一章3話  怪物、彼方の声

 怪物だ。


 はち切れんばかりの隆々とした筋肉を有した肉体は戦士の威容を備え、何者にも負けざる誇りと自信に満ちた威風堂々とした姿勢でそれは直立をしている。

 具足の類は一切無い。怪物は腰みの以外の衣服を着用しておらず、一見する限りには半裸の人間にも思えたが少し観察を続けると彼が牛の頭部を持ち、筋骨たくましい脚のひざ下から先には獣の足が伸びていることに気が付いた。

 

 驚きと恐れに唾を飲む。

 川辺に立った怪物はみじろぎひとつしない。何かを探す素振りもなく、じっと直立をしたままだった。森を流れる霧の薄いベールを身にまとって立ち尽くす姿は名のある彫像のようでさえある。

 

 怪物はわたしを探しに来たというのは気の逸りだったのか? 首をぴくりとも動かさない彼は耳を澄ませているのか、それともどこかへと気をやっているのか。

 怪物は不動だった。

 

 身を隠しながらに観察をするわたしは自分の目を凝らした。この肉体の視力はそれほど優れていないのか、目をいくら細めようとも怪物の姿はややぼやけて見える。徐々にピントが合い、その中に見えた牛頭の瞳はやけに虚ろなものだった。

 

 視線をわずかに下へと動かす。

 太い首筋、大木のようなたくましい腕、節くれだった拳。

 そして、血錆びの浮いた鉄斧。刃の中程から黒い滴が流れ、刃先に届くと地面へとこぼれ落ちた。

 たった今何かを手に掛けてきたような気配がそこにあった。死臭が匂い立つかのようで、怪物それ自体がこれ以上ない程におぞましいものとして目に映る。

 

「ひ……っ」


 か細い声がわたしの口元から漏れた。

 しまった、と失敗から生じたネガティブな感情が脳裏を稲妻となって走る。

 気付かれただろうか。

 胸の鼓動がひどく大きく聞こえる。瞬きを忘れ、足元の落ち葉から岩、そして覗き見ていた箇所へとゆっくりと、好奇の波に抗えずに視線をゆっくりと戻す。

 

 虚空を見つめていたはずの怪物がこちらを真っ直ぐに見つめていた。

 彼のよどんだ瞳とわたしの視線とがぶつかり合う。

 

 霧が満ちる森に、ひとりの少年と、手に斧を握る怪物だけがある。

 

 怪物は動かず、わたしは動けなかった。

 人外のまとう異様な空気があまりにも恐ろしかった。腰から下、いや、どころか両目以外の感覚がまるで無い。意識が全身へ行き渡らないのだ。

 

 怪物は牛の頭部を揺らしもせずにただじっとわたしを見ている。

 それは思いがけないものを見つけた驚きか、怪物もまた視界の不良を感じたのか。理由は分からない。だが彼はわたしへ視線を注ぎ続けた。

 

 灰色の世界で。

 音が無く、眠ったように静かな森で、ただ、静かに。

 

 最初に動いたのはわたしだった。

 ズボンを握りしめていた手で皮膚を思い切りつまみ、ひねった。走った激烈な痛みが体に運動能力を取り戻させる。これ以上怪物を視界に入れ続けることにはとても耐えられない。

 わたしは怪物と岩とに背を向けて森の奥へと脱兎のごとくに駈け出した。

 

 



 相変わらず先がまるで見えない、ひどく見通しの悪い森の中をわたしは必死に駆けた。恐怖を振り切りたい一心からの行動。

 

「はっ! はっ!

 ああああ、いやだ、いやだいやだ、死にたくない、死にたくない……!」

 

 地面を這う木の根は死に際の蛇がのた打ち回りでもするようにくねって歪んでいて、それらに足を取られないようにして走るので精一杯だった。

 

 わたしは逃げ、走った。

 だが死はを自らの鎌の届く範囲から逃がすつもりは毛頭ないらしい。

 

「グルゥォォォオオアアアアォォッ!」


 おぞましく、巨大な咆哮。やや遅れてずず、と足元を震わせる振動音。忘れようもない、森で最初に感じた異変とまったく同一の音。

 死の先達の活動を告げる鐘だ。牛頭の怪物が走り始めたのだ。

 

 目的は確認するまでもない、あれはわたしを狙っている。

 脇腹がひどく痛み、右手で押し込むように抑えながらに周囲を急いで見回す。

 木々の間隔は広く、身を隠せるような茂みは一切見当たらない。

 怪物とわたしとのあいだには深い霧が横たわり、怪物の視界を阻害しているはずだが、理由も無く怪物は一直線にわたしを見据え、捉えている気がした。背後に強烈な視線とただならぬ殺気を感じる。まるで斧の刃が首筋にあてがわれているようだ。

 

 背筋におぞ気が走り、恐怖から思考と視野が狭まっていく。

 

 死にたくない、

 死にたくない、

 死にたくない!

 

 霧の中で目覚めたわたしは虚ろだ。

 記憶を失っている自分には守り、尊重すべき過去などは無い。

 胸に強い抱いているのは生への渇望、人生に色彩を与えること。

 

 他人から見れば曖昧な夢を抱いているだけの死人だろう。

 だが他人の目などはわずかも気にならない。

 わたしはわたしの為に生きる。

 わたしの目的の為に、消えたわたしの願いを叶えるためにだ!

 

 と、気付けばこの体は地面に無様に倒れ込んでいた。右足のつま先に激痛があり、足元を見るとトンネル状に歪んだ木の根が土の上を這っている。

 わたしは……これにつまずいたのかと、呆然自失に陥りかけた。

 

 背後から迫るひづめの音は刻一刻と迫りつつある。

 いや、もとより逃げ切れなかったのだろう。諦めに似た感情を覚えた今では恐怖と混乱に満ちた頭でも少しは冷静にものを考えられた。

 一方は非力な子供で、一方は強靭な戦士の肉体を持つ怪物だ。

 刃向かって勝てる道理がなければ逃げ切れるはずもない。

 

 頬を泥に押し付けたままの顏に笑いがこみあげそうになる。ぬかるんだ地面に顏から突っ伏したわたしの全身は泥にまみれ、汚濁といってもまるで支障がない。

 

 それでも、今のわたしは細糸ほどのものであってもそれが希望だと言うのならば迷いなくすがる。生きねば。

 泥にまみれた手を握り締め、足に力を込めたが立ち上がれない。

 意思ははっきりとしていたが、その一方で身体の震えは止まらなかった。

 理性がこの場を脱出しろと大声でわめき散らすが、わたしの体は恐怖に竦み、今度こそ動けそうにない。


 走ってきた道を振り返り、見た。

 地響きは今も続いていて、木々の折れる乾いた音が何度も耳に届く。

 歯が小刻みにぶつかり、震えが四肢へと伝播でんぱしたその時、のそり、と怪物が自信に満ちた様子で霧の向こうから現われた。

 もはや走る必要は無いのだと理解しているのだろうか。その息は荒くはない。

 

 一歩、また一歩と、怪物が重々しい足音を立てながらに歩を進める。

 手に握る斧の斧頭をもう片手の手の平に乗せ、喜びを表すように上下させている。


 その間も彼はわたしから目線を外さない。

 彼にとって、これは嗜好としての狩りなのだろう。一方的な殺戮と言ってもいい。

 獲物を追い詰め、手に持つ斧で命を奪う瞬間に彼は興奮と絶頂を感じるのだ。

 それが証拠に、静かだった彼の吐息は再び荒くなり、歩調が早まった。

 




 ここでわたしは死ぬのか。

 自分が誰かも思い出せないまま、過去を知らないまま、青空の見えない森の中で。

 誰に看取られることもなく、たったひとりで、怪物の戯れの獲物として。

 

 名も無きわたしの魂が心の奥底で力強く吼えた。


 諦めるなと。

 お前にはなさねばならぬ目的がある。

 生を彩るのであれば、心の炎に薪をくべ続けるには生きねばならぬ。

 あがけ! 切り開け!

 お前はいつだってそうして来た。

 諦めを知らず、愚直に、真っ直ぐに――。

 

 わたし自身がわたしへと叫ぶ声が聞こえた。それは命の叫び。

 

 泥に指を立て、大地を握り締めた。

 冷たい感触が指の腹を伝い、爪の間に砂利が入り込む。

 手の中に異物を感じた。

 小さな小石だ。泥の中に混じっていたのだろう、わたしはそれを己の持つ唯一の武器に見立て、小石を握り込んだ拳を小さな勇気と共に怪物へと向けた。

 

「ここでは……死ねない」


 怪物が聞いているのかは分からない。

 

「自分が何者かを知らず、思い出せもしない」


 おぞましいひづめが歩を進め、血錆びの浮いた斧が上へと掲げられる。

 

「まだ諦めるわけにはいかない……。

 死ねない、僕は――」


 怪物の腕に力がみなぎる。一瞬後にわたしの細い首が飛ぶだろうことは明らかだ。

 死の間際の幻聴がした。

 それとぼんやりとした光景が脳裏をよぎる、走馬灯だろうか。

 いくつもの声が頭の中に木霊する。

 知っている音はひとつもない。だが冷たくはなく、温かい。

 

『お前は諦めを知らなかった。まったく、愚直な男だ』

『行け……私の分まで、貴公は生きろ』

『なあ、――――? いつか霧の無い空を見てみたいと思わないか?』

『我らの太陽の刃は御身の為に――』

『行こう、君が必要だ』

『やがて嘘に気付く時がくる。それがお前の始まりだ。祈れよ』

『先に逝くわ、――――。後は頼んだよ』


 流れる光景の果て、疲れた顏の男が言う。


『友よ。

 僕は僕の道を往く。

 お前はお前の願いを叶えろ。

 そして……いつかここで会おう。

 この夕焼けの前で、必ず。約束だ』


 両の瞳の中で太陽のごとき熱が炸裂する。

 わたしの記憶を、魂を焼き尽くす大いなる炎。

 体の末端から中央へと集まる火の流れ。

 白熱する視界の中、紅蓮の朝焼けをわたしは確かに見た――。


「僕はまだ! 終われないんだ!」


 振り下ろされる斧の威圧を肌身に感じる。

 耳は恐怖を浴びて麻痺をしていて、炎が灯ったように熱い両目の感覚だけが身を満たしていた。

 死を認めたくはなかったわたしは目を見開き続けた。

 だからだろう、それが為に救い手の姿をはっきりと見ることが出来た。

 




「ユリウス! 伏せていろ!」


 突然にして現れた人物は疾風はやてのような速さをもって、わたしと怪物の間に割り入った。

 振り下ろされる斧の腹にその人物は何かを投げ放つ。

 鈍い鉄音と共に斧の軌道が逸れ、鉄の塊はわたしの真横の大地を轟音と共に大きく抉った。

 

「グルォオオァア!」


 怪物が唸りを上げる。

 狩猟から彼本来が追い求める戦闘へと意識を切り替えた。


 乱入した人物は男だ。

 黒髪の男がコートの内から一振りの剣を抜く。

 反りの無い、不壊の強い意思を体現したような直剣。

 

 男は注意を自身に引きつけるように足を運んだ。

 怪物はそんな行為がもはや必要とされない程にいきり立ち、恐ろしい形相をして男を睨んでいる。

 

 先に踏み出したのは怪物だ。

 両の腕に力をみなぎらせ、上段に斧を振りかぶると袈裟の軌道で空気を裂いた。

 強烈な迫力。風を切り、轟音と共に放たれる一撃を受ければ死は免れない。

 男はゆらりと身を揺らし、すり抜けるような動作で前進する。

 無謀に思えたがそれが彼なりの回避らしい。くるぶしの辺りに斧が打ち下ろされ、土が宙に舞いあがる。

 攻撃の余波で男のコートの裾が裂け、彼が履くブーツが露わになった。


 黒髪の剣士が距離を詰める。恐らくは剣の間合い。

 怪物は斧を戻すのは間に合わぬと判断をし、大木のような膝を男へ向けて突き上げた。


 が、それは男の体を震わすことはない。

 いつの間にか取り出していた短刀を男は怪物の膝に深々と突き刺していた。

 激痛を感じた牛頭の怪物がおぞましい叫びをあげる。

 アドレナリンが分泌されているのだろうか、怪物の息は興奮から荒れた。

 

 男は間髪を置かない。

 籠手を装着した腕をしならせ、鈍器さながらの重さを乗せた拳を牛頭の側頭部に見舞った。

 怪物の頭が揺れる。男が直剣を腰に溜める。


 コートを羽織った男がその場で素早く一度だけ回った。

 その所作は素早く、静かだった。

 風に乗る花のようだと思えた。わずかな空気の揺れに霧が少しだけ吹き散る。

 

 すると牛頭の頭部が太い首を離れて宙を舞い、木の根の又におさまると続けざまにおびただしい量の血があふれだし、木とその幹を頼りに集う落ち葉を赤黒く染めていく。

 戦士の巨体がその場にくず折れ、頭部を失った首から湧きだす血が怪物の肉と大地の色を塗り替えていった。

 

 怪物を征した男はコートを汚すのを嫌うように一歩を下がる。

 いつの間にか納刀を終えていた剣の鞘に手をやりながら、彼はわたしへと振り返った。

 

「ユリウス、お前!

 どうしてこんな所に居るんだ!?

 家に居ろって言っただろう!」


 彼は怒りを込めた強い語気と、それを上回る混乱の色を言葉に乗せて言った。

 男が何事かの思考にとらわれるのをよそに、わたしは彼を観察する。

 胸のざわめきは風に吹かれたように消え去り、両目の熱はいつの間にか冷え、消えていた。

 

 黒い髪だ。あちこちに跳ねているのがどうにも野暮ったい。

 力強い眉の下には鮮やかな青色の瞳があり、近くで見るそれはさぞ美しいのだろう。


 背丈は高くもなく低くもない。

 霧の中で目覚めたわたしが初めて目にした自分以外の生物が、さっきまでわたしを追い詰めていたあの牛頭の巨躯なのだから、それを基準にすれば随分とハードルは高くなるか。


 彼の腰には鞘があり、剣があった。

 わたしの窮地を救ったのは目の前に立つ黒髪の男だが、この剣もまた救いの主なのだとわたしは感じていた。

 

「おい、ぼうっとして……。

 一体どうしたんだ?

 おい、ユリウス? 聞こえてるのか?」


 男はいまや怒りよりも焦燥と当惑の雰囲気を伴った顏でわたしに呼びかけていた。

 呼びかけには答えるべきだろう。

 

「大丈夫。聞いてるよ」

「え?」 男が驚きの顔を浮かべ、言葉を探す。

「……ええっと……。なんて言ったんだ? 意識ははっきりとあるのか?」


 男の焦りの色がさらに強まったように見えた。

 彼はわたしの両肩を掴み、すがるように前後に揺すり始める。

 

「聞こえてるよ。

 揺さぶらないで、頼むから」


「ああ、なんてことだ……。

 霧でおかしくなったのか?

 何て言っているか分からない。

 シンダール語か? それともウヴェ語か?

 どっちにしたって俺じゃ分からないな。

 ……とりあえず家へ帰ろう。

 俺の……父さんの言葉は分かるか?

 分かるならこの手を取ってくれ」

 

 強い自制心をもって、己の焦りを抑えた男は籠手から腕を引き抜き、その手をわたしへと伸ばした。

 どうやら困ったことに、わたしの言葉は彼には通じていないらしい。

 となると、ここはわたしの知らぬ国なのだろうか。


 自己の記憶の無いわたしには、意識に深く根差したこの言葉しか自在に扱えるものがない。

 唯一持ち得る言語が通じないとなると、これはやがて大きな障害になるだろうことは想像に難くない。

 

 じっと考えていると彼が悲しい顏を浮かべた。差し出された手を引っ込めそうな気がしたので、わたしはすぐさまに彼の手を取った。

 

「ごめん、考え事をしてたんだ」


 当惑の表情だ。

 やはり言葉は通じていない。


「……勇者ガリアンよ、輝きの五神よ。私は随分な不信心者でしたが、どうか息子ユリウスが言葉を取り戻しますよう、慈悲と祝福をお与えください……」


 黒髪の男は祈りの文言らしい言葉を呟くと、胸の前で指先で小さく円を描き、続けて握りこぶしを作った。

 

「さ……帰ろう、ユリウス。家で母さんと妹が待ってるよ」


 わたしの手を握った彼は目的地へ、言葉を鵜呑みにするのならばへと向けて歩きはじめた。

 わたしの記憶は未だ戻らず、彼がわたしを呼んだという名だけが、傷の残る胸の内で何度も反響していた。

 

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