第十章 海風 ①



第十章 海風



 出会いの印象は最悪だった。

 それは夕陽がもっとも忌み嫌うタイプの男。

 何で今日出会ったばかりの男に壁際まで追い込まれなくてはならないのだ? しかも職場の装備用ロッカーで。

「ばっかじゃないの?」

 一階級上の、仮にも上官に対して使ってよい言葉ではなかったが、口をついて出てしまったものはしょうがない。

 だが、彼はそんなことには微塵みじんも気にする素振りを見せず、グイッと夕陽ににじり寄った。確かに前の所属で女性隊員達が噂していた通りの超絶なイケメン。モデルと言われても納得してしまう。

 だが、それが何だと言うのだ?

 空自創設以来の天才パイロットだか何だか知らないが、こっちだって実戦部隊二年目にして異例とも言える、千歳のトップガンの称号を手にしたのだ。なめられてたまるか。

「あたし、あんたみたいな男、大嫌いよ」

 北空の魔女の由来となった、男達が消沈する冷ややかな視線で彼を見据える。しかし彼はニヤッと笑うとますます距離を狭めてきた。

「ありがとう。その言葉、最高に嬉しい。知ってる? 好きの反対語は無関心なんだぜ?」

「なっ」

 彼の唇が自分のそれに近づく。周りには誰もいない。絶体絶命のシチュエーション。叫べばよいのかもしれないが、そんな普通の女の子のような真似はプライドが許さなかった。

 やっ、何でこんなやつなんかに……。

 悔しさでギュッと目を瞑る。だが、唇はそのまま来なかった。恐る恐る目を開けると、彼はスッと離れてクスッと笑った。

「君の初めては全て俺がもらう。正々堂々とね」

 その言葉に夕陽はカッと真っ赤になった。

 何で、何で分かったの? あたしがキスもまだだって……。

「あ、あんたなんか好きになるわけないじゃない! 絶対にあり得ないんだから!」

 彼がアハハと楽しそうに笑う姿に腹を立てると、思い切り胸を突き飛ばしロッカーを出て行こうとしたが、咄嗟に手首をつかまれた。

「ちょっ!?」

 そして後ろから片腕で両肩をホールドされる。

「離して!」

「ほら、前向いて」

「はぁ!?」

 パシャッ

 前を向いた瞬間に鳴った機械音。

「ほい、夕陽とのツーショットげっと。いる?」

 な、なんなのよこいつ……。しかもいきなり呼び捨て―――――!?

「いるかそんなもん!!!」

 それが天才ファイターパイロット・門真敏生との出会いだった。


 誰にも負けたくない。ファイターパイロットである以上、性別などは関係ない。

 訓練は初日からハードだった。

 慣れ親しんだF15Jイーグル戦闘機から最新鋭機・F35BライトニングⅡへの機種転換。

 アビオニクス関連だけでも勝手が違うのに、短距離離陸、垂直着陸、そして空中静止と、何から何まで勝手が違う。ヘリコプターかこれは? と思わずツッコミを入れたくなる代物だった。

 部隊創設前に機種転換を済ませた隊長の勝野と副隊長、そして二人の四機編隊長の指導の下、促成栽培が行われる。一週間後には「いずも」への初着艦が控えていて、気持ちばかりが焦ってしまう。

 三日過ぎても未だしっくり来ず、いよいよ気分が落ち込み始めた。歴戦の猛者もさである飛行教導隊長の勝野が巡回指導の折、自らの目で選り抜いた若手精鋭部隊。声がかかった時はすごく嬉しかった。

 だが、このままでは確実に落第エリミネートだ。千歳のトップガンとして出戻りだけは避けたいという焦りの気持ちが負のスパイラルにさらに拍車をかける。

「でさ、そこの店、夜景もすごく綺麗なんだ。次の土曜日行かね? もちろん俺の奢りで」

 暗い気持ちで昼食のお惣菜を口に運んでいると、目の前から能天気な声で話しかけられる。例の門真二尉だ。

 ってか、何で当たり前のようにあたしの前に座ってるんだ? こいつは。

 よりによって二機編隊長エレメントリーダーである彼のウィングマンにされてしまった。だが尊敬する勝野の編成であれば文句は言えない。それに彼はこと、戦闘機でかけることに関しては誰もが一目置く若き天才パイロット。その噂は石川県の小松から遠く離れた北海道の千歳基地にも及んでいて、現に同じく転換三日目のライトニングを既に苦もなく乗りこなしているように見えた。前所属が飛行教導隊だけあってコーチングにも長けているに違いない。そういった意味ではこの状況はラッキーと捉えなければならないはずなのだが。

「あの……」

 夕陽は視線を落したまま、声をかけた。

「ん? なになに?」

 ようやく夕陽にかまってもらえたのが嬉しいのか、ぐいっと身を乗り出してくる。

「門真二尉はその……以前にライトニングに乗られたことはあるんですか?」

「だーかーら、俺のことは敏生でいいって。あと敬語禁止。これ、上官命令ね」

「じゃ、もういいです」

 ムッとして話を打ち切ると、彼は溜め息をついて椅子の背にもたれかかった。

「なんだよ? なんでそんなこと聞くの?」

「だって……、もう乗りこなされているように見えるので……」

「そう? まあこれでも苦労してるんだぜ、初めての彼女のスポット探し」

「は?」

 彼は再び身を乗り出すと、妖しく笑う。

「ほら、彼氏としては雷子ライコちゃんに気持ちよくなってもらわなくちゃならないからさ。力づくだと嫌われるし、彼女の悦ぶポイントを優しく探るわけ」

「……何の話ですか?」

「もちろんヒコーキの話だよ」

 彼はお茶を呷ると夕陽を扇情的な目で見つめた。

「彼女の悦びが俺の悦び。そうすれば彼女も俺を愉しませようとしてくれる。そして二人はいつしか一つになるのさ。そんとき初めて最高のエクスタシーが得られるんだ」

 夕陽は情熱的に語る彼をポカンと見つめていたが、ハッと我に返るとバンッと乱暴に箸を置いた。

「意味わかんない! 聞いたあたしがバカでした!」

 スクッと勢いよく席を立つと、腹立たしさのあまりズカズカとその場を立ち去った。

 何なのよあいつ!? ちょっと腕が立つからって人のこと馬鹿にして!

 この先も彼とコンビを組まなければならないかと思うと、夕陽はとても憂鬱だった。


 ブリーフィングを終え、午後の訓練が始まる。

 今度こそ、今度こそはしっかり飛ばさなきゃ……。

 暗い気持ちで隊舎を出て駐機場エプロンに向かう。空は碧いのに気分は優れない。

 それは突然の奇襲だった。

「ぶははははははっ」

 いきなり背後から両脇腹をくすぐられ身をよじる。

「あ、笑った」

 またしても彼だ。

「ちょっ、何すんのよ!? 変な声出しちゃったじゃない! セクハラよセクハラ!」

 怒る夕陽の頭にポンと彼の手が乗る。

「ずーっと思い詰めた顔しちゃって。肩の力抜けよ」

 その彼の言葉に夕陽はハッとした。

「お、いいねその顔」

 彼の手が夕陽の頤にかかり、顔を持ち上げられると視線が絡む。その目には自分を馬鹿にしたような感じは全く見受けられない。いや、それどころか初めて見る真剣な眼差し。

 あまりの顔の近さに思わず息をのむ。

「相手はバケモノだ。ねじ伏せようなんて考えるな。巻かれてみろ」

 彼はそう言い残すと、再び夕陽の頭をポンと叩いて自分のライトニングへと向かっていった。夕陽はしばらくその後ろ姿を見つめていたが、やがて空を見上げて大きく息を吸うと、再びエプロンに向かって歩き出した。


 その日の午後のフライトは自分としては初めて納得の行くものとなった。今まで一体、何を悩んでいたのか馬鹿馬鹿しくなるほどに。

 基地に戻ってきた夕陽は機を降りるとすぐに彼を探した。

 いた……。

 彼はまだ自分の機体の下にいて、機付長と何やら身振り手振りを交えて話をしている。

 機体の調子について申し送りでもしているのだろうか? やがて、話し終えた彼がこちらに向かってきた。夕陽は意を決して行く手を遮ると、彼を見上げた。多分、今、きっと変な顔だ。

「あ、えと……〝敏生〟!」

 そう呼ばれて彼は目を丸くした。その反応に思わず自分で顔が赤くなるのが分かる。

 何よ!? あんたが呼べって言ったんじゃないの! って、違う。今は……。

「その……、さっきはありがとう………ね」

 夕陽の言葉に、やがて嬉しそうにニカッと笑う子供のような彼。その表情に心臓がトクンと跳ねた。今にして思えばあの時、既にハートを射抜かれていたのかもしれない。


 一か月も経てば、なぜ彼が〝最強〟と呼ばれるのか嫌でも理解せざるを得なかった。悔しいが全くもって歯が立たない。それは戦技の腕前もさることながら、戦闘下における状況判断が恐ろしいほど迅速かつ的確なのだ。ここまで圧倒的な実力差を見せつけられると悔しさを通り越して逆に畏敬の念すら抱くようになってしまう。

 少なくとも同僚としては当初彼に抱いていた嫌悪感はなくなり、普通に接することができるようになった。

 ただ、男として見た時は話は別だ。隙あらば毎日のように言い寄られ、正直クラっとしたことも一度や二度ではない。だが、素直によろめくには彼の周りにはあまりにも女性が多過ぎた。休日にデート中の彼と街で鉢合わせることもしょっちゅうで、しかも毎回違う女を連れている。そのたびに彼はツレを放ったらかしにして自分の事を追いかけて来るのだが、なぜか面白くない夕陽によってあえなく撃沈される。そんなことの繰り返しだった。

「しょうがないですよ。門真二尉の女癖の悪さは有名ですから」

 ハイボールを呷りながら美鈴が夕陽を宥める。

「携帯も二つ持ってるんですよ? 割り切り用なんですって。小松では皆知ってます」

 美鈴があっけらかんと笑いながら話してくれる。

「何それ? 最ッ低」

「でしょう? それなのに人気あったんですよね~。イケメンだし優しいし面白いし。やっぱ、危険な香り? でも隊内では手は出さなかったな。面倒見もいいから若手の男の子達からも慕われてましたよ」

 美鈴がテーブルに片手で頬杖をついてニヤニヤと夕陽を見た。

「でも門真二尉がこんなにご執心な女の人、夕陽さんが初めてですよ?」

「美鈴ちゃん、楽しんでない?」

「ええ、とっても」

 その言葉に夕陽はがっくりと項垂れる。正直、自分でもよく分からない。出会ってたったの一か月そこらで自分が恋に落ちるなど、全くもってあり得ない。彼が他の女と歩いているのを見て胸がざわつくのは、きっと彼による洗脳のせいだ。毎日顔を合わせるたびに好きだの愛してるだの言われて、おかしくならない方がどうかしている。

 そうだ、危くあいつの術中にはまるところだった。危ない危ない。

 夕陽がぐいっと生ジョッキを呷ると、ポンと肩に手が乗った。敏生だ。

「美鈴悪いな、横いいか?」

「どーぞどーぞ」

 美鈴が可笑しそうに席を立つ。

「ちょっと、美鈴ちゃん!」

 救いを求めるも、美鈴は可愛く手を振って他の席に移っていった。

「まだ怒ってんの?」

「怒るって何を?」

「いや、この間のこと」

「べっつに。ただの同僚がどこで何していようが知ったこっちゃないわよ」

「そっか。じゃあ今度の土曜日、遊びに行かね?」

「はぁ!?」

 何でそこでそうなるんだ? こいつの思考には全くついて行けない。

 夕陽は自分一人怒っているのが急に馬鹿馬鹿しくなり、溜め息をつくと敏生を見た。

「行くってどこに?」

「八景島のシーパラとかどう? 夕陽、ジンベエザメ見たことないだろ?」

「ジンベエザメ?」

「すっごくデカイお魚さん。その他にもペンギンとかイルカショーとか。遊園地もあるし」

「えっ!? ペンギンさん!? 行く行く―!」

 ええい、こうなりゃもうヤケだ。たっぷり奢らせてやるんだから! 巻かれてみろって言ったの、敏生だもんね。

 あくまでこれはフリなんだと自分に言い聞かせながら、夕陽は彼の誘いに乗った。

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