追跡
馬車は、街の外れへと逃げていく。
廃れ果てた街並。
追う方も追われる方も、かなりの勢いである。
天井に頭をぶつけないよう、ティアは車の座席にしがみつかなければならなかった。
どういうバランス感覚をしているのか、デリフィスは平気な顔で座席から身を乗り出している。
「ダネット、追い付けるか?」
「いけそうだぜ! こっちは駿馬、向こうは駄馬だな!」
スキンヘッドの警官、ダネットが言った。
じりじりと差は詰まってきている。
前を疾走する馬車の、幌の後ろが開いた。
サンを捕らえた魔法使い、エランの姿。
「ダネット!」
デリフィスの警告。
「おうよ!」
エランの掌から、火球が放たれる。
それを、ダネットは見事な手綱捌きで馬車を操りかわした。
「街中で、ンな魔法を使いやがって……!」
唸るように言うダネット。
火球が、次々と放たれる。
それを、全てかわしていく。
激しく揺れ動く馬車の荷台からでは、狙いにかなり正確さが欠けている。
とはいえ、かわすのは簡単なことではないだろう。
ダネットの馬車の運転技術は、かなりのもののようだ。
馬も、訓練を受けているのか、破裂する火球に怯える様子はない。
「しかしこれじゃあ、追いつかんな……」
ダネットが呻く。
火球をかわしながらでは、差を詰められそうにない。
また、火球が破裂した。
飛んできた破片が、窓を突き破る。
デリフィスが、手で払い落とした。
「速度はこちらが上だ。どうにか回り込めないか?」
「難しいな……この辺りの道、俺知らねえんだわ」
先行する馬車が、車体を傾けながら交差点を曲がる。
先に馬車が見えない間は、魔法が飛んでこない。
差を詰める好機である。
ダネットが、さらに速度を上げる。
そのまま、交差点を曲がった。
重圧が体にかかる。
ティアは、歯を喰いしばった。
そうしないと、舌を噛み切ってしまいそうだ。
「まずいな……」
デリフィスが呟く。
急に、道幅が狭くなった。
左右の壁に、車が擦りそうになるほどの狭さ。
狙いがズレた火球が、こちらの車の屋根を吹き飛ばした。
「きゃああっ!?」
熱気と衝撃に、悲鳴を上げてしまう。
「引き返せ、ダネット!」
「無茶言うなぁ!」
これだけ道が窮屈だと、馬車を返すことはできない。
火球が、真っ直ぐに向かってきた。
直撃する。
デリフィスに抱き寄せられた。
そのまま、彼は破れた天井から脱出する。
ダネットも、御者台から逃げ出すのが見えた。
火球が破裂する。
爆風と熱に揉みくちゃになりながら、ティアはデリフィスと地面に叩き付けられ転がった。
建物の壁に激突し、ようやく止まる。
「いった……」
呻きながら、眼を開いた。
視界がチカチカする。
耳の奥がきんきんと鳴った。
だが、それだけで済んだ。
驚いてしまうほど、ほぼ無傷。
それは。
「……デリフィス!?」
デリフィスは、ティアの体と建物の壁に挟まれた状態だった。
それだけではない。
おそらく、ティアを庇い爆風を背中で受けた。
地面にも、デリフィスの背中から落ちた。
地面を転がる時も、腕と背中で守ってくれた。
だから、ティアはほとんど怪我らしい怪我をせずに済んだ。
ティアは、デリフィスの体を揺さ振った。
「デリフィス!? ねえ! デリフィス!」
デリフィスが、眼を見開いた。
そのまま、何事もなかったかのように、すっくと立ち上がる。
「怪我はないか、ティア?」
「……あ、うん。あたしは……平気。ありがと……」
怪我がないかどうか、デリフィスに聞く必要はなさそうだ。
(むしろ、なんでデリフィスが平気なのか聞きたいわ……)
何食わぬ顔で、彼は衣服に付いた埃を払っている。
「ダネット!」
デリフィスが、馬の死体と馬車の残骸に向かって呼び掛ける。
ダネットは下敷きになったらしい。
「あいよ……」
上に乗る物を押し退けて、ダネットが顔を出した。
どいつもこいつも、規格外に頑丈な奴ばかりである。
「無事……ではなさそうだな」
駆け寄ったデリフィスが言った。
ダネットは、額から血を流していた。
左腕も動かせないようだ。
「ちょい……間抜けな落ち方しちまったな……」
さすがに、顔をしかめる。
「後で、優秀な魔法使いを紹介してやる」
「おう、頼むぜ……。できれば、女がいいな……」
「任せろ。飛び切りだ」
「あと、酒もな……」
「ああ。たらふく飲ませてやる。もちろん、俺の奢りだ」
二人で笑みを浮かべる。
「いくぞ、ティア」
「……うん」
ダネットに頭を下げて、ティアはデリフィスと走り出した。
「ねえ、大丈夫なの? ダネットさん、あんな怪我を……」
「あいつは、あの程度では死なない。それよりも……」
すでに、エランと老人たちの馬車は、かなり先を進んでいた。
「逃げられちゃう! サン……!」
全速力で逃げる馬車に、人の脚力で追い付けるわけがない。
「まだ諦めるなよ」
馬車を睨みながら走り、デリフィスが言った。
「ダネットの馬を見る眼は確かだ。あいつは、駄馬だと言った。ここまで長距離を、かなりの速度で走らせ続けている。いつまでもは持たん」
一旦停車した馬車から、エランが降りるのが見えた。
そのまま、別の路地へと入っていく。
馬車も、角を曲がった。
「撒きにきたか……」
デリフィスが呟く。
程なくして、エランが馬車を降りた位置にまで到着した。
「見ろ」
デリフィスが、路面を指した。
この辺りは、建物も道も荒れている。
舗装のレンガが剥がれ、下地が剥き出しとなっていた。
なにか脆い材質なのか、馬の足跡がうっすらと残っている。
「わかるか? 馬の歩幅が、極端に狭くなっている。やはり、長くは持たないな」
また、二人で走り出した。
もちろん、馬車が逃げた方向である。
なぜ、エランは馬車を降りたか。
馬の負担を減らすためか、二手に別れることで、撹乱させようとしているのか。
こちらの分断を狙っているのかもしれない。
挟撃してくる可能性もある。
「後ろにも気をつけろよ」
同じことを考えていたのだろう。
振り返ることもなく、デリフィスが警告した。
◇◆◇◆◇◆◇◆
師であるクロイツに、ラシィ・マコルという名前を与えられてから、二十数年が過ぎている。
それはそのまま、ズターエ王国に仕えた時間だった。
それ以前のことは、はっきりと覚えていない。
『コミュニティ』という組織の戦闘員だった。
名前もあったはずだが、記憶共々消されている。
不要だと、新たな任務の邪魔になるからと。
その代わりに、ズターエの歴史や、王宮の礼儀作法といった知識、そして、ラシィ・マコルとしての仮初めの記憶が与えられた。
ズターエ王国宮廷魔術師の一人、そして、『フォンロッド・テスター条約』のための儀式の参加者、それが現在の彼だった。
組織からの指令がいくつか。
『フォンロッド・テスター条約』を結ばせないこと。
各国が手を携えるというのは、裏の世界を統べる『コミュニティ』にとっては、好ましい事態ではない。
付け入る隙がなくなる。
昔からの任務が一つ。
エミリアとサンを陰ながら守護すること。
どんな手段を用いても良い、とにかく死なせないこと。
二人は、特にサンは、ズターエ王国に命を狙われる可能性もあった。
幼いサンには、遠い異国の地、ホルン王国の北端にある孤児院に行ってもらった。
エミリアには、ズターエ王国王都アスハレムに残ってもらった。
最悪は、サンが殺されること。
その事態を避けるため、エミリアはアスハレムに残り、追跡の眼を引き付ける。
エミリアに死なれるのも困る。
それは、ラシィ自身が守護に回ることで防いできた。
だが、それも終わりだ。
守る時期は終わった。
これからは、利用する時だ。
その利用価値だけで、親子は組織に生かされていた。
指令はもう一つ。
ハウザードを揺さ振ってみろ、という指示。
クロイツは懸念しているのだ。
ドラウ・パーターの元で修業したハウザードは、目論見通り力を伸ばしてきた。
だが、余計なものも得た。
感情、他者への思いやり。
ハウザードに、心など不要だった。
ただ、強靭な魔力を宿す肉体だけあればいい。
心や感情は、組織を裏切るきっかけに成り兼ねない。
だから、ラシィはハウザードに探りを入れるようなことを言った。
『コミュニティ』という組織を警戒し、ハウザードのことを不審に思っているズターエの宮廷魔術師。
そんな印象を、ハウザードはラシィに持っているのではないか。
ラシィは、今回の作戦の司令官の立場だった。
場合によっては、あのズィニア・スティマにも指図できるかもしれない。
多忙だが、遣り甲斐はある。
そして、神経質になっていた。
細かいことで苛立つ。
やってきた男を、ラシィは叱責した。
儀式の参列者は、街中の国立公園に張った幕舎の中で、正午過ぎの日差しを避けている状況だった。
使えそうな建物がいくらでもあるのに、こんな野宿紛いのことをさせられる。
条約のために世界中を回った、フォンロッド・テスターの苦労をなぞる儀式でもある。
幕舎で雨風を凌いだこともあるだろうが。
正直、無駄だとしか思えなかった。
この幕舎は、ズターエ王国からの参列者に与えられたものである。
そして、やって来た男はエランという。
『コミュニティ』の人間だった。
気軽に訪れてもらったら困る。
誰にも見られていない、エランは言い訳した。
そういう問題ではない。
どこでぼろが出るか、わかったものではないのだ。
ラシィとの関係は、再従兄弟となるらしい。
ただ、ラシィにはその記憶が残っていない。
顔の輪郭、特に尖った顎が似ているように思う。
ラシィは、自分の顔の形が嫌いだった。
髭を伸ばし顎を隠している。
ラシィもエランも、組織内で生まれ育っていた。
『コミュニティ』は、意図的に男女を組み合わし子を作らせ、戦闘員として育て上げるようなことをする。
エランは、ラシィのことを兄貴と呼びたがった。
ラシィは、それを禁じた。
誰に聞かれるかわかったものではない。
冷気の魔法を使わねば堪えられないような、蒸し暑い幕舎の中で、エランの報告を受け続けた。
計画のために、サンを捕らえなければならなかった。
計算外の邪魔者がいたが、不利な状況にも関わらず、エランは見事に役割を果たしていた。
それについて、ラシィは褒めた。
実力はある。
多少落ち着きが足りないが、戦闘中の判断力などは、見るべきものがあった。
ただ、大局を見る眼がない。
それは、こちらで補ってやればいい。
指揮官は、ラシィなのだ。
逃亡の際、エミリアに重傷を負わせたという。
ラシィは、またエランを叱責した。
やはり、大局を見れていない。
エミリアは、絶対に必要ではないが、重要な存在ではあった。
そして、サンに万が一のことがあった場合は、エミリアに代役を務めてもらう。
サンほどではないが、エミリアもそれなりに重要な存在だった。
それに、危うい傷を負わせるとは。
足止めに必要だった、それに、きっと死んでいない、エランはそう言い訳した。
「現在の状況は?」
「サイラスの爺さんが、アジトにサンを連れていってます。けど、追われてるんです。至急、救援を」
「サイラスならば、とも思うが……」
サイラスは七十過ぎの老人だが、信頼に値する武人だった。
その剛直な戦い方で、敵を圧倒する。
戦況を感じ取る勘も抜群で、退くべき時は柔軟に退ける。
「敵にも、相当な使い手が揃っていると。計画の決行には、まだ時間が掛かるのでしょう? 時間までサンの身柄を確保するのは難しいと、サイラスの言葉です」
「そうか」
サイラスは、百戦錬磨だった。
彼が難しいと言うのならば、そうなのだろう。
「トゥの野郎は?」
「奴は、まだ動かせん」
各々、役割というものがあるのだ。
ラシィが儀式から離れるわけにもいかなかった。
あまりに目立ち過ぎる。
今はまだ、周囲に『コミュニティ』のラシィだと感づかれるわけにはいかなかった。
ラシィ、トゥ、サイラス、エラン、そして兵士たち。
それが、現有戦力。
このままでは、駒が足りない。
「……ズィニア・スティマを使おう」
状況を分析して、ラシィはそう判断を下した。
ズィニア・スティマならば、どんな戦況からでもひっくり返せる。
あの男は、そういう存在だった。
「ズィニアを、ですか……」
「そうだ」
「俺は、あの人が苦手です」
「苦手としていない者も、そうはいないだろうな」
というよりも、恐怖を感じてしまう。
ズィニアと馴れ合うことができているのは、クロイツとハウザードくらいなものではないか。
特にハウザードだった。
とても、性格が合うとは思えない。
それでも二人は、対等な関係を築きあっていた。
「……俺から、依頼するのでしょうか?」
「いや。私が行こう」
エランが、あからさまにほっとした顔をする。
気持ちはよくわかった。
ラシィも、できればズィニアとは関わりたくない。
だが、こちらの切り札となる存在である。
指揮官自ら依頼するべきだろう。
エランを送り出し、ラシィはドニック王国からの使者が集う幕舎へと向かった。
ズィニアもハウザードもいなかった。
儀装した馬車を見ているという。
好都合だった。
他の者に、余計な会話を聞かれずにすむ。
ドニック王国の紋章を誂えられた馬車に、ズィニアはもたれていた。
ラシィに気付き、皮肉気な視線を向ける。
「ハウザード、客だぜ……」
「オーバ・レセンブラだ」
訂正する声。
ハウザードは、その名前でドニック王国に仕えていた。
馬車の扉が開き、ハウザードが出てくる。
美しい青年だった。
何気ない仕種の一つ一つに、優雅さを感じる。
ラシィへと向けられる眼。
「これはこれは、ズターエ王国宮廷魔術師、ラシィ・マコル殿。なにか御用でしょうか?」
と、口の端を上げる。
「それとも、『コミュニティ』のラシィとして、なにか用があるのか?」
「……!」
一瞬、息が止まるのを感じた。
汗が頬を伝る。
「……なんのことでしょうか?」
「惚ける必要はない。これは、誘導でも探りでもない。どうせ、クロイツ辺りの指示だろう」
ハウザードが、仮面を外した。
オーバ・レセンブラとしての仮面を。
ラシィには、そう感じられた。
「……恐れ入りました。たしかに、クロイツの指示です」
「やはり、私の組織への忠誠を疑っているか、クロイツは」
「あなたには、ドラウ・パーターの孫娘と恋仲であるとの噂もあります」
「ただの噂だ、それは」
仮面を脱ぎ捨てたハウザードが、笑みを浮かべる。
背筋が冷えるのを、ラシィは感じていた。
「お前も、私の忠誠を疑うか、ラシィ?」
「そのようなことは……」
「疑うべきだな。事実、私は『コミュニティ』に忠誠心など持っていない」
一歩、ラシィは下がった。
整った顔立ちに垣間見える、凄惨さ。
「考えてもみろ。逆だ。『コミュニティ』が、私に跪くべきだろう?」
「……そうかもしれません」
ズィニアよりも、余程ましだ。
人間味があり、接しやすい。
そう思っていたが、勘違いだった。
この青年は、危険過ぎる。
今すぐ、背を向けてこの場から逃げ出すべきだ。
感じたが、思うように体が動かなかった。
「ラシィ」
名前を呼ばれ、ラシィは身を震わせた。
「なにか、用があったのではないのか?」
はっとなる。
完全に、用件について忘れていた。
「そうでした。実は、ズィニア殿に……」
事情を伝える。
ズィニアが、凶悪な笑みを見せた。
クロイツから、なにかあれば協力してやれ、と言われているはずだった。
「了解。エランてのが、案内してくれるんだな?」
「はい」
ズィニアが、馬車から背を離す。
用件は告げた。
一礼して、ラシィは逃げ出すような気分で幕舎へと戻った。
幕舎の中で、独り身を震わせる。
「化け物共め……!」
クロイツの弟子、そして、ドラウ・パーターの弟子。
化け物の弟子は、やはり化け物だ。
あれが、ルインクロードの器。
クロイツも、ソフィアも、あのザイアムも従えることになる力。
ズィニアと対等な関係を築けるのも頷ける。
化け物同士、通じるものがあるのだろう。
ズィニアが動いた。
これで、使命を果たしたも同然だった。
だが、気持ちはまったく落ち着かない。
化け物共の気に当てられたからだ。
吐き気すら感じて、ラシィは椅子に身を沈めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ズィニア・スティマが動いた。
単身である。
儀式の行列が留まっている国立公園から、離れるように移動している。
公園を包むように集っていた野次馬の何人かが、興味深そうに眺めていた。
移動を続けて儀式から離れれば、その好奇の視線もなくなるだろう。
ズィニアは、普通の平服なのだ。
テラントは、公園を見下ろすことができる、高台にある喫茶店にいた。
代金を支払い、店を出る。
坂を下り、通りへと出て。
いた。ズィニア・スティマ。
だが、一人ではなかった。
テラントにとっては見知らぬ男と、なにやら話している。
顎の尖った男。
(『コミュニティ』のメンバーか?)
ただの一般市民ではないだろう。
立ち振る舞いで、遠目でも使い手だとわかる。
(なにを話してんだ?)
会話の内容が気になった。
気配を殺しながら、少しだけ近付く。
まだまだ、気取られる距離ではない。
ただし、ズィニア・スティマについては、気付かれていないと断言できない。
あの男は、底が知れない。
会話が聞き取れる距離ではないが、耳を澄ます。
読唇術など使えないが、唇の動きに注視する。
野次馬の会話のため、すぐに集中が乱れた。
特に、近くに停車してある営業馬車だ。
しわがれた男の声と、一杯一杯になった女の声。
(くっそ……うるせえな……)
「困りますねぇ、お客さん……」
「あ、あの、えと、えへへ……」
「まさか、無賃乗車をするつもりじゃ……」
「いやいや、まさか、そんな、無賃乗車なんて……ねえ?」
「だったら、代金を……」
「あ、あの……そう! 宿に行けば、お金あるかな~、なんて……。えへへ……」
なんか、聞き慣れた声のような気がする。
「……その前に、警察に行きましょうか?」
「あ、い、いや、それは、ほんとに困るんです! えと……」
「困ってるのはこちらですよ、お客さん……」
テラントは溜息をついた。
馬車の窓枠に肘を掛けて、中を覗き込む。
「……なにやってんだ、ユファレート……? あとなんだ、その格好?」
もっとも、指摘するような服装ではない。
普通の旅装だった。
ティアの格好に近いが、いつもローブ姿のユファレートだと新鮮である。
「テラント……!」
客席にいたユファレートが、弾かれたように顔を向ける。
捨てられた仔犬のような眼で、あるいは教祖に縋り付く信者のような眼で、テラントの腕をがっしと掴んできた。
「あのねあのね、追われたの! それで馬車に乗って、すごく暑くて、道に迷って、変装したんだけど、お兄ちゃんがいて、財布がないの!」
「……取り敢えず落ち着け、テンパレート。文法が大事ってことしか伝わらん」
「えと……」
ユファレートは、御者台にいる老人に眼を向けた。
テラントの顔を、その細い指で差し。
「保護者です。代金は、この人から……」
「おい、パニクレート……」
「いやあ、良かった……」
御者台の老人が、満面の笑みを浮かべる。
「良かったじゃねえよ……くそっ!」
口汚く呻いて、テラントは財布を取り出した。
これまでの会話のやり取りから、代金を支払えないことくらいはわかる。
しばらく銀行に行っていないうちに、随分と軽くなってしまった。
「貸しだからな……」
太っ腹だと見栄を張りたいところだが、現実問題として金に余裕がなかった。
将軍でなくなり旅を始めてから、定職というものについていない。
せいぜい、傭兵紛いのことをして、臨時収入を得ているくらいなものである。
去り行く馬車を見送り、去り行こうとしていたユファレートの襟首をテラントは掴んだ。
「やだ、放してよ。お兄ちゃんのとこ行かなきゃ」
「……貸し、だからな」
強調して言い、ふと眉根を寄せる。
「……お兄ちゃん? ハウザードが見つかったのか?」
たしか、そんな名前だったはず。
「そうなのよ! 儀式の行列の中に!」
「儀式の……?」
訝しく思った。
ズィニアも参加している。
そして、これだけ目立つ行事に参加していて、なぜ今までエスから連絡がなかったのか。
「……どの国だ?」
「ドニック王国」
ますますもって訝しい。
「ズィニアも、いたぞ……ドニック王国の使節団のとこにな……」
「そうなのよ! だから、お兄ちゃんに危険だって伝えなきゃ!」
「ふむ……」
ユファレートの襟首は放さず、テラントはズィニアを眼で追った。
尖った顎の男と、移動を始めている。
「ユファレート、馬車代はいいや」
「ほんと?」
「その代わり、体で払ってもらうぞ」
「……え?」
「……いや、そうじゃない」
両腕を、自分の胸を隠すように回したユファレートに、テラントは半眼になった。
「俺は、死んだ嫁一筋」
我ながら聖人君子なことを言って、テラントは顎でズィニアたちを差した。
「ズィニア・スティマと、その他一名。あいつら潰すの手伝え」
「……先に、お兄ちゃんのとこに……」
そんな暇はない。
ズィニアたちは、こちらの都合などお構いなしに歩き続けている。
テラントは、ズィニア相手に一対一で勝てるとは思っていなかった。
以前敗れてから二ヶ月。修練は怠っていないが、まだ追い付けた気はしない。
本当は一人で倒せるまで腕を上げ、その後に斬り殺したい。
だが、マリィの仇をこれ以上生かしておきたくはない。
ズィニアに対抗するには、援護がいる。
そしてユファレートと、彼女と同等の力量であるシーパルは、それに最適といえた。
二人の魔法ならば、ズィニアの持つ魔法道具『拒絶の銀』でも防ぎ切れない。
それは、すでに実証済みだった。
間合いを詰め切れないほどの遠距離から、かわし切れないだけの広範囲に、『拒絶の銀』でも防ぎ切れないくらい強力な魔法を放たれたら、いくらズィニアでも一溜まりもないはず。
ユファレートやシーパルは、ズィニアにとっては天敵と成りえた。
「ズィニアを倒す。イコール、お兄ちゃんの安全の確保。違うか?」
「それは、そうだけど……でも……」
「ほら、行くぞ」
恨めし気な眼付きで公園を見つめるユファレートを、強引にテラントは引きずっていった。
「……わかったわよ」
観念したのか、テラントの手を振り解いて、自分の足で歩き出すユファレート。
「強引よね、まったく……」
「男は、少し強引なくらいの方がいいんだよ」
「それにしても、ちょっと意外」
「なにがだ?」
「テラントなら、なにがなんでも一人であの人と戦いたがると思ってたから」
「……それは言うな」
苦々しく、テラントは呟いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
サンを捕らえたサイラスが身を潜めているというアジトに、エランに案内されて向かっていた。
馬車を降りた先は、街の郊外である。
一国の王都であるアスハレムは、さすがによく栄えていた。
それでも、歪みは生まれる。
ここも、そんな場所といえるのか。
廃墟ばかりが並ぶ、荒れ果てた地だった。
道が傷んでいるため、馬車を走らせることも危険だった。
(……なぁんか、イライラするんだよなあ)
ズィニアは、頭を掻いた。
原因は二つ。
一つは、ずっと付けられていること。
多分、二人だろう。
付けているのはわかるが、はっきりと居場所を掴めない。
片方か、もしくは二人共か、かなりの尾行の達人だろう。
ずっと不意打ちを警戒しながら、移動しなければならなかった。
(で、もう一つは、こいつだ……)
エランという、顎が尖った魔法使い。
それなりの使い手だろうが、ズィニアを前に終始びくびくとしている。
吠え声の一つでも上げれば、逃げ出すのではないか。
ふてぶてしいくらいの態度の男の方が、ズィニアは好きだった。
「……あそこです。ですが……」
エランが、拓けた場所にぽつんと建つ、四階建ての廃ビルを指差した。
さすがに、いい場所を選んでいる。
接近してくる者に気付きやすい。
これで、秘密の脱出口でもあれば、数日間使用するアジトとしては上等だろう。
「なかなかタイムリーだねえ」
廃ビルに侵入する、男女の姿が見えた。
戦闘技術と経験ばかりが詰まった脳から、その二人の名前を捻り出す。
デリフィス・デュラム。そして、ティア・オースターか。
ズィニアは、小剣の形状の魔法道具、『拒絶の銀』を抜いた。
剣身に、背後の様子を映す。
(あっちゃー……)
ようやく尻尾を掴んだ。
一瞬だけ見えた、男女の姿。
「よりにもよって、あいつらか……」
テラント・エセンツ。そして、ユファレート・パーター。
二人共、できれば殺したくはない。
テラント・エセンツは、おびき寄せるための、良い餌になる。
そう思ったからこそ、ヤンリの村では殺さなかったのだ。
ユファレート・パーターはどうか。
もし殺したら、果たしてハウザードはどういった反応を見せるのか。
興味はあるが、試すのは危険な気がする。
そして、二人共腕が立つ。
殺さないよう手加減して戦える相手ではない。
特に、ユファレート・パーターの方だった。
あの少女の魔法は、『拒絶の銀』でも消去し切れなかった。
ハウザードにも劣らない魔法使いなのではないか。
「よし、戻ろう」
あっさりと、ズィニアは決断した。
エランが、驚愕の表情を見せる。
「お、お待ちください! なぜ、突然!?」
「気分が乗らねえから」
エランに説明するのは面倒だった。
尾行されていることにも気付いていないのだ。
「おら、戻るぞ。道忘れた。とっとと案内しろぃ」
尾行されていることを気にしていたので、しっかりと道筋を頭に入れることができなかった。
「サ、サイラスが危険です……」
「んー? あの爺さんなら、一人でもなんとかするだろ。死にゃしねえよ」
少しだけだが、顔を合わせたことがある。
エランと違い、堂々としていた。
ああいう奴が、窮地には強い。
「……サンを、取り返されてしまいます」
「……だから?」
一瞬、エランは絶句したようだった。
「で、ですから、サンは今回の計画でも重要人物であり……」
「だから、それがなんだってんだよ?」
「……」
今回の計画とは、たしか『フォンロッド・テスター条約』を破綻させることだったか。
そんなことよりも、テラント・エセンツと戦闘を避け、餌として活かす方が余程大事だった。
「おら、戻るぞって」
「で、ですが……」
「おぅい……」
ズィニアは、眼を細めた。
「エラン、お前、いつまで俺に抗議するつもりだ? 俺は、ズィニア・スティマだぞ」
エランが、真っ青になって体を震わせた。
「行け。けど、途中で道変えろよ」
そのまま道を返すと、テラント・エセンツたちと鉢合わせすることになる。
「は、はい……!」
怖ず怖ずと、エランが歩き出す。
ズィニアのこと、そしてアジトのことを気にしながら。
やはり、なにかイライラさせる男だ。
後ろから蹴り倒したい衝動を押さえ、ズィニアは歩いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
人目につかない街の郊外に出ると、ユファレートの格好が変わった。
いつもの、漆黒のローブ姿になる。
着替えたのではなく、魔法で違う服に見せ掛けていたらしい。
便利なものだと思ったが、どうやらユファレートのオリジナル魔法らしい。
誰にでも使えるわけではないのか。
その手の細かい創意工夫を、ユファレートは得意としている。
それが、ルーアとの魔法使いとしての最大の差かもしれない。
魔法使いではないテラントには、そう感じられた。
ユファレートは、二ヶ月ほど前から、長距離転移の魔法の再構成を考えているらしい。
なぜかその話になり、テラントは話題を変えた。
魔法の話になると、ユファレートは一日中でも話し続ける。
なぜ、変装のようなことをしていたのか。
これまでの経緯を聞くことになった。
警察に追われることになり、サンの家にシーパルとティアは匿われているらしい。
宿にまで、手が回っているかもしれない。
まあ、デリフィスとルーアならば、勝手になんとかするだろう。
『コミュニティ』の罠に掛かったようなものだから、当然テラントも危険だろう。
だがこれまで、警官に声を掛けられることなどなかった。
テラントは、一行の中ではもっとも地味な外見かもしれなかった。
金髪は、ラグマ王国やズターエ王国では標準的な髪の色である。
他の連中はみんな、派手な頭髪か、眼を引く顔立ちをしている。
そこからなぜか、またユファレートが魔法の話に持ち込もうとした。
尾行中だからと、ユファレートの口を押さえ阻止する。
ズィニアたちは、人気のない方へ向かっていく。
テラントは、内心ほくそ笑んでいた。
余計な人間がいなければいないほど、ユファレートは高威力の魔法を使えるだろう。
ズィニアたちが止まった。
先には、廃ビルがぽつねんとある。
中へ入っていく人影。
テラントは、双眼鏡を眼に当てた。
「デリフィスと、ティアだ……」
「……なんで?」
「さあな」
どういう流れで、二人で行動しているのか。
シーパルとルーアは、どこでなにをやっているのか。
ズィニアの目的は、二人なのだろうか。
ズィニアが、小剣を抜いた。
なにか感じるものがあり、ユファレートの頭を押さえて身を隠す。
しばらくして、ズィニアたちが道を引き返しだした。
慌てて、身を隠す。
近付いてくるズィニアに、鼓動が高鳴った。
どうするか。
このままやり過ごし、尾行を続けるか。
それとも、戦闘を仕掛けるか。
不意打ちには、ならないかもしれない。
すでに、ズィニアには気付かれているかもしれない。
色々と考えてはいるが、体は決戦を望んでいた。
前足に、体重が掛かる。
体温が上がる。
ズィニアたちが、道を変えた。
こちらには、向かってこない。
つい、飛び出しそうになった。
ユファレートがしがみつくようにしなければ、実際に飛び出していたかもしれない。
「ティアとデリフィスが優先。そうだよね、テラント?」
「……」
ユファレートの言う通りだった。
警察と『コミュニティ』に追われている。
二人が、なぜこんな場所にいるのかはわからない。
だが、危険か安全かどちらかに賭けなければならないのならば、迷いなく危険だという方に賭ける。
だが、ズィニアが。
「テラント!」
強い口調で、ユファレートに咎められる。
「……わかってる」
一度、唇を噛み締めた。
「……行くぞ」
「うん」
ズィニアの尾行ではない。
デリフィスとティアの元へ。
「……にしても」
テラントは、苦笑した。
「君に止められるとはな。自分だって、みんなの制止を聞かずにハウザードのとこ行こうとしたくせにな」
「それは言わないで」
先程のテラントと同じことを、同じく苦々しい顔をして、ユファレートは言った。
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