暗雲

 夜が明け、両者が放った密偵は荒野を見、愕然とした。あの激しい戦闘で沢山の死者が出たにもかかわらず、其処には死骸がひとつも残っていない。敵陣営のことよりも、そのことが衝撃だった。密偵は踵を返し来た道を戻り、慌てて司令部に報告をする。

『死体がひとつもありません』――その言葉を聞いたイディアル王国軍総司令官、ウィルヘルムは耳を疑った。怯えきって報告したこの男は優秀な密偵だ。間違いを報告することは決してない。死の匂いは確かにした、だがその死の証がひとつもないとはどういうことだ。


「セフィロトが回収したのではないのか」

「今回は敵味方あわせて千もの戦死者がでております。……いくらセフィロトといえ、たった一夜での回収は不可能かと」


 ウィルヘルムと密偵のやりとりを静かに聞いていた、左頬に大きな傷のある白髪交じりの男がやおら口を開いた。


「死者がひとりでに動いたとでもいうのか」

「……ルーカス」

「そうしか考えられないのではないのですかな、総司令」


 ウィルヘルムに対して一応の敬語を使って見せるが、ルーカスと呼ばれた男は皮肉げに言って見せた。その不遜な態度に腹を立てたらしい。若いウィルヘルムの眉間に深いしわが刻まれる。ルーカスは五十代、ウィルヘルムは三十になったばかりだ。親子ほどの歳の差があるゆえに、ウィルヘルムは下手にルーカスに言い返せない。


「それで、どうなさるのです総司令」

「……上層部の判断を待つ。下手に死者を増やし、また死者が出でもしてそれが消えたら、今度は士気にもかかわる。が、此処で退いたらイディアルの名を傷つけるだろう」

「賢明なご判断で」


 ルーカスもその判断が一番の安全策だと思っていた。心配なのはセフィロトが仕掛けてくることだが、この光景を見ているのはおそらくセフィロトも同じ。特に魔術を使うセフィロトの聖騎士団は、呪術や魔術を恐れるゆえに動けないに違いない。


「念のため敵襲に備えます。それでは総司令、失礼致します」

「……頼む。私はすぐに上奏書を書こうと思う」


 短く言葉を交わし、ルーカスは帷幕を離れた。そのままゆっくりと歩いて行く。その道すがら、疲弊した様子の兵士たちが目に入った。動揺の色はない。まだ、戦場跡の死体が消えたという報は彼らには伝わっていないようで安堵する。

 ウィルヘルムという男は決して無能ではない。だが、それにしても経験が浅すぎる。彼を総司令官として選んだ王太子の思惑がわからなかった。

 王宮に親衛隊としていた頃、何度かルーカスは王太子とその弟を見たことがあるのだが、その底知れない瞳に『怪物』と暗喩される父王の面影を見た気がした。その瞳が己に向けられたのが、なぜか恐怖に感じたのを、ルーカスははっきりと覚えていた。

 何か嫌な予感がする。ルーカスは気を引き締め、巡回に向った。

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