一章2話 霧中
気の滅入る霧が満ちるこの場所はどうやら森の中であるらしい。
立ち尽くしているわけにもいかず、時たまに風が吹き込む方向へと歩き出していたわたしは所々に木の根を目にしていて、頭上には木々の葉が作った天蓋があるのを確認していた。
死の世界であるかのように静かな森だ。
わたしの足音以外は何も聞こえない。霧が音を吸収し、消してしまっているのではないだろうかと思えた。
視界は極めて悪く、わたしは物思いに耽ることもないままに黙々と歩を進める。
どれだけを歩いただろうか? いつしか周囲の霧は薄まっていた。
といっても真っ白い壁のようであったのが、遠くのものがぼんやりと見える程度に回復しただけだが。
前触れもなく鳴き声が聞こえ、辺りを見回した。音の主の姿は見えない。
ちち、ちちち、と細かく数度。鳥の声だ。
わたしは心からの安堵を覚えた。この世界にはわたし以外の命があった。孤独では無いことがただ嬉しかったのだ。
鳥の鳴き声がいくつも重なり聞こえる。まるで歓待の歌のようだと思ったが自意識が過剰になっているのだろう。
賑やかな鳴き声の中にさらさらとした流水の音があることにわたしは気付いた。
そして、自分の喉がひどく乾いていることにも。
一度気が付いてしまった喉の渇きは焼け付くようで狂おしかった。
感覚は鋭敏になり、流水の音の方角を正確に見極め、わたしは足元に注意を払いもせずにひた走った。
落ち葉のある地面が終わり、湿った岩がごろごろと転がる場所へと辿り着く。
必死な形相で霧の中に目を凝らす。大きな水の音。川がそこにあった。
「っは! ぐっ、ん、っぷあ! っは、っは!」
水質の危険性を考えることなど少しだってしなかった。
両手ですくうなんて面倒だ。
わたしは川の水で濡れた岩の上に膝立ちになり、上体を屈めると顔面を水中に思い切りに突っ込んだ。
大口を開き、夢中で水を飲み続ける。
水温は氷のように冷たいものだったが、いつの間にかに火照っていたわたしの体にはむしろ心地が良かった。
流水は耳を瞬時に冷やし、自分の髪はぐしゃぐしゃに濡れ、舌が張りつくぐらいに乾ききっていた喉が潤っていく。
「っはあ……はっ……ぶ、は……。
生き返る……助かった……」
顔を起こし、鼻先や髪の毛先から滝のように水を滴らせながらに水面を見たわたしは、何か強烈な違和感を感じた。
水面に誰かの顏が映りこんでいる。
黒髪の少年だ。水流によって激しく揺れる中だというのに、少年の真っ青な瞳はわたしを真っ直ぐに見つめていた。
「君は……」
ああ、と思う。
彼はわたしだ。
右手をくい、と挙げると水面の彼も手を挙げる。
小首をかしげると黒髪の少年も真似をする。
もう気持ち悪いとは思わなかった。右手が自身の知っているそれとは違うことに気が付いていたわたしは、自分でも驚くほどにすんなりと水面に映る黒髪の少年が自分自身であるのだと受け入れることが出来た。
だが理由を考えるのはまた別だ。
わたしはどうして自分が霧の満ちる森に立ち、この少年の肉体に自分の意識が宿っていたのかという理由にはまるで思い到らなかった。
喉の渇きと同様、一度気が付いてしまえばもう無視をすることは出来ない。
思考した。自分の記憶が空っぽであることを自覚しながら、わたしは自問と思考を繰り返した。
答えはどこにも見つからない。水をスコップで掘り続けるような手応えの無さばかりがある。
水面に映る少年はきょとんとした顏でこちらを見返している。彼にはまだやりたいことがあっただろう。
すまない。
そう口にしようとした時、眠るように静かだった森を震わせる大きな咆哮が響き渡った。反射的にわたしは顏を起こし、弾かれたように立ちあがる。
咆哮は長く、自己の存在を知らしめる雄叫びのようであった。いつしか叫びは止み、代わりに先の見通せない霧の奥で振動音が響き始める。
その音は極めて大きい。
巨人が身を起こし、巨大な手で大地を打ちつけでもしたような轟音。
横たわる霧が視界を阻み、音の正体は分からない。
いくつもの想像がめぐる。
大型の野生動物か、それとも尋常ならざるなにかか。
何にせよ、それが決して
◆
「普通じゃない。どこか、どこかに隠れないと」
最初は小さくまるで気付けなかった焦りは今や大きく膨らみ、わたしの胸の中をいっぱいに満たしていた。
焦燥を押し殺し、目を見開いて周囲を急いで見渡す。
背後に壁のように屹立した一枚の岩があるのが目に入った。
これだ。この岩ならばわたしを隠し通してくれるに違いない。
振動音は続き、どころかその音は大きくなる一方だ。
何者かが近付きつつあるのを確かに感じる。
濃厚な気配、強烈な視線。
わたしは視界を阻む霧へと恨めしげに視線を投げかけ、岩へと駆け走った。
裏側に身を隠し、落ち葉の上にしゃがみ込む。
心臓の音が馬鹿みたいに大きく聞こえて自身の息はひどく荒い。
いつの間にか鳥たちの鳴き声は聞こえなくなっていた。森の異常を察して飛び去ったのだろう。
胸が大きく鼓動を打つ音とひづめが大地を打つ冗談みたいに大きな音。
その二つだけがわたしの聞こえる音の全てだった。
嫌な予感に胸が締め付けられる。
数え切れないほどの悪い想像が脳裏に浮かぶ。
小川のせせらぎはもう、聞こえない。
◆
重い地響きがわたしの視界を大きく震わせる。身を隠す一枚岩からぱらぱらと小石が落ちていく。
鈍い音だ。
咆哮をあげ、森を震撼させるこの音の主は何者だろう。
獣か? それにしてはあまりに桁外れの迫力に思える。
どかり、と連続して大地を高らかに打つ音はひづめの音。
脅威の姿はまるで見えないがそれは森の中に降り積もった落ち葉の山を蹴り散らして疾走をしているらしい。
まぶたをきつく閉じ、暗闇に救いを求めた。
轟音が近付き、揺れがひどくなる。
霧の深淵から現れた音の正体はわたしが喉を潤した小川の前でぴたりとその走りを止めた。
わたしと同様に何者かの息もまた荒い。小さないななきと、苛立たしげに地面をかつかつと蹴りつける音が身を隠す岩の向こうから聞こえた。
正体不明の何かは何故、川の前で止まったのだ?
そこには何があった?
そこはわたしがしゃがみ込み、休息をしただけの――。
と、様々な予想や憶測が終止符を打った。
おそらくわたしは正答に辿り着いた。
森を震わせた主はわたしを……正確には人間を求めて駆け寄ってきたのだろう。
膝が小刻みに震えていた。
シャツの裾を力強く握り締め、奥歯をきつく噛み、恐怖を必死にこらえる。
音の主は人を害する存在に違いないだろう。
姿を確かに見たわけではわけではなかったが、身を隠す岩の向こうから伝わる気配はおよそ普通のものではない。
歯がガチガチと鳴るのを必死にこらえた。
かつてのわたしがどのような人間であったかは思い出せないが、今この瞬間の自分は得体のしれない脅威を前にして強い恐怖を抱き、震えていた。
気付けば岩の向こうが静かになっていた。短い間隔で聞こえていたひづめの音も止んでいる。
覗いてみようか?
風の音さえない静寂の中、わたしの中の好奇心がそう提案をし、それは愚かな行為だと理性が非難した。
馬鹿げた行為であることは自分自身でも分かってはいたが確かめずにはいられず、ついに好奇心は理性を大きく上回った。
一枚岩には大きく歪んだ箇所がある。こちらの姿を最大限に隠したままに向こうを覗ける、そんな歪みが。
音を立てぬよう慎重に身を起こし、川の流れる森をそっと見る。
何かが……巨大な何かが居る。
霧の薄もやの中に誰かが立っている。
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