか疲れたっ! 明日の先輩との約束もあるし、今日は早めに寝るか!」
俺は自分の部屋に入るなりそう言って、ベッドの上に横たわった。結構な量のカレーを食べたおかげで空腹感もない。風呂は……明日の朝に入ればいいだろう。
「………………」
やはり最近の睡眠不足の所為なのか目を閉じると俺の意識はすぐに薄くなり、闇の中に消えていった。
不思議なことにこの日、俺はあの夢を見なかった。
《――夜が明けました。死神ゲームの開始を宣言します――》
早朝、夜明け。その時にアナウンスが鳴った。だが、この時の俺は気付きもしない。
地獄のような遊戯の存在を。
気の狂った者同士の殺し合いを。
この時の俺は知る由もない。
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