四、トラブール
リヨンの旧市街は美しい。中世の街、とだけいえばどこも同じようなものだと思うかもしれない。時に
ややもすればどの街も変わり
リヨンには古いだけではない独自性がある。ここは十五世紀のころは最新の文化の
似たような家が
村が繁栄した時に街並みが一気に出来上がった点も共通している。しかし、その後衰退し町は見捨てられてしまう。ところがそれが
しかしリヨンはそうではない。いや、正確には市内の地区ごとに異なる繁栄の時期があり、現在の旧市街の辺りも力が衰えた時代もあった。とはいえ、市としては常に大都市であり続け、大きな力を誇った商家が
そもそも十五世紀から十六世紀と言えば五〇〇年も六〇〇年も前の話だ。石造りであるがゆえに残ったという面はもちろんあるが、大都市ならば、新しい時代の建築様式に作り変えられて行ってもおかしくない。リヨンの旧市街はルネッサンス様式だ。通常なら、その後に登場したバロックやロココ、ネオクラシックなどの様式に作り変えられる場合も多い。だがリヨンの旧市街はルネッサンス様式のまま残った。力のある豪商が持てる財力を尽くして素晴らしい建物を建てたのだ。高い技術と質を兼ね備えて建設されたからこそ、大都市の中で時代の流行に飲み込まれることなく、今の時代によみがえることができたのである。
クレモン、アレックス、チボーの三人はレンヌリー通りを飛び出して、サンジャン通りに向かっていった。
十八世紀にスフローという建築家が建て直した立派な取引所の建物を右手に見ながら、
「堅くて開かない…。」
「そりゃそうだよ、このボタンを押さなきゃ。」
クレモンは何かひらめいたときや、得意げに話すときは、右手の人差し指を立てる癖がある。今も指を立てながら、冷静に扉のコードキーのところにある丸いボタンを押してあげだ。
カチャン、ギィー
運よく扉が開けば、中世の細くて薄暗い通路を通って、光の差しこむ美しい中庭が開けてくる。そして、壁は明るい色調に塗られているが全体的に暗い通路を抜ければ、反対側の通りに出られる。
トラブールとはこうした建物の中を通る抜け道のことだ。四世紀のころから存在していたと考えられているこの建築構造は、丘の多いリヨンでは実に
しかし、徒歩の場合、わざわざS字カーブをうねうねと歩かずとも、一直線に上り下りした方が早い。また川岸から水を運び込むときも、一直線に運べるように建物の中を通り抜けた。何とも単純な理由から、このトラブールが発明されたのだ。
このように丘とトラブールがたくさんあるリヨンでは、人を家に呼ぶときこんな言い方をしていた。
「トラブールを下りきって上に
つまり丘のふもとまでトラブールを使って下りてから、アパートの階段を上がったら家に着くよ、ということらしい。
クレモン達は次々とサンジャン通りのトラブールを通り抜けて行く。黄色い色のトラブール、二つの建物の中庭が一つになっている変わった建物、階段を共有している別々の二つの建物、どこもかしこもピトレスクという形容詞がピッタリくる美しいところばかりだ。
ここリヨンはその昔、中世の頃、商業の町だった。地理的にとても条件が良かったので、まず一四二〇年、当時皇太子であったシャルル七世がリヨン市に二回定期市を開く権利を与えた。市場はたちまち成功し、一四四四年、王となったシャルル七世は二回から三回に、そして、一四六二年にルイ十一世が年に四回の市を開かせるに至った。イタリアやスイス、ドイツ、スペインの商人たちが、その市場で一花咲かせようと
このサンジャン地区は、南北にサンジャンとブッフという二つの通りが通っていて、特にサンジャン通りがお店の立ち並ぶ目抜き通りになっている。世界遺産だけに観光客も多く、日曜日でもお店が開いていて、聞いたことのない言葉も聞こえてくる。
「Korenani?」
「Kawaii!」
そんな感じで耳に入っては来るが、いちいち気にすることもなく、面白い隠れ家を探すかのように、トラブールを
「ちょっとあっちの通りに行ってみようよ。」
そう言うアレックスにチボーは、
「え、ちょっと暗くない?お店もなさそうだよ。」
と不安げに答えた。
「そうかなぁ。でももう五月なんだし、九時過ぎるまで明るいから大丈夫だよ。」
アレックスは冒険心が強い。いつも冷静で物静かなクレモンも
「もう少しだったら大丈夫じゃない?ちょっと行ってみようよ。」
とチボーの肩を引き寄せて、安心させようとしながら誘ってみた。
「うーん。分かったよ。」
チボーはお腹がすくと口がへの字になるのだが、今もそんな口の形になっている。単にトラブール探索を続けるより、何かを食べたいだけなのかもしれない。
三人は薄暗いトロワマリー通りに入っていく。
ここは三人のマリアの像が
だがマリア様の美しい姿とは裏腹に、今にも崩れ落ちそうな建物が並び、補修のための足場が組まれている。リヨンの旧市街地区は、一九九八年にユネスコの世界文化遺産に登録されているが、世界遺産の維持が大変なのは有名な話。リヨンも例にもれず、市と持ち主の間で補修の
クレモンたちはそんなマリア様に気付いただろうか。ホタテガイの装飾、ギリシャの神殿のような柱飾りや窓飾りが
「あ、ここもトラブールだ!」
アレックスが記念板に気付いた。
有名なトラブールには説明のプレートが付いている。
「
「開いてるよ。」
アレックスは開けるや否や、中に入っていった。
「クレモン、チボー、よし!行こう!」
「うん!」
クレモンとチボーも後を追いかけた。
細い通路から中庭が見える。光り輝く中庭だ。リヨンの近郊にピエールドレという地方があり、そこの石は「黄金の石」、ピエールドレと呼ばれている。先に紹介したワンという村がある地方だ。その黄土色の石を使った建物が、太陽の光に反射してまばゆく輝いている。クレモンたちが中庭に入ったとき、光が一層強く
「まぶしい!」
三人が目を覆ったとき、響き渡るような声が聞こえた。
「光よ、万歳!」
「色彩よ、万歳!」
「地中海に降り注ぐ太陽よ、我らに恵みを!」
クレモンはゆっくりと目を開けた。中庭の石壁は相変わらず夕陽に反射して美しく黄金色に輝いている。
「誰の声だったんだろう?」
チボーは独り言のようにつぶやいた。
その時、
「誰だ、そこにいるのは?」
とまた大きな声が聞こえた。
アーケード型の二階の通路から、薄汚い服を着ている割に首元に
「おじさんはここの住人なの?」
クレモンが聞いた。
「ああ、そうだ。お前たちは何者だ?ここは勝手に入っていい場所じゃないぞ。」
「でもトラブールは誰だって入っていいんでしょ?」
「誰がそんなこと言ったんだ。扉が開いてるからって勝手に入っていいわけがないだろう。」
「レンヌリー通りに住むジャンヌおばさんが、ここは世界遺産だからトラブールには入っていいって。」
「レンヌリー通りのジャンヌ?知らねぇなぁ。それに世界遺産って何だ?」
首を傾げた男性の後ろから別のおじさんの声で、
「何をしてる、クロード!まだ
「いけねぇ。仕事の途中だった。お前ら、なんかヘンな格好して、面白そうだな。でも今はちょっと時間がねえや。また遊びに来いよ!」
そう言っておじさんは部屋の中へ入っていった。
クレモンたちは顔を見合わせて
「歴史の教科書で見たような服着てたよ。」
アレックスがそう言うと、
「うん、それに、糸が残ってるとか言ってたけど、ジャンヌおばさんは今はもう旧市街ではシルクはほとんど作ってないって言ってた…。」
とクレモンが続けた。
「えー!どういうこと?」
チボーはとまどいを隠さず、目をキョロキョロさせている。
「とりあえず外に出てみようよ。何か分かるかも。」
冒険心の強いアレックスが飛び出そうとした。
「いや、もうちょっと考えようよ!アレックス、冷静になれって!」
といいつつチボーが一番取り乱している。その証拠に大きな声がトラブール中に響いている。
「うるせー!何騒いでやがる!静かにしやがれ!」
今度はもっと上の三階か四階からお叱りの声だけ聞こえてきた。
「チボーの言う通り冷静になろう。大きな声を出さずに。」
冷静沈着なクレモンの言葉に二人も
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