第321話 ミューズ 04

    ◆



「……ふう」


 ミューズは大きく息を吐き、彼女はキーボードの打鍵を止めて画面から目を離して座っている椅子に大きく寄り掛かる。


「やってやったっす……いやあ、疲れったっすねえ」


 極めて明るい声。

 だけど。


「本当……全く……っす……」


 その声は震えていた。

 無理もない。

 彼女はこれから命を落とすのだ。

 毒ガスはすぐに充満していく。

 それを防ぐ術はない。


「いやっす……」


 静かに。

 彼女の頬を涙が濡らす。

 頭の中はそのことへの恐怖でいっぱいであった。

 これから自分は毒ガスに侵され、苦しみながら死んでいく。

 じわじわと締め付けるような恐怖。

 身体は震えあがり、周囲の空間の雑音が耳に入って来なくなる。だからセイレンが放送を通じて何かを言っていることも全く耳に入ってこなかった。

 寒くもないのに歯がカチカチとなる。


「……カズマ……カズマぁ……」


 蚊の鳴くような声で彼を呼ぶ。

 助けに来てほしいと呼ぶ。

 しかし、現実は無情だ。

 彼は助けに来ない。

 ミューズをこの場から――毒ガスが充満するまでに助けに来る者はいない。

 彼女は理解していた。

 改めて理解した。

 理解させられた。


「……」


 鼻を啜りながら、白衣で涙を拭う。

 大きく深呼吸し、呼吸を整える。

 彼女の運命はもう変わらない。

 神様に祈っても変わらない。

 神様などいない。


「……あたしは技術者っす。奇跡は……信じない。説明できることしか信じない……」


 そう口にしながらも、涙は止まらない。

 心が追いつかない。

 自分はまだ子供なのだ。

 子供だからこそ、大人ぶりたくなる。

 格好よく散るように心掛けたくなる。

 だから冷静になるように、他のことに思考を傾ける。

 それでも、最初に出てきたのは彼に関することであった。


「あたしは……カズマの手助けになれたっすか……?」


 ジャスティスを停止させていたジャマーの解除。

 通信網の復活。


「あ……忘れていたっす……」


 ミューズは身体を起こして再びパソコンに向き合い、少々の操作の後にエンターキーを押す。


「……これで目的は完了、っすね」


 彼女の目的。

 それはルード国の情報通信網をジャックし、指示系統などを乱すこと。

 その他、セキュリティで守られている物理的な場所、ならびに情報のアクセス先や文書などを破ること。

 それらの情報を元に『正義の破壊者』に有利な情報を皆に展開すること。


 これらについても、彼女はあの短い間に済ませていた。

 つまり彼女は三つどころか、それ以上のことをやってのけたのだ。


「えへへ……この偉業、誰か褒めてくれるっすかね……?」


 彼女は無理矢理にでも口角を上げる。

 笑う。

 笑っていなくちゃやっていけない。


「……あたし、頑張ったっすよね……?」


 ポロリ、と。

 そんな言葉が漏れ落ちる。

 誰かが答えてくれるわけでもない。

 誰かが見ている訳でもない。

 唯一どちらも可能性のある母親には、絶対に褒めても答えてもほしくない。

 だからこの言葉は、完全なる彼女の弱気の証であった。


「……死にたく、ないよお……」


 ついに。

 彼女の心の決壊が崩壊した。

 再び嗚咽が始まる。


「あたし……まだカズマに……カズマと一緒に……生きたい……生きたいよお……」


 止まらない。

 止めることが出来ない。


「会いたい……会いたいよお……カズマ……カズマぁ……」


 かっこよくなんか散れない。

 いさぎよくなんか散れない。

 無様でも。

 醜くても。

 それでも彼女は願わずにはいられない。


 カズマとの未来を願わずにはいられない。



 付き合って。

 楽しく手を繋いで色々な所に行って。

 時々けんかしちゃって。

 でもすぐ仲直りをして。

 そんな感じで長く続いて。

 いつしかお嫁さんになって。

 みんなに祝福されて。

 やがて子供が生まれて。

 その子供の成長を見守って。

 一軒家を立てて。

 みんなで綺麗な花畑をお世話して。

 家族でたくさん写真を撮って。

 思い出をいっぱい作って。

 よぼよぼになるまで一緒にいて。

 仲良く手を繋いで。

 離さないで。

 ずっと。

 ずっと。

 ずっと。

 一緒に生きていく。



 そんな未来は――絶対に来ない。



「……っ……」


 そう肯定するかのように、喉を締め付けるような苦しみを感じた。

 ついに来たようだ。

 毒ガスが。

 もう身体に回ってきているようで、呼吸もままならない。


「……ぁ……っ」


 終わりの時が近づいてきたことを、身体で理解する。

 力が入らない。

 ひゅーひゅーと鳴る呼吸音。

 共に床に倒れる。

 もう姿勢を保つことが出来ない。

 声も出せない。

 辛い。

 きつい。


(お別れだ……ね……)


 悟った。

 これ以上はもう無理だ。


(だったら……せめて……最後に……)


 そこで彼女はグッと意識を一瞬だけ寄り戻す。

 最期ならば、伝えたいことがある。

 最期だからこそ、伝えたいことがある。

 彼女をここまで突き動かし、その身を犠牲にしてまで助けたかった彼に。

 例え返事がなくとも。

 先と同じような私用でも。

 もう一度だけ伝えさせてほしいことがある。


 彼女は震えながらも渾身の力で耳に付けているインカムのスイッチをオンにする。

 そして、小さくか細い声で、告げた。




「愛していたっすよ……カズマ……」




 ――その言葉を最後に。

 彼女の声が『正義の破壊者』の通信網に乗って人々の耳に届くことは二度となかった。

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