第7話 復帰

 熱気籠もった球場。その球場を囲むようにして設置された観客席には、ほぼ満員の客が座っている。皆、どちらかのチームを応援している。声を出している。それは分かるのに何を言ってるのか聞こえない。

 次に視線が移動し、フィールド内に移る。

 戦っている二つのチーム。バッターボックスに立っている人、そしてランナーは全く知らない顔だ。会った記憶もない。

 しかし、フィールドを守っている、守備に就いているチームは全員知っている。才城女子野球部の皆が、立っていた。川相が、風木が、そしてマウンドには真田が立っていた。状況は、満塁のピンチ。そんな中、ベンチから大きく声を出している男が一人いた。その声も聞こえない。だが、その男は間違いなく俺だった。その声を受けながら真田が大きく腕を上げて、思いっきりボールを投げる。

 っというところで、目が覚めた。突っ伏していた体を起こし、辺りを見回す。少し髪が危うい、というかてっぺんは完全にアウトな先生が黒板に文字を書いて、周りの生徒はそれをノートに写している。

 そうだ、今は六時間目の国語の授業中だ。時計を見ると時間は三時前。後、十分ちょっとで終わる。

 どうやらいつの間にか寝てしまっていたらしい。李白がどうのこうのと言っていた所までは覚えているのだが、そこからが覚えていない。確か最後に時計を見た時、時間は二時四十五分くらいだった気がする。少しの間だったお陰か、先生には気付かれなかったのは、幸いだ。


「ふあーあ……」


 両手を組んで前に伸ばしながら欠伸をする。

 さっきの夢、実は昨日寝ている時も見た。あれは一体何なのだろうか。

 一つ気になることと言えば、あの球場に似たものを見たことがある。ただしテレビでだけだが、あれはほとんど甲子園――男子甲子園と一緒だった。ということは見たことはないが、あれは女子甲子園というものだったのだろうか。

 あー、夢のことなんて考えても分かる訳がない。考えるのをやめよう。

 でも……。また思い出される、昨日のあの光景。震える体、震える声。そして、何故かそれに付随して真田が投げるシーン、笑う野球部の皆の顔も思い出される。

 これで何度目か。寝ようとしたって思い出されて、だから寝不足になって授業中にも寝てしまった。

 何故、こんなにあの場面が引っ掛かっているのか。そして、何故彼女がどうしようもなく気になるのか。それはただ自分と重なるからだけじゃない。霧の向こうにある物のように、ぼんやりと分かっているのにはっきりと理解出来ない。

 でも、一つだけ確実に分かることがある。それは、もしこのまま誰も何もしなければ今の夢のような状況には絶対になりえないということだ。そして、俺には分かる。このままだと真田は野球をやらない。俺が監督をやったって真田がいなければあの野球部は甲子園どころか大会に出ることも出来ない。そして、その逆も……。

 だが、ふと心のどこかで過ぎる。――だから、どうした。俺には関係無い。所詮今までは頼まれて監督をやっていただけだ。野球部が出来ようが出来まいが、俺にはどうでも良いことじゃないか。

 そうして、また頭に写しだされる光景。綺麗な、芸術のようなフォームで投げる真田、その後に笑顔でプレイする野球部の皆。一体、俺は……。

 そこで甲高い鐘の音がスピーカー越しに聞こえてきた。授業終了を告げるチャイムが鳴った。


「よし、今日の授業はここまでです。では、日直お願いします」


 担任の終了宣告で皆一斉に立ち上がり、日直の号令で授業が終わった。

 あっ、そうだ。後半、全然写してなかったな。来月最初のテストがあるのに、流石にまずいよな。

 っということで、黒板の文字を急いでノートに書き込んでいく。その間に帰りのホームルームが進んでいくが、その間も書き続ける。

 五分ぐらい立ってホームルームが終わってもまだ書き続ける。だが、手に握ったシャープペンシルを動かしながら、ふと目の前の文字が消えた。まただ。ボールを落とした真田。でも、楽しそうに投げる場面がふと思い返される。

 その映像を振り切るように頭を振って、再び黒板に目をやる。すると、掃除当番である女性徒が既に文字を消し始めていた。

 あー、もういいや。明日誰かに見せてもらって写そう。そうだ。わざわざ今写す必要もなかったな。


「おーい、智史ー! 今日部活休みだから一緒に帰ろうぜー!」


 この髪を茶色に染めた、俗に言うイケてる男子といった顔をした爽やか野郎は友人である古矢隆志ふるやたかしだ。隆司はサッカーの推薦でこの学校に入った実力者で、自分で言うのもなんだが互いに部活の実績から名前が有名だったという共通点からか、俺達は中学時代からそして今もよくつるんでいる。俺と違って高校でもサッカーを続ける隆志は、既にサッカー部の練習に混ざっているらしい。お陰という訳ではなく、中学からそうだががっちりとした体付きをしている。その練習が今日は休みらしい。

 って、ああ、そういえば俺まだ部活決めて無かったな。そろそろ決めないとやばいな。


「じゃなくて」


「はっ、何がじゃなくてなんだよ?」


 おっ、やべっ、ついうっかり口に出してしまった。


「すまん、気にしないでくれ。でえっと、ああ、帰ろうって。うーん、どうするかな」


 ……どうするかな? 言ってからその言葉に疑問を持った。何故、今迷ったんだ。今日は女子野球部に来てくれなんて言われていない。川相も何も言って来ない。このまま帰っても問題ない筈じゃねえか。なのに何故考えた。


「ああ、そうか。今日もまた彼女さんがお迎えに来てくれるのか」


 言いながら、ニヤニヤと嫌らしい笑みでこちらを見ている隆志。こいつの言ってる彼女ってのは川相のことだろう。一昨日川相と風木の二人に拉致られ、昨日に至っては川相が教室にまで押し掛けたもんだから、「なるほど、本命は川相か」等とほざきやがってからずっとこの調子だ。だから誤解を解こうと女子野球部のことを素直に話したってのに、信じているのか信じていないのか、こいつはまだからかってくる。ったく、本当に昨日危惧した通りになりやがった。


「だから、そんなんじゃねえって」


「はいはい、分かってる、分かってる」


 まだ絶賛継続中の気持悪い笑みがマジで腹立ってきた。こいつ、絶対何も分かってないだろ。


「でもどうなんだ、実際。野球部出来そうなのか?」


 かと思うと、今度はニヤニヤという笑顔は消えたが、何というのだろうか、社交辞令的という言葉が合う作られたような笑顔を向けてきた。


「まだ分からねえな。一人かなり腕のある子がいるんだが、多分このままだと入らない」


 あの才能ある子がその才能を誰にも披露することなく自分から消えていくのかもしれない。そしてそれはあの野球部のスタートが来ないことを意味する。そのことに、寒空の中茅屋にいるように、冷たい風が心を射抜く感覚がした。


「ふーん、なるほどな。で、お前はやるのか?」


「俺……も分からないな」


 ふう、っと溜息を吐く隆志。


「まっ、そうだよな。約一年半そのままなのに急になんて無理だよな。だから結局俺からは何も言えない」


 中学の時からそうだ。俺が野球をやめた理由。それを隆志には話した。何か思ったかもしれない。でも、こいつは何も言ってこなかった。そしてそれは野球部の顧問が、担任が、周りのクラスメイトが、皆が野球部に戻った方が良いと言ってくる中変わることはなかった。


「ただ、この機会だからこれだけは言っておく」


 だからだろう。その言葉はやたら俺の心に響いた。


「野球をやめてからずっと苦しそうだったお前が、ここ最近は少し楽しそうな顔してたぜ。俺個人の感想で言えば、やっと良い機会が出来たなって感じだ」


 俺の気持ちなんて分からないくせにそんなこと言うな。そう思いもするのだが、その言葉はとても鋭利で俺の心にやたら突き刺さった。

 楽しそうか。そういえば、風木も昨日言っていた。だとしたら、本当にそうなのかもしれない。いや、違う。何他人事にして逃げているんだ。


「なあ、隆志。最後にもう一つ聞いて良いか?」


「もう一つ? 別に良いけど、何だよ?」


「お前、サッカーやめたいって思ったことあるか?」


「やめたいって思ったこと? 何言ってるんだよ。――そんなの数え切れないくらいあるに決まってんだろ」


 何言ってんだ、こいつ、っと言わんばかりに歪めた表情を向けてくる隆志。ははっ、そうだよな。


「だよな。俺もやめる前から何回もあった。でも、何でお前やめてないんだよ?」


「何でって、好きだから。何度やめようと思っても好きだから結局続ける。それだけだよ」


「そっか。そうだよな。好きなのにやめたい訳がないよな」


 隆志の解答は実にしっくりきた。いくら否定して逃げたって自分が一番分かっている。認めるしか無いだろ。

 ああっ、ったく。相変わらず気分がモヤモヤしてやがる。

 ……はあっ、しょうがねえ。こうなったらもう一度行ってやる。


「悪い、隆志。ちょっと行く所出来たわ。だから、一緒には帰れない」


「んっ、あっ、そうか。分かった、じゃあな」


 またニヤリと嫌らしい笑みを浮かべる隆志。腹立つけど、そっちの顔の方がやたら合うよ、お前は。


「その……隆志。参考になった気もしなくもないよ。ありがとな」


「んっ、別に大したことしてないぜ」


 相変わらず、憎たらしい顔だ。

 そう言葉を交わしたのを最後に俺は教室を出ていった。


   ☆★☆★☆★☆


 今日はグラウンドだろうか。いや、どっちにしろまずは近いグラウンドを目指した方が良い。廊下の人波の中を駆けて抜け、昇降口を出、これから第二グラウンドを目指す。……っというところで見覚えのある背中を発見した。ゆさゆさと揺れる特徴的なポニーテール。間違いない。


「川相!」


「えっ……監督!」


 体ごと振り返った川相は驚いた顔をしている。そういえば、野球の練習以外で川相に話し掛けるのは初めてだったか。


「なあ、今ジャージ着てないってことはもしかして今日は練習休みなのか?」


 ホームルームが終わってから、もう二十分ぐらい立っている。いつも通りなら川相は着替え終えて、練習の準備に取り掛かっている筈だ。なのに、今の川相はまだ制服を着ている。


「いや、あるよ」


 川相の異変に気付く。昨日のように声に元気がない。それでも明らかに無理した笑顔を作るのは相変わらずだ。


「じゃあ、何でまだこんな所にいたんだ? それに風木は?」


「佳苗には先行って準備してもらってるんだ。私は、さっきまで咲と話してた」


 ――真田と?

 不意を突かれた気分だ。いや、実際全く持って不意を突かれた。

 先にやられたか。


「何の話をしてたんだ?」


「まずは昨日のことを謝って……それから、今日は来てくれるか聞いてみたんだ。だけど、咲は優しいからね。それに昨日のこともあって断りづらかったのかな。なかなか答えを出せないでいたんだ。だから、私から言ったの。もう無理しなくて良いよって。無理させてごめんね。今度は咲が本当に野球をやりたいと思ったら、その時に来てねって」


 エヘヘっと弱々しく笑う川相。

 でも、そのままじゃダメだ。言い切ろう。それじゃお前が、お前達が望んでいた才城高校野球部が認められることはない。


「あと監督もごめんね。嫌なのに無理矢理手伝わせる形になっちゃって」


「えっ、いや……」


 何だ、急に。どうしてこうもらしくないことを言うんだ。出会ってたった二日で確立した俺の中でのこいつはこんなにしおらしい奴なんかじゃなかった。大体昨日の真田のことがあったとはいえ……。

 何故だか分からない。でも、自分が焦っているのが分かった。


「だから私達からはもう言わない。でも、昨日も言ってくれた通り、監督が野球と向き合えた時、やりたいと思った時また声を掛けてよ。その時はまたお願いするからさ」


 何なんだよ、一体何なんだよ。俺が野球と向き合えた時、またやりたいと思った時? そんなのいつ来るか分からないじゃねえか。もう手遅れになっちまうかもしれないじゃねえか。

 ――いや、違う。川相の言葉に自分の心は動かされた。俺はショックを受けたんだ。それは何故か。だから分かってるじゃねえか。

 だから、このままじゃダメなんだ。


「ダメなんだよ。それじゃダメだ。川相、お前そのままじゃあのチームで野球が出来なくなる!」


 それじゃダメだ。良い筈がない。


「えっ……」


 また驚いた顔をする川相。俺自身でも珍しいと思う。感情的な自分っていうのは。どこか野球と共に物事への情熱ってものを失ってしまっていたのかもしれない。久しぶりに内から込み上がって来る感覚を感じる。


「お前はそれで良いのか! 野球が好きなんじゃないのか。あのチームで野球をやりたいんじゃないのか!」


「何言ってんのさ……。やりたいよ! やりたいに決まってるじゃん! なのに何で決めつけるのさ! もっと練習して勝ってやる! そうすれば良いだけじゃん!」


「だから、素人が集まって練習したって間違っても勝てないんだよ!」


「だから、やってみなきゃ分からないじゃん!」


「一回、たった一回のチャンスなんだぞ! これを逃したら終わりなんだぞ! そのチャンスを無謀な挑戦でミスミス逃すな」


 感情的な俺の発言に、川相も感情的に返してくる。だから、俺も更に感情的に返してしまった。その俺の残酷な真実を告げる叫びに川相は押し黙る。

 だがどんなに勝ちたいと思ったって、勝てない、それは間違いない事実だ。ただし、それはこのままの場合。仮定を変えてしまえば可能性は出てくる。

 俺が無理だと前に言った川相とのキャッチボールの時。あの時知りえなかったとんでもない勝利への可能性を、今の俺は知っている。

 ふうっと溜息を吐いて、一旦自分の心を鎮める。


「……ごめん、川相。感情的になっちまった」


「うんうん、私もごめん。ついカッとなっちゃった」


「なあ、川相。真田ってもう帰ったか?」


「うん、もう帰ったと思う。私と話した後、すぐ出て行ったから」


「そっか。分かった。ありがとな」


 となると、真田の家はどこにあるか知らないけどもう家に着いてる可能性があるのか。こうなったら、場所を真田の担任にでも聞くか。

 ついでにうちの担任にも出さなきゃいけないものがある。


「えっ、でもそれがどうしたの?」


 小首を傾げて川相が問うてくる。


「あのな、川相。何度も言うようだがさっき俺が言ったことはまず間違いない真実だ。でもそれは素人だけの場合だ。覆すことだって出来る。前に言っただろ。試合はピッチャーによって大きく左右する。つまりピッチャー次第では勝てるってことだ」


「えっ、つまり咲を無理にでも試合に出させるってこと?」


「無理にじゃない。結局どうするかは真田次第だ。でも、俺は俺の気持ちをあいつにぶつけてくる」


「ぶつけてくるって……」


 そう、ぶつけてくるんだ。思うこと、言いたいこと。


「だから、じゃあな、川相」


「えっ、ちょっと、監督!」


「あっ、それとな、川相。そういえば前はあえて言わなかったけど、もう一つ。勝つ為の絶対条件って訳じゃないけど、勝率を上げることが出来る方法があるぜ」


「えっ、また急に――って、何それ!」


「いくらピッチャーが良くたって、野手がエラーすれば勝てない。野手が点を取ってくれなきゃ勝てない。だから技術を上げて少しでも勝率を上げる為の経験者の指導だ。アドバイスしたところであまり効果はないだろう。だから、ちゃんとしたアドバイスじゃない、指導だ。――そして俺は、お前らには負けて欲しくないと思っている」


「えっ、ちょっと待って……それって――」


「ってことで、行くぜ」


 川相の頭が状況に追いつくのを待っている気はない。

 さっさと真田を追いかけることにしよう。俺はグラウンドから進行方向を変え、校舎に戻っていった。


   ☆★☆★☆★☆★☆


「へえ、これが……」


 担任には真田が大事にしている物を忘れていったから届けるという捏造した理由を伝えて、真田の家を聞いてから、向かって走ること十五分。教えて貰った場所に到着したのだがこれは驚いた。門の向こうに見えるのは、明らかに普通の一軒家より一回り以上は大きい、というか実際にコンクリートで作られた壁に隔たれた両隣の家より大きい上に、上部はホワイトを基調にした外壁、下部はレンガ調で重圧感のある外装とどこも傷一つ無く高級感がふんだんに現れている家。しかも、家の左隣から壁までは一般的な庭にしては充分過ぎる程の広さがあり、芝が敷かれていてしかもマウンド、ピッチングネット、バッティングネットがある。

 これを使って練習しているのか。結構羨ましい設備だな……。


「押す、しかねえよな……」


 意味はないが独り言を呟く。

 目前にある門に付属しているインターホン。これを押さなければいけないのだが、どうも躊躇われる。

 あまり関わりのない同世代の子の家に行くのは正直気が引けるんだよな。しかも異性だし。本当は真田とはここに向かっている途中で会いたかったのだが、見付けることは出来なかったし。

 でも……よしっ、迷ってても仕方ない。どうせこのまま帰るなんて選択肢はあり得ないんだ。決心は付いた。ボタンを押してやる。

 迷いを吹っ切るように勢いよくインターホンを押した。ピンポーンとチャイム音が鳴る。


『……はい。どちら様でしょうか?』


 少ししてからインターホンから声が聞こえてきた。

 その声は若々しい女性のものだった。


「あっ、えっと、俺……僕は咲さんと同じ才城学園に通っている常田というものです。咲さんはもう帰ってきてるでしょうか?」


『咲はまだ帰ってきてないけど……常田君?』


 そうか。真田はまだ帰ってきて無いのか。途中の道には確かにいなかった筈だが、違う道から行ってるのか、それともどっか寄っているのだろうか。

 さて、どうするかな。


『って、えっ、咲と同い年の男子が咲に会いに! ちょっ、ちょっと待っててね!』


 っと考えていたら、音量が一段階大きくなった声が耳に届いてきた。

 何だ!? 急にテンションが上がったぞ。かと思うと、そこでブチッと途切れた。

 本当に何々だ。それにちょっと待っててって……って、速っ!

 切れてから数秒後。大した間も空かずに、扉がガチャっと開いた。出てきたのは、肩ほどの短髪とキリッと引き締まった正にモデル顔負けの顔立ちからは声同様に若々しさも感じさせるが、逆に大人の威厳も雰囲気から感じる、そんな女性だった。真田の母親なのだろう。親子揃って見栄えする顔をしている。


「ちょっと、君、咲とはどういう関係なの!? もしかして彼氏!?」


 出てくるや否やの第一声。凄い、目を輝かせて何を聞いてくるんだ一体!


「いや、違いますよ! ていうか、彼氏どころか友達といえる程関わった訳でもないですからね」


「えー、違うのー!」


 そんながっかりされても。


「あっ、分かった!」


 今度は何!?


「咲に告白しに来たんでしょ!」


「だから、そういうんじゃないですって!」


 この人、さっきから何言ってるんだ……。

 親子でこんなに性格が違うものなのか。


「咲さんとは同じクラスでも無いし、大して話したこともないです」


「えー、じゃあどういう関係なの!」


 どういう関係か、か。そう聞かれたらどう答えるべきなのだろうか。いや、答えは一つしか無いのだが。


「……ただ一回、一緒に野球をしただけですけど」


「野球……?」


 顔つきと、そして声音が変わった。顔つきは真剣に、声音は疑問を示しながらも同時に何かを探っているように聞こえた。その変化には正直少し戸惑う。


「ってことは、君があの監督候補の子ね。そういえば常田君って聞いたことある名前だと思ったら、なるほど、昨日咲が言ってたわ」


「真田……咲さんが俺のことを?」


 真田の母の言葉は意外だった。

 真田が俺のことを家族に話していたこともそうだが、俺達はお互いを他人に話せる程知らないのに。何を話したのだろうか。いやっ、でもそういえば風木が真田に俺のことを話したようなことを言っていたか。


「ええ、話してくれたわよ。あなたのことだけじゃない、野球部の皆のことも、その子達と野球をやったってことも、昨日あったことも。――常田君は確か野球を中学二年の夏の大会が終わってからやめて以降やってないんだよね?」


「……はい」


 あの夏の日。一瞬フラッシュバックする苦しみの記憶。つい、苦い顔をしてしまう。


「常田君は何で野球をやめたの?」


「えっ……」


「あっ、ごめん。初対面の人にいきなりそんなこと話せないよね」


「あっ、いや……」


 真田の母は、言いながら苦笑する。

 話辛いのは確かだが、話せない訳ではない。だけれども、そう聞いた時の真田の母の顔に戸惑った。それは興味本位などではなく、真剣そのものだったから。

 俺は、ポツンとただそこに置いていくかのように呟いた。


「……自分のミスでチームが負けてしまったからです」


 その言葉を聞いた真田の母は驚きの表情を一瞬見せた。あなたが聞いたんじゃないですか、っと思いはしたもののそれを口には出さない。

 だがその表情はすぐに変化し、分からなかった問題を教えてもらった子供のような何かを納得したといった顔になった。


「……あなたも咲と同じなのね」


 同じ? 違う。似ているけど、同じではない。


「同じって、境遇のことですか? でも、それなら同じではなく――」


「うんうん。……咲もね、自分のミスの所為でチームが負けてしまったことを悔やみ続けているの」


 その言葉はやたら強く耳の中で反響した。意外だった。衝撃的だった。なのにどこか納得する自分がいる。

 俺が真田に感じていた、自分に似ているという感覚。それは、昔野球をやっていたのにやめて以降どのチームにも所属していないという境遇が一緒だからというのもあったが、それよりもどこか雰囲気自体が似ているように感じていたから、っというのもあった。

 だからこそ、羨望の気持ちを持っていたんだ。似ていると感じていたからこそ真田がどれ程強いか、自分がどれ程弱いかがはっきりと、明確化されているようだったから。


「そうだったんですか……」


「――ねえ、ちょっと聞くのが遅くなったんだけど、常田君は咲に何の用があって家まで来たの?」


 不意に変わった質問。何の脈絡も無かったが、その答えは決まっている。窮することはない。


「咲さんのあの才能は失ってはいけないと思うから。だから言いたいことがある。伝えたいことがある。それだけです」


「……そっか、分かった」


 一旦息を吐いて、間を取る真田の母。

 何が分かったのだろうか。その言葉を俺が口に出す前に、真田の母は言葉を紡いだ。


「あのね、咲に野球を教えたのは私なの」


「……そうなんですか」


「だから、私の所為なんだよね。咲が苦しい想いをしてるのは」


「そう、なんですか……」


 そうですねなんて、ましてやそれは違いますとも言えない。

 俺にはそう相槌を打つしかなかった。


「ええ。それに咲誰かと野球をやってこなかった五年間、とても苦しそうな顔をしてきたの。本人は必死に隠しているつもりだったかもしれないけど、母親である私には充分過ぎるほど分かった。進みたいのに進めない、そのもどかしさが伝わってきたの。今までのあの子には野球をまた始めるきっかけが無かったから。それが辛かった。それを作ってあげられないことも。私の所為なのにって何度も自分を責めた。高校も野球部が無くなった所を選んで、もう咲は高校でも結局野球をやらないのかなって、そう思ってた。でも今は、野球部を作るって子が現れて、咲を誘ってくれて、それに君もいる。――フフッ、本当に嬉しいことばかりだわ」


 その顔は、言葉通りにとても嬉しそうな笑顔で、でもそれだけではなく心配そうに娘を思う顔を隠しきれないでいる。

 そういえば、昔俺がリトルリーグで初めて出た試合を見た時の母もあんな顔をしていた気がする。


「だから初めて会ったばかりだけど、君に一つ頼みたいことがあります。良いかな、常田君?」


「……何でしょう」


「咲と同じ苦しみを経験した、いえ、経験しているあなたなら咲に戻るきっかけを作ってあげられるかもしれない。それが出来るのは多分あなただけ。だから、お願い。せっかく出来たあの子の居場所にあの子が行く勇気を与えてあげてください」


 真摯な瞳が切に娘を思う母の気持ちを痛いほど伝えてくる。

 重い物、託されてしまったな。出来るか分からないのに。

 ――それでも元からそのつもりで来たんだ。 真っ直ぐにその瞳を見据えて、俺は答える。ただ一言。


「はい」


「……ありがとう」


 そう言うと、真田の母はニコッと笑って、「さてっ!」と柏手を打った。


「どうする、家の中で咲を待つ?」


「……いえ、どうせまだ学校に用事ありますし、また元来た道を戻りたいと思います」


「そっか、分かった。それじゃあ……よろしくお願いします」


「――はい、それじゃ失礼します」


 ペコリと頭を下げた真田の母に挨拶をして、俺は再び学校に向かう。

 その足は自然と速まっていく。

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