第一部 第三章 覚醒 一話 マリア巫女
ハスタァが執務室で事務仕事をしながら、キョウに支払う賠償金の算段に頭を悩ませていると、サイクラノーシュ教会に所属するマリア
マリア巫女とは、有力者や富裕層の娘が、結婚する迄の間、娘狩りから身を守る為に教会に預けられた少女達の事である。
教会内での地位は、雑用係をしながらマリアに仕え、教義と礼儀作法を教わるという低い身分である。しかしながら、彼女達が預けられる時に、実家から支払われる多額の謝礼金と寄付金の為、身分は低くともかなりの自由を黙認されていた。
「ハスタァ僧正、お客様ですよ。」
ノックもせずに入室したマリア巫女を、ハスタァは軽くたしなめる。
「こら、ノックもせずに扉を開けるとは御行儀が悪いですよ、それでもマリアに仕える巫女ですか? 」
「は~い、ごめんなさ~い。」
マリア巫女の少女は、少し不満気に謝罪する。
「で、どなたがお見えになったのですか? 」
ハスタァのこの質問に、マリア巫女の少女はパッと明るい表情となる。
「さぁ? そんなの知りません。誰なんですか? あの方は。私、あんな優しそうな紳士に初めてお会いしました。将来結婚するなら、あんな方が良いなぁ。お父様に報告するから、是非紹介して下さい! ハスタァ僧正! 」
ずいずい迫り来るマリア巫女の、報告になっていない報告を遮る様にハスタァは叫んだ。
「誰でも良いから、お通ししなさい! 」
マリア巫女に案内されて入室した来客に、ハスタァは驚き目を見張る。
「キョウ殿! 」
「やぁ、ハスタァ。突然すまない。」
興味津々のマリア巫女を部屋から追い出し、ハスタァは声を荒らげる。
「やぁ、じゃありません! どうしてここに、一体何を考えているのですか! ? ここをどこだと思っているのですか!? 」
「どこって、白騎士教団サイクラノーシュ教会、戦闘僧伽ハスタァ僧正の執務室。」
どこまでも人を食ったキョウの態度に、ハスタァはため息混じりの笑顔を浮かべた。
「全く、ここは貴方にとっては敵地だというのに、本当に大胆な方だ。」
「そうかい? 俺は別に敵地だなんて思っていないぜ。案内してくれた子もすれ違った人達も、みんなフレンドリーだったし、殊更構える必要を感じないけどな。」
「信者や一般僧侶はそうでしょう、しかし僧正クラス以上になると話は別です。途中でもしアーミティッジ枢機卿などに会っていたら、それこそ大変な事に……」
「まぁ、その時はその時だよ。」
「で、今日は一体何の用ですか? キョウ殿自らこんな所に訪ねて……」
ハスタァの言葉を遮り、勢いよく執務室の扉が開かれる。
「お客様にお茶をお持ちしました、ハスタァ僧正。」
先程部屋から追い出したマリア巫女が、ティーセットを載せたワゴンを押しながら、笑顔を輝かせてノックをせずに乱入して来た。
「お客様、お砂糖お使いになりますか? ハスタァ僧正は要らないんですよね。」
突然の闖入者に慌てるハスタァ。
「何をしに来たんだね、君は。それよりも入室の時にはノックしなさいと、いつも言って聞かせているでしょう。」
「何をしにって、お客様にお茶ですよ、さっき言ったじゃないですか。お客様、お砂糖幾つお入れしますか? あっ、失礼しました、
マリア巫女のアリシアは、ハスタァを軽くあしらい、スカートの裾をつまんでキョウにキュートな自己紹介をした。
「やぁ、初めまして、俺はキョウ……」
アリシアの自己紹介を受けて、自己紹介を始めたキョウの言葉が終わらないうちに、ハスタァは再び強引にアリシアを部屋から追い出す。
「郷里の古い友人なんだ、お茶は私がやるから大丈夫だ。これから私達は旧交を温め、気の置けない話をするから、君は外に出ていたまえ。」
「ハスタァ僧正の郷里の友人というと、あの方がノーデンスさんですか? 噂とは感じが全然違うんですね。」
アリシアはハスタァの身体越しに、興味津々の熱視線をキョウに浴びせる。
「そんな事はどうでもよろしい、話の邪魔をされたくないから、君はここで誰か来ないか見張っていなさい。もし誰か来たら、少し待ってもらって、ノックをして知らせるんだ。いいね? 」
「ラジャ。」
「いいね、くれぐれもノックをする様に。」
「イエッサ。」
くにゃっとした敬礼で答えるアリシアを、半ば疑いの目で見ながら、ハスタァは扉を閉めた。
「やれやれ、はしたない所をお見せして申し訳ない、本当に今どきの娘は一体何を考えているのか……。あれでマリアに仕える巫女だというのだから頭が痛い、お恥ずかしい限りです。」
「そうかい? 明るくて良い子じゃないか。」
「いいえ、マージョリー殿や、彼女の孤児院の娘達の方が数倍マシです。爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい位です。」
憤るハスタァを、諭す様にキョウは反論する。
「同じだよ。」
穏やかではあるが、一分の異論も許さないキョウの口調に、ハスタァは息を飲む。
キョウは遠くを見つめ、言葉を続ける。
「みんな一生懸命なのさ、二十年という短い命を必死に明るいものにしようとね。女に生まれた事を後悔しない様に、そして誰かにとって良い想い出になれるように、一瞬一瞬を輝かせて、命を燃やしているんだよ……」
キョウはハスタァの目を射る様に見つめて質問する。
「なぁハスタァ、この呪いの病は何故、マリア病と言うんだ? 」
そういえば、そんな事は考えた事も無かった、ハスタァの心に稲妻の様な衝撃が走る。
「マリア達は、こんな事を絶対に望む筈がないのに……、君は考えた事があるかい? 」
キョウの問いは、ハスタァの心の淵に深く 、そして大きく
一方扉の外では、ハスタァに命じられた見張りなどそっちのけで、何とか中の様子を窺おうと頑張るアリシアがいた。
「やっぱり耳を押しつけるだけじゃ聞こえないわねぇ、この鍵穴から中の様子は……見えないかぁ……。」
夢中で扉にへばりつくアリシアの肩を、不意にトントンと叩く手があった。
部屋の中を探るのに夢中のアリシアは、振り向きもせずに、邪険にその手を払い退ける。
しかしその手はめげずに、尚もアリシアの肩をトントンと叩く。
「うるさいわね、今取り込み中なの、後にして。」
アリシアは扉に顔を向けたまま、面倒くさそうに後ろ手で払う。
だが、少し間を置いた後、その手はまたトントンとアリシアの肩を叩く、今回は心なしか、やや強めに。
「なんなのよ、うっとおしい! 取り込み中だって言ってるでしょう! 」
ようやく振り向いたアリシアの目に、屈強で武骨な筋肉でその身を鎧われた美髯の大男の姿が映っていた。
大男は不思議そうにアリシアに尋ねる。
「おい、何やってるんだ? 」
「何って、ハスタァ僧正の言いつけで、誰か来ないか見張っているのよ。」
再び扉にへばりつき、耳をそばだてながら、アリシアは煩わしそうに答えた。
「なぁ、それじゃ見張りになってないだろう。」
「どうだっていいのよ、そんな事! それよりもハスタァ僧正を訪ねて来たお客様が、凄くいい男なのよ! そっちの方が重要だわ。」
「お客様? 客が来てるのか? 」
大男はアリシア同様に扉にへばりつき、聞き耳を立てる。
「ええ、何でも郷里の古い友人ですって。」
「郷里の古い友人となると、デラポーアのアルフだろうか? それともノリス家のエドか? 懐かしいな。」
「ノーデンス様よ! 」
大男はギョッとした顔で自分を指差し、アリシアの後頭部を見つめる。
そんな事はお構い無しに、アリシアは言葉を続ける。
「私はマリア巫女になる前は、深窓の令嬢だったから、噂しか知らないんだけど、ノーデンス様ってば、ムキムキマッチョのヒゲ達磨って話じゃない。それが本当はあんな涼やかでステキな方だったなんて……、本当に事実は小説よりも奇なり、だわ。」
心から感心した様子のアリシアに、大男は更に奇なる事実を告げる。
「おい、ノーデンスは俺だ、ハスタァに取り次いでくれ。」
「はぁ! 何言ってんの、アンタ! 」
怪訝そうな瞳で、アリシアは大男を見上げる。
「ノーデンス様なら、今部屋の中に居るじゃない、怪しい人ね! 」
アリシアは激しく扉をノックして叫ぶ。
「ハスタァ僧正! ハスタァ僧正! 怪しい奴が現れました! ハスタァ僧正! 」
すぐに扉が小さく開き、眉間に軽く皺を寄せたハスタァが顔を出す。
「何ですか、騒々しい。マリアに仕える巫女がはしたない。」
「ノーデンス様の偽者です、如何しましょう! ? 」
「何? ノーデンスの偽者? 」
ハスタァが視線の高さを上げ、アリシアの背後に立つ大男の顔に合わせた。
「げっ! ノーデンス! 」
「何だ、ハスタァ。田舎から誰か来てるのか? アルフか? エドか? 懐かしいじゃないか、俺にも会わせろよ。」
懐かしさに顔をほころばせ、部屋に入ろうとするノーデンスを、ハスタァは狼狽しながら押し止める。
「いや、違うんだノーデンス。ちょっ、ちょっと待ってくれないか。」
「いいじゃないか、ハスタァ、通せよ。」
「な~んだ、やっぱり違うのか。……そうだ! 」
頭上の押し合いの隙をついて、好奇心に目を輝かせたアリシアが部屋の中に飛び込んだ。
「こら、アリシア、やめなさい! 」
ハスタァの制止の声を無視して、アリシアはキョウの許にまっしぐらに駆け向かう。
そして、全く使われていないティーセットに目をやり、ため息をつく。
「まぁ、これじゃあ折角のお茶が台無しです、ハスタァ僧正にも困ったものね。すぐにお淹れしますね、お客様。そうそう、甘いお菓子も有るんですよ。」
アリシアはてきぱきとした動作で、お茶とお菓子をキョウに振る舞った。
キョウは出されたお茶を一口啜り、アリシアに礼を言う。
「ありがとう、これは良いお茶だね。」
「はい、実家で扱っている最高級の銘柄です、お菓子もどうぞ。」
褒められて喜び一杯のアリシアは、満面の笑みでキョウを見つめる。
「それでお客様、お客様は一体……」
誰なんですか? と、言葉を繋ごうとしたアリシアに、ハスタァの叱責の声が被さる。
「アリシア! 余計な事はやめなさい! 」
「おい、そんな事より、俺も中に入れろ。」
強引に部屋に入ろうとするノーデンスと、それを押し止めるハスタァ、このちょっとした騒ぎに、たまたま通りかかったアーミティッジ枢機卿が眉をひそめて歩み寄る。
「何の騒ぎですか、ハスタァ僧正。」
今、一番来て欲しくない人物の登場に、ハスタァの焦りはピークに達した。
「いえ、何でもありません、アーミティッジ枢機卿。」
アーミティッジ枢機卿は、わざとらしい笑顔を動揺する顔に貼り付けてやり過ごそうとするハスタァに、少し怪訝そうな目を向けた。
「何でもなければ、騒ぎにはならないでしょう。」
部屋の中を覗き込もうとするアーミティッジを、ハスタァはさりげなく身体でガードする。
「いえ、本当に、コイツが騒ぎ過ぎるんですよ。」
「俺が悪いのか! 」
いきなり責任転嫁されたノーデンスが、目を剥いてハスタァを睨む。
間の悪い奴め、ハスタァは軽くひきつった表情でノーデンスを睨む。
「埒が開きませんね、中に通しなさい、ハスタァ僧正。」
アーミティッジ枢機卿のその言葉に、ハスタァの進退は窮まった。
脇の下から冷や汗が滝の様に流れ落ちるハスタァの背中に、アリシアのもてなしを堪能したキョウが声をかける。
「実は頼みがあるんだ、ハスタァ。ビヤーキー隊を貸してくれ、理由はマージの孤児院で話す。」
キョウは立ち上がり、アリシアに「ご馳走様、美味しかった。」と声をかけ、バルコニーに向かって歩き始める。
「あぁ、そうだ、ハスタァ、俺達には分からない話もあるから、
そう言ってキョウは、バルコニーに足をかける、アリシアは慌ててキョウに駆け寄る。
「お客様! ここは四階で、そっちは崖です! 」
キョウは血相変えて駆け寄るアリシアに、笑顔で軽く目礼をすると、外に向かってダイブした。
「お客様~! 」
驚いてバルコニーに駆け寄り、手摺を握りしめ下を見るアリシアの鼻先を、漆黒の神々しい精霊機甲がかすめる様に飛翔する。
思わず尻餅をついたアリシアだったが、彼女の目はその精霊機甲の肩部装甲、右肩に印されたマリア騎士団の紋章、左肩に印されたネオンナイトの紋章を、しっかりと捉えていた。
「あの紋章は……、噂は本当だったんだ。」
アザトースの飛び去った方角を、初めは呆けた表情で見つめていたアリシアだったが、その瞳は次第に希望に満ち、輝いていった。
「よし! 」
アリシアは拳を握りしめ、小さく気合いを入れた。
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