螢火
桜田千尋
蛍火
生まれつき、羽が歪んでいて飛べないホタルの話があった。
何年前の話だろう。確か、小学校低学年の頃。だから五年ぐらい前の話になる。道徳の授業でそんな話を教わった。
ふいに、そのことを思い出したのは今朝の話だ。
溜まったプリント整理していたら引き出しの奥の奥から、かろうじてホチキスの芯で繋がってるひしゃげたプリントが出てきた。陽には当たっていなかったから、元々の白い色は保てていたけど、折れ目がひどくて中に書いてある文字を読むのがやっとだった。
はじめは何て書いてあるのかを確かめるつもりで読んでいたのに、いつの間にか目は文章を追っていた。
サナギから羽化したホタルの兄弟。その中に一匹、羽の歪んだホタルがいた。そのホタルにどう接していいか分らない兄弟たちは、ためらいながらも見ているだけで近寄らない。仲間に入れない羽の歪んだホタルは自分を悲しく思った。そこにホタル狩りをしていた人間の子供がやってくる。逃げ遅れてしまった、羽の歪んだホタル。その時、ホタルの兄弟の一人が――。
そのプリントをめくると、次に出てきたのは表紙のプリントだった。
ホチキスの芯に繋がれたプリントはそれで全部だった。よく見てみると、小さい紙の切れ端がホチキスの芯に挟まっていた。どうやら先のプリントはちぎってしまったらしい。
ちぎったのはオレだったっけ。はっきりした……というか曖昧な記憶すらない。それはこの話の結末を思い出せないのと一緒だ。
風が吹く。カーテンをめいっぱい広げて、部屋中に散らかったプリントを一斉に飛ばした。
■
つい先日、八月に入った。
この季節にもなると夜でも暑い。天気予報でもよく、「熱中症」や「熱帯夜」という言葉を耳にするようになった。年々、夏は長くなっている気がする。クールビズの効果はあるのだろうか。温暖化を抑制するのではなく、使えば使うほど温暖化を解消できるような装置を開発しない限り、地球に未来はない気さえする。
胸ポケットにしまってある懐中時計を開けた。待ち合わせの十九時を少しまわっていた。
案外近くにいるかもしれないと思って、辺りを見渡してみる。それでもやっぱり、見つからなかった。
毎年、この時期になるとここの神社は夏祭りと称して縁日をする。敷地はそんなに広くないし、大きなイベントをしたりするわけじゃないけど、地元の子どもやオレたちみたいな中高生で毎年賑わっている。
「お待たせ、日向」
肩を叩かれた。待ち合わせ相手の蛍だ。
「お母さんがさ、そんな格好じゃ日向に悪いって無理矢理着せられちゃった」
普段はセーラー服にタイをする制服。休みの日は私服だけど、部活が忙しくてお洒落には気を使えないみたいで、ラフな私服を見ることが多かった。肩まである髪の毛も、結ぶことなく下ろしている。そんな蛍が今日は結えた髪の毛にかんざしを付けて、浴衣を着ている。
「ごめんね。時間に遅れるからって言ったのに聞いてくれなくってさ」
目を覗き込まれて、心臓が鳴った。いつも一緒にいるのに、ちょっと服装変わったぐらいでドキドキしてる自分が嫌になった。
「いいよべつに。浴衣、かっ、かかっ、かか可愛いし……」
可愛い、という言葉はカ行で始まる。カ行とサ行で始まる言葉をオレは上手く話すことが出きない。吃音という一種の言語障害で、話そうとすればその音が繰り返し発音されてしまう。
「そう?良かった。ありがとう」
ふっくら笑う蛍を見て、また心臓が鳴った。最近、この笑顔を余計に意識してしまうようになった。
桜井蛍はオレが今の中学に転校して、最初にオレの友達になってくれた人だ。言葉を上手く喋れないオレの傍にいつもいてくれる人。オレのために泣いてくれる人。オレの大好きな人。
何か食べようよ、という蛍の一言に遊びよりも先に食べ物屋を回ることにした。待ち合わせ場所からすぐの石段を上った先の境内には、もっと沢山の人で溢れていた。下にもいくつか出店はあったけど、ここは店と店とが隙間なくひしめき合っている。陽はすっかり落ちてしまっていたけど、出店の灯す明かりと人々の声で境内はいつも以上に華やかで、賑わっていた。神社が光って見えた。
並んで歩くと、オレが蛍を見上げる格好になる。
オレは蛍より身長が低い。蛍が高いんじゃなく、オレが特別低い。身長は中学に入った頃から一向に伸びなくなってしまった。身長が低いことに強いコンプレックスを抱いているわけではないのだけれど、蛍より低いのは少し、嫌だ。
「あ、焼そば」
蛍の視線の先に目をやると、焼きそばの出店があった。頭にタオルを巻いた体つきのいい、少し強面のおじさん店主が一人。ああ言う人を職人というのかなと思って、もう少し愛想よくてもいいんじゃないのかとも思った。
小学校低学年ぐらいの男の子が、焼そばを買いに来ていた。店主はできたての焼そばを男の子に渡してお金を受け取る。男の子が何か呟いた。周りの音でなんて言ったかは分らないけれど、それを聞いておじさんの口も開いた。口元が上がっている。笑った……のかな。愛想よくてもいいんじゃないかという考えは訂正。こういうのも「あり」だと思う。
「焼そば、日向もいるよね」
一回、首を縦に振る。肯定の意思表示。
「買ってくるから食べる場所取っててよ」
近くにあったベンチが運良く空いて、そこに場所を取った。一人でいると、どうしても周りの音に耳がいってしまう癖がある。前を通り過ぎる親子連れや隣のベンチに座っているカップルの話し声は、一言一言何を言っているのかわかってしまう。
「ここにはホタルいないの?」
中学生ぐらいの女の子三人組がオレの前を通る時に、そう言ったのを聞いた。
ここにホタルはおそらくいない。ホタルが住むには湿潤な森林と、綺麗な川が必要だ。この神社周辺には森林も川もあるけれど、湿潤で綺麗かといえば頷くことは出来ない。オレたちの住む、「緑豊かなニュータウン」が、この周辺の環境を奪った。
「お待たせ」
焼そばの入った袋を提げて、蛍が帰ってきた。袋の中にはなぜか焼きそばは三つ入っていた。
「あと一つどうしたの」
「私が可愛いからっておまけだってさ」
やっぱり「あり」だ。
そばにいてくれる蛍のことを大切に思う。転校してくる前までは吃音をからかわれて、友達なんて出来なかった。いじめにあったこともある。家をよく留守にして働くお父さんや、病弱なお母さんにそんなことが言えるわけもなく、嫌な毎日を過ごしてきた。
お父さんの仕事の関係で、転校が多かった。はじめは違う学校に行けば、嫌な毎日から開放されると思っていたのに、どこに行っても大して変わらないことに気付いた。今の学校に来るまでは。
どこの小学校でやったのか忘れたけど、道徳の授業で「とべないホタル」を教わった。似てたんだ。羽の歪んだホタルと言葉を上手く話せない自分が。
物語の結末はまだ思い出せない。何故プリントがちぎれてなくなっていたのかも。
「お参りしにいこうよ」
ふいに蛍がそう言う。食べた焼そばの容器をまとめて、ダンボールで設えてあったゴミ箱に捨てた。本堂に続く参道は境内の中でも一番人が混み合っている場所だった。
「でも、混んでるね」
オレは背伸びをして参道に目をやる。
「いいよ、行こう。どうせ、人が減ることなんてない」
参道は遠くで見るより混んでいて、蛍を見失わないようにするのでいっぱいだった。人が減らないのは事実だと思うけど、もう少し時間を考えればよかったと今更ながら後悔する。
人と人との隙間から、参道に並ぶ店が見えた。お好み焼き、くじびき、カキ氷、わたあめ。出店の灯す濁った白い豆電球の明かりが辺りを照らす。境内の中でも一番出店が密集しているようで、ここはまだ陽が沈んでいないような明るさだった。
途中で大きく「ごじゆうにどうぞ」と看板の立ててある無料らくがきコーナーを見つけた。大きな紙はもう黒や赤のペンで子どもが落書きしたり、中高生が絵を描いたりしていた。
ふと、以前、似たような光景を見たような気がした。こんな遠くからではなく、こんな大きい紙じゃない。もっと近くて小さくて。
こういうのをデジャヴとかフラッシュバックというのだろうか。別に初めてのことじゃない。生きていればそんなことぐらいだってある。はじめは思い出そうとするけど、時間が経てばどうだってよくなるんだし。
横にいる蛍を見失わないように歩いて、ふと前を向くと、本当まであと少しだった。「もうすぐだ」と、蛍に言おうとした瞬間、頭でつっかえていた出来事が形になって流れ込んだ。
そうだ。思い出した。
とべないホタルのプリントがちぎられていたのは落書きをされたからだ。
机の中にいれておいたプリントに「きもちわるい」だとか「近づくな」という落書きをプリントいっぱいにされたんだ。だから落書きされたページをちぎって、捨てた。残ったプリントもぐちゃぐちゃにして、引き出しの奥の奥にしまったんだ。思えばあの時いた学校が、いた期間が一番短い学校で、一番行きたくない学校だった。頭の奥の奥に閉まってた記憶が出てきた。ずっとずっと、思い出したくない記憶が。
何かに心を掴まれたような気がして、とっさに蛍と手を繋ぎたくなった。蛍の方に手をやると、さっきまでそのにいたはずの蛍は、姿を消していた。
ざっと辺りを見回した。
蛍がいない。
溢れ返る人ごみ。目でも耳でも蛍を探せない。
その間にも思い出したくない過去は蘇る。
目も耳も、全部ふさぎたくなった。
オレのことを見てくれると言った蛍がいない。
大事な友達も、大切な両親も、もうオレにはいるけれど、そういうことに気付かせてくれたのは蛍なんだよ。蛍がいないとはじまらないし、蛍に見ててもらえるならそれでいいんだ。
もう嫌だ。
目を閉じて、耳をふさごうとする。
でも、手のひらが耳を覆うことはなかった。
「日向、しっかりついといでよ」
オレの手首をぎゅっと、蛍が掴んでいた。
「ホラッ、行くよ」
今度はしっかり手を繋いで、蛍がオレを引っ張ってくれた。
繋いだ手の先に、蛍がいる。
あったかい手が、オレの心を掴んでいたものを溶かしていった。
近くにいてよ、これからずっと。一番大切な人なんだから。
本堂のお賽銭箱の前で、蛍は財布から小銭を取り出した。
「ご縁がある五円」
馬鹿みたい。と二人で笑って、オレも財布から五円を出した。
投げ入れて、二回合掌。願い事は当然、蛍と一緒にいれますように。
飛べないホタルの結末は、忘れたんじゃなくて知らないんだ。落書きのページを捨てて、結末の回をする授業は欠席した。でも、羽の歪んだホタルもきっと、幸せになったはずだ。飛べなくても、あの兄弟は君を見てくれたはずだ。見てくれる人がいるなら、それで、いい。
蛍はまだ手を合わせていた。何を祈っているのだろう。オレと同じだったらいいな、なんて思う。
螢火 桜田千尋 @magarin2
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます