梨太君の危機・一回目

 ザンッ! 


 ――すぐ耳元で、小気味のいい切断音。


 続いてどさりと重いものが落ちる音。同時に、猛々しい男の声が梨太の名を呼んだ。


「リタ君! 大丈夫か!?」


(……えっ?)


 遠い記憶に聞き覚えのある声に驚いて、目を開く――まず視界に入ってきたのは、血の海だった。


 赤い湖。その中央に首から上を失くした黒い『犬』がいる。びくりびくりと体を痙攣させて、それを静かにおさめていった。

 そのかたわら、ほぼ垂直にふりそそぐ夏の日差しを背に受けてたつ、黒い軍服の男。


「あ――え、えっと……」

「けがはないかい?」


 戸惑う梨太に、男は緊張した声音に相反するにこやかな目元をさらに細め、ほほ笑んで見せた。右手には鋭い刃の長刀、足下には『犬』の生首が落ちている。


 大きな口をあけ、だらりと舌を出した死骸に、梨太は口元を抑えた。今更のように激しくうちはじめた心臓の鼓動を押さえ、息を整える。記憶をたどり、彼の名を呼んだ。


「あ、あなたは、たしか――蝶、さん。ラトキア騎士団の」


「おっ? あたり。おれみたいな地味な奴、よく覚えていたもんだ。うれしいよリタ君。三年ぶり」


 彼はまた満面の笑みを浮かべ、ふるった刀を懐紙で拭い、腰の鞘に戻した。


 年のころは三十前後。そう見えるだけで、ラトキア星人の独特な加齢の仕方からすると、四十をいくつかまわっているだろう。

 いつも笑っているような顔立ちの青年は、深緑色の髪を汗に濡らし、ふうと小さく息をついた。


「—―リタだって?」


 もう一つの声は、天空から聞こえた。自宅隣家の屋根の上、赤い髪を逆立てた少年が腰掛けている。こちらは両手に不思議な形のダガー、その刃も血に濡れていた。

 くるりと柄を回して両腰に据えると、彼は豪快に屋根から飛び降りた。盛大な音を立ててアスファルトに着地する。


 贅肉をナイフでこそぎ落としたような、鋭い肢体の戦士である。背丈はあるが年はまだ梨太と同じほど。猫に似た金色の瞳で見下ろすと、不意にニカッと犬歯を剥いて、、むやみに大きな声で笑った。


「まじかよ! うわあホントだ。でっかくなったなあ、小っちゃくて丸くって、ちんこ坊主と呼ばれていたガキとは思えない」


「なにその綽名、呼ばれたことないよ!?」


 すぐに全力で抗議しておく。


 しかし少年はどこ吹く風、ひとり上機嫌で笑いながら、梨太の肩を無遠慮に叩いた。


「おお、ちょっと頼んないけどちゃんと男の体してんじゃん。地球人ってのはずっと成長期みたいなもんだと聞いたが、ずいぶん育ったもんだ。前あったときなんか、こんなだったもんな!」


 言いながら、手のひらを地面すれすれにまで下げてみせる。それじゃあ体長二十センチのコビトだ。

 

 梨太は苦笑して、目も口も声もアクションも大きな男に会釈する。


「お久しぶり。虎ちゃん、何にも変わんないね」


 しれっとチャン付けされたことなど意にも介さず、虎はのけぞって笑った。


「おう、だけど生活は結構変わったぜ。子供できて結婚して生まれて別れたからなっ」

「え、絵にかいたようなドキュン……」

「なんだそれ?」


 梨太はごまかすように笑った。


「それより虎ちゃんも、すっかり元気のようでなにより。烏の毒で意識不明になって、そのあと僕は回復したとこ見てなかったから。医者から、僕よりずっと前に退院したとしか」


「俺たちが地球を出たあとすぐに退院したんだろ? マジな話、心配してたんたぜ。後遺症とかなんもねえのか」


「ぜんぜん平気だよ。入院中から子供作る行為がしたくって毎日ナースに叱られてました」


「おお、そっか。俺は白鷺に後遺症出てるって聞いて、アッ俺ってもうだめなんだーって思って、そしたら結婚することになったわ」


「なるほど」


 額に汗して、うなずく。


 そこでふと、梨太は状況を思い出した。


「って、しゃべってる状況じゃないでしょ。なんですかこれ。あの犬みたいなのは一体。ラトキアの騎士がここにいるってことは、またテロがらみの――」


 ふりむくと、蝶がいない。


 彼はマイペースに、地面にかがみこみ、『犬』の死骸を調べ始めていた。膝の上にタブレットのようなものを置いて、なにやらハイテクな作業をしている。

 背中からのぞき込む。

 そして間近でみる死骸にまた気持ち悪くなって、梨太は口元を抑えた。


 『犬』の血がアスファルトの熱に焼かれ、湯気が立ち上っている。胸が悪くなる異臭に顔ごと背け、作業をしている蝶よりも、虎の方へ向き直った。


「今度の敵は、こいつってこと?」

「そ、そ」


 軽くうなずく虎。


「つーても、もちろんこの一匹で終わりじゃねえぜ。しかも目撃報告の範囲が広くてな、生体パターン登録した探知機、さっきからずっと鳴りっぱなし。じきにほかのとこも行かにゃーよ」


「はあ……まあ、とりあえずこの場が安全になったなら、引き留めやしませんけど……」

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