消失した印
「……『天使』?」
怪訝に思いながら、シーパルは呟いた。
この宙吊りになっているかのように浮かんでいる女性は、確かに自分のことを『天使』だと言った。
『天使』。
記録によると、その存在が確認されたのは、今から約七百年前。
旧人類が滅び、新人類が誕生した時だとされている。
その正体は、不明だった。
名の通り天からの使いであるとの説もあれば、旧人類が生み出した兵器だという説もある。
旧人類の成れの果てだという説すらあった。
『悪魔』と比較されることが多いが、反目する存在なのか、彼らが戦闘をしていたという記録はいくつも残っている。
『悪魔』もまた、天使と同じく正体不明の存在だった。
個体数に差があるのか、目撃例は圧倒的に『天使』の方が少ない。
彼女は、その『天使』だというのか。
誰がどう見ても、ヨゥロ族にしか見えない彼女が。
「……」
人の言葉は、割りと信じてしまう方だと自覚していた。
だから、騙されたり冗談に引っ掛かることがある。
だがさすがに、女性の言葉は信じられなかった。
「あなたが、『天使』?」
「わたしは……『ルインクロードの天使』……」
「……」
追及しても無駄だろうと、シーパルは判断した。
この女性が、必ずしも嘘をついていると決まった訳でもない。
「……僕を呼んでいたのは、あなたですよね? ……なぜ?」
質問をしながら、シーパルは気付いた。
淀みなく喋れるようになっている。
脳が、急速に学習しているようだった。
急速な勢いで、この空間での在り方を、脳が把握していく。
そんな感じだった。
「伝えて欲しい……」
女性の言葉。嘆きの言葉。
「……伝える?」
「彼に……」
「彼?」
「もう……いいのだと……」
なぜだろう。
無性に、胸が痛む。切ない。
「あなたの想いだけで……わたしは、もう……満足だから……」
◇◆◇◆◇◆◇◆
落下する岩や枯れ木。
ユファレートは、咄嗟に瞬間移動の魔法を発動させて、危険な領域から脱していた。
デリフィスが撤退を口にしていなかったら、戦闘にばかり意識が向かい、反応できなかったかもしれない。
「……」
呆然と、背後を見遣った。
転がる岩、積み重なる枯れ木。
魔法で、なんとか避けることはできた。
でも、魔法が使えないデリフィスは。
「そんな……」
右手側の木立の向こうは、谷だったらしい。
魔法の威力で地盤が緩んでいたのか、落下物の衝撃の影響か、谷の方向へ地崩れが起きていた。
底が見えないほどである。
デリフィスは、谷へと転落していったのか。
それとも、岩の下敷きになったのか。
どちらにせよ。
心中に、暗雲が立ち込める。
思い出す。
ロデンゼラー。館。
虚ろな表情のシーパル。
椅子から転がり落ち、床に倒れる。
まさか、また、仲間が。
心音が、早鐘の如く鳴り響いた。
この光景。
助かったとは、思えない。
(……死んだ? デリフィスが?)
「……そんな訳、ない」
声に出して、ユファレートは呟いた。
まだ、デリフィスの姿を確認していない。
もしかしたら、助けを待っているのかもしれない。
『コミュニティ』の兵士たちの姿はなくなっていた。
罠に巻き込まれぬように、退却したのだろう。
敵を呼ぶことになるかもしれないが。
「ライト」
明かりを生み出し、ユファレートは頭上に浮かべた。
闇夜では、捜索などできない。
力場を発生させて、山積する枯れ木をどかす。
大きな岩は、衝撃波で砕いていった。
寒さが、骨身に染みる。
暖気を発生させ、身に纏わせた。
邪魔な岩や枯れ木を全てどけるのに、二時間は掛かるだろう、とユファレートは予測した。
◇◆◇◆◇◆◇◆
オースター孤児院に、帰り着いた。
無事に戻ることはできたが、翻弄されたとルーアは思った。
幼い子供たちは眠ってしまったのか、孤児院は静かだった。
男たちの何人かは、外を警戒している。
ユファレートやデリフィスは、どうなったのか。
敵の動きは。
リンダの部屋へ向かった。
『地図』という、非常に便利な魔法道具がある。
リンダは、目覚めていた。
介抱のためか、パナとシュアもいた。
パナは、『地図』を手に、青白い肌をさらに青冷めさせていた。
「ユファレートと……デリフィスの二人がさ……」
しどろもどろに、話し始める。
ユファレートとデリフィスを示しているだろう二つの赤い点が、敵らしい二十ほどの赤い点と接触した。
印は次々と減っていき、やがて二つを残して離れていった。
ユファレートとデリフィスが、敵を撃退したとパナは思ったらしい。
だが突然、赤い点が一つ消失した。
「なあ、それってさ……」
「まさか……!」
口籠もるパナに、ティアも絶句する。
不吉な考えが、ルーアの頭を過ぎった。
全員が、思っただろう。
ユファレートかデリフィスのどちらかに、最悪の事態が起きたのではないか。
「いや、わかんねえだろ」
ルーアは、否定した。
認めたくはない。
「どっちかは、敵を追って抗戦してるとか」
我ながら、苦しい言い分だった。
後続部隊と合流したのか、敵らしい赤い点は二十以上が集まり一塊になっていた。
しばらく見ても、乱れる様子はない。
「敵に捕まった可能性もある……」
テラントが呟いた。
「じゃあさ……!」
感情を押さえきれないのか、パナの語気が強まった。
一つになった赤い点を指す。
「なんでこいつは、助けに行かないんだよ!? おんなじ所をうろうろするだけでさ……!」
最悪の事態が起きた。
蘇生させようと、足掻いているのではないか。
自分の中の冷静な部分が、そう囁く。
ルーアは、かぶりを振った。
やはり、認める訳にはいかない。
単独になった赤い点が、ユファレートやデリフィスではない可能性もあるのだ。
現場をこの眼で見るまでは、迂闊に決め付けるべきではない。
「行ってみる」
窓の外に眼をやり、ルーアは言った。
風は、更に強くなっている。
「そうだな。もしかしたら、助けを求めてるかもしれん。行こうか」
テラントも同意する。
「……こっちは、大丈夫かな?」
ティアは、『地図』の孤児院の北を指していた。
赤い点が、三十ほど集まっている。
先程、ルーアたちが正対し、結局ぶつからなかった相手である。
どうやら、ルーアたちと接触しかけた場所から、ほとんど動いていないようだ。
待機命令でも出ているのだろうか。
いつ、南下してくるか。
余り孤児院を手薄にするのも、まずいかもしれない。
「行きな」
黙って寝台に腰掛けていたリンダが、口を開いた。
「……でも」
「心配なんだろ、ティア? ここの守りは、あたし一人で充分だ。元々、一人だったしね」
ルーアは無言になって、リンダを見つめた。
強がりなのではないのか。
リンダは、疲れきり気を失うように眠りについたのである。
あれから、まださほどの時は経過していない。
全快したということはないだろう。
リンダが、ルーアやテラントを見返す。
強い意志が宿った表情。
「……わかりました」
ルーアは、頷き言っていた。
リンダの眼の奥に、猛々しい光を見たのである。
ともすれば、圧倒されそうな雰囲気だった。
ルーアは、ティアとテラントと、吹雪く外へと出た。
道は、ティアが知っている。
「ティアも、将来あんなふうになるのかね」
「どうだろうね」
テラントが、どこか呆れたように言い、ティアは苦笑していた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
左手の方の崖の上から、岩を落とされた。
夜道で気付かなかったが、右手側は谷になっていたらしい。
山の中腹辺りの道だったのかもしれない。
足場が崩れ、デリフィスは谷を落ちていった。
意識を失っていたのだとしたら、束の間だっただろう。
眼を開いた時、体のすぐ近くには、岩が立っていた。
直撃していたら、間違いなく死んでいただろう。
空は狭い。
針葉樹が無数に生えていた。
谷はかなり深く、上が見えない。
なぜ、生きているのか。
体が痛むが、それだけである。
長引くような痛み方ではない。
針葉樹や雪、厚い防寒着がクッションになったとしても、有り得ない幸運である。
誰かに助けられたのだろうか。
だが、人の姿はなかった。
こんなにも、幸運の女神に愛された男だっただろうか。
なにか、気持ちが悪い。
女神の掌の上で、弄ばれているかのような気分だった。
(ユファレートは……?)
上だろうか。
そして、無事だろうか。
上空は、風が唸っている。
大声を上げたところで、届きはしないだろう。
早目に合流するべきだった。
だが、とてもよじ登れる高さではない。
途中で、体力が尽きるだろう。
重い剣も邪魔になる。
シーパルなら、登れるのかもしれない。
山育ちのシーパルは、なんの手掛かりもない岩肌だろうと、簡単によじ登っていく。
魔法も使える。
(無い物ねだりをしても、仕方ないか……)
ともかく、上へ行ける道を捜さなくては。
空は曇っている。
星の位置で、方角を知ることはできない。
南へ向かい、右手側の谷へ落ちた。
岩壁に右手を付き進めば、北へ、つまりロウズの村の方に向かうことになるはずだった。
木を切り倒し年輪を見ようかとも思ったが、途中でやめた。
かじかんだ手では、意外と重労働だったのだ。
北と思われる方向に進む。
ユファレートと合流できないだろうか。
ロウズの村に辿り着くのもいい。
テラントたちが救援に出ていて、それにばったり出くわすのもいい。
もう一度、幸運に恵まれないだろうか。
(……幸運、なのか?)
どうにもすっきりしない。
幸運だったから、助かったのだろうか。
なぜ、死ななかったのか。
歩きながら、デリフィスはそれを考えた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
デリフィス・デュラムは、岩に潰されたか谷底へ落ちたか。
どちらにせよ、死んだと考えていいだろう。
奇跡的に生きていたとしても、五体満足ではいられまい。
サミーは、慎重にユファレート・パーターを観察した。
アルベルトが率いる後続部隊と合流し、三十人を超える集団になっている。
ユファレート・パーターは一人になったとはいえ、侮れない。
不用意に仕掛けて返り討ちにされては、最悪だった。
飛行や長距離転移の魔法で、逃げられる恐れもある。
それを避けるには、とにかく消耗させることだ。
移動系の魔法も空間系の魔法も、制御が困難である。
ルーアたちが救援に来るとしても、三時間は掛かるとサミーは読んでいた。
ユファレート・パーターは、様々な魔法を駆使して、岩や枯れ木を撤去している。
それを、サミーは観察し続けた。
ユファレート・パーターは、休むことなく魔法を使い続けている。
ユファレート・パーター。
世界最高の魔法使い、ドラウ・パーターの孫娘。
クロイツが警戒する女。
そしてもしかしたら、ハウザードが気に掛けている女。
二時間ほど経過しただろうか。
(……そろそろか?)
並みの魔法使いならば、とっくに魔力を使いきっているはずだ。
今なら、確実に倒せるのではないのか。
ユファレート・パーターは、谷の方を気にし始めていた。
デリフィス・デュラムが見つからず、谷へ転落したのではないかとでも考えているのか。
もういいだろう。
サミーは、襲撃の合図を出しかけた。
その時だ。
いきなり、ユファレート・パーターは谷へと飛び降りた。
いや、伝わってくる魔力の波動。
飛行の魔法を発動させている。
(あの女の魔力は、底無しか!?)
サミーは、内心で悲鳴を上げていた。
谷へと駆け寄る。
姿は見えないが、魔力の波動だけは肌を打っている。
サミーも一応は飛行の魔法を使えるが、谷間の風に煽られながら使用するのは危険だった。
普通の魔法使いには、自殺行為である。
サミーは、歯噛みした。
これだから、天才という人種は。
凡人の予測を、軽々と超えてしまう。
「……アルベルト、二手に分かれるぞ。下へ降りる道を捜すのだ」
自分と似たような顔の部下に、サミーは言った。
ユファレート・パーターは、消耗しているはずだった。
好機を逸する訳にはいかなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
呼ばれて、エスはそこに現出した。
オースター孤児院の一室。
彼は、寝台で胡坐をかいていた。
「やあ、エスさん」
気軽に手を挙げる。
「……決心は固まったかね、ロンロ・オースター?」
「ええ、まあ、ねえ」
へらへらと笑う。
「だって、詰んじゃってるでしょ? 他の方法がない」
「ふむ」
家族からも変態呼ばわりされているこの優男を、おそらくはエスだけが評価していた。
なんの力もないロンロ・オースターには、ザイアムの侵攻を止めた過去がある。
「起死回生の一手を、打たなくてはねえ」
「リンダ・オースターには、恨まれるかもしれんがね。君が、みんなを裏切ったと」
「蔑まれるのは、慣れているんです」
緩んだ表情に、迷いは感じられなかった。
「私は、支援できんよ。クロイツに、干渉されている。彼が、私の申し出を受けるとも思えん」
「わかってますよ。危険は承知の上です」
「そうか」
「それで、どこへ向かえば、彼らに?」
「ズターエ王国だ」
「ズターエ……」
ロンロ・オースターは、意味もなく身じろぎしてみせた。
寝台が、軋む。
「遠いなぁ……」
大陸南西にある王国である。
まともな移動手段だと、半年以上は掛かるだろう。
「なに、瞬きする間に到着することも可能になる」
「それは便利」
「良い事ばかりではない。わかっているとは思うが」
「はい。俺が向かうのは、現在世界で最も危険な場所でしょうからね」
「……」
不思議な男だ。
ごく平々凡々な男である。
恐怖という感情も、ちゃんと持っている。
相手の強大さも、理解している。
それなのに、臆さない。
「覚悟はできているようだね」
「はい」
「……では、始めよう」
無色透明の糸を伸ばす。
ロンロ・オースターの脳に突き刺した。
「私は、エス。ロンロ・オースターに、私の力と接続する許可を与える」
ロンロ・オースターの表情が歪む。
糸を、引き抜いた。
自らの意思で。糸を理解して。
「……気分はどうかね?」
「んー……ちょっとぴりっときてびっくりしましたけど、思ったよりも、て言うか、随分あっさりと」
「そういうものだよ」
きょろきょろと、ロンロ・オースターは辺りを見回した。
「なんか、変な感じだ……。これが、あなたの力。勝手に、情報が流れ込んでくる」
「情報の奔流だよ。早目に、能力を制御することだ。さもなくば、脳が破壊されることになる」
「そりゃおっかない」
「なぜ、君に力を貸し与える気になったか」
「わかってますって」
野心が、全く感じられない。欲もない。
世界を裏側から統べる力を得ても、決して支配者として踊り出ることはないだろう。
力に、酔うこともない。
「ストラーム・レイルも、『コミュニティ』も、俺にとってはどうでもいい連中なんですよ……」
ロンロ・オースターが、呟いた。
「勝手に啀み合って、殺し合いでも戦争でもすればいい。でも……」
彼の望みは、ただ一つ。
そして、唯一の者かもしれない。
リンダ・オースターの息子、つまりストラーム・レイル側の人間でありながら、エスと対話ができ、『コミュニティ』と向き合うこともできる存在。
「忠告だ。私と力を共有できるようになったとはいえ、君は肉体のある者だ。私と違い、他者を傷付けることも、他者に傷付けられることもできる。一時的に、肉体を消去することもできるがね」
「構わないですよ。別に俺は、不死になりたい訳じゃあない」
ロンロ・オースターが立ち上がり、伸びをした。
関節が鳴る音が響く。
運動不足であるかのような、ひょろりとした体つき。
農作業や猟で、体を使う機会は多々あるはずだが。
「じゃあ、ちょっと頑張ってきますかね。愛しい妹たちの成長に、明日からもにやにやできるように」
「健闘を祈るよ」
「上手くいくことを、と言ってください。俺は、戦いに行く訳じゃないんで」
へらへらと笑い、眼を細める。
「ズターエ王国……の……北……」
呟き。
そして、もう能力の制御ができるようになったのか。
ロンロ・オースターの姿が、消えた。
「ふむ……」
制御方法も、伝えてはいる。
だからといって、即座に実践できるものではないだろう。
「面白い男だ……」
果たして、クロイツやソフィアは、彼を見てなにを感じるか。
すぐに消そうとするだろうか。
薄く笑い、エスは部屋を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます