第4話 万雷の中から


 まだ俺は生きている。だからお前は何も心配することなく、迷うこともなく自由に空を駆けてこい。ただし、これだけはいつも忘れるな。大事なことは先に言え。


 まずはドンッと下から突き上げられる衝撃を感じて、青信号で進む交差点の中間で歩み止めた。地震か、地中での水道管の破裂かガス爆発でもと思ったのも束の間。一瞬、呼吸がくっと詰まる風圧を背後より受けたかと思えば。押し出される違和感を覚えて振り返ろうとするものも適わずに、掴みどころのない透明の爆風圧衝撃を受けたのはほんの数秒前のこと。手にしていた箱は投げ出され、数メートルほどを吹き飛んだきり、うつ伏せの腹ばいでいたものを仰向けにしてくれたのは――。

「く、はっ!」

 鼓膜を劈き、未だ状況が掴めぬ意識も朦朧とする感覚の中で何度も瞬きを繰り返せばようやく、全身の全知覚が過剰過敏となって反応し始める。こいつはまずい、と思った瞬間から沸騰したアドレナリンがドッドと唸る鼓動も足早に。埃と砂利を含むアスファルトの道路を手の平いっぱいで撫でつければ、これは夢などではなく現実に起きていることを否が応でも実感させられる。

 そして、お前は誰だ?

 シャツ越しの腹に突き刺ささり、鮮血しているものを乱暴に抜き取り止血してくれている者はいったい――。


 簡易に手当てをした傷口を押さえてくれながら上半身を起こしてくれた男は、細く骨ばった骨格に薄っぺらな病衣を纏っている。同じく爆発に巻き込まれたのか、十代も前半のような風貌を晒す憂う表情は煤で汚れきっていた。もしや吹き飛んだ自身よりも、もっと爆心地点に近かったのではないのだろうか。しかしながら、確かに煤けてはいるものの傷を負っているようには見えない。そうして見入る視界の端々では、乱舞している埃や塵が擦り合ってプラズマ放電でもしているのか。チカチカとパチパチと泡を弾けさせるかの光の粒がスパークし続け。頭上でも太い送電線の手綱が実質皮一枚で繋がっているらしく、のちの結末を物語るヒュシュヴィン音が火花を散らしながら唸ってしなる。早くこの場から離脱しなければ、切れてのたうつ電線のダンスに巻き込まれるに違いない。

「何が――あった?」

 キーンと高鳴り続ける耳鳴りに血濡れた片手を充てても、大規模な爆発が起きた中心地は砕け散った建物の瓦礫や鉄くず、粉じんと火の粉がとめどなく舞っている。一刻も早くこの交差点より去ろうとして逃げ惑う人と、救援を乞う果てなき絶叫。悲鳴に怒号が飛び交うまさしく修羅場の最前線で、俺は救ってくれた男――とはいっても。細く小柄な躯体は決して痩せ細いのではなく引き締っているかにも感じ取れ。両手首にがっちりと装着されているのは点滴か拘束用の器具だろうか。ならば、妹が務めている病院で入院治療中の身か――なる試案を巡らせた視線を合わせると。横一文字に結ばれていた口元は、俺を見つめるなり確かに呟く。

「……」

 周囲と耳鳴りが煩い所為により、小声で囁かれた言葉は「手を貸して」だっただろうか。

 眉を潜めて「何だって?」と呈しながら、今。その手を貸して欲しいのは傷を負った己のほうだと天を仰ぎ。その間、右手に握らされた物が銃である事を認識するも、何故にそれを手渡されたのかの思考も追いつかず。

 砕片にも飛び火して焼きつく一帯。鼻をつく焦げ付きの悪臭は何の屑物が見るにも絶えず。この地獄絵図のど真ん中にして無愛想も事務的に、助勢を促すぶっきら棒な口元と瞳はまっすぐに「飛べる?」とも問いかけただろうか。

 俺にこれを撃てというのか。お前はいったい、何を俺に期している?


 濛々と飄々と。砕けた大地を這っては立ち上る白煙に揺らめく熱風、煮えつく蜃気楼をくすぶらせた黒煙が入り乱れる森閑の間で。少年のような青年の言葉を受けいれるか否かで俺はしばし口を閉ざした。――そうだ。束の間、二人で口を噤んでみるといい。その沈黙に耐えられる間柄であるかどうか、なる格言は確かキルケゴールだったであろうか。


 くりくりとした丸い瞳で俺を見入る眼差しは右往左往としているけれど、時に的を射ぬくかのような鋭さを垣間見せる様はまるで夜鷹の如く。選ぶにも選べずに根負けした俺は口火を切った。

「飛ぶって言ったってお前、いったいどこへ?」

 腹を負傷した背に「立てるか?」と寄り添う手が添えられて。双方ともに地につけていた膝や腰を上げては、ぷいと背いた薄っぺらい背からの返事は寡黙なままで煙りに霞む天を仰ぐ。

 どうやら腹の傷は浅いようだ。自らの足で立てることを確認するためにも。じゃりと鳴らしたアスファルトに靴底を摺りつけて、まだ踏ん張れることも自覚する。

「高いところは苦手なんだが――って、おい!」

 まずは名を名乗り、礼を述べるのが先だったかと後悔するより早く。大小の差も大きな男二人の体は軽々と、そしていとも簡単に淡々と急上昇した先の宙へと舞い上がっていた。


 最後の踏ん張りを手放した送電線の幹が盛大な花火を散らした後は、切れた電線が伸び縮みを繰り返しながらピシュン、ビヂュンと身をよじらせて跳ね回っては自由奔放な鞭を打つのを間一髪。

「いきなり飛ぶな! こっちにも心の準備ってもんが――っておい!」

 屈伸運動のちに跳躍したものは大抵、重力に従って落下する。飛躍した空中も最高地点で、一つであったものが分岐して一人、置いてけぼりとはどういう事だ。


 ふわりと内臓が浮く独特の浮遊を全身で感じながら――、あぁなるほど。先まで突っ立っていた場所に激しく叩き付けられたのは切れた電線の。あれに平手のひとつでも打たれようものなら一発で生死に関わっていただろう状況を鑑みて。否しかし、勢いもつけた放物線を描いて落下するものには逆らえず。オートマッチック式のリボルバーは、引き金のトリガーにかけた指を引きさえすれば簡単に弾が飛び出てしまう。うっかり自身に穴を開けないようにとの試行錯誤も忘れずに。

「あぁくそったれ!」

 きりきりと胃が痛んだのは刺さったガラスの所為ではないだろう。無理難題であろうともせめて足から着地しなければ。頭からアスファルトにキスをするのは御免被りたい。

 足腰を折って丸めた点を線に伸ばして再びの地に足裏をタッチさせれば。スライドした軌道の後を、大小様々な石を飛ばした土煙が追ってくる。

「何も蹴ることはないだろうが! そもそも、何かする前に何か言えよ!」

 怪我を負っている人の腹を何だと思い、足蹴りの踏み台にしては更に高くへと跳躍していったあの野郎はどこへ行った。

 見渡す限りは猛火と瓦礫の山と尾根。そして俺は対面したのだ。どすも黒く、ねっとりとした粘り気も強いタール状の糸をよだれのように垂らす漆黒の。何よりも濃く、透明度など微塵も覗えない噴水が数十階建てのビルより高く立ち上るさまを。

 

 最初は原油でも噴出したのかとも思えた。だけれど飛び散る黒の破片は、そこかしこで揺れている炎に覆いかぶさっては食っているかに見えて飲み込む勢いだ。石油か、それともオイルか、いや違う。油や潤滑油で済む話ではなさそうだ。むっと生暖かく漂う存在感に、むせ返る生々しい匂いも噴出しながら。ごく不自然に意図的を匂わせる裾野の広げ方も総じておかしい。それに今――、こいつ。俺を見て笑いやがった。嫌なヤツ。

 生まれて初めて目の当りにする異形なものに、血の気を引かせる武者震いが鳥肌を立てて全身を駆け巡る。こいつはマズい。俺は、久しくしていた妹の顔を見にこの地を訪れただけなのに。

 何故に嘲笑された? 寡黙なあいつはどこへ行った。いったい何なのだ、これは。何が起こっているというのだ。

 立ち竦んだ身に聴力が戻り始めれば。通りゃんせの旋律を存分に外して壊れた歩行用の信号機が青色を点滅させている。俺が首を傾げたのは、真っ直ぐであったはずの信号機が根こそぎ四十五度以上の角度で倒れているからだ。それでも信号機の役目を果たそうというなれば、見上げた根性であるだろうけれど。横断歩道は瓦礫に塞がれ見る影もない。

 手に持つ銃をまじまじと眺めれば、装てん弾薬が十七発のグロック十七だった。それは常套、ごくありふれたオートマチックピストルだ。扱いはわかっている……、多分。俺はシステムエンジニア被れのごく普通の会社員にすぎないが、機械いじりが好きなだけのミリタリー趣味は伊達じゃない。俺的にはリボルバーのほうが好みだけれど、今は好き嫌いを言っている場合でもないだろう。

 ゆっくりと、銃を持つ手を水平に上げて問いかける。――さぁ。お前は何なのだ。その、にやりとほくそ笑んだ歪な口元にして。表情筋に見えたものが万が一にして、ただの勘違いであろうとも答えてみろよ。回答によってはこの銃が吠え噛み千切る。

 さすれば、知らぬ間に俺の背後へと回っていた無垢が口を挟んだ。

「信号が赤に変わる前に、連鎖を立ち切って」


 いや、全くもって意図も意味も分からない。連鎖とは何だ。狙うとは何をだ。

「僕があらぬものたち――嘆きの分岐点を見極めるから。そこを狙って撃って」

 お前の中には相手を納得させ、合意を得た上で行動を起こすという概念はないのかと思う思想で眉毛とこめかみをピクピクと痙攣させれば。

「単発だけでも多少の効果はあるけど。連射の連弾、連鎖は単純に倍となるから早く確実に片が付く」

 そうだよ。最初からそうやって優しく、誰にでも分かるように説明しろよ。

「……連射で、倍?」

 他にも何故に青の内かの理解にも苦しむ俺に向かって、どす黒きあらぬものは構わず牙を剥き始めた。

「おっと!」

 顔の前すれすれを、生臭き匂いとむっと生温かいヘドロ状のものが鞭となって飛び込んだ。背を反らして逃れた鼻先より出所を睨みつけ、その訳のわからぬものをさっさと引っ込めさせようと決意する。

「最初に喧嘩をふっかけてきたのは、お前らだからな」


 この時点で俺は、何も知らずに断腸の連鎖を繋ぐ引き金を引いていた。それにより、世界と俺を繋ぐ螺旋は、急速に回転しながら一つの着弾点目指して突き進み始めもしたのだ。だけれどただの一発だけでは、どでかい図体をしたものへ、こそばゆいかゆみを与えただけのよう。

 いきなりの実践においても、試してはやり直す失敗が許されるのは装てん可能な限りの弾薬が尽きるまでのこと。

 交差点内での攻防は続き、どちらが生き残るかの形勢が当然ながら窮地に陥り。弾薬の残りも十を切った時。俺はごく自然に連鎖の具合とタイミングを掴みかけていた。

 襲いかかるものに対して、むやみに発砲していただけでは終わらない。あいつの言う通り、急所たる核心を射ぬけばそこから枝分かれする分岐が生まれ――。つまりは一つ一つが掛け合わさった二の先で、二掛ける二の四の次は十六掛ける十六で二百五十六連鎖。残念ながら、その次の計算は暗算できずに手を上げる。

「ようし。何となくわかった。とにかく連鎖をさせればいいんだな?」

 正直なところ全容は呑み込めていなかった。何故に枝分かれの波及が生まれるのかも分からない。それでも、やるしかないだろう。不遇と数奇が居合わせた破断の連鎖とやらを。

「頼むぞ相棒」

 遠くでサイレンが鳴っている。火災を知らせる警報と、避難勧告を周知させる消防や警察の警笛に警戒音も入り乱れ。ざわめき、悲鳴、喚声に号泣。争乱を呈していた交差点で俺はそうして初めて、あらぬものたちと対戦したのだ。


 愛銃となったグロックのグリップを握る度に、あの時の衝撃が鮮明に蘇ってくる。あれからたったの数ヶ月だというのに。人間の順応能力とは実に素晴らしいものだとよくよく関心させられもした、この数ヶ月間はそれこそ怒涛に追われた日々でもあった。

 あの日。偶然にして初めてあらぬものたちを退治した日も暮れた頃。星が瞬く夜空の下で俺の肩書きが何故か、晴れてあらがい屋になっていた。

「あの黒いヤツをあらぬものたち、と呼んでたな? 何なんだ?」

「知らない。でも多分、この世にはあらぬもの。あってはならないもの――だからだと思う」

 それ以外は何も知らないと、眠たそうな目を瞬かせて言った。

「お前、名前は?」

 寡黙すぎて憮然とした態度に見える少年らしき青年は、幼すぎる面をうつら、こっくりと船をこぐ眠気に誘われながらも反応している。灰と瓦礫の最上段で、背合わせの腕が動けば満点の空を指差し。

「夜?」

 の、とは自ら付け足し。彼の名が夜乃である事を知った直後に「ぐうぅ」と鳴った空腹の音が彼から発せられ、俺は妹のために買ってきたケーキ箱の存在を思い出した。――その後、妹は無事だろうか。

「ちょっと待ってろ」


 瓦礫の山を下りて行き、激闘した交差点を改めて外側から見据えながら。何という事態になったのだと感慨を寄せても既に時すでに遅しである。黄色い規制テープが張られた内の壊れたものは復旧、復興するしかない。

 戦いが繰り広げられた場所で後にも先にも原型を留めていないのは交差点の周辺のみ。近くの病院は無傷であるからにして。避難の際に軽傷を負ったものがいたけれど、入院患者は全員無事に移送されたと聞かされて一応の安堵はしている。

 今は尻のポケットに押しこんでいる銃を握らぬ手をそっと見つめて平を撫でた。この手が、俺自身が、まさかあんなものと戦う羽目になるとは思ってもみなかった昨日の今日。

 デコボコに隆起したアスファルトとコンクリートの残骸の間からケーキの箱を発見すれば、中身は多少潰れていようとも食することは可能だと判断して踵を返す。

 夜乃は混戦の最上段で、相変わらずぽつんと一人座り込んでいる。あぐらをかいた股に手を突っ込んで、ゆらりふらりと体を揺らして眠気と戦っている態度はあどけない。

「ほら」

 こんなもので良ければと付け加える前に。彼は閉じた瞼もそのままに、すんすんと鼻を鳴らして箱を嗅いだ。

「形は崩れてるが、まぁ食えなくはな――」

 人の話が終わる前に、箱を開けた途端の食い付きっぷりに目を剥いた。妹が、こっそり食べたいからと望んだケーキは数種類あった。その事を、ショーケースを前にして知った俺は選びきれずに確か「全部」と注文したはずだ。よってロールケーキが丸々一本と三角ピースが八個分ほど収められていたと記憶する。それらをものの数秒単位でぺろりと平らげ、赤い舌先でちろりと唇を舐められては味わったのかどうかの驚きも呆気も通り越す。突然、世話の焼ける弟が出来た気分だ。

「よく噛めよ……」


 空きっ腹が治まっていよいよ眠くなったのか。背に背を沈ませた夜乃は「直人」と俺の名を口ずさむ。

「……ん?」

 静まっていた鈴の音たちの、再び奏で始めた合唱に負けそうなほどの小さな声はぶっきら棒に「ありがと」と囁いて。「彼らはまだ、電線の中にいる」とも呟いた。

「お前はどうして、あの――得体の知れないものを見極められるように?」

「分からない。何となく。ただ漠然と、彼らが出してる独特の電磁波を感じ取れるみたい」

 そうして突然、巻き込まれていった者は他にも存在するそうだ。

 電線を伝って、あらぬものたちの嘆きは伝染する。貯まりに貯め込んだ彷彿が交差点で産声を上げるのならば。戦いはまだ続く。むしろ、ここから全てが始まったように。

 俺が夜乃と出会い、共闘したのが偶然だけではなかったのは。激闘の中で劇的に変化した連鎖の連携を思えば一目瞭然だ。

 どうして俺をと考える思いは、今はあえての蓋をした。

 放つ弾丸は。軌道、着弾のタイミング全てが俺の意思通りに動いてくれたのだ。

 こいつがあれば戦える。そして、出現ポイントと弱点を見抜くに察する感覚に優れた夜乃がいれば。


『――渋谷駅前五叉路です。直人さん、お願いできますか?』

 チームの要から連絡を受けて駆けつけてみれば、すでにあらぬものは出現間近であった。本来なら、やっかいな芽を出す前に抑え込むのだけれど躊躇ったのは、一般市民の逃げ遅れを多数視認したからだ。

「夜乃、引きつけろ!」

 ここは大都市の中でも屈指のスクランブル交差点。行き交う人々が莫大にして多い、しかも通勤ラッシュ時。一度大きな揺れを感じれば、高いところからの落下物に備えて道路へ飛び出す。交差点でも然り。座り込んでしまった者を、どうにか時間を稼いで交差点の外へ逃がさなければ。

「――あ、ママ? こっちが殿しんがりみたい。どうしよう?」

 雪夜ゆきやがどうしてここにいる? あいつは相棒と共に車庫で眠るピックスを取りに行っていたはずなのに。こんなところで何をしている。

「夜!」

 あぁクソ。ガキのお守りなんぞに構ってられるか。


 夜乃がスクランブル交差点の直上にて電磁波を操り、あらぬものたちの関心を引いている間にまずは一発、二発の弾丸を放つ。連射の摩擦で起きる多少の爆音と風圧によって吹き飛ぶものは許して欲しい。

 これにて、出現はコンマと数秒の単位で遅らせることに成功しているのを無駄にも出来ない。そして、交差点内はすでに全ての電子機器は使用不可能に陥っている。――そうだ。ここはもう安全という名からは圏外なのだ。

「走れるか?」

 座り込んでいた男女三名に早々の退去を促す。騒ぎを聞きつけた交差点の外周に、ようやく近隣の警察官たちが集ってきていた。規制線を張り、交通整理を始め、退避と避難の誘導に尽力している姿に顎をしゃくる。

「みんなを引きつれて交差点の外へ出ろ!」


 あらぬものたちとの戦闘は、信号機で囲ったリングの中に限定される。抗い屋がこれ良く排除出来ればの話だけれど。排除作業の邪魔であることにも違いない。そして、地中深きより噴出した土砂と一緒に噴き上がった水道管の破裂噴水で、この交差点内が水没する前に。万が一にもいざない屋どもが出張ってきてもやっかいだ。

「早く行け!」

 手近なビルの壁に張り付きながら、地割れより沸いた漆黒の急所を知らせるべく夜乃から発せられているグリーンオーダーに従い愛銃の引き金を引く。この間、三秒。

 小首を傾げた仕草が「それがどうした」にも見えた俺は地を強く蹴っての跳躍。後転、信号機への着地を決めて。耳に装着している無線から流れ込む援護要請にも応じて見せる。

「雪! お前は鷹んとこのバックアップに回れ。ここは俺たちだけで充分だ」

「うん。ママもそうしろって言ってるし、苦戦してるみたいだから僕行くね」

 噴き上がった水柱は五メートル以上にもなっているだろうか。しかしながら漆黒の軍勢は、それより深くに大地へ根付き、太きに高い幹を通じた高みより見下ろしている。

 くそったれ。降り注ぐ大量の水滴により全身は既にびしょ濡れでくそ寒い。頭頂部と額を経て眉毛や瞼より滴る水滴に不快を感じながらも、決着の参段は既に決めている。


「おい夜乃」

 交差点と、あらぬものたちの全容を把握できる手近なビルの屋上より見下ろしている俺の相棒とて気持ちは同じだ。

「次こそは三連弾で決めるぞ」

 冷静に告げたのちに、俺達も応援に回ろうとするグリップを握る手に力を込める。その場で足踏みをしたのは体温低下を防ぐため。と再度、そこを狙えと出される注文に応じるべく。

「朝っぱらからずぶ濡れにさせやがって……。騒々しくしたのも大間違いだ」

 皆を混乱に陥れ、迷惑をかけた先で対したのが俺であったのも運の尽き。そんな俺の連鎖の屋号は響嵐きょうらんだ。

「祭りは好きか?」

 称賛の歓声も拍手もいらない。欲しいのは沈まぬ安寧。ボタボタと滴を垂らすこの手にかけるは鉄槌を下す断罪のトリガー。なぎ倒されたまま、間もなく進行停止を呼びかける青き点灯は。悪夢よ早く目を覚ませと呼びかけるかのように瞬いていた。


 信号機と歩行者用白線の内側となる四角の囲いの中へ身を置けば、そこにはもう生死を賭けた殺戮の場所へ様変わり。ドッドと噴き上がる白波を立てた水軍の勢いも相当なもの。穴が空いた道路。砕けて割れたアスファルトの破片に砂利や汚泥。足場は悪くなるばかり。

 そんな目と鼻の先で、耳を劈く咆哮が交差点のど真ん中から突き上がる。さっきはよくもとでも言いたげな、吐き気を催す夥しい臭気を放ちながら現れるあらぬものたち。

「はっ! こいつはまたえらく貯め込んだな」

 形はまだ定まらない。自由自在なタール状なる練り液体がうねり絡まり、刻一刻と姿、形を変えた拳で大地をたたき割る号泣の咆哮。――もう少し、熟すのを待つか。


 生まれたばかりの拍動段階ではまだ手を出すべきではない。片付けるには厄介なだけであり、一発で確実に仕留めるのならば、形成が安定してからに限る理念は培った実践で得た。

 そうした成長の間を見極める夜乃の目は見逃さない。丸々と見開かれた瞳が瞬き、特技のワイヤー奥義を放ってから飛躍する細き体は、交差点の真ん中で産声を上げるものに疾風となって立ち向かう。

 全身から鉤爪の牙をむき出しにしたあらぬものたちは、絶えず生え換わる八つの目で夜乃を捕え。ぱっくりと割れた口から原油のような黒き体液に似た触手が、向かってくる者を串刺しにせんと高速で放たれる追撃を許すまいとした俺は。引き金を引きて、夜乃に縋る触媒へと一発目の弾丸を撃ち込んだ。


 触手との衝突寸前。夜乃は先に張った固定先自在の楔ワイヤーに足を引っ掛け、体勢をぐるりと一回転。反動を駆使したのちの宙へ舞い上がった華麗な技には、一切重力というものを感じさせない。

 更なるワイヤー術での飛躍の先で、頭部を軸にもう一回転。そうして敵を引きつけたと同時に弱点の核を見抜くことに長けている者を、今どきは前衛のアタッカー、先制のランカーとも呼ぶそうだ。

「去る者は追わずと習わなかったか?」

 相方としてパートナーシップを組む後方、バックアップも担う俺はアンカーとも呼ぶらしい。

 煌々と光る緑の点ライトを見据えた着眼点を、交差点より方々へと延びて電力を共有している電線にも流しやり。

 一撃必中。要求箇所をバツンと射ぬく。漆黒の体内を貫通すべく潜りこんだ弾の尻に二発目と三発目が立て続けに命中すると。バニラ色した摩擦が閃光しながら生じる。そうして、あらぬものたちの中で弾けたプラズマスパークは。青き稲光の尾も引きながら、爆発的に網の目を拡大してゆく連鎖を花開かせる。

 大輪だ。鋭く光る切なさは、夜空に瞬く星のように。淡くほんのり瞬くものは情緒豊かな蛍のように。だけれど宿り木そのものは、おぞましき怨念と未練の塊。


 大抵の場合、屋号を使わずとも三連弾で勝負はつく。これが四の五と続けば続くほどに相手もより大きく、やっかいな相手になることは実体験済みだ。今回の場合は首都圏随一のスクランブル交差点にて周囲に人も多かった。より、短時間での終戦を鑑みての即決に迷いはなかった。

 バチバチと、パリパリと。ミリ以下ナノの世界で生まれる摩擦と亀裂を擦り合わせる嵐が吹き荒れて。最後に腹の底をぐりぐり揺さぶる超低音と、ガラスの板を引っかく耳触りも甲高い超高音が響き渡れば俺の仕事は一丁上がりだ。

 それはまるで、ドンと唸る地響きと共にひゅる、ひゅるりと打ち上がった尺玉が満を持して火薬を弾かせる花火のように。黒き塊は、それまで騒々しくのたうっていた動向をぴたりとやめて。ぷっつりと白眼のない黒目を剥いて静止、のちに降参の項垂れを示す羽根を広げて倒れ込む。続く余波は、池のように大きく貯まった水面を叩いた水滴たちのスプラッシュ。


「……っ」

 感電を防ぐべく、充分に距離を取ったところでも顔にまで弾き飛ばされた雫が飛んできて、口の端にひっついた砂利まじりの水をぺっと吐く。

 屋号は単なる三連弾より遥かに馬力も威力も驚異的だ。だけれど弾き手が担う体力ダメージ反動もより大きくなるが故に、出来得る限り発動を回避したほうが――つまりは歳と加齢への自己防衛でもある。

 スクランブル交差点の中で落ち込んで、滴る黒い水たまりにもはや意識は窺えない。信号機はそのボディをひしゃげても、黄色から赤への信号色を変えて本来の仕事に戻っている。

 交差点近くに聳える商業ビルの窓ガラスが、伝った爆風や衝撃音の影響を受けて割れてしまっているのはご愛敬。見なかったことにした。

「こっちは終わった。ところで――ママさん。これって早朝手当、つくのかな?」

 駅前のからくり時計が午前九時丁度を知らせていた。今日の朝は早かった。沿岸方面からのローラー警戒が始まったのは日の出前のこと。政府からの報酬に加算をしても妥当ではないだろうか。それでも充分、命あっての最前線。収入はサラリーマン時代であった時より比較にならない額である。

 無線先からの返答も実におっとり、マイペースで落ち着き払ったものである。

『――食後のデザート、上乗せしておきますね』

 それで喜ぶのは夜乃たちだけではないか。勘弁してくれ。


 俺は首を横に振ってからパートナーに視線を流す。

「行くぞ」

 早く風呂にでも入って、濡れ滴る体や衣服をさっぱりしたいところだけれど。向かうは狩人たちの根城ではなく。パンツポケットから取りだした全国版地図で確認するのは、ここより北に大よそ五十キロ以上離れた次なる交差点。

「……どこだって?」

 これから急行するべき所は知らない街だ。しかも字も読めない――と思ったら単に地図が逆さであった。

「ん、んんっ」

 不要な咳払いの喉を鳴らして地図を正しき手元に持ちかえた。ハイテク現代においてタブレットではなくあえて紙、スマホや携帯ではなく無線を使うのには然るべき理由がある。あらぬものたちが奇妙に発する電磁波の影響を受け、いざなる時にこそ使い物になった事が実際問題多いのだ。

 地図上で応援先を探しながら指で追う。

「羽生、須影団地」

 渋谷から、のんびり徒歩では十一時間ほどかかるその場所へ向かった雪夜の呟きも脳裏に浮かべる。

「殿、か……。ならばこっちが通過後の赤なら――なぁ。ママさん」

 再度、チーム内で最も後方に位置するアンカーを呼び出した。

「先頭は青になってから何分経ってる?」

 俺たちがこの渋谷界隈で応戦し始めて早三分は経っている。

『――五分経過しました。劣勢ですけれど吉報ですよ。現地は雨ですから』


 ずぶ濡れ三昧ではないか。どちらにせよ濡れるのだから、今さら気にしたところで同じことだが。

「OK。向かうよ」

 警戒心の強い夜乃も高いビルの屋上より、北の方角をじっと見つめたままで動かない。血の繋がりはないけれど、激闘を潜り抜けてきた兄弟たちは戦いの真っ最中だ。だから余計に俺たちの間には、諦めるという選択肢がない。

「夜乃、先に行け。お前は生粋のランカーだろ?」

 何も恐れることなく後ろを気にすることもなく。前に、前へと駆ければいい。だけれどいつも言い聞かせているように。大事なことを先に知ってから飛ぶように、と。

 相棒の姿は、俺が言葉を続けるよりも早くに影も形もなくして消えた。その俊敏さと躍動感は夜鷹の如く。

「……」

 今回も何とか生き延びた。それにしてもあいつは――合流の場所を分かって飛んだか?

 斥候に長けた相方は、器用なほどに方向音痴でもあった。

 そう。超人的な脚力と飛躍力がある足で、どこへなりと飛んで行くのも構わない。けれど、俺は近道をさせてもらおう。二十代と三十代では無茶をやれる体力的範囲も限られてくるのだから。


 遠くからサイレンを鳴らして駆けつける応援のパトカーや救急車の音が近づいている。規制線を張り、現場の統制を布く警察官たちの警笛に警戒の声、混乱を呈する交差点内に唯一存在している俺は。でこぼこになった足元を見渡した先に出来ている、男一人が通れるだけの大きな水たまりの一つに視線を定めた。

 半年前まで、俺はごく普通のサラリーマンであった。あの規制線の奥でひしめき群がる野次馬の中の一人であっただろうに、今ではどうだ。

 選んだ道を嘆いたところで現実に今、俺はこの業界で食って生きている。案外、飛び込むことに迷いや躊躇はしなかった。実質馴染んでしまった現状を振り返れば、順応とは恐ろしいものだ。


 規制線の淵で、先の三人組の姿が見えて俺は足を向けた。煤や泥で汚れ、ずぶ濡れになった体を救急隊から渡されたであろうオレンジ色の毛布で包んでいた三人は一瞬、たじろぎながらも俺を正面から迎え入れる。

「あんたら、よく頑張ったな」

 腰を抜かしたまま、動けなくなってしまう者も多いのに。彼ら彼女らは引き込まれることなく、自らの足で逃げ切った。大いに褒めるべき事なのだ。フランクリンも言っている。今日の一つは明日の二つに勝ると。

「……」

 三人とも返す言葉がないのは、いきなり非現実的な日常に遭遇してしまった名残りであろう。沸騰しているアドレナリンが落ちつけば、毛布を握りしめる手の震えも止まり。やがては言葉もすんなり出てくるだろう。


 じゃあな、の別れも告げず俺は静かにその場を後にした。早々に立ち去り、ここの主導権を警察や消防などの国の機関に預けなければ。

 先に見つけた水たまりの手前にまで戻り、ひとつ、ゆっくり息を吐く。そして――。

遼臥りょうが、そっちに出るから援護してくれ」

 土砂がぬめったぐしょ濡れの水たまりの前で軽く助走をつけての跳躍ののちに。足から水たまりの中へ潜って行った。

 つい今しがたまで、男が突っ立っていたであろう水たまりの後に残るは波紋だけ。取り残された民衆たちよ、気にするな。この世は不可解な事でも満ちている。

 水たまりを利用した俺は、瞬時にして別の交差点に降り立つのだから。後の残るはきっと、清々しいほどの沈黙と静かに弾けた波紋だけだろう。

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