英雄の影にいた僕らの物語

六香

始まりの頁

 見ただけで足が竦む森。


生き物の気配も、澄んだ空気も、陽の光すらも拒絶するかの様にどこか禍々しいその森は、木の実が落ちるその音さえも全体に響くのではないかと思うほど、常に奇妙な静寂に包まれている。


だが今日はその静けさを掻き消すどころか、森全体を騒がせるような空気が、小一時間ほど入り込んでいた。


「やばいやばいやばい――っ……!!」


ほぼ闇と言っていいほど視界の悪い森の中を、オレンジの髪の少年は無我夢中で駆け回っている。


たまに後ろをサッと見ては、恐怖の色を濃くし、さらに速度を上げていった。


その隣にはかなり大きめの、森の闇にも負けない漆黒の毛並みをまとった狼が、そのいかつい風貌とは似ても似つかない、まるで走る玩具おもちゃを追いかける幼い子供のように楽しげに少年の隣を走っている。


この一人と一匹の空気の差は天と地ほどもあるが、わざわざ人々が畏怖するこの森の中で走り続ける理由は何の違いも無い。


―――ッどんどん近付いてきてる……!


どうしたものかと考えるよりも先に、少年の瞳は大きな木の小さな空洞を捉えた。


そこに転がるように入り込むと、狼も同様に飛び込んでくる。


少年は自分たちを追いかける、この森より更にどす黒い空気を纏う気配が離れていくのを感じると、やっと一つ大きな溜息を吐いてその場にへたり込んだ。


「も、もう……無理……………」


肩は大げさなほど上下し、瞳は視界がぼやけるほど潤み、足は押さえても震えが止まらず、喉からは錆びた鉄の様な臭いがする。


正に全身で限界を伝えている少年の身体とは対照的に、狼の方はまだまだ余裕だと言わんばかりに尻尾をがんがんに振っている。


まるで遠足に来た園児のように楽しげな狼に、少年は有り余る力を振り絞って睨みつけた。


彼がここまで体力も精神も擦り減らす原因を作ったのは、他でもないこの漆黒の狼だ。


溢れる憎悪を視線に込めるが、体に限界が来ている少年の目は疲れから自然に潤んでいて、迫力が無いことは少年自身が一番理解していた。






 時間は少しだけ前に戻る。


少年は一人、丘の上に登ると、そこに思い切り大の字に寝っ転がった。


「やっぱりここは気持ち良いな〜…!」


澄み渡る空気を思い切り吸い込み身体に満たすと、今度はゆっくりとその空気をはき出す。


夜になると綺麗な星を何にも邪魔されることなく満喫できるこの場所は、彼のお気に入りの場所だった。


「………」


しばらく何もせず、ただひたすら空を見つめる少年だったが、不意にポケットから銅色のロケットを取り出した。


小さく細かい鎖でできたチェーンの先端にある留め具は、無理やり引きちぎったのか歪な形に変形している。


中を開くと、少年と、彼の家族の写真らしきものが収められていた。


「やっぱり父さんとかに見せたかったな〜…ここの景色」


少し大きめな独り言を言うと、少年の瞼は自然に閉じられていった。






 目が覚めたのは、何かの気配を足の辺りから感じた時だった。


「…………?」


上体を起こして視線を気配に移すと、そこには真っ黒な狼がいた。


全身が世界中の黒という黒を集めたのではないかと思うような艶のある真っ黒な毛並み。

金色の双眸はどんな猛者も黙らせられるだろうと思うほどの無言の圧力がある。


他の狼とは一回り、二回りも大きい狼を目の前に、少年は石のように固まった。


―――なにこれ、どういう状況!!?


急いで槍を手に取ろうとするも、今日は運悪くそれを持ってきていないことに気付くのにそう時間は掛からなかった。


少年が混乱している間にも狼は少しずつ顔の方に近付いて来る。


―――どうしよう、死んだ振りは駄目だよね?どうしよう……


しかし少年の焦りは裏切られた。


狼はしばらく少年を見つめはしたものの、そのまま危害を加えることも無く、少年の顔から徐々に離れて行ったのだ。


―――助かった……?


少年はこっそり胸を撫で下ろした。


だがそこでまたこの少年は裏切られる。


ロケットを見つけてしまった狼が、キラキラと―――否、ギラギラとした瞳で少年の手に真っ直ぐに飛び掛ってきたのだ。


「うわっ?!!!!」


不意をつかれた少年は手にその狼の牙を受け、ロケットを手放した。


狼はそれを狙っていたかのように、落ちたロケットを咥えると、そのまま森の方へ走って行ってしまった。


「え…と……え……?」


痛みに手を押さえながら呆然としていたが、ロケットを盗られたという事実を再び脳が再認識した瞬間、慌てて狼を追いかけた。



父親の形見であるロケットを奪われるわけにはいかなかった。







 狼に誘われるがままに狂気の森へ入った瞬間、思わず少年は顔をしかめた。


空気が重い。息が少しだけ苦しくなった。

何より、視界が昼間とは思えないほど悪い。


この闇の中であの真っ黒な狼を探すのは、かなり苦労しそうだった。


―――まいったな…………


少年は頭を掻くと、少しの間目を閉じる。


しばらくして目を開けると、彼の水色の瞳は何処か深みのある若草色に変化していた。


―――うん、これなら少しましだ


少年は満足げに口角を上げると、今度は迷い無く森の中に足を踏み入れていった。







 やがて少年の前に先ほどの狼の後ろ姿が現れた。


狼は何か奥の方を見るようにして、少年に気付いていない。


さらに周囲をよく見ると、狼よりも数メートル前にロケットが落ちていた。


気付かれないように近付いて、サッとロケットを取ると、急いでポケットの中に入れた。


―――良かった…!!


そのまま少年が逃げるよりも先に、狼が少年の気配に気がついた。


少年の足元に来るとそのまま少年の周りをグルグルと回り始め、何かを訴えるように吠え続けた。


「うわっちょっ目、目が回る…!」


ずっと回っている狼を見ているのが悪いのだが、少年はそれに気付かない。


そろそろ酔ってくると思い始めた時、先ほど狼が見つめていた方角から、凄まじい殺気を感じ取った。


驚いてその方向を見ると、狼が少年とその気配の間に立って威嚇を始める。


空気から伝わる殺気は、電気のようにビリビリと肌を打ってくる。


少年はその時初めて、この森に入ったことを後悔した。


―――槍も持ってきていないのに何をやってるんだろう僕は…?!!


しかし今更、後の祭りである。


思考停止に追い込まれかけている脳を必死に動かしていると、それを妨げるように、


「グォオオオオオ!!」


という咆哮が轟いた。


気配は明らかに、此方に近づいてきている。


「に………逃げろ!!!!」


こんな時にもぐるぐると回る視界を忌まわしく思いながら、今まで通ってきた道とはまた違う方向に走りだす少年を追いかけるように、狼もその後を走りだした。







 そして今に至る。


だいぶ息は収まってきているが、とてもまだ走れそうにはない。


「大体此処…何処なんだろう……」


一般人の少年からしてみれば、此処は完全に未開の地だ。


地味だが山地であり、言葉での表現に困るほど広いこの森は、国境の役割を果たしている大事な場所であると同時に、最も身近な伝説の地なのだ。


有名な伝説をあげるならば、『空間』の存在だろうか。


何でもこの森の中には『空間』と呼ばれる場所が複数存在するらしく、そこは空気も違い、森から隔絶されているようなのだとか。


中央の空間には悪魔が住むとか、綺麗な泉のある精霊が眠るとか、嘘か本当かも解らない噂を大の大人が話しているのを聞いたことがあるが……逆に言えばこの森の情報など、それくらいしか無いのだ。


つまり、遭難状態の少年に残されたのは、己の勘だけだった。


「出口ってどっちだろう……」


今まで一度も入ったことのない森を、木などを障害物にうねうねと走り回ったので、はっきり言って完全な迷子状態だ。


―――十七歳の迷子なんて……聞いたことがないや…


自分の置かれた状況の惨めさに、思わず少年は肩を落とす。


「弱ったなぁ…君が判るわけもないし…」


少年は少し嫌味を含めた言い方で狼の方をちらりと見たが、狼は「そんなこと知るか」と言うように、目を合わせようともしない。


―――狼に当たっても仕方ないか…幼い子供じゃあるまいし……


軽めの溜息を吐くと、周りを眺め始める。


周りは木、木、木。

逆に何があるのか教えて欲しいくらい木しかない。


皮肉って言うなら空気があるとか土があるなどと言えなくはないが、そんな屁理屈、今は聞いちゃいない。


何処かの童話みたいに、歩いてきた道に目印でも置いておく余裕があったなら…などと色々思うことは幾つもあるが、打開策は全く頭に浮かばない。


―――あぁもう!ホント使えないなぁ僕の頭…


そう思った瞬間、ただでさえ暗い周りの地面に、更に暗い影が差してきた。


狼はすぐさま気付き、唸り声を上げる。


が、その気配に背を向け、ひたすら思考に没頭してた少年は、迫ってきている気配に直前まで気付くことすらできなかった。


「グルルルルル……!!」


「んー?お腹空いたのー?今は無理だよー?」


既に一メートル程先に、虎のような姿をした巨大なそれは、殺気を隠そうともせずに此方を見ている。


「あ~もう分かったよ!外出れたら何かあげるか――」


そこまで来て、ようやく少年はそれの存在に気が付いた。


―――しまった?!!


急いで空洞から出ようとした瞬間、蛇のように縦横無尽に張り巡らされた木の根に思い切り躓き、情けないほど高く短い悲鳴を上げて、その場に顔面から転けた。


既に頭上から殺気を見上げなくても感じる。


正直、今から抵抗しても、この相手の巨体を考えれば何の意味も成さないというのは、赤ん坊でも判るだろう。


―――父さん、母さん、ごめん…かなり早いけど、再会することになりそう…


振り上げられた虎の前足がこちらに勢いよく迫るのを感じて、全てを諦めた少年はそのまま意識を飛ばした。

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