鮫島くんの逃亡

 確認を終え、今度は自分の耳を掻き、鯨はなんだか犬が餌を嗅ぐような仕草をした。


「……ほんとうに、そんなんでいいのか?」 


「はい」


 うなずく。

 鯨はこめかみのあたりを尖った爪で掻いた。


「……その……ありがたい、話で、わたしから言うのもなんなんだが……君が命を賭けるような、そんなもんじゃぜんぜんないと思うぞ」


 鯨は、なにかとても申し訳なさそうな顔をした。


「たしか二度三度言ってきたと思うが、あの写真の女の子はあくまで過去のもので……まあ当時から豊満とは言えなかったが、そこからマイナスってことはわかってるか? いまはあの通りちっともかわいげのないデカブツで、あれでほぼほぼ仕上がってるからな? まあ、まだ雌体化周期が始まったばかりだから今よりももうちょっと、ふにゃっ、とするけども、本当にもうちょっとくらいのもので、基本はあれだから」


「はい、わかってます」


「……背丈も今より五センチ縮むかなというくらいで……控えめに考えても、君よりだいぶでかい。華奢というよりただ痩せるだけで、色気もへったくれも。それこそ胸なんか、胸筋が落ちるぶん胸囲はむしろ減るくらいで、鎖骨より凹凸が少ない、整地に小石が落ちてるようなもんだぞ。池に向かって投げたらよく跳ねるやつ」


「大丈夫です。僕、冨○愛さんイケる口なんで」


「俺それ意味わかんねーけどなんか失礼な気がするから謝っといた方が」


「ごめんなさい!」


 犬居に言われて、虚空に向かって即座に頭を下げておく梨太。


 犬居は、今度は怒ってはいないようだった。頬杖をつき、半眼のまま、呆れたような諦めたようなモソモソとした声音で、


「おい、悪いこと言わねえからやめとけよ。お前の期待とは違うって。勝手に命懸けたあげくナンジャコリャと言われる団長の身にもなれよ。集団生活してるから、着替えなんかで俺も何度か見たことあるけど、背中だか正面だか。いや、背中の方が肩胛骨があるだけそれっぽいというか」


「うむ。少なくとも、揉めない。手のひらを、こう、平面にペタっ、と当てる感じになるな。偏平足の足の裏とジャストフィット」


 梨太は苦笑した。


「大丈夫ですってば。てかあんたたちなんでちょっとおもしろく言おうとしてるのさ」


「ううむ、そうか。……ずいぶんと物好きな……」


「だって現時点でだいぶ可愛いもん。僕、もう確信した。ぜったい大丈夫」


 梨太は大きくうなずくと、ぐっ、と拳を握って見せた。少年のその幼さの残るまなざしに男の決意を込めて、凛々しい眉に情熱をうかがわせる。犬居等は、梨太の背中に燃え上がる橙色の炎を見た。



「僕は、鮫島くんのおっぱいが揉みたいっ!」



「だから、揉むほど無いって」


 鯨と犬居の声がハモった。


 炎を背負った梨太を、女将軍はしばし見下ろして、居心地悪そうに頬を掻くと、小さく嘆息。そして晴れやかな笑顔を浮かべた。


「まあ、本人がいいというならばそれで、よかったよかった。鮫もこれだけ想われたら光栄といったとこだな。あんな、氷湖にたつさざなみのような貧相な凹凸をどうにかしたいと崖から飛び込んでくれる男など、後にも先にも絶対におるまい。まったくリタ君は大した男だと思うよ、わたしは。

 ――なあ鮫?」


 びくり。突然呼びかけられて、部屋の隅で、鮫島が肩をふるわせた。


 いまだ収まりきっていない紅潮を手のひらで冷ませようとしているのか。首のあたりを自らで絞めるような妙な所作で、その場でびっくりして顔を上げる。


「えっ?」


 鯨が浮遊し、鮫島のそばへ寄った。


「え、じゃないだろう。聞いてなかったのか?」


「……や……うん……」


 なんとも煮えきらない返事をする。鯨は彼の上空から斜めに見下ろし、なぶるようにふよふよと左右を回遊した。梨太からは、くじらくんの背中部分しか見えないが、モニターの姉は少々意地悪な笑みでも浮かべて弟をかわいがっているのだろう。声だけが聞こえてくる。


「そういうわけだから、お前、リタ君の働きの報酬に乳を触らせてやれ。わかったな」


「……え……」


 鮫島は、視線をくるくると動かし挙動不審になった。


 自分の、勲章のぶらさがった軍服におそるおそるといったゆるやかさで手のひらを当てる。


「だって……俺は、男で……無いけど」


「あほ、雌体化が完成したらという話に決まってるだろ。まあ女になっても皆無なのに変わりはないが。なので時期としては成功報酬というか、作戦終了後になるな。ぎりぎりだが宇宙船の待機リミットには間に合うだろう。別れの挨拶代わりに揉ませてやれ」


「……で、でも」


 でも、とつぶやいたものの、続きが出てこないらしい。鮫島は己を守るように左右の二の腕をつかんで腕を組み、無言になって、ただじっとその場所でうつむいた。


 そのまま、たっぷり五分――将軍と、部下と、現地雇用の男子高校生に囲まれて、騎士団長は赤面したまま、岩のようになり――


 食卓の皿が湯気を完全に消しさるころ、ぼそりと、つぶやいた。



「…………やだ…………」



「……あ?」


 怪訝な声は、鯨が上げた。


 鮫島は、言うだけ言ってそっぽを向いている。赤く染まった唇を真一文に結んで、拗ねたようすでどこかの壁をみていた。その視線上に進入していくくじらくん。


「なんだと? おまえ、いまなんて言った。もう一度言ってみろ」


「……やだ」


「はあ? 何をいっているんだ」


「嫌だといったんだ」


「きさま、いえる立場と、いえた乳か」


 言われてキッと強い視線で睨み返す鮫島。


「何で、俺が。他にいるだろ。俺は男だ。嫌だ!」


「知るか、リタ君のご所望だ。なにを生意気にもったいぶっとるのだ、求められてありがたいと思えこの平面ド貧乳、価値をこきたいなら3D化してみせろ!」


「お前っ、それがラトキア初の女性政治家の台詞か! 審議にかけてやる! 女性有権者に同じ台詞を言ってみろ!」


「俺は男だと今さっき自分が言ったんだろうが! というかお前より貧相な胸の雌体に会ったことがないわ!」


「ひ、貧相だろうが、男でも女でも嫌なものは嫌だ! セクシャルハラスメントの被害者は女性だけではないっ」


「なにを覚えたての言葉を使ってみたようなことを。なんだお前、いままで平気で着替えたりしていたくせに。セクハラというのならお前こそ加害者だ。騎士団から、目のやり場に困るというクレームをどれだけわたしが処理したかと」


「今はちゃんと背中むけて着替えるようにしてるよ! 霞ヶ丘の学校ではクラスに四十人くらいいて取り囲まれて、仕方なくっ」


「それこそ命令されて従ってるだけだろ! 知ってるぞ、お前昔、雌体化していたときの狼藉者どもをただの格闘挑戦者だと思いこんでかたっぱしから叩きのめし、ナイスチャレンンジスピリッツなどと労って、警備に届けもせず放置し大問題になっただろう。自分がレイプ被害対象になりうるって自覚もない脳筋バカが、ちょうどいい機会だ、一回男に抱いてもらえ! それでちっとは危機感も色気も出るだろ!」


「……はあっ!? 何、言ってっ」


「作戦後、一晩リタ君の部屋へ出向っ!!」


「――――っ! いやだ!!」

 

 ぎゃんぎゃんと大声で始まった姉弟喧嘩を、梨太は半分口を開けて見ていた。ぎこちない仕草で、犬居の方を向く。彼は目が合うと、ふうと小さく息を吐いた。


「……雌体化すると、ちょっと感情的な性格になるんだよ」


 そう、教えてくれた。


 梨太は「はあ、そうなんだ」と気のない返事をしたが、情緒不安定になったからとて、本人の根幹となる意志が変わるわけではないだろう。梨太は頭に手をやって、栗色の髪をくしゃりとにぎる。


「……うーん。こんなにいやがられるとは、思ってなかったなあ」


「だな。俺は、むしろ拍子抜けしたぞ。鯨将軍の言うとおり、そんなもんでいいのかって」


 犬居が意外な言い方をする。


「……こんなこと言いたくねえけどよ。どうせなら、もっと高望みふっかけてもよかったんじゃねえの」


「いやあさすがにそこまでは。こないだそれ出来ないって聞いたし。それに、仕事を人質にとって枕営業強制してるようなもんじゃん。そんなの僕もやだよ」


「……胸を触る、てのはよしとする理屈がわからんだが」


「だって減るもんじゃないし。むしろ増えるかもしれないし」


「お前ほんと政治家とかなるなよ、テレビにでる職につくなよ?」


「つかないよ。僕、ひとさまの代表者面して目立つのって好きじゃないんだよね。どうせならプロデューサー側がいいな。アイドルグループ作ってみたいよね、『俺ハーレム48手』」


「多方面に向かって謝れ」


「ごめんなさい」


 梨太たちが馬鹿話をしている間に、将軍と騎士団長の問答は終末に近づきつつあった。口下手な鮫島がだんだん言葉に詰まり、唇をかむしか抵抗手段をなくしてきている。年の離れた姉弟は、きっと昔からこうやって弟が負けてきたのだろう。

 くじらくんは催眠術でもかけるように左右にゆらゆら揺れながら、ひどく加虐的な言葉で追いつめていた。


「今までリタ君がやってくれた仕事はもとはといえば騎士団長、おまえの仕事だったではないか。日本政府にまで骨を折ってもらってわざわざ高校へ潜入したのに成果が上がらず、現地の少年を巻き込むはめになったのは事実だぞ。これまでどれだけの予算を使った? 何度騎士を危険な目に遭わせた? 虎や猪は誰のせいで死んだのかよく考えてみろ」


「将軍、虎も猪も死んでません」


 きちんとつっこんでおく几帳面な犬居。鯨は当然それを無視した。


「これは将軍命令だ! きさまも軍人なら、己の仕事に責任を持て。さもなくばここで退団し、この星で身売りでもしてひとりで暮らせ!」


 梨太は驚いて、くじらくんにかけより捕まえた。スピーカー部分とおぼしきあたりを適当にふさいで、


「あ、あの。ちょっと言い過ぎ」


「もごもごっ」


 くぐもった声をもらし暴れるくじらくん。ノリのいい鯨女史である。一同を、いっとうさめた様子で傍観しているのが犬居だ。彼は己の長にぬるい視線をやり、じつに面倒くさそうな声で、言った。


「団長、女々しいっすよ」


 鮫島が表情をこわばらせた。


 白い肌に、頬を赤面させていたのが、青くなる。眉を憤怒にたぎらせて、唇は泣き出しそうにふるえていた。

 握りしめた拳から、爪のきしむ音がする。


 そして――彼は無言のまま、一同の隙間をぬって進み、ダイニングの扉を抜けた。廊下に出て、後ろ手にバタン、と扉を閉める。遮られた廊下を歩く足音、編み上げブーツの衣擦れ。続いて、またバタン! と――玄関の扉を閉める音がした。


「……逃げた」


 モニターのなかで鯨が頭を抱える。


 犬居がさすがにあわてて席を立つ。


「ちょっ、まじか。どんだけだよ!」


「ほっとけ犬居、ちょいと拗ねて、頭を冷やしに行ったのだろう。どうであれ作戦執行までには戻ってくるわ。小娘ではないんだ」


 鯨は冷酷なものである。


「あれは軍人だからな。姉弟喧嘩では感情的になろうとも、将軍命令で働けといわれたら最終的には必ず従う。オーリオウルの時だって……。あれは、結局それで逃げたことは一度もないのだ」


「もう。そういうのマジで萎えるんだってば」


 文句を付けたのは梨太である。頬をぷうっと膨らませ、腰に手を当て、僕怒ってますよ、とわかりやすいジェスチャーで星帝皇后をたしなめる。彼は大きく嘆息し、無言のまま二階の自室へと上がっていった。パーカーを羽織って戻る。手には自転車の鍵。


 鯨が浮遊しそばに寄った。


「追いかける気か? 鮫がその気になって逃走すれば何者にも追いつけないぞ。あれのもっとも得意とする作戦は町中でのゲリラ戦だ」


「知ってますよ、初対面が、ビルから降ってきて踏まれたんだもの」


 パーカーのジップを引き上げると、梨太はキーホルダーをチャカチャカ振って見せた。


「鮫島くんがいままで音を立ててドアを閉めたり、ドスドス歩いたの見たことある?」


「……それだけ、逆上していると?」


「ちゃうちゃう。女の子ってああいうことするよねえ。ぶっちゃけめんどくさいけど、ちょっと捕まえてくる。じきに戻るよ。僕が行けるところにいるはずだから」


 そう言って、梨太は家を出ていった。地球人の一軒家に、ラトキアの騎士とくじら型通信機が一機、留守番に残される。


 くじらくんは、所在なさげにふよふよ回遊した。犬居のそばに近づいて、


「……なあ、地球の少年というのは皆あのような感じなのかな。さすがにリタ君は戦闘力が足りぬが、よさげな素材がいたら、何人か騎士団にスカウトして帰るか」


「それで猪が雌体化したらどうするんですか。きしょくわるい冗談やめてくださいよ」


 犬居は吐き捨てて食卓へ座りなおした。すっかり冷めきった中華どんぶりを前に、頭を垂れる。



「で……俺はこれを食ってもいいのか?」

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