鮫島くんのおっぱい

とびらの

第一部 「鮫島くんのおっぱい」

序章

 その衝撃的な単語が聞こえてきたのは、梨太がポスターカラーに筆を浸した瞬間だった。


「鮫島くん、おっぱいがあるってよ」


 放課後、梨太たちは二週間後に迫る体育祭の準備を行っていた。一面がガラス窓である教室内は電灯をつけずとも十分に明るく、作業に支障がない。

 それでもいつの間にか薄暗さを感じる時刻になっていた。漫然と、しかし夢中になっていたらしい。


 先ほどの声を上げたのは、窓際で飾りものを制作していたグループだった。

 彼らは窓から身を乗り出し、そこに見えたものを話題にしていたようである。パネルの色塗りへと屈めた身はそのままに、梨太は視線だけ、声の聞こえた方へと向けた。


「はあ? なんだそれ」

「だから噂な。うちの部の先輩が同じクラスなんだ。ほら、今度の体育祭。リレーの選抜で学年中の測定データ調べたら、鮫島くんってむちゃくちゃスゲーんだって」

「ふうん。そりゃ喧嘩は強そうだけどさ。あんな不良、どうせタバコ吸ってたりすんじゃね。走れるんだ」

「それどころじゃない、超高校級。下手すりゃ日本記録」

「うっそ。んなばかな」

「そう、だから先輩も疑って……たとえば先生脅して測定データ改竄してるとかさ。夏休み前に転校してきたばっかりだから部活もしてないし、誰もちゃんとみてない。そもそも体育の授業出てなかったんじゃねえかってくらいだもん、そっちの方が断然可能性高いよな。それで、こっそり観察してたんだって」

「で?」

「タイムは本当だったらしい。そのくせリレー選抜は辞退。クラス全員で追及したけど、うるせえ出ないもんは出ないって終わり。まあ先輩もいい度胸してるよ。話しかけるだけでおっかないのに」


「じゃなくて。最初の。その、鮫島くんに……」


 少年は言葉を濁す。


 十六、七の男子が教室で口に出すには少々憚られる単語ではある。

 ましてここは男子校、飢えた獣たちの巣窟だ。そういった単語は蚊の鳴くような音量であっても耳に拾われてしまう。梨太がそうであったように。


 調子よくしゃべっていた連れのほうも、いままでより一層声を潜めた。


「だから、その先輩が見たんだって。着替えのとき――鮫島くんの胸が膨らんでるの」

「いやいやいやいや、それはないだろ。コメディ漫画じゃあるまいし、転校するとき書類とか要るだろ。つか嘘ついて男子校に来る理由もないし。なによりまずあのガタイ、背丈一八〇超えてね? どっからどうみても男だって」

「でもあんな痩せてるひとでおっぱいが」

「胸筋以外の可能性ゼロだろアホか。そりゃあ、綺麗な顔してるとは思うけどさあ」

「でも――」


「おまえ女に飢えすぎ。おっぱい求めすぎ。な、まあ文化祭と違って体育祭に女子コーセーが遊びには来ないだろうけど、誰かの姉とか妹とか来るかもしれん、そこに期待しなはれ」

「できませんもう待てません。ちちんぷいぷい共学になあれ。ああ、彼女ほしいなあ」


 延々と作り続けていた紙造花をばらまいて、男子はわめく。作業は億劫で、彼らはみな、仕事への意欲をなくしていた。


 誰かが持ち出した掃除道具であっというまに野球が始まる。男子校、十六歳の日常である。


 梨太は彼らから視線をはずし、そこから遠くへと続く窓に顔を向けた。校舎三階の窓からはグラウンドが見渡せる。グラウンド周辺には体育会系クラブの連中と吹奏楽部が精を出しているようだ。全校から存在を忘れられている、幽霊倶楽部こと数学パズル部の幽霊部員である梨太は、このグラウンドが無人になるところを見たことがない。


 屈んだままの姿勢では、窓から見えるのは夏の夕焼けのみ。その下を歩いていたのだろう、噂の彼は、梨太から見えることはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る