くものいと

つゆり

くものいと

 休日の早朝、秋日和。

 すがすがしい青空にめずらしく前向きなきもちになった僕、とくに予定もなかったし、ちょうど煙草がきれていたこともあって、散歩がてら外へ出ようと決めたのです。

 人通りはなく、車も見えないのをいいことに、白くのびる中央線の上を歩きます。ああ僕はいま、いけないことをしている、危ないことをしている。だけどなんて良い気分。

 上機嫌で歩く僕、フと顔になにかが触れたようにおもえて足を止めました。右頬のあたり、柔らかいものが、絡みついている?

 自分の頬、目で確かめるなんてことはできませんから、もどかしくも指先でもって探り、探り、ついに原因とおもわれるものをつかむに至りました。

 目の前にひろげた掌のなか、しかしそこにはなにもありません。なにも見えないけれど、それでも確かに細い糸のようなものがからみついている感覚だけはあるのでした。

 糸、そうだ、糸だ。蜘蛛の糸。

 ときどき、外を歩いているときや自転車に乗っているとき、顔に蜘蛛の糸がフワリまとわりつくようなこと、ありませんか。そうか、蜘蛛の糸。なあんだ。

 納得した僕、しかし妙です。ここは車通りが少ないとはいえ、対向二車線の道幅ある道路。僕はその真ン中にいるのです。

 あたりを見回しますと、僕の右側には雑木林、左側には建ち並ぶ民家。蜘蛛が糸をかけるとっかかりになるようなものはそれくらいです。この道路の右から左まで、長々と糸が張られていたのかしらん。蜘蛛にとっては、結構な苦労だとおもうのですが。

 首をひねりながら、なんとなく僕はそれを引っ張ってみました。

 糸は想像以上に丈夫で、しっかりとしています。しかし、30センチほど引いたところでクンと止まり、どうやら糸のもう片側は何かに固定されているようす。しかも不思議なことに、そのもう片側というのはどうも僕の真上にあるようなのです。そんな感覚が、指に伝わるのです。

 木の枝や電線のたぐいは道路の端のほうにありますから、僕の上、というのは紛れもなく空でして、そこにはなんの変哲もない広く青い空と、そこへ放牧されたひつじのように群れる真白い雲たちが……、雲、クモ……、雲の糸?

 僕、自分のおもいつきに笑ってしまったけれど、こうなったらこの糸をとことん引っ張ってみようという気になりました。なにしろ今日はとくに予定もなかったし、やることといえば、煙草を買うぐらいのものなのです。

 おもいきり糸を引くと、すぐにクっと抵抗します。それでも僕はあきらめません。たとえ切れたところで知ったことか。

 いっそうの力をこめて糸を引いたその瞬間、めまいのような感覚。足元のおぼつかなさにおもわず下をのぞくと、なんと僕の足が地面から浮いているのが見えます。仰天して糸にすがりつき、ぶら下がったような格好で、どんどん上昇していくようすを呆然と見守るほかありません。

 パニックはしだいにおさまりました。なにしろ全身を支えているはずの腕だのに、疲れは感じることなく、からだ全体を浮遊感が包み込んでいます。

 ああ、これは。なんて、なんて良い気持ち。

 恐怖心が引っ込むと、かわりに好奇心が顔をだす。もっともっとと一心不乱に糸をたぐり、そのたびに僕はスピードを増して地上を離れてゆきました。

 気がつくと霧のようなものが僕のまわりに立ち込めています。

 いいえ、これは雲です。僕はとうとう雲のある高さにまで昇ったのです。

 下には、かすみの奥、おぼろげに僕の街が見えます。上には、ひときわ大きく厚い雲がどっしりと構えています。

 そのような高度にあっても寒さや息苦しさなど感じることなく、相変わらずに心地良い浮遊感に包まれているのです。しかしさすがに少し心配になってきました。そろそろ戻ったほうが良いのかもしれません。

 さてどうして降りたものかと思案していると、ねえ、と女性の声が。半信半疑で声のする方向、僕のうしろを振り向きますと、5メートルほどの先、僕と同じくらいの高さに女の子が浮かんでいて、笑顔でこちらを見ています。

 僕は心底ビックリして、思わずギャアと声をあげました。かろうじて糸を手放さずに済んだのは幸いです。そんなことをしたら、真ッ逆さまに落ちていたかもしれません。

 落ち着いたようすで見つめている女の子、あわてて僕も平静を装い、咳払いをひとつ。あらためてその女の子を観察しますと、紺色のブレザーに緑色のタータンチェックのスカートという学校の制服らしいいでたちで、短いスカートの裾からのぞく、紺地に赤いワンポイントのハイソックスがなんとも可愛らしい。年の頃は高校生といったところ。

 なぜ、こんなところに女の子が。空中に静止する不思議な女の子。

 しかし僕は、彼女の右手を見て納得しました。彼女の右手は、なにか見えないものを握っているようなのです。ああそれは、もしかして、糸だね。

 女の子はニコニコ笑顔で、僕の両手、彼女と同様に見えない糸を握っているこの手を指差してからこぶしを握り、上下に動かして、モットヒッパレというような合図をしてみせました。

 僕もつられてニコニコ、グっと手に力をこめ、糸を引きます。

 その途端、グンとものすごい力で体が上に引き上げられ、女の子はというと僕と逆の方向、下へ向かって引っ張られていくのが見えました。

 そうしたら最後、僕の体はドンドンと加速してあの大きな厚い雲のなかに引っ張り込まれていき、

 ありがとう、やっと、降りられ

 女の子の声を最後まで聞くこともできない。

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くものいと つゆり @nuit

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