鮫ちゃん♀の××× 

 しばし、訪れる沈黙。

 ふつうの肝ならば、耐えがたい時間であろう。だが梨太は負けなかった。ともすれば「あっんなわけないですよねあははは」と逃げてしまいそうになる自分をぐっと押さえ、仁王立ちになり、ラトキア人たちの返事を待つ。

 んなわけねえだろ何言ってんだバカ野郎――という、返事があることを、想定はしてのことである。


 だが、予想に反して、いつまでもそんな否定の言葉は返ってこなかった。

 鯨が、こわばった顔で尋ねてくる。


「……どこで聞いた?」


「え? あ、同級生から。その先輩が見たって話だけど」

 梨太の答えに、犬居が、気まずそうに頬をかく。

「……あー。それは……俺の口からは何とも」

 鯨は、困ったように眉を寄せていた。

「わたしからも、どちらと言いかねるのだが。……なあ?」

 呼びかけは、座っている弟へ向けてかけられた。発言を促された鮫島はキョトンとし、しばらく梨太のほうを見つめていたが、やがて、犬居の方へ向き直ると。

「犬居。オッパイとはなんだ」

 全員が真横にコケた。


コケた勢いで盛大にこぼしたアイスティーをきちんと片づけて、犬居が大まじめな口調で鮫島に通訳する。鮫島の「辞書」は、俗語に弱い。登録されていない単語は意味不明の音の羅列としか聞き取れないのだ。だが本人がどうしようもなく純朴というわけではない。犬居の説明で、すぐに諒解した。


「……ああ。それで?」

「だから、鮫島くんにそれがついてる――乳房が、膨らんでいるのかどうかって言うことを聞いてるのです」

 真っ向から追求する梨太に、なぜか犬居が居住まいを正した。

「なんかこいつすげえな」

 そんなことを呟いている。


 鮫島は、表情を変えなかった。もとより切れ長の双眸なので、無表情のときは凍えるほど怜悧に見える。

 だが、梨太はそこに恐れを感じなかった。鮫島は――不機嫌ではない。怒っていないし、僕のことも嫌いになっていない。その自信があった。なんら根拠はなかったが、彼の瞳にそれが見て取れた気がしただけ。


 鮫島の、色味の少ない唇が薄く開く。そこから低い声でささやいた。

「今は無い」

「……いまは?」

 梨太の肩がぴくりと動く。

「それは――かつて、あったけど、なくなったってこと? なんで?」

「俺は男だからだ」

 会話になっていない。


 じれかけた梨太に、鯨が割り込んできた。

「まあまあリタくん、鮫に複雑な説明を求めちゃいけないのは自明の理だろう。わたしが話してやろうではないか」

 ふよふよと機嫌良く滑空するくじらくん。テーブルの上でクルクル回転し、そのモニター画像がブレる。


 波打つロングヘアーの美女の姿が消えて、画面は真っ白に。そして見たこともない記号の羅列――なんとなく、ラトキアの言語で「なう・ろーでぃんぐ」とでもかかれているのだろうと見当つけた。

 待つこと数秒間。

 突如、画面に少女の姿が出現した。


「ぅおおっ?」

 思わず声がでる梨太。


 姿がでたきり、そのまま動かない。静止画――写真データだ。

 美少女、である。まずそれは間違いない。


 梨太と同じ年頃か、もうすこし下だろうか。真先に目を引くのが、かすかに蒼みがかった黒の双眸。造形は彫り深く鼻筋の通った大人っぽい顔立ちではあるが、ふっくらした頬が愛くるしい。伸びやかな手足は透き通るほどに白く、ぬばたまの髪は梨太の知るどの夜よりも昏く深い闇の色。少年のような短髪、それがかえって、少女の美貌を強調させていた。

 フレーム外で胡坐をかいているらしい、前かがみ気味で、カメラに向かって微笑んでいた。

 幼さの残るしなやかな体を覆う薄布は、少女の胸元でツンと上向きに持ち上がっている。

 お世辞にも豊かとは言い難いが、それは間違いなく、女性特有の乳房。


「っぉぉおおおおおおおお!」

 小山の頂点にさらなる小さな突起の気配を見つけ、梨太はくじらくんのモニターにかぶりつく。


 とたん、モニターは再び暗転し、すぐに鯨女史のにこやかな顔が映された。どうだ、と言わんばかりに得意げな顔にくいついて、

「く、鯨さん、いまの――いまのはもしやっ」

「そう、ラトキア騎士団長鮫島くん、当時十五歳のお写真だよ」

 画面が見えなかったらしい、鯨の言葉が聞こえた瞬間、鮫島が仰天して立ち上がった。

「なっ――きさま! なんでそんな写真を持っている!?」

 初めて聞く彼の大声だ。しかし鯨は小馬鹿にするように左右に揺れながら、

「端末に入れてたわけじゃない。いま、わたしのパーソナルコンピュータから転送したのだよ」

「だからなんで、星帝の宮殿に俺の昔の写真など持ち込んでいるんだ!」

「ほら、このころに新兵の実戦シミュレーション対戦相手用に3Dモデルを作っただろう? そのディティールを埋めるのに、プログラマーが提出してくれというのでな。父に頼んで送ってもらった」

「身体測定はキャプチャーもつけてあきれるほど綿密に測ってただろうっ。ディティールってなんだ、肌質だの色味だの、訓練には必要ない!」

「このほうが受けるからだ、訓練所に休暇返上で行列が出来て兵士の質が上がって兵力が上がって将軍としては美味しいからだ、文句あるか!」

「あるわ!!」

 叫び、鮫島はくじらくんを鷲掴みにして力を込めた。


 たくましい腕に筋肉の盛り上がりが見える。

「本体ごと破壊してやる」

「あっばかやめろ、くじらくんを壊したところでわたしは痛くも痒くもないし、データも親機に入ってるんだから――あいたたたたたっ痛い痛い離せって! 暴力反対」

 痛くも痒くもないと言ったそばからなぜか悲鳴を上げる鯨。

 感覚的なものだろうか。ミシリと音がしたところでなんとか鮫島の手を逃れ、くじらくんは天井ぎりぎりまで浮上した。


「ど、どういうこと……?」

 梨太は、混乱していた。


 あの写真が、真実数年前の鮫島であるならば、ふつうに考えて――彼、彼女は、男装している。

 だがそれは違うと断言できる。現在の鮫島はきっぱりと、男性にしか見えない。体躯だけではない、梨太の生物としての本能がそれを感知している。


 では、もうひとつの可能性、性転換手術――それも、あり得ないような気がした。


 女に生まれ、十五歳にしてあれだけ女性的だった少女から乳房や女性器を切除した程度で、現在の鮫島ほど逞しい青年になると思えない。梨太は何度かテレビなどで、いわゆる「オナベ」を見たことがあるが、やはりどこか遠くに「元・女性」というのが視覚できた。実物に対面すればなお顕著であろう。


 梨太自身、女の子のようだと揶揄される外見の持ち主ではある。だがそれは男子校にいてこその話。実際に女性の横に並べばそこに溶け込むことはできないし、女装などしてみたところで、部分的な骨格や質感がどうしたって男性なのだ。


 鮫島は仏頂面で座り込み、梨太の問いに答える気がなくなっていた。鯨との諍いがなければ案外すんなり解説してくれたのかもしれないが、しばらくは触れない方が良さそうだ。その空気を読んで、犬居も口をつぐんでいる。


 くじらくんを見上げると、彼女は高笑いしながら天井付近をくるくる回遊していた。弟に捕まらないよう、その位置から会話してくる。

「ふっふっふ。それは、鮫個人の性的嗜好などではないぞ。ラトキア人の宿命なのだ」

「……と、いうと。なんか……成人したら性別がひっくり返るとか、そういう?」

「当たらずとも遠からずかな」

「あれ、でも、先輩が見たっていうのは体育祭の準備期間だから、夏休みが明けて、せいぜいこの一ヶ月内のことのはず。でも六月に転入してきたときから今と同じ男性で――」

 ぶつぶつ呟きながら、思考をまとめていく。そして、ひとつの推論が導き出されていった。


「……周期的に、また近いうちに、鮫島くんは女の子になる?」


 モニターの向こうで、鯨が会心の笑みを浮かべた。

「知りたいか、リタ君」

「知りたいです! あとさっきの写真プリントアウトしてクダサイ」

 即答すると、くじらくんはうれしそうにぴょんぴょんはねた。いったいあの機械の動きはどうなっているんだろうと、今更ながらふと思う。

「では、捜査協力の報酬はその知識ということでどうだ?」

「っえぇ!? なにそれ。報奨金は無しですか? そっちはソレしゃべるだけでしょ、無条件で教えて下さいよ! あとそれとさっきの写真クダサイ」

「ほほほ。ラトキア人の生態でありきわめてセクシャル、かつプライベートな情報だ。これは本当の話、あまり異星人に公開したくないことなのだよ。それなりの価値はつけさせていただこう」

「そ、そんな――とりあえず写真はクダサイ」

「イヤならよいぞ。先ほど話したとおりの報奨金を出そう。それで地球の女でも買えばいい」

「高校生になんてこというのですか。お願いします写真クダサイ」

「目的ずれてんじゃねえか」

 犬居が半眼になってつぶやいた。彼はテーブルに頬杖をつき、

「ま、正直、捜査費用は節約したいとこだわな」

 鮫島が嘆息した。


 天井のくじらくんを睨みながらウーウーうなっている梨太に、聞かせるわけでもなく、ぼそりとつぶやく。

「もう。捨ててくれそれ……」

 梨太の耳がそれを拾った。


 視線だけを鮫島のほうに配る。仏頂面で俯く彼の白い耳たぶが、かすかに赤く染まっていた。

 くじらくんを見上げ、真剣な顔つきで唇を噛む。しばし無言で逡巡し――

「……わかりました。それで働きましょう。ただし写真はクダサイ」

「交渉成立だな」


 鯨は赤い唇をにっこりと持ち上げた。

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