第2章
相変わらず、ご主人のモラハラは続いていましたが、それを客観的に受け止められるようになったことで、藤田さんの情緒は安定して来ました。
当初、完全に支配下に置かれていた状態で、すっかり自信を喪失していた藤田さんでしたが、私たちとの対話の中で、いつの間にか見失っていた本来の自分を、少しずつ取り戻し始めていました。
まず手始めは、ご主人が藤田さんを傷つけるようなことを言ったら、それをオウム返しにすることから始めた対抗策。それ以前には、
「おまえって、ホント馬鹿じゃないの? もしかして、本物の馬鹿なの?」
「今度からは気を付けるね」
「そう言って、毎回毎回毎回毎回、同じことを繰り返すんだよ、おまえは!」
「ごめんなさい! 次はミスしないようにするから…」
「じゃあ、どうやってやるのか、言葉で説明してみろよ! ほら!」
「それは…」
「ほーら、やっぱ口ばっかりなんだよ、おまえはさ!」
「ごめんなさい…」
「ごめんなさい以外に、言う言葉はないの? 俺が何でこんなに怒るか分かる? 全部おまえのために言ってやってるんだろ? それに対して、何か言うことはないわけ?」
「ありがとうございます…」
「何それ? 全然気持ちが入ってないんですけど? そんなんだから、おまえは人間的に成長もしなければ、他人からも嫌われるんだよ! 自分で気が付かない? 存在価値もないような人間と一緒にいる人の身になったことある? どうなの?」
「すみません…」
「ま、どーせ何言ったって、おまえみたいなクズには、理解出来ないだろうから、時間の無駄か。無駄にされた俺の大事な時間、返して欲しいよな~」
「…」
「何ボケっとしてるんだよ? 気利かせて、お茶くらい淹れろよ! ったく、正真正銘、何の取り柄もない女だな!」
「すぐに、淹れます!」
「もういい! 完全に飲む気なくなったわ」
「ごめんなさい…」
と、こんなやり取りがされていたのですが、最近では、
「おまえさ、何回同じこと言われたら、ちゃんと出来るんだよ? 何度も何度も同じ失敗ばかり繰り返して、学習も出来ないなら、人間としての価値もないだろ? マジ馬鹿なの?」
「そうかもね~。私、マジで馬鹿なのかも」
「馬鹿っていう自覚があるなら、直そうと思わないわけ? それこそ、人として成長することさえ放棄してるとしか思えないね」
「あなたがそう思うのなら、そうなんじゃない~?」
と、まるで、他人事のような返答。
それに対して、面白くないのがご主人。モラハラの好物は、ターゲットの困惑する様子や、苦悶に歪む表情。なのに、どんなに攻撃しても、反応が希薄で、手応えが感じられなくなったのですから。
これまで、完全に受け身一辺倒で、一杯一杯だった状況から、相手の様子を観察する余裕が生まれたことで、藤田さんの反応に対し、ご主人が動揺している様子が分かるようになってきました。
すると、毎日毎日、ご主人の顔色ばかり気にして、いつ彼が怒りだすのかと、ビクビクして過ごすのが当たり前だったことが、いかにバカバカしいかに気付き、これまで藤田さんを雁字搦めにしていたご主人からの束縛が綻び始めたのです。
そして、次のステップ。暴言や人格否定で罵倒し、一方的に要望ばかりを押し付けるご主人に、ささやかな反撃開始です。
「何回同じこと言われたら分かるんだよ? いい加減、覚えろよ!」
「じゃあ、あなたが自ら、お手本見せてくれない? そうしたら、次から私もその通りにやれるでしょ?」
「いちいちそんなことまでしないと出来ないの? おまえって、ホント駄目人間だよな! 普通、それくらい出来て当たり前じゃないの?」
「その『当たり前』が出来ない私のためを思って、あなたは言ってくれてるんだよね? だから、お手本を見せて。百聞は一見に如かずっていうでしょ?」
「もういい! おまえと話してると、マジ時間の無駄だ!」
そう言って、お手本を見せなければ、すかさず、
「なんだ、結局、自分も出来ないんじゃん」
と、聞こえる程度の声でつぶやきます。そのまま無視を始めたら、こちらも無視したまま、後はあちらが話しかけて来るまで、何日でも放置。
逆に、本当にお手本を見せ始めたら、質問を取り混ぜながら、その様子を録画し、次回からはその手順通りに再現。もし言い掛かりをつけられたら、録画を再生して、本人にどこが違うのかを指摘させます。
さらに、必要に応じては、インターネットなどの how to を集めておき、そうしたものも見せながら、本人の希望を尋ねます。その際、決して嫌味な言い方や、逆切れしたような言葉遣いはせず、あくまで淡々とした質問口調に徹すること。
こうなると、完全に自分のペースを撹乱されたご主人。
いつも、オドオドしながら自分のご機嫌を伺い、何か一言言う度に飛び上がりそうな反応を見せていた妻の、まるで別人のようなクールな言動は、居心地の悪いことこの上ありません。
以前は、無視しようものなら、半べそ状態で縋り付いてきたのに、最近では、放置されることを満喫するかのように、自由にのびのびと過ごしている空気さえ感じられ、それが余計に癪に障ります。
彼にとって妻の存在は、奴隷や虫けらのような、無知で無力で低能な、惨めたらしいものでなくてはならず、そんな彼女を精神的に痛め付けることで、自身のストレスを解消していたため、溜まりに溜まったストレスが、今にも破裂しそうになっていました。
**********
そんなある晩のこと。いつものように、ひとりで夕食後の後片付けをしていた藤田さん。不意に手を滑らせ、洗っていたコップを床に落として割ってしまいました。
けたたましい音を聞きつけ、反射的に跳んできたご主人。泡だらけで、床の上に砕けたコップを見ると、
「おまえ、何やってんだよ! 余計なこと考えながら、ぼーっとして洗ってるから、こんなことになるんじゃないの? おまえさ、前にも皿を割ってたよな? 普通、そんなに食器って割れるもの? だいたい、おまえって…」
ご主人にとって、この出来事は、藤田さんを責める絶好のチャンスの到来でした。コップを割ったのは、紛れもなく妻の失態であり、反論の余地はないとばかりに、マシンガンのように、責める、責める。
溜まっていたストレスも手伝い、鬼の首を取ったように嬉々として暴言を吐き続け、その異常なまでの粘着質は、留まるところを知りません。
そんなご主人の言動を無視したまま、大きな破片を一つずつ手で拾い、残った細かい破片をほうきと塵取りでかき集め、その後、古いタオルで泡や水気を丁寧に拭きとる藤田さん。
何度もコップが割れた床の上を拭き、完全に水気が無くなった所に今度は掃除機を掛け、破片が残っていないか入念にチェックする妻が場所を移動するたび、その後を追いかけながら、すべてが完了しても尚、まだ文句を言い続けているご主人。
「なあ、聞いてるの? 何でそんなにミスが多いの? 主婦だから、許されると思ってるんだろうけど、社会人なら、とっくにクビだよね? もし俺以外の旦那だったら、それこそおまえなんてすぐ離婚されるぞ。そういうこと、分かってる?」
「おかげさまで、怪我はなかったから、ご心配なく」
「え…?」
「前から思っていたんだけど、大人で、まして社会人だったら、普通こういう状況で真っ先に確認するのは、怪我の有無だと思うけど、違う?」
予想もしていなかった妻の言葉に、動揺を隠せず、返答に詰まるご主人。やっとの思いで口から出たのは、
「けど、怪我してないし…」
「その次にするべきことは、危険なガラス類を、安全に処分することじゃない?」
「でも、割ったのは、おまえの責任だし…、片付けは、おまえの仕事で…」
「責任や担当があったとしても、必要な道具を取りに行くのに、周囲をガラスに囲まれてる人より、外にいる人のほうが適任だって、ちょっと考えれば分かるよね、普通?」
「だから…俺がやろうかな、と思ったら、おまえが先に動いてたからで…」
「ガラスが割れて、床が濡れてる状態なら、他にもやることはいくつもあるのに、その間、動いたのは全部私で、あなたは何してた? 私がコップを割った原因の究明と、今後の方針と対策のレクチャー? それ、あの状況下で必要? 危険な作業をしてる時に、横でごちゃごちゃ言われたら、気が散って余計に危険だと思わない? もうすでに起こってしまった事象に対する反省会なら、全部終わってからで良くない?」
怒るでもなく、感情的になるでもなく、淡々と時系列を並べ立てる藤田さんに、ご主人はそれ以上反論する言葉を失くし、それでも本人のプライドが許さないのか、つい声を荒げました。
「でも、コップ割ったのはおまえじゃないか! 自分のミスを棚に上げて、俺に逆ギレするなよ!」
「緊急事態に、優先順位の的確な判断も行動も出来ない人に、逆ギレ呼ばわりされる筋合いはないわ」
「なんだと!? 全部おまえのため思って…!」
「けど、あなたの口から出たのは、私の心配じゃなく、コップを割ったことを責めるだけの言葉ばかりだったじゃない」
「それだって、また同じ失敗を繰り返さないようにと、おまえのために…!」
「ためを思って言われてたとしても、際限なく罵声を浴びせられ続けて、嬉しいと思う人間がいる? 『大丈夫?』『怪我はない?』『良かった』っていう、人間らしい優しい言葉を掛けて欲しいと思うのは、いけないこと?」
「何年も一緒にいるんだから、言わなくたって分かるだろう、普通!」
「じゃあ、あなたは私がどう思ってたのかも、分かるのよね? 分かってる上で、やさしい言葉一つも掛けてくれなかったってことなのね?」
「それは…!」
再び言葉に詰まるご主人から目を逸らすと、藤田さんは独り言をつぶやくように、
「がっかりだわ…」
そう一言だけ残し、部屋を後にしました。
**********
その画像を、誰一人言葉も発せず、食い入るように見入っていた私たち。再生が終わり、あちこちから溜息が漏れ出します。
あれ以来、常にご主人とのやり取りの録画・録音を習慣づけていた藤田さんでしたが、このやり取りをどうしても見て欲しいということで、皆で拝見しました。
「これは、酷過ぎだよ!」
「うちのパパも、こっちが指示しないと、どうして良いのか分からなくて、フリーズしたままってことはあるけど」
「必死で処理してるのを、追いかけてまで文句言い続けるって!」「ねぇ~!」
「藤田さんの前で何だけど、ご主人の粘着質、ちょっと異常じゃない?」
誰もが口々にそう言う中、
「あの…関係ないことなんだけど、ちょっといいかな?」
そう言ったのは、来栖さん。現在小学1年生の双子(男女)ちゃんのママです。
「どうしたの?」
「映像の中で、何か気になったことでもあった?」
「そうじゃないんだけど、うちの海翔が、たまにこんな感じなのよね」
「それって、どんな時に?」
「いつもはそんなことないんだけどね、たまに美浪海が失敗したりすると、あんたがそこまで言うか? っていうくらい、言葉で追い詰めるっていうか…。これって、マズいのかな?」
もの凄く不安そうな顔をしている来栖さんに、百合原さんが小さく首を横に振り、
「まだ1年生なら、そんなに心配することはないと思うよ」
「じゃあ、なんで海翔はあんなふうになるの?」
「もしかすると、美浪海ちゃんに対するジェラシーかも。海翔くんに比べて、美浪海ちゃんのほうが褒められる回数が多いとか、何をするにも、美浪海ちゃんのほうが上手だとか、思い当たる節はない?」
「そう言われれば!」
幼い子供は、大人が思う以上に敏感で、親に褒められたい、自分を認めてもらいたいという自己承認欲求から、それが強い攻撃性として現れることがあります。
海翔くんと美浪海ちゃん兄妹は双子ということもあり、どうしても比較対象になりやすく、特にこの時期は、男の子より女の子のほうが発達が早いため、何かに付けて海翔くんは劣等感を抱いていたのかも知れません。
自分が褒められたいのに、いつも美浪海ちゃんに先を越され、そのコンプレックスが、『美浪海ちゃんの失敗』というシチュエーションが引き金になって、激しい攻撃性を発揮するのだとしたら、
「海翔くんを、もっともっと褒めてあげればいいんじゃない?」
「でも、実際問題、そんなに褒めてあげられるようなシチュエーションがなくて」
「だったら、別に、えこひいきでも良いんじゃない?」
私の発言に、来栖さん始め、他の面々も驚いた顔で振り向きました。
「えこひいきって、どんなふうに?」
「たとえばね、内緒で、海翔くんにキャンディーあげて『ママと二人だけの秘密ね』っていうだけでも、貰った当人としては、相当満足すると思う」
「なるほどね! あ、でも、そうしたら今度は、美浪海が嫉妬しない?」
「真面目かっ! 両方に、こっそり同じことすれば良いんじゃない」
「そっか。でもさ、もし、お互いにもらってたことがバレちゃったら?」
「その時は、個別に『実は、あなたのほうが多かったのよ』って、フォローするの」
さらに、百合原さんが微笑みながら続けます。
「もうワンランク上を行くなら、賢いほうを手懐けておくことよ。もし、海翔くんが『自分だけ貰った自慢』をし出しても、美浪海ちゃんがそれに対抗しなければ、みんなが自分の中で丸く収まるでしょ? 優越感とか、特別感とか、要は本人が満足してれば良いわけだから。まあ、それが通用するのも、小さい間だけなんだけどね」
「何か、凄い納得した気がする。百合原さんも、松武さんも、どうしてそういうことが分かるの?」
「うちの親が、そういう感じの子育てだったから」
「私は、自分が子供だったら、そうして欲しいかな、っていう個人的な希望かな」
「なるほどね~」
少し話が逸れましたが、藤田さんが続けました。
「それでね、聞きたかったのは、私の対応は、これで良かったのかってことなの。アドバイス通りに、なるべく感情的にならないように、冷静な口調を心掛けたんだけど、後で見返してみると、自分でも、結構グイグイ言っちゃってる感じがして」
「うん、それは大丈夫だと思うんだけどね」
「だけど?」
「何か問題でもあるの?」
「映像の最後の部分なんだけど」
私が気になったのは、最後に藤田さんから『がっかりだわ』と言われた後の、ご主人の反応でした。
カメラを隠しての撮影のため、アングル的にベストではないものの、絶句したとき、身体が硬直したように見えたのです。が、その後の映像は編集で消去してしまったそうで、当時の様子を確認すると、
「珍しく、それ以上は何も反論しなかったんだけど」
「動きは? 部屋の中にいた? それとも、移動した?」
「確か、少しの間突っ立ったままで、その後、ソワソワした感じで、自分の部屋へ引き籠った…かな?」
おそらく、そこにご主人をモラルハラスメントへと変貌させたヒントがあるのではと推測した私。
「もう一つ訊いても良いかな? ご主人と実家家族との関係だけど、手のかかる兄弟がいたり、逆に、ご主人自身が、かなり出来の良い子供だったりしなかった?」
「あ、そうそう! 小さい頃から、すごく優秀だったって、会う度にお義母さんが自慢してて、実際、そういう子供だったらしいのね。あと、兄弟は妹が一人いるんだけど、他に弟も一人いたんだって」
「その弟さんは?」
「何でも、小さい頃に亡くなったって聞いてるけど、あまり触れられたくないらしくて、誰も詳しくは話してくれなくて。旦那はあんなふうだから、本人に訊くのも無理だし」
「妹さんとの関係は?」
「う~ん、取り立てて仲が良くも悪くもない、って感じかな? むこうはそうでもないけど、旦那のほうは、距離を置いてるような気がするんだよね」
「そっか」
もし、この推測が正しければ、おそらくご主人の幼少期は、プレッシャーと孤独の中にあった可能性が高く、母親との関係には、弟の存在が深く関わっているかも知れません。
優秀な長男に対する母親の期待と、その母親が発したであろう『がっかり』という言葉、そして皆が触れない弟の死。
そうした環境下で、幼い彼の心を崩壊させるほどの何かが起こり、それが今の彼を形成しているのだとすれば…
「しばらくの間、『がっかり』っていう言葉は、NGにしたほうが良いかも知れない」
「それは、旦那にとって嫌な言葉なの?」
「多分、お母さんから何度も言われてたのは、間違いないと思う」
「だから、言われるとショックを受けるってこと?」
「いや、そんなレベルじゃない、もっとこう、重大な何かがあるような…」
「つまり、危険な感じがする、ってことなのね?」
そう言葉を補ってくれたのは、百合原さんでした。私はこっくりと頷き、自分の感じたことを伝えました。
「モラハラが他人を傷つけるのは、自分を守るためなのよね。その気持ちが強ければ強いほど…」
「攻撃も強くなる、と?」
「うん。海翔くんみたいに、『僕を見て! 僕を褒めて!』っていうアピールなら分かりやすいんだけど、おそらくご主人の場合、相当なプレッシャーと孤独があったんじゃないかって」
「良い子が陥るジレンマだよね」
「最愛の母親から投げかけられた言葉の裏に隠された、ご主人にとって致命傷になるほどの何かがあるとしたら…」
「危険かもね。そろそろ、避難場所の確保をしておいたほうが良いかも知れないわね」
過去にモラハラ夫と接触した経験があるだけに、百合原さんの判断は的確でした。これまでは、藤田さんへ危害を加えることはなかったとはいうものの、状況が変われば、ご主人がどんな手段に出てくるか分かりません。
万が一、何か事が起こってからでは、どんなに後悔したところで取り返しはつかず、転ばぬ先の杖は、自分の身を守る上で、いざというとき最大の効果を発揮する有効手段なのです。
藤田さんのカミングアウトから、一か月。私たちは次のステップへと踏み出しました。
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