いきもの

 その晩、杏樹が部屋を訪れる事はなかった。秋穂さんにはああ言ったけど、気難しいやつだから一晩置いて様子を見た方が得策か。


「ほんと、手のかかる……っと」


 スマホがメールを受信する。もうそんな時間か。その内容を確認するよりも先にメールを打って、送信。受信したメールの中身に目を通して、ディスプレイの明かりを落とした。


「妹、か」


 呟いて、部屋の灯りを落とす。ベッドに身体を預けて、目を瞑る。狂乱者の脱走から始まった激動の一日が終わった。


 俺の消滅まで残り24日。


 秋穂さんの消滅まで、あと3日。



-*



 翌朝、秋穂さんとの約束で駄菓子屋を訪れた俺達を待っていたのは、固まったまま動かなくなったかりんとうの亡骸だった。


 小屋に近づいても咳が聞こえてこなかったから嫌な予感はしていたけど、それを視界に収めた瞬間、俺の心には言い知れない感情が一気に去来して、動けなかった。


 そんな俺の横を、秋穂さんが毅然と通り過ぎて行く。かりんとうの傍らにしゃがんで、その頭に手を添える。


「最後の時に、一緒に居てあげられたら良かったな」


 秋穂さんのその小さな呟きが、やたらと強く俺の耳朶を打った。


 生物としての死。その摂理は今も変わらず、この世界に存在している。


 悲しむべきことではない。かりんとうは、天寿を全うしたんだから。


 苦しみから解放されたと思えば、これで良かったのかも知れない。


 ただ、考えてしまう。かりんとうは、幸せだっただろうか。


 痛みに溺れながら徐々に光が失われていく今際の際に、生まれたことを後悔していなかっただろうか、と。


「明智くん」


「なんです?」


「埋葬してあげたいんだが、この付近に適した場所はあるだろうか」


「この小屋の裏手なら管理もできるから最適だと思う。野生動物に掘り返されないように深く埋めないといけないから、道具を持ってくる。少し待っててくれ」


 そう言い含めて、小屋を出た。倉庫から手早くスコップを持ちだして、元きた道を戻る。


 小屋の前に立つと、中から微かな音が漏れてくる。


 どんなに声を偲ばせていても、時折聞こえてくる鼻を啜る音が、秋穂さんの心情を如実に物語っていた。


 秋穂さんは気丈な女性だ。でも、どんなに心が強くても。


「悲しくない筈が、ないよな……」


 時間は進む。緩やかに、急速に、平等に、死の風を運んでくる。


 しばらく時間を置いてから小屋に戻って、かりんとうの亡骸を抱きかかえて運び出す。


「戻ってくるのが遅いと思っていたら、穴を掘ってくれていたのだな」


「秋穂さんの細腕じゃ頼りにならなそうだったからな」


「確かに長年引き篭もっていた分、人並みを遥かに下回る筋力だが、流石に穴を掘るくらいなら手伝えたぞ」


 空元気に振舞っているのが解るから、目元が赤くなっている事は指摘しない。


「さいですか。それは失礼しました」


 十分な深さ、十分な幅に掘った穴にかりんとうを横たえる。


 死後硬直で固まっている身体は、苦しみから逃れるようにピンと伸びていて。なのに、それが何だか、草原を走り回る姿にも見えて。


「……っ」


 思わず、目を逸らした。動いている間は気が紛れるって言う話があるけど、アレは嘘だ。


 無心になんてなれやしない。作業内容が埋葬用の掘削なんだから、当たり前なんだけども。


「それじゃあ、埋める方は秋穂さんに任せる」


「それくらいならお安いご用だ」


 最後に一度だけ、かりんとうの背中に触れて立ち上がる。小屋に立てかけておいたスコップを秋穂さんに手渡した。


「掘削だけではなく、かりんとうの身体も明智君が連れて来てくれたのに、私は土を掛けるだけなのは労力的にどうなのだろう」


 そう、真顔で言ってくる秋穂さんに俺は苦笑を返すしかない。土を被せるのが楽、ね。一番キツイ仕事だと、俺は思う。


 スコップを握り、穴を見下ろせば、秋穂さんも己の浅慮に気づいたのか「うぅ」と唸り始める。


 しかし次の瞬間、秋穂さんは焦るでもなく、ゆっくりと土を被せ始めた。土に埋もれていくかりんとうの姿を見つめながら、俺は祈る。


 願わくば。


 飼い主との再会は出来ないだろうけど――虹の橋では、昔みたいに自由に駆け回れますよう。


 俺がかりんとうにしてやれるのはこれくらいだ。だから、これで満足するしかない。溺れるくらいの自己満足に浸るんだ。


 これは、その為の儀式なんだから。


 秋穂さんは最後の瞬間まで、泣き言を漏らさなかった。


 掘り返されないように、しっかりと土を固めるその作業は俺が引き受けた。そうして、無骨な墓が完成する。


 永遠の別れ。俺は、この世界でもう二度とその姿を見る事は無いのだろう。


「……冥福を祈ろうか」


 秋穂さんに傚って、花も供えられていない土色の地面に俺も手を合わせて決別を告げる。


 届けば良い。届かない事なんて考えない。一方的に突き付ける別離。それは時間にして数秒で、あっさりと終わった。


 俺とは違って、秋穂さんの祈りは続いている。あれこれとお得意の能書きを垂れているのかも知れない。


 あるいは。言葉に乗せていない感情を吐き出しているのかもな。小屋に背を預けて、そんな取り留めのない事を考えながら秋穂さんを待った。


 やがて、すっと立ち上がった秋穂さんは名残などないというように、すんなりとかりんとうの墓標に背を向ける。


「待たせてしまったみたいだな。特にここでの作業が無ければ、学校に行こうと思うのだが、明智くんはどうする?」


 秋穂さんは切り替えが早いな。憂いてどうにかなるものでもないから、いずれは切り替えるしかないんだけど。


 残されている時間が少ないから、無理に密度をあげようとしているのか。秋穂さんの表情はきちんと取り繕われている。その色から陰りを見付けることは難しい。


 だからと言って、それを額面通りに受け取ってしまうのは、どうなんだ? 俺は、秋穂さんが涙を流していたのを知っている。


「明智くん? 黙りして、見つめて来てどうしたんだ。む? もしかして、顔に土でも付いているのか?」


 秋穂さんの消滅まであと3日。このまま放っておいたら、悲愴を引き摺ったまま最後を迎えさせる事になってしまう?


 俺と出会わなければ抱かなかったであろう悲しみ。


 けれど、俺と出会わなければ、秋穂さんの願望は叶わなかった。だったら、別に良いだろうと思う。プラスマイナスを計算しても、まだプラスだ。


 このまま最後まで、俺達がきちんと見送ってやればそれで良い。


「俺も一度学校に行く」


 良いだろうと思う。


「一度?」


 だからやめた。


「学校まで行ったら、別行動で」


「ん? 何をするつもりなんだ?」


 それじゃ駄目だから。


「何って」


 決まってる。


「しゅーかつだ」


 どうせなら、思いつく限りの最良の結末が良いに決まってる。

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