第十章 海風 ③
戦競が始まった。
もともと若手精鋭を集めた「いずも」戦闘飛行隊はやはり強く、特に敏生と夕陽の息の合った見事なコンビネーションは周囲に驚きをもたらした。競技はただ撃墜すればいいだけでなく連携も重要な評価項目となるだけに、それは非常に大きなアドバンテージとなる。
一年半に渡りトップパイロット達に揉まれてきた夕陽にとって、戦競は初参加ではあったが自身の成長に確かな手応えを感じることができ、久々に充実感で満たされていた。
そんな順調に進んでいたかに見えた矢先、事件が起こった。それは三日目の午後の競技が始まる前のこと。
敏生を探していた夕陽は、格納庫の方が騒がしいことに気づいて駆け付け、愕然とした。
夕陽にとって新旧エレメントリーダーの敏生と木村、その二人が口元から血を流し、それぞれお互いの仲間達に羽交い締めにされ宥められている。それは明らかに殴り合いの喧嘩が繰り広げられた後だった。敏生は未だ興奮している様子で、仲間を振り解こうとあがいている。
「敏生!! やめて!!」
夕陽は彼のところへ駆け寄ると、敏生を抑えようと抱きついた。
「何やってんのよバカ!! 何があったか知らないけど!? 暴力に訴えるなんて最低!! 見損なったよ!!」
その夕陽の言葉でピタリと彼の動きが止まる。
そっと顔を上げ彼の様子を窺い、夕陽は凍り付いた。自分を見つめる、それは初めて目にする彼の傷付いた表情。
「あ……」
敏生の力が抜け、彼を抑えていた他の仲間達も体を解く。
彼は地面に転がっているヘルメットを拾い上げると、よろよろと隊舎に戻っていった。
「……何があったんですか? 木村一尉!」
夕陽は縋るように木村を見たが、木村もまた仲間の腕を振り解くと、何も答えずに口元の血を拭いその場を立ち去った。
結局、敏生は相手が上官だったこともあって五日間の自宅謹慎処分となり、一方の木村はお咎めなしだった。それはこと戦闘機分野においてはおんぶに抱っこで肩身の狭い海自が、空自に配慮した結果でもあった。
絶対的なエースである敏生の失格と離脱は痛かったが、もともと「いずも」戦闘飛行隊は勝野がパイロットから整備員まで有望な若手をかき集めた精鋭集団、それでも優勝を果たすことができた。
勝利に沸く飛行隊の仲間達。だが、夕陽の心は晴れなかった。何より、自分の言葉に傷ついた敏生の顔が頭から離れない。
一人歓喜の輪から外れ、隊舎の裏で蹲る。
「神月……」
名前を呼ばれて顔を上げると、そこにいたのは木村だった。
「木村一尉……」
心なしか彼の顔が蒼い。上官に対し座ったままでは失礼なので、夕陽はおもむろに立ち上がると、お尻をパンパンと払った。
「すまない! 俺はお前に対して最低なことをした!」
いきなり頭を下げられ、戸惑う。思い当たるのは昨日の敏生との喧嘩のことしかない。
「どういうことか……詳しく聞かせてもらえます?」
夕陽が木村を覗き込むようにお願いすると、彼はポツリポツリと話し始めた。
木村は焦っていた。彼の所属する築城第六飛行隊はF35Jに機種転換中の身で、未だ半数以上がF2戦闘機のまま。機種変更完了まではあと二年はかかる。そんな中での戦競への参加。隊内のF35J錬成を任されている木村としては今回の戦競で結果を求められていることは分かっていた。
だが、F35Jのマザースコードロン(母体飛行隊。F35Jを最初に装備した部隊)である第三飛行隊には練度で全く敵わず、それどころか通常型のJ型に比べ、空戦性能面で劣るはずの海自のF35Bには圧倒的な力を見せつけられた。そしてその中の一人が、かつての自分の部下で、密かに想いを寄せていた夕陽だった。確かに彼女は千歳時代から抜群のセンスを誇っていたものの、当時は太刀打ちできないほどではなかった。
それが今はどうだ? 明らかに自分を上回る技量を持ち、そして自分の知らない男と抜群のコンビネーションを見せている。そして、千歳時代にはめったに見せなかった笑顔。
全てが腹立たしかった。自分の不甲斐なさ、かつての部下への嫉妬、そして想いを寄せる女性を取られてしまった悔しさ。
だから感情をぶつけてしまった。
門真敏生。空自創設以来の天才パイロットと言われた男。
「お前んとこの客寄せパンダには負けたくないからな」
すれ違いざま、ペコリと頭を下げた彼に思わず口走ったのが発端だった。
「……何すか? それ」
聞き捨てならないといった様子で立ち止まり、振り返る若き天才。
「いい気なもんだ。空自のPR戦略でパイロットになれたようなもんなのにな。さも実力のような顔しやがって」
違う、そんなことこれっぽちも思っちゃいない。俺は一体何を?
「……夕陽は千歳のベストガイだったんだろ? それに勝野のオッサンが選んだやつだ。何よりこの一年半、俺はずっと一緒に飛んできた。あいつの実力は誰よりもこの俺が知っている」
射抜くような目で睨みつけてくる後輩。その言葉にカッとなる。それくらい俺だって知っている!
「ふん、お前だって思ってるんだろう? あいつが客寄せパンダだって」
「やめろよ」
「カッコつけやがって。どうせお前はあいつの容姿に惚れただけだろ?」
「……てめぇ!」
次の瞬間、左頬に衝撃を受けその場に倒れ込んだ。彼はさらに怒りの形相で上に乗りかかってきて、胸倉をつかまれる。
「夕陽はあんたの事を信頼していた!! なのにあんたは!!」
その目にはうっすらと涙が滲んでいて、それが逆に木村の癪に障った。怒りに任せて殴り返すと今度は門真が転がった。
あとはもう覚えていない。気がついたら仲間達に羽交い締めにされていた。そしてその目に飛び込んできたのは、彼を必死に止めている夕陽の姿。
何もかもが自分の完敗だった―――――
「めったに笑うことのなかったお前が、あいつといる時はいつも笑顔なのが悔しかった。お前とあいつの息の合ったコンビネーションに嫉妬した。最低だよな、俺。本当にすまない」
深く頭を下げ自分に詫びる、かつての上官の姿。その姿勢に嘘偽りはないだろう。そういう男だ。だが、夕陽はぼんやりと彼を眺めながら、全く別のことを考えていた。
「……そっか。あいつといる時、あたし笑えてるんだ」
夕陽は木村の謝罪には答えず、独りごちて微笑んだ。
「え?」
「ありがとうございます、木村一尉。あ、大丈夫ですよあたし。客寄せパンダなんて百も承知ですから」
そう言い残すと夕陽は駆け出した。
「神月!! 俺、お前のこと……ッ!!」
背後から木村が叫ぶ。夕陽は立ち止まって振り向くと、満面の笑顔を浮かべた。
「ごめんなさい!! あたし、彼が、敏生の事が大好きなんで!!」
叫び返すと再び走り出す。
会いたい。敏生に。一刻でも早く。
ロッカーで着替え、急いで廊下に出ると隊長の勝野が向こうから歩いてくる。
「あ、隊長! 神月、早退します! 祝勝会にも参加できません!」
勝野は一瞬キョトンとしたが、すぐに口元に笑みを浮かべると、
「明日も休んで良し!」
と返ってきた。
敏生……、敏生、敏生。
息を切らせながら正門を駆け抜け、そのまま綾瀬の街を走る。
自宅謹慎の身だからきっとアパートにいるはずだ。部屋に入ったことはないが場所は知っている。
彼のアパートの部屋に着いた夕陽は呼吸を整えると呼び鈴を鳴らした。しかし、反応がない。ノックしてみるが同じだった。
禁を破って出かけてしまったのだろうか? それとも傷心を癒すため、他の女性のところに……?
ぶんぶんと頭を振って嫌な妄想をかき消す。しばらく待ってみたが彼は帰ってこず、仕方なく夕陽はいったん、自分のアパートに戻ることにした。
いつも当たり前のように傍にいた彼。会いたいのに会えないのはこんなに辛いものなのか。
途方に暮れて歩いていると、ふと、向こう側からコンビニ袋を下げて歩いてくる男の姿が目に入った。
「夕陽……」
向こうもこっちに気がつき、気まずそうに立ちすくんでいる。
その顔を見た瞬間、なぜだか無性に怒りがこみ上げてきて、夕陽はズカズカと敏生の前まで歩み寄ると、平手で思いっきり彼の左頬を引っ叩いた。
「ぶっ……おっ、お前暴力は最低って……」
「うるさい!! つべこべ言ってんじゃないわよ!!」
怒鳴りつけると、ジワっと涙が滲み始める。
「何で、何で何も言ってくれないのよ!? あたし一人バカみたいじゃない!!」
夕陽は涙を流しながら、そっと敏生の大きな右拳を両手で包んだ。暴力は決して肯定できない。だが、自分のために振るわれたこの拳。愛しくて仕方ないからこそ、次は間違って欲しくない。
「敏生のこの手は……操縦桿を握るためにあるんだよ!? 大空を翔けるためにあるんだよ!? あたしのために……無駄遣いなんか……しないでよぉっ」
彼の拳に額をつけ、嗚咽する。
「……それは違う」
彼はコンビニの袋をドサッと足下に投げ置くと、夕陽を抱き締めた。
「この手はお前を守るためにあるんだよ。俺にとっての全てを守るために。それじゃ……ダメか?」
「バカ……ッ!」
彼の手が頬にかかり、夕陽は涙で溢れた目をそっと瞑った。次の瞬間唇が重ねられると、夕陽は彼の腕に身体を預けた。
色気も何もない、夕暮れ時の住宅街でのファーストキス。
そして夕陽は彼に抱かれた。
愛しい彼の匂いが立ち込める部屋。玄関を上がるなり敏生に後ろから抱き締められる。
大丈夫、怖くなんかない。
「ごめん、俺、今童貞に戻った気分。少し乱暴になるかもしれないけど許して」
背中に感じる彼の鼓動。その言葉に偽りは無さそうだ。夕陽がコクンと頷くと敏生にヒョイっと横抱きにされた。そして唇を塞がれると、そのまま部屋の中に運ばれ、ベッドに横たえられる。彼の匂いが染み付いたシーツにますます動悸が早まる。激しいキス。ファーストキスはつい先ほどのことなのに、あれから何度キスを重ねたか、もう数え切れなくなっている。
好き。
彼が一枚一枚、丁寧に夕陽のブラウスを、スカートを、そして下着を脱がしていく。初めて異性に晒す肌が恥ずかしくて、彼にしがみつくが、その手を彼がそっと振りほどいた。
「ごめん、見たいんだ。夢にまで見た夕陽の身体」
その言葉に夕陽はキュッと目をつぶると顔を横に向け、恥ずかしさに耐えるようにシーツの端を握りしめた。
「とても綺麗だよ、夕陽」
彼の指がすーっと、夕陽の曲線をなぞる。それから後のことはよく覚えていない。ただ、彼と一つになれた瞬間、止めどなく涙が溢れた。
「大丈夫? 痛い?」
痛い。でもこれくらい平気だ。そうじゃない。
動かず、心配そうに頬を撫でてくれるその手を取ると、首を横に振った。
「さっきね……、敏生に会いたくてここに来て、でも部屋に敏生がいなくて……心が張り裂けそうだったの」
泣きながら、でも彼に分かって欲しくて途切れ途切れになりながらも言葉を紡ぐ。
「もしかしてあたしのせいかな、とか……他の女の人のところに行っちゃったのかな……とか」
失ってしまったと思った。よく確認もせずにあんなことを言ってしまったから。
「だからね、今すごく幸せで……」
今まで怖くて踏み出せなかった世界。直接感じる彼の温もりが、彼の吐息が、彼の鼓動が、こんなに幸せだったなんて。だから。
「お願い……、もうあたし以外の人とこんなことしないで……。好きなの、敏生が……!」
彼とこうなって初めて知る感情。
いやだ。たとえそこに彼の気持ちがなかったとしても、他の女になんかこの幸せを渡したくない。
敏生は驚いた様子で泣きじゃくる夕陽を見つめていたが、やがてすごく嬉しそうに微笑むと、瞼にそっとキスを落としてくれた。
「大丈夫。俺はもう、夕陽だけのもんだから」
「としきぃ……」
怖い。幸せ過ぎて。こんなことならもっと前から彼に抱かれておけばよかった。
すると彼は急に悪戯っぽい笑みを浮かべて、夕陽の耳元に口を近づけ囁いた。
「その代わり……。今夜は一度で済ますつもりはないから」
「……え?」
「ということでまずは一回戦ね」
「え? あっ……!」
翌朝に待ち受ける過酷な状況を知る由もなく、夕陽は彼の与えてくれる快感に素直に身を委ねた。出会ってから一年半に渡りお預け状態だった彼は、初めての夕陽に対して容赦なかったが、それは嫌ではなく、むしろそこまで愛されていたことにこの上ない悦びを感じ、もっと早く彼のものになっていればよかったと後悔した。
それが今から八か月ほど前の出来事。
あの温もりは永遠に続くものだと思っていた―――――
*
叩きつけるような海風に夕陽は現実に引き戻された。
硝煙の渦巻く海。甲板には撃破したミサイルの破片らしきものが散らばっている。
「夕陽さん……」
その声に振り向くと、美鈴が生気を失った顔で立っていた。
「ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさぃ……」
彼女は突然、その場に泣き崩れると甲板に手をついて、憑かれたように謝り続けている。
わけが分からず、茫然と見つめていると、美鈴が消え入るような声で話し始めた。
「昨日の夜……機体をチェックしてたら門真二尉がいらっしゃって……」
……敏生が?
「夕陽さんの機体を……飛ばさないでくれって……不具合だと……言ってくれって……土下座までされてあたし……」
美鈴はそこまで話すと、堰を切ったかのようにうわあああと号泣しはじめた。夕陽はしばらくの間その彼女の様子を眺めていたが、やがてゆっくりと彼女に近づくと、ポンポンと労るように背中を叩いてやった。
「美鈴ちゃん、騙されたんだ」
「え……?」
突然クスクス笑い始めた夕陽に、美鈴が驚いて顔を上げる。
「土下座はね、あいつの常套手段なんだよ。いつもそう。他の女の子と鉢合わせした時とか」
夕陽はふーっと溜め息をつくと、すっきりした表情を浮かべた。
「おかしいと思ったんだよな。今まで美鈴ちゃんが飛ばせない事なんてなかったもん」
「夕陽さん……」
「ごめんね、辛かったでしょう? 美鈴ちゃんまで巻き込んで、あのバカ」
夕陽は寂しげに笑うとスッと立ち上がった。
「夕陽さん……?」
一転して厳しい表情で戦場の空を見つめる。
「飛ばせるんでしょ? あたしのライトニング。じゃあ行かなきゃ」
いつでも飛べるよう、装備は付けたままだ。
「彼が待ってるの。あたしのこと」
そう言うと夕陽は甲板上の愛機に向かって歩き出した。
「夕陽さん!!」
「……今までありがとうね。大好きだよ、美鈴ちゃん」
止めようと叫ぶ美鈴の声にいったん立ち止まると、振り向くことなくそう言い残し、再び歩み始めた。
南海の嵐の中、魔女が降臨したことに気づく者など誰もなく。
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