稲穂は黄昏に揺れて-3 終活<セイカツ>-
スーパー銭湯[明智]の提供でお送りします
その日の午後、俺は捕縛した狂乱者たちが牢獄に入れられるまでを見届けてから駄菓子屋の方に足を伸ばしていた。秋穂さんが『かりんとう』に会いたがったからだ。
俺としても、獣共の食事の用意をする必要があったし、かりんとうの世話を秋穂さんに任せるという条件で快諾した。杏樹らも当然のような顔をして着いて来た。
「見てるくらいなら手伝えよ……」
「いやよ。服が汚れてしまうじゃない」
そして、当然のように手伝ってくれない。まぁ、昨日と違って大掛かりな作業はないから大した手間にはならないんだけど。
てきぱきと動いていれば、二十分も掛からない内にひと通りの行程を完遂した。
二階の男連中に混ざる前に、あっちの様子を見ておこう。裏庭の倉庫に近づくと、痛ましい咳が聞こえてくる。
「あの子、体調が悪くなる一方ね。死期が近づいてるんじゃないかしら」
「そうだな」
オブラートのかけらもない杏樹の物言いに頷きを返す。直視しないといけない問題だ。若干の歯がゆさを感じながら扉を開いた。
「明智くんと杏樹くんか」
ぐったりと地面に伏せるかりんとうの正面には綺麗な水と手付かずの食事がある。秋穂さんはかりんとうの傍らにしゃがんで、背を撫でていた。
「ずっとそうしてたのか?」
「ん? ああ。君がそうしてやると喜んでくれると言っていただろう」
そう言って、秋穂さんは温かい眼差しでかりんとうを見下ろす。その奥に、ちらちらと哀愁が滲んでいるように見えのは、俺の感傷がそうさせているからか。
「こんな所に一人では寂しいだろうからな。苦しんでいる時に一人では心細くもなる。私の勝手な思い込みかも知れないけど、こうしていることでそれが紛れるなら良い、と思う」
秋穂さんのそれは、物言わぬ動物への善意の押し付けなのかも知れない。そこに自分を重ねて、陶酔しているだけなのかも知れない。
「秋穂さん。ここに居る奴らが生きてるのって不思議だと思わなかったか」
「む。それはどういう意味だ?」
「人が食う物にも困る日々があった。なのに、こいつは……かりんとうは、こうして天寿を全うしようとしている」
ぬるま湯で生きてきた獣は自然界では生きてはいけない。
「そういう事か。言われてみれば、確かに不思議だな」
俺もかりんとうの横に座って、頭を撫で、降るように背中へ手を添える。やせ細り、骨ばった身体を精一杯労ってやる。
偽善だろうが陶酔だろうが、ここに住む連中の殆どは人に生かされてきた。それが、幸せだったのかは別として。
「ここにいる連中は、飼い主が必死に守りきった奴らなんだ」
命を飼うというのは並大抵の事では無かった。よしんば十分な食糧が確保できたとしても、次には人心がある。運が悪ければ、やっかみや憂さ晴らしの対象にされる事もあった筈だ。
主人の
「この子も、愛されてきたんだな」
「こっ恥ずかしい表現だけど、間違ってないんだよなぁ」
まだ動ける体力のあった時は、俺から離れようとしなかった。俺が止まると、尻を向けて座る。俺が移動すると、何処までも着いてこようとしていた。
不安だったのか、寂しかったのか。ただ、かりんとうは常に誰かと一緒に居ることを望んでいた。
どうせ死ぬ事に変わりはない。ただただ生き永らえたって、それは先のない延命措置。生まれた時からそんな感じ。そうだったとしても。
「秋穂さんが、かりんとうの背を撫でるように。消えてしまった誰かも、ずっとそうしてきた」
このさき空が見れなくなると解ると途端に空を想うように、日常に寄り添っていた何かに対して俺達は盲目になってしまう。
「最後だって言うのに、今更それが無くなったら寂しいだろうから……最後まで、えっと……愛してやって下さい」
そう俺が言うと、秋穂さんは目を細めて、くすりと笑う。
「時間の許す限りは、そうさせて貰おう」
「ん」
妙に照れ臭くなって、目を逸らした。
「ミツヒデ」
ちょうどいいタイミングで杏樹に呼ばれたので、そちらに顔を向ける。
「なんだ?」
「貴方、異性とそんな距離に居て大丈夫なのかしら」
杏樹の言葉を、かりんとうの背を撫で続けながら咀嚼してみる。異性? 距離? かりんとうの背中以外の何かに手が触れた。
「おっと、すまない」
そう言えば、秋穂さんと一緒に撫でてたな。
「…………」
その瞬間、俺は全てを理解した。
「き――」
きゃああああああああああああああああと叫ぼうとした口を真一文字に結ぶ。
そろそろこのオチも飽きてきたんだけど、どうする? 今までの俺とは違うことを世にしらしめる為に、ここいらで一発踏ん張っておく?
秋穂さんを見る。かりんとうの背中に視界を落とす。秋穂さんを見る。かりんとうの背中に視線を落とす。
ぎゅ。そこにあった俺以外の手を握ってみる。
「君は、一体何をしているのだろうか。いや、私としてもだな、定期的に君に近付くことで心の距離感を縮めようと画策してきたが」
心臓がどくどくと脈打つ。冷や汗やらで背や手が汗ばむし、所々で嫌悪症の諸症状が報告されている。けど、これは……月日さんとの一件で、改善の兆しを感じたとは言え、想定以上だ。
「私は無自覚の意識に私を刷り込むことによって、意識的ではなく本能的に受け入れてもらう、サブリミナル効果を期待していたんだ。意識していたら、どうしても拒否反応が起こると思ったからな。私だって、君に無理を押して欲しいわけじゃない」
人間性を知ったからだろうか。人、一人一人が違うことは知っていた。だから、全員が鬼のような本性を秘めているのではないのも解ってた。けど、身体は自然と慄き、排撃しようとする。
なのに、これはどうだ。
「秋穂さん」
月日さんはまだ駄目だった。だからこれに限って言えば、対象を秋穂さんだけに絞っているように思う。
「む?」
名前を呼んで、サファイアの瞳を正面からじっと見据える。深い色合いを湛えてるな、と思った。海の底は昏く冷たい牢獄を思わせるけど、秋穂さんの眼の色はそういうのと違う。冷たさを感じない。
「何と言うか、だな。非常に距離が近い……仕掛けるのと仕掛けられるのとでは、大分違うぞ。それに、同性ならまだしも、君は異性だ。直截に言うなら、面映い」
北欧由来(かも知れない)白い肌に赤みが差す。異性なのに大丈夫。その最たる例が身近に居る。もしかして、そういう事なのか。
「どうやら、俺の身体は俺の与り知らぬ所で秋穂さんを第零種人類認定したらしい」
「っ……」
緊張によって研ぎ澄まされた聴覚が、杏樹が息を呑む瞬間を聞き取った。
どうしてお前がそのリアクションをする。と聞きたい所だったけど、今は目の前の出来事を優先しよう。
「待ってくれ。第零種人類とはなんだ」
「第一種人類が男。第二種人類が、あれだ。生物学上、男の対極にある存在で」
「女だろうか。だとすると、男性よりも前に来る分類とはなんだろうか。というか、その前に一度手を離してく――」
「家族。性別云々に縛られない存在」
何事か捲し立てていた秋穂さんは瞠目して停止する。
あ、これ失言だった。自覚するも土岐既に遅し。土岐じゃなくて、時か。あはは。おもんないぞバカヤロウ。
「すいません。いきなり家族とか、気持ち悪いよな……訂正する。秋穂さんには慣れたってこと――え?」
今度は俺が目を瞠る番だった。秋穂さんの瞳が潤み、やがて頬に一筋の雫を垂らす。
これ、もしかして泣いてる? え、なんで。俺には皆目検討も付かない。俺の持病みたいに、俺の台詞に嫌悪感を抱いたのなら、まず手を振り解いてから距離を開くよな。
そんな簡単な事にすら頭が回らない程に混乱していたら話は別だけど。そう言えば、手……まだ、握ってた。
「これは拒否反応が有るかの確認の為にしたのであって、疚しい気持ちはこれっぽちも無かったんです!」
咄嗟に離す。羞恥心が主導権を握り始めて、立ち上がろうとした俺だったけど。
「待ってくれ」
「ひゃあい」
あろうことか、今度は秋穂さんの方から手を握られて、俺の逃亡は失敗に終わってしまう。
やけに可愛い悲鳴を上げてしまった気がするけど、今はそんな愚にもつかない見栄を気にしている場合じゃない。
「君は何かを勘違いしているようだが、私は君に『家族』と言われて嬉しかったんだ!」
「じゃじゃじゃ、じゃあどうして泣いてるんだ! です!」
「泣いて、る? 私が、か?」
秋穂さんが空いている片方の手で目元を拭う。自覚がなかったらしい。
「おぉ……本当だ。感極まってしまったみたいだな。すまない」
「感極まるって何故。泣く程の事じゃないだろ」
「そこまでの事なんだよ、私にとっては」
俺の手をがっちりホールドしたままで、そう言い切る秋穂さん。こっ恥ずかしい。それと、杏樹の視線が痛い。
「私は――」
俺の手を握る力がほんのり強くなって、俺の意識は無理やり秋穂さんに集中させられる。
「――孤独だったから」
そう説明されて、俺はようやくその涙の意味を断片的に理解した。一人だったから、他人が恋しい。それは、欠落を埋めようとする発想だ。
けど、色々な物を失って、その中で育んだ孤独の中の無い物ねだりは、秋穂さんの人生の目標に直結する重要な要素になっている。
人が生まれ、生きる意味。昔に習った、記憶の底に朧気に浮かぶ道徳の知識には『その意味を探す為』だとある。
しっくりとは来なかったその一文も、今なら少しだけ解るような気がする。
沢山の未知を知り、そして不足を知り、そうしていく中で俺達は見付けるのだろう。本当に求めている物を……空っぽな器を満たす何かを。
「ふふふ。この歳になって、弟が出来るとは思わなかったぞ」
「水を差すようで悪いけど、訂正しただろ。家族云々の話はナシだ」
「別に家族でも良いだろう」
「駄目です。ただでさえ俺には手のかかる妹が居るんだから、これ以上は手に負えない」
杏樹を巻き込んで有耶無耶にするつもりでそう口にする。しかし、いつまで経っても期待していた反応は飛んでこない。
不審に思って、杏樹が居るであろう入り口の方を見ると、杏樹は底冷えするような無表情を浮かべて。
「下らないわ」
そう一蹴して、背を向ける。止める間もなく杏樹はその場を離れていってしまう。
鈍感なんてスキルを所持していない敏感な俺は、そんな杏樹の態度にある予感を抱いた。これって、もしかしてあれか? いやいや、あの杏樹がそんな……俺が取られちゃうとかそんな不安から嫉妬してるだなんて、流石にないよな。あるかもしんない。
「私は何か、杏樹くんの気に障るような事をしてしまったんだろうか」
杏樹の方は後回しにして、先ずこっちをなんとかしないといけなそうだ。
「いや、今朝の一件で俺に怒ってるみたいで。談笑なんて見せられてイジケただけだと思います」
「確かに、杏樹くんはあの時は不機嫌だったが……そうなのか?」
秋穂さんは訝しげに俺の様子を伺ってくる。鋭い人だから、早々に話題を逸らしたほうが無難だな。
「後でご機嫌取りをしておくので、秋穂さんは気にしないように。そう言えば、ラジオの取材の話はどうなったんだ?」
「ああ。それなら、断りを入れておいた」
「え、なんで」
俺、驚愕。狂乱者脱走事件なら無事終息を見た。断る理由はない筈だ。
「直近の問題は解決したのだろうが、しばらくは治安に不安が残るんだろう? そんな危険な時にわざわざお呼びする事もない」
「いや、そうは言うけど。秋穂さんはそれでいいのか?」
秋穂さんが葉っぱの人を心酔しているのは端から見ても一目瞭然だ。一度は話をしてみたいと思うだろう。それが消失を控えているなら尚更だ。
秋穂さんは一切迷わずに首肯する。
「会いたいとは思う。彼女は私にとって救いをもたらしてくれた恩人でもあるからな。だが、それは我儘と言うものだ」
それに、と。俺に笑顔を向けてくる。
「私の本懐は彼女と話す事じゃない」
そう言われて、祁答院秋穂の願望を思い出す。その願望は――誰かの心に寄り添うこと。
「消失した者の存在は記憶には残らないが、心に残ることはある。誰かと交わした言葉の一つの、ほんの一欠片でも残せたのなら、私は誰かの人生に寄り添って生き続ける事が出来るのだろう」
生き続ける事に意味はない。けど、その生き続けた足跡が、誰かを励まし、誰かを導くのなら、それはきっと光溢れる永遠になる。
俺は、秋穂さんの言葉に助けられた。終活部で活動を続けるのなら、俺は必然的に秋穂さんを受け継ぎ、あの言葉を自分の物として使う事になるのだろう。
「私達人間は忘却をしながらも、そうして大切な記憶を遠い祖先から連綿と引き継いできた。大仰だろうが、私の一部が君達の生活を豊かにし、世の中に残れば良いと願う」
それが、秋穂さんの――孤独を"得た"祁答院秋穂という人間の存在証明。
「そんなややこしい言い方をしないで、そのまま俺達との時間を大切にしたいって言えばいいだろ」
「そうだな。言い改めよう」
「いや、焼き直しする必要はないけども……」
って、言ってるのに、秋穂さんはわざわざ俺の手を握り直して。
「家族との時間を大切にしたいんだ」
なんて言って、また花を咲かせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます