裾野の地
レボベルフアセテ。
ラグマ王国の古語で、レボベル山脈の裾野という意味らしい。
レボベルフアセテ地方とは、レボベル山脈から南東百万平方キロメートルほどの、ラグマ王国の一地域のことを指す。
ルーアたちはレボベル山脈を越えて、その地にいた。
山脈の裾野だけあって、斜面が多く険しい。
それが長年、ラグマとホルン両国の侵攻を阻み合っていた。
現在はお互いに争う意思はないらしく、この辺りに軍勢の姿はない。
ラグマ王国は、西のズターエ王国と北東のザッファー王国に備えないといけないため、この地が手薄になっているということでもある。
山中は静謐だった。
土地の広さの割りには、人口が少ない。
付近には街がないようで、ここ数日は、旅の連れ以外の人の顔を見ていなかった。
「あっちー……」
ルーアは、顎まで滴ってきた汗を拭った。
ラグマ王国は温暖な国である。
南からの湿った空気がレボベル山脈に遮られるため、この辺りは湿度が高い。
あと一ヶ月もすれば雨期に入る。
そうなると、連日雨となるらしい。
昼過ぎだった。
村や宿泊施設が見当たらない。
ティアとユファレートが、道端で食事の準備をしてくれている。
テラント、デリフィス、シーパルも、それぞれ薪や食用茸を集めたりしている。
ルーアが頼まれたのは、水汲みだった。
地図に従い、小川が流れる方向へと歩いていた。
六人分の空の水袋を、左手に持って振り回してみる。
「……うん。……よし、よし」
しばらく前に、左腕に大怪我を負った。
痛みはもうないが、昨日までは腕を動かすと、骨の奥が軋むような違和感があった。
それが、完全に消えている。
水袋を右手に持ち替え、左手で剣を抜いてみた。
久しぶりに、ずしりとした重量が左腕に掛かる。
やはり、違和感はない。
ホルン王国の城塞都市ジロで購入した剣である。
ヴァトムという街で剣を買ったが、すぐにジロで買い替えた。
より良いと感じたからだ。
武器に金を惜しむことはない。
命に関わる。
剣を、横に振ってみた。
腕は痛まない。
「……よし!」
声に出して呟く。
随分時間が掛かってしまったが、ようやく全快といえる状態になった。
柄を握りしめる掌に、皮膚が擦れた痛みはあるが、これは仕方ない。
使い続けなければ、柄は手に馴染まないものだ。
小さい悲鳴が聞こえて、ルーアは剣を収めた。
剣をいきなり振ったことで、通りすがりの人を驚かせてしまったのかと思ったのだ。
勘違いだった。
悲鳴は、少し遠くから聞こえた。
走り出す。
助けを求める悲鳴に聞こえたのだ。
木立を抜けると、ゆるやかに傾斜した草原だった。
少女が一人、座り込んでいる。
派手に転んだらしく、転んだ跡は草が根から抜けていた。
片方の靴が、明後日の位置に落ちている。
少女のすぐ近くに、襲い掛かろうと身を低くする、牙を剥いた犬の姿。
首輪もなく、肋骨が浮くほど痩せている。
野犬のようだ。
ルーアは反射的に手を突き出した。
「エア・ブリッド!」
圧縮された風が、少女と野犬の間で弾けて、土塊と草が飛ぶ。
飢えているのは憐れだが、だからと言って人を襲うのは見過ごせない。
無駄な殺生をするつもりはないので、直接当てはしない。
同じ魔法を、野犬の眼前に叩き込んだ。
野生動物に対する威嚇は、間を置かず立て続けに行うのが効果的だった。
野犬が短く鳴いて、跳ねた。
文字通り、尻尾を巻いて逃げ出す。
一度振り向いたところで、また魔法を放った。
それで、完全に視界から消える所まで逃げていった。
ルーアは、転がる靴を拾った。
少女へと、歩み寄る。
「大丈夫か?」
「……あ……は、はい……あ、あの、ありがとうございます……」
少女は、真っ青な顔をしていた。
歯の根が合っていない。
無理もないが。
おそらく、十二歳か十三歳くらいだろう。
肩の辺りで切り揃えた栗色の髪を、カチューシャで留めていた。
山菜採りでもしていたのだろう、地面にひっくり返っている籠からは、それらしい植物がはみ出している。
靴を、少女に手渡した。
小さい手である。
靴を履こうとした少女は、わかりやすく顔をしかめた。
「ちょっと失礼」
少女の足首を看てみる。
捻挫しているようだ。
それも、ご丁寧に両足とも。
「これで……立てるか?」
しばらく治癒の魔法をかけてから、少女の手をとった。
だが、まだ立ち上がるのは無理なようだ。
回復の魔法は、人並みにしか使えない。
なかなかシーパルのようにはいかなかった。
両足とも痛めているので、肩を貸しても歩けないだろう。
「……仕方ねえなぁ」
ルーアは、山菜を適当に拾い籠に入れた。
それと水袋を、少女の腹に押し付けるようにして渡す。
「持っててくれ」
「え?」
「すぐ近くに、俺の連れがいる。そいつなら、ちゃんと治せるはずだ」
背中の剣が邪魔なため、少女を背負うことができない。
だからルーアは、少女の背中と膝の裏に腕を回して、抱き上げた。
「え、ええ~!? あ、あの、その!」
少女が、腕の中であたふたとしている。
「ん? どうした?」
「い、いや、こんな……。それに、重たいです……」
顔を真っ赤にして言う。
「重たくはねえけど」
少女は小柄であり、はっきり言って軽かった。
もしかしたら、四十キロもないのではないか。
「でも……その……」
しどろもどろに、なにか言っている。
小声なため、よく聞こえない。
少女を置いてシーパルを呼びに行ったら、その間に野犬が戻ってくるかもしれない。
こうやって、連れていくしかないだろう。
少女は、耳まで赤くして縮こまっている。
そこまで体重が気になるのだろうか。
女だから、仕方ないのかもしれないが。
まともに歩くこともできないのに、そんなことを気にしている場合ではないだろう。
迷惑をかけているとでも思うのだろうか。
左腕のリハビリにちょうどいい。
ルーアは、その程度にしか感じていなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
木製のテーブルの上に、地図を拡げた。
ラグマ王国の地図である。
レボベルフアセテ地方は、ラグマ王国の北西部に当たり、そのほぼ中央に、村を意味する記号があった。
ヤンリ。それが、村の名前だった。
ルーアたちの現在地は、村の記号から二百キロ以上離れている。
それにも関わらず、現在地はヤンリの村といえた。
広い地域に、十数人から数百人の規模で、三百以上の集落が散らばっているらしい。
それらを一括りに、ヤンリの村としているそうだ。
ルーアたちの一行は、誰もそのことを知らなかった。
地図を見て遠いと思い込み、村を目指すことはしなかった。
今は、ヤンリの村の西端、三十四人が暮らす集落にいる。
ルーアが少女を助けてから、一週間以上が経過していた。
そして、少女が暮らすこの集落へ案内された。
少女の名前は、リィルという。
リィルの命の恩人であるルーアたちは、歓迎された。
空き家まで、宿泊のため貸し与えられた。
元々は八人の家族が住んでいたそうだが、王都へ引っ越したらしい。
しっかりとした造りの家である。
長居するつもりはなかった。
ルーアの目的地は、リーザイ王国である。
そのために、まずは東にあるクカイという街を目指すはずだった。
そこから北上すれば、ザッファー王国、さらに北へ向かえば、リーザイ王国へと着く。
だが、クカイへの道が数箇所、土砂崩れにより寸断されているらしい。
復旧作業が終了するまで、この集落で厄介になることになった。
せめて、雨期が来る前には出立したいものである。
南から大回りするルートもあるが、途中で砂漠を越えなければならなくなる。
一応案は出してみたが、全員一致で、それは嫌だということだった。
あと何日、この集落にいることになるのか。
なにもせずに世話になるのも心苦しいと、みんなそれぞれ仕事を見つけている。
テラントやデリフィスは、狩猟をして獲物を提供しているようだ。
シーパルやユファレートは、農作業の手伝いを魔法でしている。
ティアは、子供たちの面倒を見ていた。
孤児院で相手をしてきたのか、小さい子供の扱いは心得ているようだ。
ルーアは、まだ左腕が痛むことにして、のんびりとしていた。
リィルの恩人になるのだ。
多少楽をしても、罰は当たらないだろう。
暇潰しに、地図をよく眺めた。
地形を頭に入れておいて、損をすることはない。
昼前だった。
みんな、家の中にいる。
台所から、皿が割れるような音が聞こえた。
多分、皿が割れた音だろう。
「またか……」
テラントが椅子を軋ませながら、げんなりと呻いた。
「シーパル、頑張れ」
割れた皿や焦げた鍋を修復するのは、シーパルの役割となる。
換気のために扉と窓を開いて回っていたシーパルは、苦笑した。
家中に、異臭と悪臭が充満している。
嗅いだことのない匂いだった。
硫黄とアンモニア、ドリアンの香りを、悪意を以って混ぜ合わせたような。
「誰かーっ!」
扉の向こう、台所から、ティアの少し甲高い声。
「こっち来てー!」
ティアは、よく通る綺麗な声をしている。
その声は、普段は耳に心地良い。
だが今は、悪魔の呼び声にしか聞こえなかった。
「テラントのせいだと思う」
ルーアの言葉に、テラントは顔をそらした。
誰も強制はしていないが、食事の準備はいつもティアとユファレートがする。
この集落にきて、最初の食事の時だった。
テラントが、実に余計なことを言ってくれた。
『料理はやっぱ、女の武器だよな。一人暮らしをしている男なんか、これで簡単に落とせる』と。
いくらかテラントの偏見が入ったその言葉を、信じ込んだ女がいる。
ティアである。
みんな、勘違いしていた。
料理は、ティアとユファレートの二人で作っていると。
実際には、ユファレートしか作っていなかった。
ティアは、皿を用意したり湯を沸かすなどの手伝いをしている程度だった。
だが、テラントの言葉を聞いてから、昼食はティアが作るようになったのである。
その料理は、筆舌に尽くし難い。
「テラント、無責任なことを言った、責任はとるべきだ」
「それは、正直すまんかったと思っている。けど、まあ……」
テラントは、ルーアの背後を指した。
台所へと続く扉がある。
「お前が、一番扉に近いな。合理的に考えるとだ、お前が……」
「シーパル」
換気をするために椅子から離れていたシーパルに、ルーアは呼びかけた。
「立ったついでに……」
台所行け。
そう続ける前に、普段はのんびりしているシーパルが、俊敏な動きで椅子に腰掛けた。
「もう座っちゃいました」
「……デリフィス」
椅子で腕組みと足組みをして、眠っている振りをしていたデリフィスが、びくりと身を震わせた。
それでも、頑なに眠った振りを続ける。
「……」
「多数決で決めようか」
テラントが言った。
「ルーアが行くべきだと思う奴、挙手」
三人、手を挙げた。
「……少数意見を蔑ろにするのは良くない」
背後の扉が開き、ティアが出てくる。
「もう! 誰かきてって!」
待ち切れなくなったらしい。
「ルーア、きて!」
多分、一番近くに座っていたせいだとは思う。
伸ばした後ろ髪を引っ張られる。
「……ご指名入りましたー」
ぽそりとテラントが呟き、デリフィスは肘の裏で口を隠した。
覚えてろ。
恨めしく思いながら、ルーアは抵抗した。
「いや、ほら。俺、忙しいし……」
「なに? どこが忙しいの?」
「えと……」
とりあえず、包丁片手に凄むのはやめろ。
抵抗虚しく、台所へと引きずられる。
一段と、匂いが強烈になった。
「シチュー、作ってみたの」
「……シチュー?」
椀の中のポテトサラダは、まともに見える。
料理開始から一時間以上経過しているような気がするが、未だに湯を沸かしているのはなぜだろう。
そこまではいい。
床に、割れて散乱した皿の破片があるのも、眼をつぶろう。
問題は。
パンになにかを挟むだけの作業で、なぜ幼児の粘土細工のような物ができあがるのか。
普通の食材と調味料しかなかったはずなのに、なぜ鍋の中の液体は、濃い紫色をして異臭を放っているのか。
「……うん。えと、どこにシチューが?」
ティアは、紫色の液体が入った鍋を指した。
紫色の液体の表面では、ぼこんと音を立てて泡が弾けている。
どう見ても、魔女が『ヒッヒッヒッ』と笑いながら掻き混ぜているあれにしか見えない。
「味見してみて」
「えーっ……」
「……文句あるの?」
だから、包丁を向けるな。
ティアを力ずくで捩伏せるのはたやすいが、そうすると後の反撃が怖い。
寝ている間に、口に捩込まれたりするのだ。
鍋の中のお玉杓子を掴むと、ティアに取り上げられた。
「これは駄目。ユファが口つけたから」
「……ンなこと気にするほど、ガキじゃねっての」
「あんたの病気がユファに移ったらどうすんのよ」
「お前な……人をなんだと。……まあいいや」
渡されたスプーンで、紫色の液体を掬ってみる。
妙な粘り気があった。
刺激臭が鼻腔に針を突き立てる。
「……うえっぷ」
「うえっぷってなに!?」
ティアはスプーンを分捕ると、ルーアの口に突き付けてきた。
身をのけ反らして、逃げる。
「なんで逃げるの?」
「いや、それ食べたら、俺死ぬと思うんだ」
「大丈夫。ルーア頑丈だから」
「いくら頑丈でもな……。まずいと言うか、喰えたもんじゃないとわかっているのを口に入れるのは……」
「平気よ。意外といけるかもと思うの」
「……じゃあ、自分で味見してみろ」
「なんであたしがそんな怖いことしないといけないのよ!」
「なんだその問題発言……」
「細かいこと気にしないの。ほら、あ~んして」
突き出されるスプーンを、首を捻ってかわす。
「なにその嫌そうな顔?」
嫌そうではなくて、はっきりと嫌なのだが。
「女子が手料理作って、おまけに、あ~んしてくれるのよ。少しは喜びなさいよ!」
「『料理』だったら、いくらでも喜んでやるけどな……」
「どういう意味っ!?」
「そのまんまの意味……」
スプーンから逃げながら、ルーアは気付いた。
台所には、もう一人いないといけないはずだった。
「……ユファレートは?」
ユファレートには、ティアがおかしな物を作らないよう見張らないといけないという、重大な役割がある。
「着替えてくるって」
「へぇ……」
珍しいことだった。
漆黒のローブを着ている姿以外、まだ見たことはない気がする。
「暑いから」
「ほうほう」
「水着に」
「なにっ!?」
「おバカ」
隙ができた、のだろう。
口の中に、スプーンが押し込まれる。
「ふぐっ……!?」
咄嗟に吐き捨てる。
だが、もう遅かった。
舌が捩切れるような感覚。
塩酸を一気飲みしたのではないかと思うほど、食道と胃が熱く痛い。
胸を掻きむしりたくなるような、想像を絶する不快感だった。
涙目になりながら、床を叩きルーアは咳込んだ。
「し、死ぬ……!」
「そ、そんな大袈裟な……」
ティアは、おろおろとしている。
勝手口の扉が開いた。
「ああ、また犠牲者が……」
十字を切りながら、ユファレートが台所へと入ってくる。
当然だが、水着姿ではない。
いつもの魔法使い然としたローブを着ている。
騙された。わかってはいたが。
「ユファ……レート……げほっ! ちゃんと……見張っ……うえっ! かはっ!」
「あー、ごめんね……。匂いに耐えることができなくなってさ……避難してたのよ」
ユファレートの顔は、少し青くなっている。
「もう、ティア! わたしが戻ってくるまで、そのままにしてて、って言ったのに」
「だって……」
「このシチューは、もう手遅れね……」
「う……」
「……不謹慎かもしれんが、重症患者みたいな言われ方だな」
ルーアは、口の周りを拭った。
ユファレートは、次にサンドイッチらしき物体を見て嘆息した。
「こっちも全滅かな……」
「うう……」
「……全滅なんて単語、料理で使われるんだなー」
新しい発見である。
ユファレートは、力なく肩を落とした。
「今日も、駄目だったわねー……」
「うううー……」
「無駄になった食材のこと……時々でいいから……思い出してください……」
「さっきからうるさいのよ、ルーア!」
ティアが、怒鳴りつけてくる。
「男だったら、女子の手料理に、嘘でもおいしいって言いなさいよ!」
なんと図々しい要求だろう。
ふと、眼に映るものがあった。
椀に盛られたポテトサラダである。
それだけは、まともに見えた。
急に気になってしまう。
我ながら、いい度胸をしている。
あるいは、怖い物見たさというやつかもしれない。
新しいスプーンでポテトサラダを掬い、震える手で口に運ぶ。
「おお……! これは、旨いな」
というよりも、普通の味だった。
だが、毒を喰わされた後だけに、神々しいとまで感じられた。
「なんだ、まともなの作れるんじゃねえか。これからお前、一生ポテトサラダだけ作りゃあいいんだ」
ルーアは自分の言葉に、うんうんと頷いた。
ティアが、無言になって湯を沸かしている最中の鍋を掴む。
「ヘドロみたいなシチューとか、粘土細工を醜悪にしたサンドイッチとか作らんで……ぶっ!?」
いきなり、鍋の湯を頭からぶっかけられた。
温ま湯程度の温度しかなかったので、熱くはない。
だが、赤毛から滴る水滴が黒いジャケットに染み拡がるのを見ると、屈辱的な想いがふつふつと湧く。
「……なに、この仕打ち……?」
「……ポテトサラダだけは、わたしが作ったのよねぇ」
ユファレートが、自分の頬を撫でながら、ほぅ……と溜息をつく。
「あ、ごっめ~ん。ほら、ルーアって、赤かったり黒かったりするじゃない。ゴキブリと間違えちゃった。てへっ」
あっけらかんと、ティアは言った。
「ふ、ふふふ……」
笑いが込み上げてくる。
「誰がゴキブリだっ!?」
手をわななかせて、ルーアは叫んだ。
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