第二部 血塗れの聖女の章 プロローグ 託宣を受けし少女①
かつてセラエノの郊外の牧場に、一人の赤子が産声を上げた。
よく笑いよく泣く、元気な珠のような赤子の誕生に、夫婦はもとより、親類縁者、近所の者が喜び、祝い、そして悲しんだ。
ここ、ルルイエ世界では、女性は全て20歳の誕生日を越えて永らえる事は無い。
マリア病
その呪いの
そう、産まれた赤子は、女の子であった。
赤子はそんな自分の運命を知らず、ただ無邪気な笑顔を両親に向けていた。
赤子はジャンヌと名付けられ、両親の愛情を一身に受けてすくすくと成長していった。家の手伝いをよくし、目上の者にはきちんと挨拶を欠かさず、目下の者には面倒見の良い評判の娘に育った。
そんなジャンヌに転機が訪れたのは、10歳を過ぎた頃である。
彼女は、ある夜から頻繁に同じ夢を見る様になった。
双子の様にそっくりな、美しい二人の女性が夢に現れ、優しく微笑んでジャンヌにこう告げた。
『ジャンヌ、ジャンヌよ、ルルイエを救いなさい。』
『アトラク=ナクアで、希望の渡る橋を架けるのです。』
翌朝、目覚めたジャンヌは、大きな欠伸をしながら眩しい朝日に目を細め、夢の内容を思い出していた。
「きれいな女の人だったな……、でも、どうせ夢に出てくるなら、ママンの方が嬉しかったな……。」
それがジャンヌの正直な気持ちだった。
まだ幼いジャンヌには、ルルイエを救うとはどういう事か、アトラク=ナクアとは何なのか、分からなかった。夢の中で、深く印象に残っていたのは、二人の美しい女性の事だけである。
この日を境に、ジャンヌは毎夜同じ夢を見る様になった。
そうして一週間が過ぎ、二人の女性が語りかける話の内容が気になったジャンヌは、夢の事を父親のジャックに相談する事にした。
起きて着替えたジャンヌは、顔を洗って口を濯いでから居間に向かう。
居間には、八年前にマリア病で他界した母親の遺影の肖像画が掛けられている。
「おはようございます、ママン。」
ジャンヌはスカートの裾をつまみ、丁寧に母親の肖像画に朝の挨拶をしてから家の外に出て行った。
ジャンヌは父親が早朝の搾乳と放牧作業、厩舎の掃除から戻るまでの間、母親の肖像画に朝の挨拶をしてから、鶏の餌やりと卵の回収をして、朝食の準備をしながら帰りを待つのが日課になっていた。
しかし、この日は鶏の世話を終えると、すぐに厩舎の掃除をしている父親の元に向かった。
「おはよう、お父さん。」
可愛らしい笑顔で、朝の挨拶をして自分を見上げる愛娘に、ジャックは作業の手を止めて優しく微笑んで挨拶を返す。
「おはよう、ジャンヌ。どうしたんだい、珍しいじゃないか、こんな時間に。朝食の仕度は終わったのかい?」
「ごめんなさい、お父さん、朝食の仕度はまだなの。どうしてもお父さんに聞きたい事があって……」
もじもじと上目遣いで見上げるジャンヌに、父親ジャックは優しく語りかける。
「お父さんに聞きたい事?何かな?言ってごらん。」
「はい、お父さん。ルルイエを救うには、私はどうしたら良いのでしょう?それから、アトラク=ナクアとは何なのですか?」
ジャックは娘の言葉に耳を疑った。
何か欲しい物のおねだりをしに来たのだろう。
その程度に思っていた彼の心に、ジャンヌの言葉は大きな衝撃を与えた。
ジャックの家、ダーク家は、今でこそ牧場を営んでいるが、祖父の代迄は、領主セラエノ公に仕える機械魔導師であり精霊騎士であった。
更に遡れば、マリア騎士団の部隊長が始祖という、由緒正しい家系である。
そしてアトラク=ナクアとは、祖先が二人のマリアに与えられ、代々受け継いできた精霊機甲だった。
ダーク家の当主はその誇りを旨に、アトラク=ナクアを駆り、セラエノの地を守護していた。
しかし、ジャックの父親及び、ジャック自身に機械魔導師、精霊騎士としての資質が発現しなかった。
その為ジャックの父親は、セラエノ公に辞職を願い出た。
セラエノ公はジャックの父親の辞職を受理し、功労金と土地を与え、これまでのダーク家の功績に応えた。
ジャックの父親は、与えられた金と土地を元手に、牧場を開業し、現在に至る。
「ジャンヌ、どうしてそんな事を聞くんだい?」
ジャックは屈託の無い瞳で見上げる娘に動揺を隠し、努めて平穏な口調で尋ねると、ジャンヌは今まで見せた事の無い穏やかな表情で答えた。
「私、夢で二人の女の人に、ルルイエを救いなさいって言われたの。アトラク=ナクアで希望の渡る橋を架けなさい、って。」
ジャックはその言葉に、思わず全身の力が抜けた。
持っていた鋤が彼の手から滑り落ち、乾いた音を立てる。
「ああ……」
ジャックは頭を抱えて膝をついた。
きっとこれは、二人のマリアの御告げだろう。
敬虔なマリア信者のジャックは、そう確信した。
本来なら喜ぶべき事である。
彼は自分に機械魔導師、精霊騎士としての資質が発現しなかった事に、忸怩たる思いを抱いていた。
かつて、父親が職を辞した時、自分が地位を取り戻すと心に決めていたが、遂に叶う事がなかった。
妻の懐妊を知った時、もしや男の子なら!と、考えた。
しかし、ジャンヌが誕生して以来、その思いはすっぱりと断ち切った。そして、妻と娘の幸せの為に、自分の人生を捧げようと誓った。
妻との死別後、愛娘の成長と共に、その想いは強固な物となっていった。
今のジャックに、機械魔導師や精霊騎士の家系といった事は、もうどうでも良くなっていた。
ただ娘ジャンヌが、短いながらも幸せで安全な人生を全う出来るように、日々を必死に生きる事に集中していた。
今さら機械魔導師や精霊騎士など論外である、それよりも愛する一人娘に、そんな危険な道を歩ませたくは無い。
それが偽らざるジャックの想いだった。
「お父さん、どうしたの!?」
膝をついて頭をを抱える父親に、ジャンヌは心配そうに声をかけて歩み寄り、顔を覗き込んだ。
そんな娘を、ジャックは力一杯抱き締めて、愛しげに頬擦りしながら言った。
「いいんだよ、ジャンヌ。お前はそんな事を気にしなくていいんだよ……」
夢に出てきた二人の女性の言葉は、父を悲しませる。
そう悟ったジャンヌは、父親を抱き締めて謝罪した。
「ごめんなさい、お父さん。」
その日の夜、眠りに就いたジャンヌの夢枕に、また二人の女性が現れ、優しく囁いた。
「ジャンヌ、ジャンヌよ、ルルイエを救いなさい。」
「アトラク=ナクアで、希望の渡る橋を架けるのです。」
ジャンヌは二人の女性の言葉に、丁寧に頭を下げて断りの返事を返した。
「ごめんなさい、お父さんが悲しむので、私にはできません。」
ジャンヌのこの返事に、二人の女性は顔を見合わせ、一瞬だけ残念そうな表情を浮かべたが、直ぐに優しい笑顔を向けると、彼女の頭を撫でながら謝罪する。
「そうですか、困らせてごめんなさい。」
「お父様を大切に。」
二人の女性はそう言って、ジャンヌの夢の中から消えて行った。
この日以来、ジャンヌは二人の女性の夢を見る事は無くなった。
そして、ジャンヌは夢の内容も、同じ夢を連続して見た事も忘れてしまった。
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