第八章 お願い、神様 ②

           *


 夜になっても「いずも」の飛行甲板は慌ただしかった。昼間の騒ぎもあり、中国の潜水艦による奇襲を警戒してSH60Kシーホークが交代で闇夜の中を発艦して行く。

 もっとも、中国は「いずも」をはじめとする海自の対潜能力を極度に怖れていたので、彼らが自ら近づいてくることはなく、どちらかと言うとその役割は空母「遼寧」などの水上艦を日本の潜水艦から守ることだった。

 刑部はそんな様子を眺めながら艦橋の陰に座り込むと、胸ポケットからスマホを取り出した。

 もちろん、電波など届かない。画面をタッチすると、やはり敏生と同じように撮りためた写真を開く。にっこりと笑う妻と娘のベストショット。その二人の顔をそっと撫でる。

 温もりなどない、硬く無機質な画面。

 死ぬことなど怖れてはいない。戦闘機パイロットの道を選んだ時から常に死とは隣り合わせだ。だが、これまで自分が死んだ後のことは考えたこともなかった。

 もし、自分が死んだら妻と娘はどうなるのだろう。この笑顔が失われるのだろうか。それともこの笑顔が他の誰かに。

「クックック……」

 無性におかしくなった。柄にもなく、何かに怯えている自分が滑稽で仕方なかった。笑いながら夜空を見上げると、視界を横切る一筋の光。それは、これまでの人生で初めて見る流れ星。

 ああそうさ。たぶん明日、俺は死ぬ。今さら生きて帰れるなんて思っちゃいないさ。だからせめて、それがどんな形であれ、妻と娘を幸せにしてやってくれないか。あんたがもし神様なら。

 刑部は柄にもなく零れそうになる涙をグッとこらえると、満天の星空に祈りを捧げるようにそっと目を瞑った。


           *


 夕陽は敏生の部屋を出ると、後ろ手にドアを閉めた。

 身体中に残る愛しい彼の感触。下腹にそっと手を当て、目を閉じる。奥深くに残る熱は彼の印を受け止めた証。あらゆる禁を破り動物的な本能で彼を求めてしまったが、後悔など微塵もなかった。

「積もる話は済んだのか?」

 ビクッとして横を見ると、いつものニヒルな表情を浮かべた刑部が立っていた。

 夕陽は慌てて乱れた胸元を抑え、刑部の邪魔にならないようドアから離れる。

「あ……、その……ありがとう」

 多分、彼には全てお見通しだろう。

「俺が一人になりたかっただけだ」

 刑部はさして興味もなさそうに答えると、夕陽の横を通り過ぎドアノブに手をかける。

 その様子に夕陽はホッと息をつくと、ゆっくりと歩き出した。

「イデア」

 そのまま部屋に入ると思っていた刑部に声をかけられ、驚いて振り向く。

「May God bless you」

 刑部は手元に視線を落としたままそう言うと、ドアを開け部屋に入っていった。

 夕陽は呆気に取られ、しばらくその場に立ち尽くした。いつも自分のことをお子ちゃまと馬鹿にしていた先輩パイロットからの、思いがけない言葉。英語だったのはニヒルな彼の照れ隠しゆえだろうか。

 もしかして、この土壇場であたしのこと認めてくれたのかな……?

 夕陽はクスッと笑うと、足早に女性居住区へと戻っていった。


           *


 刑部が部屋に入ると、敏生はベッドの上で下着姿のまま胡座をかき、難しい表情をしていた。

「何だよ、やることやって現実に引き戻されたか?」

 刑部が椅子に腰かけながら敏生をからかう。

「そんなんじゃねぇよ」

 敏生は不貞腐れたようにそっぽを向いたが、やがて刑部の方に向き直ると遠慮がちに口を開いた。

「なあ」

「何だよ?」

「ライトニングで出撃するのと〝いずも〟に残るの、どっちが安全だと思う?」

「はぁ?」

 訝しげな表情で刑部が敏生を見る。

「あ、いや、例えばの話だよ」

「何を言い出すのかと思えば……。そりゃあ、〝いずも〟だろ」

「やっぱり?」

「当たり前だ。イージス艦を核とした鉄壁の防空網と、〝いずも〟を中心とした隙のない対潜網。ミサイルが命中したとしてもこの巨体はすぐには沈まん。一方、俺らのライトニングはミサイル一発でお陀仏だ。アドバンテージのはずのファーストキル能力も、専守防衛ではたちまち混戦になって意味を成さん」

「……だよな」

「今さら何だよ? まさか明日お腹が痛いとか言ってここに残るつもりか?」

「馬鹿にすんな」

 敏生はベッドから這い出すと幹部作業着を着始めた。

「今度はこっちから出向くのか? 光源氏さんよ、もうたいがいにしとけって」

「ばーか。そんなんじゃねえよ。散歩だ散歩」

 刑部の冷やかしに敏生が悪態をつく。

「刑部。……いや、先輩」

 敏生に突然、出会い立ての頃の呼び名で呼び直され、刑部は面喰った。防大時代、一緒にナンパ目的でクラブ通いをしていた時に、女の子の前で〝先輩〟と呼ばれると具合が悪いので無理矢理呼び捨てに矯正させたのだが、その時以来だ。

「その……いろいろありがとうな」

「……何だよ、気持ち悪いな」

「人の気持ちは素直に受け取っとけ!」

 敏生はむくれると、バンッと乱暴に扉を閉めて部屋を出ていった。それは明らかな照れ隠しだった。


           *


 翌朝も快晴だった。

 今日の正午には尖閣沖で待ち伏せる中国艦隊との距離が一五〇キロメートルを切る。

 それは彼我の対艦ミサイルの最大射程距離で、戦端が開かれる一つの目安だ。海自艦隊の防空能力の高さを知る中国は、最初の段階で一気に火力を集中させてくると統合作戦本部では睨んでいた。飽和状態のミサイル攻撃で海自艦隊の対空網の隙を突いて一隻、また一隻と戦力を削いで行き、最後は波状攻撃で殲滅しようとするだろう。

 だからこそこちらは第一波を何としてでも無傷で乗り切り、反撃に転じる必要があった。

 ここを乗り切れば二次攻撃以降は恐らく向こうの火力は弱まる。空母「遼寧」の艦載機が一度の出撃で対艦ミサイルを一発しか搭載できないからだ。米空母と異なり、カタパルトを持たないスキージャンプ方式の発艦スタイルの「遼寧」では、艦載機の重量が増すと発艦が困難になる。そのため、兵装は対艦ミサイル一発か対空ミサイル数発の選択しかできず、撃った後に再び着艦して対艦ミサイルを積むにも相当の時間を要することになる。

 大陸から飛んでくる空軍の部隊は制空戦闘に特化するはずなので、まずは第一波をいかに乗り切るかが課題だった。

 朝の時点で「いずも」戦闘飛行隊のライトニングの兵装は対空戦闘仕様が選択され、対艦ミサイル迎撃用に二発のAAM4空対空ミサイルと、対戦闘機戦闘用に四発のAAM5空対空ミサイル、そして万が一に備えドッグファイト用のガンポッドが装着された。

 艦隊の直掩ちょくえんに専念せよ、との命令で、反撃時の対艦攻撃は下地島に展開する空自のライトニングに、尖閣上空の制空戦闘は那覇に集結した空自のF15部隊に委ねられた。これを受け、艦内のブリーフィングルームでは早速、艦隊の展開フォーメーションに合わせた各編隊の受け持ちエリアと作戦内容が伝達される。そして、その席でくどいほどに指示を受けたのは〝専守防衛〟の徹底だった。

〝敵ミサイルは全て撃破せよ。ただし、敵艦艇および敵機への反撃は統合作戦本部からの許可があるまでは認めない〟

 分かっていたことだが、そのあまりに杓子定規の指示に、パイロット達から溜め息が漏れた。

 中国は完全に日本の弱みを突いてきていた。向こうが領土防衛を大義名分に宣戦布告をしてこない以上、日本からも宣戦布告はできない。防衛出動命令は戦時国際法上の宣戦布告には該当しない。自衛権を行使することはできても、交戦権は認められないとされているのだ。

 ちなみに自衛隊法第八八条では防衛出動を次の通り定めている。

 一、 第七十六条第一項の規定により出動を命ぜられた自衛隊は、わが国を防衛するため、必要な武力を行使することができる。

 二、 前項の武力行使に際しては、国際の法規及び慣例によるべき場合にあつてはこれを遵守し、かつ、事態に応じ合理的に必要と判断される限度をこえてはならないものとする。

 ここで言う「合理的に必要と判断される限度」が今回、首相を本部長とする統合作戦本部によって判断されることとなり、先の指示に繋がることとなったのだった。

 ブリーフィングが終わると飛行隊の面々は早めの昼食をとり、その時に備えた。 ここまで来ると、どの顔からも怯えや不安といったものは消え、覚悟を決めたというべきか、誰もが達観したような表情を浮かべている。

 そして、正午に差しかかろうという時に事態は予想通り動き出した。

「〝遼寧〟より戦闘機の発進を確認。一機、二機、……いや、既に四機上がってます!!」

 艦隊司令部が置かれている「いずも」のCICでレーダー員が叫ぶと、一気に緊張が走った。

「やはり来たか……。全艦、対空戦闘用―――――意。いずも戦闘飛行隊も直ちに発進せよ」

 派遣艦隊司令の尾澤海将補が指示を出すと、各艦に総員戦闘配置のけたたましいアラーム音が鳴り響く。

 その指示で仲間達と共に跳ねるように飛行甲板上の愛機に駆け付けた夕陽は、最初、機付長の美鈴が何を言っているのか、全く意味が分からなかった。

「パワー・バイ・ワイヤのアクチュエータの調子がおかしいんです。だから飛行は許可できません」

 この期に及んで美鈴に制止され、夕陽は戸惑った。これから戦いが始まるかもしれないというのに。

「飛べないって……PBWはバックアップ系統だからフライ・バイ・ワイヤさえ問題なければ飛べるでしょう? こんな時に何言ってるの?」

 夕陽が呆れたような笑いを浮かべながら美鈴を問い質すと、彼女はキッと夕陽を睨みつけた。これまでこんな厳しい表情の彼女は見たことがない。

「PBWは何かがあった時のためのバックアップなんですよ!? そんな不完全な状態で夕陽さんを送り出すわけには行きません!」

「ちょっと、何言ってるの美鈴ちゃん? これから戦いが始まるかもしれないんだよ!? ここにだってミサイルが来る! 一機も欠けるわけにはいかないのよ、分かってるの!?」

 思わず夕陽が語気を荒らげると、美鈴はビクッと肩を震わせ、今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。だが、今は彼女の気持ちを慮っている余裕なんかない。

「だって! 今までこんなことなかったじゃない! 美鈴ちゃんの整備はいつだって完璧だったじゃない! あたし、そんなの信じない! お願い行かせて!」

 夕陽が取り乱して美鈴に詰め寄る。

「ごめんなさい!! あたしのミスです!! とにかく今は機付長として飛行は許可できません!!」

 迫られた美鈴はまるで悲鳴を上げるように夕陽に向かって叫んだ。

「お願い美鈴ちゃん!! あたしみんなと戦うって決めたの!! もう覚悟はできたの!! どこまでも敏生について行くって決めたの!! あたしだけ、あたしだけここに残るなんて……そんなのイヤだよ!!!」

 夕陽が美鈴の両肩をつかみ、必死になって懇願するが、美鈴は真っ青な顔をして押し黙ったまま視線を合わせようとしない。

「機付長の判断は絶対だ。神月は艦で待機。谷口は速やかに機体の再整備にあたれ」

 その声に振り返ると、騒ぎに駆けつけた隊長の勝野が立っていた。その有無を言わさぬ口調に、夕陽はイヤイヤと首を振り、目に涙を浮かべた。

「夕陽!!」

 突然、ガバっと抱き締められた。敏生だった。

「お願い……敏生からも言ってよ……」

 あまりの悔しさにボロボロと涙が溢れる。

「駄目だ。直るまでここで待ってろ」

「敏生まで……何でよぅ……」

 彼は夕陽の頬に手を当て、親指でそっと涙を拭うと、あやすように頭を撫でた。覗き込んでくる目がとても優しい。

「機体が不完全だと皆に迷惑がかかる。分かるだろ? 直ってから上がってこい」

 頭に乗る彼の手がとても温かくて、ようやく夕陽は落ち着いた。

「……あたしが行くまで……無事でいてね」

「誰に言ってるんだ? 俺は環太平洋最強のパイロットだぜ?」

「ちょっと、いつそこまで昇格したのよ?」

 涙交じりの夕陽のツッコミに敏生は短く笑うと、夕陽をそっと離して敬礼し、急いで愛機の下へと走っていった。夕陽には分かっていた。美鈴の言う不具合箇所だと恐らく部品交換が必要で、メンテナンスには相当な時間がかかるはずだ。恐らく今日、自分は空には上がれないだろう。

 ギュッと唇を噛み締める。悔しくて情けなくて再び涙が滲んだが、幹部自衛官としていつまでも泣いているわけにはいかない。

 夕陽は邪魔にならないよう艦橋の横に移動すると、そこで仲間達を見送ることにした。

 先陣を切るのは隊長の勝野だ。整備小隊の面々や甲板員達が〝帽振れ〟で見守る中、爆音と共に隊長機が大空を駆け上がっていった。それを皮切りに次々と轟音を轟かせ、「いずも」を飛び立って行く仲間達のF35BライトニングⅡ。

 夕陽は乗組員達の輪から離れ、艦橋の横でただ一人、直立不動で仲間達に敬礼を送った。

 殿しんがり夕陽ウィングマンを欠いた敏生。

 キャノピー越しに誘導員とハンドサインを交わす恋人。ライトニングの吸気ダクトカバーが開き、後尾のエンジンノズルがキュッと斜め下を向く。いよいよ発進だ。ふと、敏生がこっちを向いてハンドサインを送っていることに気づいた。

 あれは……。

 慌てて夕陽も同じサインを返す。

〝アイシテル〟

 それは燃えるように真っ赤で雄大な夕日の中を飛んだ時、二人で決めた秘密のサイン。

 サンバイザーと酸素マスクに包まれて、その表情をうかがい知ることはできなかったが、夕陽の返答に敏生が笑ったような気がした。

 誘導員が腰を落とし、艦首を指差す。ライトニングのアフターバーナーが焚かれ、甲板上を轟音が支配した。


 敏生―――――!!!


 胸が締め付けられる。

 何であたしはここにいるのか。何で愛するあの人と一緒に行けないのか――――

 日本最強のファイターパイロットが操るライトニングは一気に加速すると「いずも」を勢いよく飛び出し、翼を振りながら戦空の彼方へと向かっていった。

 お願い、神様。あたしの大切な人を……あたしの大切な仲間達を……どうか無事に還してください。

 敏生の機体が見えなくなっても夕陽はしばらく彼の去った方角を見つめ、その場に佇んでいたが、やがて踵を返すと振り切るように甲板を駆け降りた。

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