鮫島くんを捕まえる

 結局、しばらく待ってみても鮫島から会話が振られることもなく、時刻は夜十時を回った。


 とりあえず客を放置して、梨太は風呂の支度に取りかかった。途中で一度、リビングのほうを覗いてみると、彼は自身用らしい紺色のくじらくんを操作していた。会話をしている様子ではないので、メールのようなものなのかもしれない。


「鮫島くん、お風呂は? あとにする?」


 声をかけると、彼は作業を続けながらうなずいた。梨太は次の客のためになるべく湯を汚さないよう入浴をすませると、歯ブラシをくわえ、パジャマに着替え、リビングへ戻る。

 鮫島は梨太が入浴する前と同じく、またくじらくんを手にこんこんと作業をしていた。

 風呂へと促すと、彼は若干面倒くさそうに、それでも素直に従った。梨太がいわなければ入浴もせず徹夜作業をするつもりだったかもしれない。


(……忙しいんだなあ、騎士団長って)


 髪をワシワシ拭きながら考える。


 鮫島は、梨太の四歳年上になる。実年齢より肉体はさらに若く、学生服を着ているとまさしく高校生にしか見えない。

 若い。少年といってもいい若さだ。それであの立場を担っているのは、スタートが早かったからというのも一因だろう。


(……六歳で、兵隊の訓練生。十二歳で騎士)


 聞いた情報を整理してみる。それはちょうど、小学生の年齢だ。自分自身がその年にしていたバカな遊びを思いだし、多くのイベントを指折り数えてみた。


 おそらくは――軍の訓練校とは、いま梨太が想像してしまった絵よりも幾分、凄惨さは薄い、と思われる。以前鯨が語っていた内容からすれば、厳しい訓練と平行して、ごく一般的な座学や楽しい学生生活もあったはずだ。それは鮫島のことを思えば救いになる想定だったのだが。


 ああやって、騎士として戦場の前線に出て、団長としてまとめ役をやって、さらに面倒な仕事まで引き受けて。梨太から見て、鮫島の仕事や勉強は、およそ要領がいいとは思えなかった。それでも結果は出している。


 それだけ長時間、拘束され、根を詰め、努力し続けていることがうかがえた。


 つらいこともあっただろう。楽しいこともあっただろう。

 それはプラスマイナスゼロではなく、両方が、彼の人生を食いつぶしているのではないだろうか。


(まだあんなに若いのに)


 彼に、もっと楽しいことをさせてみたいと思う。仕事から離れてしまえば、なんだってできるはずだ。高校生らしいこと、少年らしいこと、梨太が楽しいと思っていることを、きっと一緒に楽しめるはずだ。

 まして彼は、性別すら変えて、別の生き方ができる。それを考えればなお、これ以上なくもったいない。


(だってあんなにきれいなのに――)


 そんな思考の海に、梨太がまどろむようにおぼれかけたとき。


 ごとん! 大きな物音。一瞬、フローリングの床が振動する。続けてゴトンゴトンと二度同じ音。驚いて振り返る。その物音は明らかに、つい先ほど、鮫島が入っていった脱衣所のほうから聞こえた。


「ええーっと……鮫島くん?」


 なぜか、小声で呼びかける梨太。それきり物音はしない。普通に考えれば、鮫島が脱衣時にポケットからものを落としたとか、転んでしりもちをついたとかだろうか。しかし音の重量感はそんなものではなかった。梨太はそうっと、脱衣所のほうへ、足を忍ばせて進んだ。


 すでに浴室へ入ったらしい、鮫島が、湯をかぶる音がする。


「……いや別に覗こうとかそういうことじゃないですよ」


 どこにもいない誰かに向かって、つぶやく。


「さっきの物音が気になるからね。僕はこの家の主だから、家で起きたことは、僕の責任で、知る必要があるわけで」


 細い廊下をソロリと渡り、音がならないように、ドアノブを握る。


「……静かに進むのは、いま、忍者モノにハマっているからで、なにも他意はないです……」


 そうっと、ノブを回して掛け金をひらき、そうっと、扉を引いた。



 一畳ぶんほどの、小さな脱衣場兼洗面所。ドアのほど近くにシャワー付いた洗面台があり、横には全自動の洗濯機。突き当りが、風呂場へと続くガラス扉になっていた。荒目の砂ガラスに、人間らしいシルエットがぼんやり映って見えている。


 そっと、足を踏み出そうとして。


 ごん。親指先に、なにか、異様な手応え。扉すぐそばの床になにやら障害物があり、盛大に躓いたらしい。目玉が飛び出すほどの激痛にかえって声も出ず悶絶する。少年の足先で蹴っ飛ばされても、それはめっぽう重たい固まりのようで、びくともしていなかった。黒い塊。大きくはない。


「う、う、う。な、なんだこれ」


「リター」


 浴室内から鮫島の声がとんだ。反響し聞き取りづらいが、そこに梨太がいることを完全に想定している。


「赤いのと黄色いのと、どちらが髪洗うものだ?」


「あ……赤い方が先、で、黄色はそのあとで」


 返事はないまま、やがて水音が聞こえてくる。

 梨太は、そのまましばらく、そのまま立っていたが、ハッと我に返る。こそこそと逃げ出すようにその場をあとにし、しずかに、扉を閉めた。


「いや、だから……覗きにきたわけじゃないからね」


 とたん、いきなり扉が開かれ、梨太は後頭をしこたまぶつけた。


「うぎゃ!」


「あ、ごめん」


 扉越しに鮫島は簡単に謝って、悶絶する男子高校生を長い足でひょいとまたぐ。梨太は廊下につっぷしながら、


「は、はやっ、風呂、あがるの、と、着替え、はやっ……」


 しばらく床と仲良くしてから、彼を追ってリビングへ向かった。



 鮫島は、どうやら替えをもっていなかったらしい。先ほどの学生服からカッターシャツだけを脱いだ格好だった。上は薄手のシャツ一枚、少しだけラフな格好になっている。湯気の立つ濡れた黒髪は漆器のように艶やかで、闇よりも暗いのに光り輝いて見えた。


 目の下までおりた前髪の隙間から、桃色に火照った薄い皮膚が見える。


 梨太は、彼の頭の先からかかとまで、視線を巡らせた。

 ――丸みのある後頭部、純白の首筋に、広い肩から腰までの鋭い逆三角形。なんでそんなところにというほど位置の高い尻から、どこまで続くのかと思うほどに長い足。裸足の、艶のない黒ズボンの裾からのぞく足首は、噛み切れそうなほどに華奢で、驚く。


 梨太は、再三、自分の性癖を確認する。


 事実、興味がないのだ。男性の体というものを、見てみたいとか触ってみたいとか、考えたこともない。考えてみてもやはり気持ち悪い。

 それは鮫島に対してもやはり例外ではない。触りたいとは思わない。


 だが、目が奪われる。


 それはどうしようもなく、客観的に、誰がなんと言おうとも、もしも彼のことを嫌悪してどれだけ恨みぬいていたとしても――美しいのである。

 その事実に、精神を抗わせる意味はない。


(……なんて綺麗なひとなんだろう……)


 思わず、その場に立ったまま惚ける。


 鮫島は梨太を振り返ると、片手で適当に髪を拭きながら、もう片方の手でなにやら黒い固まりを見せてきた。見覚えのあるシルエットで、それが先ほど扉の前に落とされていたものだとわかる。なんの気はなしに渡されたモノを受け取って、瞬間、梨太はその重量に崩れ落ち、膝をフローリングに強打した。


「うぬぉぉぉおおお!?」


「これ、さっきの物音。驚かせて悪かったな」


「なっなにこれ!?」


「ウエイト。鍛錬と、打撃力を増す為に常につけているんだ。素手で戦闘するのには俺は体重が足りないから」


「な、え? これいつも? 何キロ!?」


「二十キロくらいか」


「にぇっ?」


 梨太は生まれたての子鹿のような姿勢から、どうにか重りを持ち上げる。黒いやたらと頑丈そうな布のなかに、薄く張り付けるように、鉄よりも密度の高い金属が縫い込んである。ベルトを使うコルセットのようなものと、手首か足首にでもつけるのだろう、小降りなものが二つ。

 本人が言った、常にというのが事実ならば、鮫島はこんなものをつけて飛んだりはねたりしていたことになる。


 さすがに風呂上がりにつけるのは億劫なのだろう、彼は梨太からウエイトを取り返すと、アンダーシャツといっしょに手荷物のそばへ置いた。今度は堅い床に落とさないよう慎重に。


「……さめじまくんって、やっぱ、すごいんだ……」


 半ば呆然としたままの梨太がつぶやくと、鮫島はクスリと笑った。


「軍人だからな」


 そう言ったが、こんなことをしているのは騎士団長だけに違いないと梨太は確信する。彼はタオルを脱衣所に返しに行きがてら、背中越しに、


「それとリタ、言うまでもないと思ったが今の俺は普通に、全身男の体だからな。見ても面白いものはないぞ」


「なにもかもばれてーら」


 ははは、と乾いた笑いをひとつ打つ。


 それをごまかすためではなく、彼をねぎらうために、梨太は飲み物を入れた。脱衣所からもどった鮫島にグラスを渡す。


 ウエイトは、その重量の割に嵩の少ないものではあった。しかし二十キロ。それだけの金属を服の下に巻いていたぶん、多少なり着膨れしていたのだと気づく。


 薄手のシャツ一枚から透けて見える彼の体つきは、梨太がもっていた初見の印象よりはるかに薄い。無駄がなく引き締まっていると言えば聞こえがいいが、体重が足りないという言葉の通り、戦士としては頼りないほど華奢に見えた。さすがに梨太より軽いということはないだろうが、部位によっては梨太よりも細い。

 水の入ったグラスを傾け、天を仰いで飲み下す。麗人は顎の裏まで純白の肌色を持っていた。なめらかな峰に、喉仏らしき膨らみが上下する。むき出しになった彼の白い首を、梨太は何か、複雑なきもちで眺めていた。


 鮫島は空いたグラスを見下ろして、ふとうれしそうな顔をした。梨太の視線に気がついて、そのわけを教えてくれる。


「水は、普通に水の味なのだな。ラトキアと比べて美味しい味というわけではなかったから」


「? それで、なんで笑ったの」


「何度か、梨太が入れてくれたお茶はとても美味しかった。作る料理も。水は同じなのだから、地球のものがそうであるということではなく、梨太が美味しく作ってくれたのだと思って」


 わざわざ向きなおって、彼は軽く頭を下げた。



「ありがとう」



 驚き、紅潮する。どういたしましてと簡単な言葉がうまく出てこなくて、梨太は猛烈に照れた。


(……どうも僕は、こういう正面から来るモノに弱い)


 キャラにない反応をしてしまう自分にまた照れて、頭をかく。


 彼はグラスを置くと、リビングのほうへ移動し、ソファにすわってくつろいだ。テレビをつけるでもなくただじっとしている。その座る位置がやや端によっているのを見つけて、梨太は迷わず追いかけ、彼の隣へ腰掛けた。


 それで、なにか会話が始まるわけでもない。


 梨太はしばらく、彼の横顔をなんとなく眺めていた。鮫島は、どこを見ているでもなく停止している――これは、会話のはずまない居心地悪さに硬直をしているのではなく、ただ黙って、くつろいでいるだけなのだろう。彼の体からリラックスした雰囲気を感じる。


 無音の空間で、ただ並んで座って過ごす。


 梨太は視線を隠しもせず、遠慮なく彼を眺めた。


 ふと、彼の瞼が何度かゆっくりとした瞬きをおこなった。漆黒の長いまつげが、二度三度、青みがかった瞳を隠す。一度は完全に閉じ、数秒、伏せたままになる。そしてすぐにパッと開かれ、鮫島は瞼をこすった。


「……だめだな。リタは、眠い」


 変なことを言う。時計は十一時を回っていた。


 梨太は時計を見上げたままで、独り言のようにぼそりと、彼に伝えてみた。


「僕、ふだん十一時半には布団に入ることにしてるんだけど」


 聞こえた彼も同じように時計を見上げて、しばらく思案する。


「どうしようかな……」


 つぶやいた直後、ダイニングのほうで、くじらくんが耳障りなブーピー音を鳴らす。

 彼は緩みかけていた目元をまた引き締めて、立ち上がろうとした。その手首を捕まえる――


 捕まえてしまってから、梨太は捕まえた理由を考えた。


 

 特に、なにも思いつかなかった。

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