ディストピア

藍月隼人

プロローグ

地獄にある三途の川のほとりで、なまぬるい風を浴びながら俺がまどろんでいると、電子機器に電源が入った時のような低い音がした。


誰かが空間をねじ曲げて移動してきたんだろう。魔界では聞き慣れた音だ。急な来客に川魚や河童が上流へと泳いで逃げていく。臆病なやつらだ。


俺は音がした方向に耳だけを傾け、注意深く音の正体を探ろうと神経を集中させた。ちょいと昔なら下流の賽の河原から石が積まれる音と崩される音、それからすすり泣く声や意地の悪そうな笑い声が木霊してきただろうが、今は静かなもんだ。


まず2本の足が地面に降り立つ微かな音、続いてもう2本の足音。間隔が短く小さいうえに地面の振動もない。


つまり音の主は、大きくもなければ重くもないということ。察するに今の俺と同じ姿か、あるいはそれに近い小動物。


なまぬるい風に乗ってケモノっぽい臭いと花の香りがする。これはスミレの花か?


だとすればアイツしかいない。


「何してるのティミー」


間違いなくミシカの声だ。黙って近づいたりせず発声する点は好感が持てる。


「昼寝の邪魔だ、失せろミシカ」


だが、俺は怒りを表現して低い声で伝えた。安眠を妨害するやつは女だろうが子供だろうが関係ない。


「なによ、せっかく面白い話持ってきてあげたのに。猫の姿で凄んだって怖くないんだからね!」


やれやれ、つい2年ほど前に、俺の気まぐれで命を救ってやってからというもの、ミシカはこうして魔界の最新ニュースを届けるようになった。


我ながら余計な事をしちまったもんだ。猫の姿が怖くないって? だったら身の毛もよだつ怪物に姿を変えて丸飲みにしてやろうか。この地獄じゃ死ぬことはないが、肉体が再生するまで行動不能にすることくらいはできる。


そう思う反面、こいつの持ってくる情報は確かに面白いものが多いことを思い出す。驚かすためだけに姿を変えるのはエネルギーのムダだと考え直して、俺は話しを聞こうと頭をあげた。


「何の用だ?」


「興味深い人間を見つけたのよ」


ミシカは俺の予想通り、猫の姿をしていた。綺麗な緑色の瞳が俺を見つめ返している。毛並みは丁寧に整えられ、首にはスミレの花を使ったネックレスをしている。なかなか気品があって見目麗しい。


俺はこう見えて清潔だし、美しいものを見るのが好きだ。日頃からミシカには俺の目の前をウロチョロするつもりなら、ゴミと間違えて踏みつぶされたり蹴り飛ばされたりしない美しい姿でいるように言ってある。


「どうせ、この間言っていた飼い主の話だろう?」


俺は興味を削がれて両手の上に頭を戻した。ミシカは人間界で飼い猫として暮らしている。ほんの数千年前、人間によって地獄に規律が生まれ、人間界に行く手段が面倒になってから俺は行ってない。


「なによその態度! アンタ地獄がこのままでいいと思ってるの!?」


「いいじゃねぇか、平和で」


「アンタこないだ退屈で死にそうだって言ってたくせに」


「うるせぇなあ、初代閻魔が引退して地獄は変わっちまったんだ。人間が管理するようになって何年経ったと思ってるんだ? いまさらどうしようもないのさ」


「あっそ! じゃあ縁側で茶でもすすりながら朽ち果てるといいわ! アタシは諦めないから!」


そりゃあ俺だって、不満が無いわけじゃないが、退屈だからといってまた人間に戦争を吹っ掛けるほどバカじゃあない。


初代閻魔が人間を裁いていた頃から、俺のやることはたいして変わっちゃいない。悪魔の力を借りたいって輩も今じゃほとんどいなくなり、毎日魔界で退屈な時間を過ごしてるだけだ。


「おまえはどうしたいんだよ、人間を滅ぼして魔界の王にでもなりたいのか?」


「そんなわけないでしょ、アタシ達も人間達も両方が住みやすい魔界にするのよ!」


「ハーッハッハッハ! そいつは面白いな! 悪魔と人間がお互いに住みやすい世の中にしたいとは! この魔界で! しかもそれを悪魔のオマエが言うなんてな!」


「なによ、なにがおかしいのよ!」


「ここは天国じゃあないんだぜ? 人間達は、あの日俺達を追い出した。漂う魂だった人間が実体を持ち、魔力を制御し、地獄を支配したんだ。俺たちの時代は終わったんだよ」


「アタシを見てよ、人間界に溶け込んでいるわ! 共存は可能なのよ!」


「あっちはそれを望んでいるのか? いないほうがいいと思ってるんじゃないのか? 偽りの姿を強要するんじゃないのか?」


「人間は多種多様な生き物よ。共存を理解する人もいるわ」


なるほど、それが今の飼い主ってわけか。


ミシカの言いたいことはわかった。


俺は三途の川の向こうにある人間達の住む地獄を見た。生前の街並みを再現した巨大な都市が闇夜を明るく照らしている。


死後も快適な生活を送るために作り出した人間達の箱庭だ。反対に俺の後方に目を向けると山があり、その向こうに生きている人間達の世界がある。


俺達悪魔と呼ばれる生き物は、どちらにも行くことを禁じられている。もしどうしても行くと言うなら、しちめんどくさい手続きをふんで契約を交わさねばならない。


「ま、退屈しのぎにはなるか」


俺は伸びをして立ち上がるとミシカの余興に付き合うことにした。

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