インナーペアレント

二木瀬瑠

第1章

 私が住むこの新興住宅地は、元は荒れ野のようだった土地を造成してつくられました。


 開かれた土地に、定規で引いたようなマス目状の道路が通り、整然と区切られた分譲地には、次々と瀟洒な住宅が建てられて、僅かな時間の間に、突如として美しい街並みが出現した、不思議な空間です。



 私の名前は、松武こうめ。この新興住宅地に住む、専業主婦です。



 我が家は、夫婦二人+猫二匹の世帯ですが、ここに転入される人々は、世代、世帯ともに幅広く、新婚世帯、子育て世帯、子育てを終え再び夫婦二人になった世帯、単身世帯、二世帯同居、定年後の終の棲家としての高齢世帯など様々。


 多くの人にとって、マイホームを手に入れることは、人生の中で大きなイベントであり、そこに託す夢や、幸せへの願い、またそれにより圧し掛かるローンや、複雑な人間関係など、一見して目には見えない雑多な想いが、ここには渦巻いています。




     **********




 ご近所でも、非常に家庭円満に見えていた藤田さんご夫婦が、離婚されることになりました。原因は、ご主人のモラルハラスメント。


 真相を知らなければ、とても温厚な人柄で、奥さん想いなご主人で通っていただけに、その裏の顔は誰もが『えっ!?』と驚くほどの、いわゆる『モラハラ夫』。


 そして、この類の人間は、裏と表の顔の使い分けが巧みで、その本性を炙り出すのがなかなか困難なのも事実です。




 藤田さんご夫妻がこの街に転入されたのは5年ほど前。交際中はとても優しい人だったのに、結婚後しばらくして急変し、どんどんエスカレートしていったという、典型的なケースでした。


 ご多聞に漏れず、奥さんは『彼が怒るのは、自分に落ち度があったからなんだ』と自分を責め、次からは怒らせないように気を付けたり、色々工夫したりする、とても真面目な性格でした。


 ですが、ご主人の怒りのスイッチが入るのは、常に同じではなく、たとえば、お風呂を沸かせば『勝手に沸かすな』と腹を立て、翌日、沸かして良いか確認すると『いちいち聞かないと分からないのか』と罵倒され、じゃあいったいどうすれば良いのか尋ねると『それくらい自分で考えろ』とまた怒り。


 先回りして、なるべく地雷を踏まないように気を付けていても、不可抗力でしかないような状況でさえ酷く罵倒したり、その時の虫の居所によっては、人格否定までする始末。


 ネチネチと何時間も続く異常なまでの粘着質な嫌味や、何日も無視し続けるなどの精神的暴力に疲弊し、奥さんのほうから離婚を切り出したこともありましたが、途端に態度を急変させ、それまでの傍若無人ぶりが嘘のように、結婚前のように優しくなるものの、それも数日で元通りに。


 そんな日々が続く中、徐々にうつ症状に陥った奥さんの様子に気付いたのは、ご近所の噂話が大好物の葛岡さんのおばあちゃんでした。



「ね~ぇ、松武さん。最近、藤田さんの奥さん、どうしたのかしらねぇ~?」


「藤田さんが、どうかしました?」


「元気がなくて、げっそりしてるんだよねぇ~?」


「心配ですね。私もちょっと気を付けて見てみますね」


「頼んだわよ~。何か分かったら、すぐに教えてちょうだいねぇ~」



 さすがは人間モニタリングが生きがいだけあり、その観察眼に狂いはありませんでした。平静を装ってはいましたが、よくよく見ると確かにここ最近の藤田さんは、病的にやつれた感が見受けられました。


 詮索好き故に、普段は何かと周囲に迷惑を掛けることが多い葛岡さんのおばあちゃんですが、大事なポイントを見逃さないことから、ごく稀に役に立つこともあるため、侮れません。



 ともかく、今、藤田さんに何かが起こっていることは確かです。



 そこで、民生委員でもあり、コミュニティー内で絶大な信頼を得ている百合原さんはじめ、いつも親しくしているメンバーにも相談したところ、藤田さんの両隣のお宅から、有力な情報をゲットしました。


 最近の住宅は気密性が高いため、会話の内容までは不明ですが、しばしば藤田さん宅から、ご主人が強い口調で何かを言っているような声が延々と聞こえ、特にこのひと月ほどは、ほぼ毎晩なのだとか。


 それが何を意味するのか、百合原さんはかつて『ご自身が関わった経験』で、他の人は『一般的な知識』として、私は『実体験』として、すぐに察知しました。そして、藤田さんの状況から、早急に手を差し伸べなければならないほど、事態が切迫していることも。




     **********




 専業主婦で、普段ご自宅にいらっしゃる藤田さん。


 朝、ご主人が出勤したのを確認して、彼女がごみ出しに出て来たタイミングで、皆で声を掛け、最近とても元気がないので何かあったのかと尋ねてみたのですが、案の定『大丈夫』『何でもない』と繰り返すばかり。


 立ち話も何なので、百合原さんのお宅でお茶でもと誘っても、頑なに遠慮するところから、間違いないと確信を得ました。



「じゃあ、単刀直入に言うね。藤田さん、ご主人からモラハラ受けてるよね?」


「いえ、そんなことは…」


「隠さなくていいよ。昔ね、あなたと同じような人を、私知ってるから」



 百合原さんの言葉に、少し動揺を見せたものの、それでも頑なに否定する藤田さん。そこで、皆に目で合図をして、私が続きました。



「本当のこと言えば良いじゃない? 何で嘘つくのかな? そういうふうにぐずぐずしてるから、あなたは駄目な人間なんだよ。何で黙ってるの? 何か言うことないの? はっきりしなさいよね!」


「ごめんなさい…! あの、私…、ごめんなさい…!」



 明らかに怯えた様子で、震える声で何度も何度も謝罪を繰り返す藤田さん。



「…って、ご主人に罵倒されてたんだよね? ごめんね、急に怖い言葉使って」


「あの…私…」


「分かるよ。私も昔、被害者だったから」


「え…?」


「とはいっても、私の場合は『夫』じゃなくて『母』だけどね。ずっと独りで抱えて、苦しかったね。もう大丈夫だよ」


「そうだよ。あなたは一独りぼっちじゃないし、何も悪くないんだから」



 すぐには理解出来ず、おどおどしていましたが、何度も繰り返し発した『大丈夫』『独りじゃない』『あなたは悪くない』というメッセージが心に届いた瞬間、強張っていた表情が崩れ、気持ちが一気に噴き出したように、藤田さんは声を押し殺しながら泣き出しました。


 その様子から、彼女がどんなに辛かったか、体験したことのない人たちにも伝わります。




 一度は拒否されましたが、皆で彼女を説得して、百合原さんのお宅へ。拒否した理由は、ご主人の知らないところで、妻が他人と交流することを嫌がり、後でバレればそれが格好の地雷になり得ることを、嫌というほど分かっていたからでした。



「どうぞ、座って。皆も適当に」


「はい…」


「話せることから、ゆっくり話してみて。時系列とか、前後の流れとか、気にしなくて大丈夫だから」



 最初は上手く話せず、藤田さんが発した断片的な内容を繋ぎ合わせる感じで、状況を確認していたのですが、徐々に明らかになる様子に、相当酷い扱いを受けていたことが判明しました。


 最近では、帰宅するや否や暴言が始まり、どこかへ逃げたいと思っても、連れ戻された後を考えると、とても実行に移す勇気もなく、毎日ビクビクしながら、ただひたすら堪え続けるしかない状態に追い込まれていたのです。


 彼女自身、暴力は振るわれていないのでDVではないと思い込み、そのため誰かに相談することも出来ず、たった一人で苦しみ続け、私たちにカミングアウトしたことで、幾分気持ちが楽になったようでした。



「ありがとう。聞いて貰って、すごく気持ちが楽になった気がする」


「よかった」


「これでまた、明日から頑張れる」



 お約束通りの発言に、百合原さんはそっと藤田さんの手を取り、瞳を覗き込みながら、穏やかな口調で言いました。



「このまま頑張り続けたら、藤田さん自身が壊れちゃうよ?」


「でも、旦那をイライラさせるのは、私が原因だもん」


「それで、ご主人に言われるがまま、我慢してるの?」


「自分でも、もうどうしたら良いのか、分かんなくて。一度怒り出すと、どんなに謝っても怒りが治まらないし、反論すればエスカレートするし、スルーしたらしたでまた怒るし…」


「結局、何をしたって怒るのなら、我慢してもしなくても、同じじゃない?」


「そうだけど…でも、それ以上怒らせないようにしないと…」



 でもでもだってを繰り返す藤田さんに、私たちも続きます。



「違ってたらごめん。ご主人ってさ、どんなに完璧にしてても、何か見つけては、言い掛かりを付けて、怒りながらエスカレートしてゆくパターンじゃない?」


「あと、誰か他の人が一緒にいるときはご機嫌でも、二人きりになると、途端にご立腹モードになって、怒り出したりするでしょ?」


「そして、必ず言うのよ。『怒らせるようなことをするお前が悪いんだ』って」


「え…? 何で分かるの…!?」


「で、もう無理! ってなって、離婚を切り出したりすると、いきなり反省したり、妙に優しくなったりするけど、しばらくすると、また元に戻る。そして、また人格否定するような言動を繰り返す」


「うん。責められてるうちに、どんどん自分が駄目な人間だって思い知らされて、何とかしなきゃって思うのに、でも出来なくて、もうどうして良いのか…!」


「でもね、本当は藤田さんは全然駄目な人間じゃないし、何も悪くなんてないんだよ、ね?」


「そうだよ」「そのとおり」「悪いのは旦那のほう」



 再びぽろぽろと涙を流し、今度は声を出して泣き出した藤田さん。ご主人からの徹底的な人格否定に、もう何が真実で、何が正解かも判断出来ない状況に追い込まれ、心底傷ついていたのでしょう。


 思う存分泣き、気分が落ち着くまで待って、今後の相談をすることにしました。



「このことは、ご実家や義実家のご両親やご兄弟は知ってるの? あと、親しいお友達とか?」


「こんなこと、誰にも言えなくて…。うちの親なんて、旦那のことを『真面目で、仕事も出来て、誰に対しても優しい人間』だって思ってるから、言ったところできっと信じて貰えないと思う…」


「ああ、やっぱりね。典型的な悪循環のパターンだわ」



 ターゲットになる人間は、言われたことに反論したり、誰かに告げ口や相談をしないような、いわゆる真面目で大人しいタイプの人が多いといわれています。


 冷静に考えれば、相手のほうがおかしいのですが、他言や反論しないのを良いことに、筋の通らない理屈で精神的に追い詰めてダメージを与え、徹底的に弱らせて支配することに満足感を得る、それがモラルハラスメントの一つの特徴。


 逆に、反論したり、客観的意見を堂々と募るような相手には、手出ししない(出来ない)のも特徴。なぜなら、その攻撃性の強さは、自分を守るためのものであり、本人が最も恐れるのは、自分自身が傷つけられることなのです。


 そのため、ターゲット以外の人間に対しては、別人かと思うほど良い人を演じ、信頼関係を築いて、ターゲットを孤立させるような裏工作をすることも少なくありません。



「常套手段なんだよね」


「でも、大丈夫。どんなに良い人を装ったところで、やったことの事実は変えられないから」


「私たち、全力で藤田さんの力になるわ。だから、先ずは気持ちをしっかり持とうよ、ね?」



 その言葉に、涙ぐみながら何度も頷く藤田さんに、私たちも頷いて返しました。


 一番大切なのは、藤田さん自身が、今後ご主人との関係をどうしたいのか、ということ。選択肢は大きく分けて2つ、このまま結婚を継続するか、それとも離婚するか。


 勿論、大きな決断ですから、即決する必要はありませんし、ここまでダメージを受けている状態では、本人に冷静な判断をすること自体が困難です。


 何より、継続することを選択した場合、ご主人のモラハラを止めさせるか、奥さんがそれを上回るパワーでコントロール出来なければ、また同じことの繰り返しになってしまいます。


 そこで、最初のミッションは、藤田さんにご主人の普段のモラハラの様子を、録画または録音してもらうこと。


 そうした物理的な証拠があれば、第三者の私たちが客観的に判断することも可能ですし、藤田さん自身も、渦中から一歩離れた状態で、自分の置かれた状況を冷静に確認することが出来ます。



「いつも通りのご主人の言動を、録音するだけでいいんだよ」


「でも、私怖い…。録音してるの、バレない? 私どんなふうにしてればいいの?」


「とにかく、いつもと同じように。謝ったり、落ち込んだりとか」


「また罵倒されたら、辛いかも知れないけど、私たちが味方に付いてると思えば、少しは気持ちが強くなれるでしょ?」


「うん…!」


「だから、これは私たちの分身でもあり、お守りでもあると思って」



 そうして、藤田さんにICレコーダーを手渡し、彼女はそれを受け取ると、胸にあてがい、大きく深呼吸をして、頷いて見せました。




 もう一つ、アリバイ工作として、架空の町内委員会を立ち上げ、藤田さんもそれに選ばれた、というストーリーを作りました。これによって、ご主人の束縛から、彼女が外部と連絡を取りやすい環境が出来上がります。


 ですが、そもそもそうしたことを嫌がるご主人。奥さんの参加を、正式かつ強制的に断って来ないのか、という懸念ですが、彼が『本物』であれば、それもすべて計算づく、そのための伏線も準備しました。




     **********




 その夜、ご主人が帰宅した頃合いを見計らって、藤田さん宅を訪問した百合原さんと私。


 案の定、ご自宅の中からは、ご主人が強い口調で話す声が漏れ聞こえて来ました。耳を澄ますと、藤田さん本人から聞いていた通り、一方的に彼女を責めている様子です。


 そこで、すかさずインターホンを押し、打ち合わせ通り対応に出た奥さんと挨拶を交わし、ご主人を玄関まで呼び出すことに成功しました。



「夜分に失礼致します。わたくし、百合原と申します」


「松武と申します」


「あ、はじめまして。あの、僕に何か…?」



 私たちの前では、柔らかな物腰とにこやかな笑顔で対応するご主人。それらが、悪魔が見せる表の顔であることも、すべて承知の上。



「実はわたくし、この地域で民生委員をしております。この度は無理を申しまして、是非奥さまに委員会にご参加頂きたく、ご主人さまにもご挨拶に伺った次第です」


「民生委員の方でしたか! それはどうも、ご丁寧に」


「なるべく、お家のほうにはご迷惑をお掛けしないように配慮させて頂きますので、ご了承頂けますか?」


「ええ、それはもう。ただ、うちのなんかで、かえって皆さんの足手纏いにならないか、それが心配です」


「とんでもない。ご主人が理性的な方で、こちらも安心しました。今後とも宜しくお願い致しますね」



 百合原さんのインテリジェンスな話し方と、『民生委員』という肩書きに、さらに笑顔増量になるご主人。そうした『ステージの高さ』や『社会的な肩書き』に弱いのも、特徴の一つです。


 今の遣り取りで、彼の中で『百合原さんは敵に回してはいけない存在』という位置づけがされたことでしょう。勝手に、マウンティングで負けた状態になってくれました。


 私たちが直接藤田さんのお宅を訪問したもう一つの理由は、ご主人の裏表を確認するためでもありました。


 もし、彼が誰に対してでも、藤田さんがおっしゃるような人間性であれば、それは本人の性格ということになりますので、モラルハラスメントとは異なります(これはこれで難儀であることに違いありませんが)。


 しかし、今目の当たりにしたご主人の人格は、藤田さんがおっしゃるものとは対極にあることが確認出来ましたので、後は彼女が録音する『二人きりの時の人格』と照らし合わせるだけです。




     **********




 翌日、再び百合原さん宅に集まり、藤田さんが持参したICレコーダーを再生しました。


 録音は、ご主人が帰宅するところから始まり、予め打ち合わせしておいた通り、藤田さん本人からご主人に、委員会への参加をお願いされた旨を報告する声が入っていました。


 それに対し、まだ決定事項でもないのに、自分の許可なく勝手なことをしたと怒りを露わにし、ネチネチと自分の妻を責め始めたご主人。藤田さんが食事の盛り付けをしようとしても、それを引き留めてまで、



『何で勝手にそういうことを決めるの?』『事前に報告しろって言ってるよね?』『分かるように説明しろよ?』



といった発言を繰り返し、奥さんが答えようとすると、それをせき止め、『そうやってすぐ言い訳をする』とはぐらかし、今度は言い訳をしたと責め始める始末。


 しばらくして、百合原さんと私が訪問した音声が入り、それまでの陰湿な言動は一転、その変貌ぶりには不気味を通り越し、恐怖すら感じさせるほど。


 私たちが帰宅した後は、それまで責めていた委員会の話題はどこへやら、今度は食事の支度が遅いと言い出し、自分が支度をさせなかったのを棚に上げての暴言三昧です。


 その後も、事あるごとに文句、嫌味、罵倒は続き、こんなことをし続けられれば、神経がどうかなるのは当たり前でしょう。




 当初は、もしご主人にバレたら、と恐る恐るだった藤田さんでしたが、私たちの強固なフォローに、少しずつ気持ちが強くなり、ついには音声よりもリスクが高い映像での撮影にも成功。


 音声だけのものに比べ、動きや表情が見て取れる分、表のにこやかな顔とのギャップの生々しいこと。およそ一週間に渡り録音・録画したそれらを検証し、彼が間違いなくモラルハラスメントであることを確証したのです。


 藤田さん自身、何度も繰り返し自分の受けてきた状況を客観的に観察するうち、いかに理不尽だったかを、徐々に認識し始めたのと同時に、なぜご主人はそんなことをするのかという疑問が芽生えました。



「おそらくは無意識。自分が酷いことをしてる自覚すらないまま、自分の心を守るためにやってるんだと思う」


「なんでそんなことをするの?」


「彼自身が、同じようなことをされてた可能性が高いんだよね」


「誰に?」


「多分、親に」



 藤田さんには、思い当たる節があったようです。それは、自分がご主人からモラハラを受けるようになって、気づいたことでもありました。


 彼が自分の母親と対峙する際、本人は平静を装っていましたが、どこかぎこちなく、怯えているような空気が漂って来るといいますか。


 その様子が、彼女自身のご主人に対する緊張感と通じるものがあるように感じられ、ずっと不思議に思っていたのです。



「『虐待の連鎖』って聞いたことないかな? 子供の頃に自分がされたことを、大人になってから、自分も同じようにしてしまうの」


「やめさせることは出来るの?」


「まずは本人が自覚して、しっかりと自分を制御することが前提で、周囲もそれを理解した上で対応しないと、また繰り返すと思うよ」


「じゃあ、彼に自覚させて、私がフォローすれば、大丈夫?」


「甘く考えないほうがいいわ。私の知り合いは、それで自殺してるから」



 百合原さんの言葉に、全員の表情が一瞬にして凍り付きました。




     **********




 かつて、今の藤田さんと同じように、夫のモラルハラスメントに苦しめられていたお友達から、相談を受けた百合原さん。普段、滅多に弱音を吐かない彼女からの、それが最初で最後のSOSでした。


 正義感の強かった百合原さんは、何とか力になりたいと思い、先ず彼女の夫に接触してみたのですが、これがそもそもの間違いだったのです。目の前の男性は、全く彼女の話とは正反対の、とても穏やかな方でした。


 まだモラハラが世間にほとんど知られていなかった時代、それが表の顔だとは知らずにすっかり騙されてしまい、彼女が話した人物像とのあまりのギャップに、一方だけの情報を鵜呑みにするのもどうかと、少し様子を見ることにしました。


 ところが、百合原さんの行動から、妻が告げ口をしたと察した夫のモラハラは更にエスカレート、それに堪えかねた彼女はすべてに絶望し、自ら命を絶ってしまったのです。


 周囲の目には幸せそうに映っていたご夫婦に起きた突然の悲劇について、妻はうつ病で苦しんでいたという夫の説明に、一度は周囲も納得したのですが、後に、彼女が録音していた夫の暴言の数々が明るみに出ることになり、すべてが白日の下に晒されました。


 夫のモラハラに、散々苦しめられた彼女の無念は晴らせたのかもしれませんが、彼女の命が戻るわけではなく、助けられなかったことを悔やみ続けた百合原さん。無知だった故の後悔を、二度と繰り返したくないという思いが、今も彼女の中にあるのです。



「私も子供のころ、自分の母から、藤田さんがご主人からされたようなことも含めて、酷い扱いを受けて育ったから分かるんだけど、虐待の連鎖って、周りが思うほど、断ち切るのは簡単じゃないんだよ」



 私の言葉に、少し混乱したような顔の藤田さん。



「でも、松武さんはそういう人じゃないよね? まさか、陰でそういうことをしてるとかじゃないんでしょ?」


「勿論、そんなことはしてないし、したいとも思わない。でも、私の中にも確実に、そうした悪魔が潜んでいるのが分かるから」


「よく、分からないけど…でも、松武さんはちゃんと自分をコントロール出来てるってことだよね? うちの夫にもそうさせるには、どうすれば良いの?」


「その前に、一言で『虐待』って言っても、色んな種類があってね」



 虐待と聞くと、単に暴力だけを連想されるかも知れませんが、実際にはそうした直接的な肉体への暴力の他に、暴言や無視などで精神的なダメージを与えるもの、無関心による育児放棄、子供の自我を崩壊させるほどの過干渉などもあります。


 特に過干渉の場合、一見して、面倒見の良い親にも見えるため、虐待と区別するのが難しく、子供自身も虐待を受けている自覚がないのがほとんどです。



「私の場合は、そのほぼすべてがあって、大抵の場合、どれか一つだけというより、複合していることが多いのね。ご主人がどうだったか分からないけど、複合してると、その分、攻撃の仕方も複雑巧妙になって、ガンガン口で攻撃してたかと思えば、無視に走ったり、何かに当たったり、絶妙なタイミングでそれを使い分けて、相手に言い様のない罪悪感を与えてくるの」


「それって、まさに私がされてたことだわ!」


「哀しいことに、幼いうちからそういうことをされてると、英才教育張りに習得してしまうんだよね。肩を持つつもりじゃないけど、ご主人も元被害者だけに、自分自身に苦しんで、葛藤する部分もあるんだと思う。身体が大人になっても、心は傷ついたままだから」


「どうすれば治せるの?」


「自分を虐待した親の呪縛から、自分自身を解放するしかないの」


「それをすれば、旦那は普通になるのかな?」



 すると、百合原さんが優しく藤田さんの肩に手を掛け、小さく首を振りながら言いました。



「そんなに簡単に出来るなら、苦労はしないんだよね。『インナーペアレント』は、自分自身が作り上げた親の虚像だから、そう簡単には消えない」


「インナー…? チャイルドじゃなくて、ペアレント?」


「こう考えてみて。あなたはまだ3~4歳の小さな子供で、目の前にいる自分の親を、どうすれば倒すことが出来る?」


「どう…?」


「力でも、知恵でも、経験値でも圧倒的に優っているうえ、相手は自分が生まれる前から、何もかもこちらのことを知り尽くしている存在なら、倒すどころか、掌で転がされるか、絡めとられるのが関の山じゃない?」


「ああ、うん、無理かも…」


「自分の中にいる、非力で小さな自分が『インナーチャイルド』。それを支配し続ける、強烈な親の幻影が『インナーペアレント』。そして、それを打破するのは、自分自身。それを成し遂げる人もいれば、一生支配される人もいるんだよ」


「そっか…」


「だから、先ずは藤田さん自身で出来ることから始めようよ。何度も言うけど、独りじゃない、みんなで力を合わせて、ね」


「はい。宜しくお願いします」



 漠然とではありますが、少しだけ納得した様子の藤田さんに、百合原さんは優しい笑みを浮かべました。


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