第2話 名もなき交叉


 私は足の底から伝った小刻みな揺れをてっきり、冷めやる北風からくる寒さでぶるりと震えた所為かと思った。深い地中の層から波及した振動と大地の身ぶるいは――ゴゴゴゴゴと産声を上げた地鳴りと共に突き上げる衝撃を地震として受けとめたのは丁度、渋谷のスクランブル交差点を渡っていた時のことだった。


「はぁあ……」

 今日も今日とて、昨日と同じ一日を送っては明日を迎えるのかと考えたところで虚しき溜息がこぼれた。息が白い。白くなったのは今季に入って初めてだろう。そう言えば、朝のニュースで一番の冷え込みになったと報道されていたと思い起こす。手袋をしてくればよかったと、鞄の柄を握る指が少しでも寒さから逃れられればと思うジャケットの下、カーディガンの袖を限界まで伸ばして悴む冷えをわずかに凌ぐ。


 周囲の波に弄ばれながら、止まっては進む人の流れにも従順なままに。何となしに周囲がそうであったからというだけで、右に倣えなる法則に従ってきたこの二十と数年。たまたま家の近くで通った幼稚園が音大附属であったがために、鍵盤打楽器声楽作曲、音楽の事なら何でもござれな万能学生になっていた。幼少から一日も休むことなく練習し続けたピアノの腕と、鋭き音感と感性で将来はピアノの先生かとまで持て囃されたのに。コンテストに入賞した作曲で道を切り開かんとした分岐点で一人、ぽつんと取り残された。


 挫折したといっても、自身にそれだけの技量や器がなかっただけで。同窓には立派な指導者となって音楽教室へ配属された者、演奏者として楽団に入った者もいる。だのに自分は海外への留学のチャンスでもあったコンクールでまさかの緊張のあまり、一小節も弾くことができなかった大失敗に見舞われてそのまま。以後、鍵盤を奏でる行為にすら自信も消失。失意と自身への失望からなる無意味な右往左往をしたところで時既に遅し。卒業公演を迎えても、ただ何となしに乗り切っただけ。夢にまでみた演奏者、作曲家にもなれずに無職であってはならないとした焦りの一点だけで。あえなく親が薦めた地元の企業に就職をした。


 両親には感謝している。必ずや娘は世界に名を馳せる音楽家になるだろうと囁かれ、指導者への月謝や楽器につぎ込んだ学費や授業料は将来への投資にしては高すぎた。今でもピアノを奏でるのは好きだ。作曲するのも好きだ。けれど所詮は趣味の範囲内。生計を立てるだけの稼ぎなど到底得られない。

 申し訳なかった。両親の期待に添えられず、夢にも応えられずに今でも心から済まない気持ちでいっぱいだった。

 だから初めての会社勤めは我武者羅に励んだ。少しでも稼いで少しずつでもつぎ込んでくれた分を返していこうと懸命に働いた。すると体を壊してしまい、折角の正社員であったのに結局三年で辞めてしまった。


 療養期間を半年おいての再就職がすぐに決まったのは、まだ年齢が若かった所為かもしれない。だけれど就職したレコード会社は、親会社の倒産煽りの影響をもろに受けたドミノ倒しであえなく離職となってしまった。

 今の会社は三つ目だ。二つ目の会社までは何となしに音楽に関わる業務を展開していたので身近に音楽があったけれど、今の会社はまったくの異種であって音とも無縁。もう何年も鍵盤に触っておらず、埃を被ったピアノを売ってパソコンに買い換えたのは何時だったかも思いだせない。


 日々の生活に押され、食べていけるだけの流れに流され、世間が区切るアラサーだなんて壁など縁遠いと思っていたらすぐ目の前にやってきていた。

「はぁあ……」

 私の人生はいつだってこんなはずではなかった、に限る。冠婚葬祭続きとなった出費の苦しい時期に限って洗濯機やテレビにパソコンといった家電も次々に壊れ。寿命になり買い換えた痛手に加えて、十年来愛用していた眼鏡も壊れて作り換えたばかりだ。

 取るに足りない小さな不運は誰の所為かと責任転嫁をしようにも十中八九、チャンスをみすみす逃して掴み損ねた自分の不器用さだろう。そうして不器用なりの、間の悪い人生だけで終わるのか、と思うとまた肩を上げては下げた言葉には出さない溜息を落とした。

「ふうぅっ」

 見上げた空は放射冷却効果で青く澄んでいるのに。心の中は、いつにもなくどんより模様だ。


 ふいに、隣に位置していたカップルのやりとりが耳に届いて反射的に視線を向けた。

「ねぇいいじゃん? 行こーよお?」

 ねっとり甘える声色を発する彼女らしい茶金髪の娘は両腕を彼氏らしい男の上半身にべったりと巻きつけている。

「んだから無理だって」

 少し焼けた小麦色の肌と脱色している髪もまた今時の男子そのもの。すなわち現代の遊び人を代表しているかの男女ペアは、周囲から向けられている空気を読めよ的視線を浴びても構うことなく。

「俺、マジで寝てねぇんだって。誰かさんの所為でな?」

 ウィンクをして彼女に口づけをした彼氏とのやり取りは。私と同じく信号待ちをしていたほぼサラリーマンとOLからなる群れの中では浮いていて。この朝っぱらから、とする殺気も漲る。――どうせ親の脛かじりだろうに。働けってぇーの。


 正直、彼氏彼女がいる人を羨ましく思う反面、付き合いなどは面倒くさいと思っている。私だって男、女友達は沢山いた。SNSなどのウェブ上のコミュニティーが主流となって氾濫するまでは。

 携帯が一人一台の時代が到来し。本来なら顔と顔を突き合わせて言葉を交わさなければならない重要なことすらメールという一方的、都合のよい時間と返事の境目で行き違い、言葉の受け取りニュアンス一つで摺れ違った友達を幾人も失くし。言った言わない見た、見ていない。読んだ読まない、書いた書かないの応酬にほとほと疲れ、残った親友は一人きり。その旧友も未だにガラケー所有者。私と同じくスマホになど絶対にしてやるものかと無意味に抗っている似たもの同士の戦友でもある。

 そうだ。本当の友など数で競うものではないはずだ。現実に、心の内を芯から語れる者が一人でもいれば幸せだと思おう。


 それに、私にだって格好の良い彼氏はいる。浅はかな頭の中だけの、現実には姿なき限定だけれど優しくて頼もしくて素敵な――私だけの、私のためだけに存在する完璧彼氏が。

 きっと彼が今、実際にこの傍へ寄り添ってくれているとするならば。そっと肩を抱き寄せ、お前には俺がいると慈愛が満ちる瞳で見つめてくれているに違いない。洗練された魅力にあふれる男の中の男な彼は、他人も羨む紳士な好漢。街を歩けば注目の的となる彼にとっては私が世界の中心。

 そうした世界で、私を特別にする転機が一度くらい訪れてもいいのに――。


 グラッぺの『ドン・ジュアンとファウスト』にもあるように。女は深くを見るけれど男は遠くを見る。男にとっては世界が自分で、女にとっては自分が世界なのだと。その深きものが果てしなく嫉妬深く、おぞましすぎるほどに醜くあっても。

 平凡極まりなく流され、何をやっても中途半端で終わる私がいつか世界の中心になれる日が――だなんて。またあらぬ回想をしてしまった。くだらない。生き疲れているのだろうか。もう溜息しか出ない。嫌な朝だ。おまけに寒い。凍えそう。

 ようし。明日は休もう。そしてこんな日の昼食はいつもより奮発しよう。ほんのささやかなれど、そうして自分を元気づけて甘やかしたってたまには悪くはないだろう。


 歩行者用の信号機が青に変わり、進み始めた一定のコースに乗りながらランチの選択をしていると。前を歩いていた男の人がいきなり立ち止まったものだから、かなりの勢いをつけたまま追突してしまう。立ち止まったきり、仰け反った反動に耐えられなかったバランスは、その場に尻もちをつく羽目になってしまう。

「っ!」

 こうして尻をアスファルトに打ち付けるのは今年に入って二度目となる。一度目は先の春に、首都圏にして何十年ぶりとなる大雪が降った次の日のこと。あの時も盛大に青い空へ靴の裏を見せてすっ転んだ。ただ、あの日と違うのは周囲に人がいるか否かで。殺気立つ通勤の人々でごったがえす交差点のど真ん中で尻を打つとは――こっ恥ずかしいたらありゃしない。嫁にいけないではないか。貰ってくれる先も予定も未定だけれど。

「すいません。大丈夫すか?」

 前を歩いていたサラリーマン風の男が振り返りながら手を出していた。


 立ち上がるよりも先に気に掛けるのは、買い換えたばかりの眼鏡が無事かどうか。貧乏暇なし、これでも愛用の三代目には随分と奮発したのだ。高かったフレームも最上級にしたレンズも選びにより抜き、先日仕上がったばかりのお気に入り。早々に壊れては痛恨の極み。しかしながら私もぼうっとしていた。めくるめく煩悩を脳内で創造するに気を取られすぎていて、ついうっかり前の人との距離を詰めすぎていた。

「あ、の。ありがとうございま……」

 まずは眼鏡が無事だったことに安堵してから、手を差し出してくれた男の人の紳士的行為に恥ずかしさも覚えながらまずはの礼を告げて。――良かった。変な人じゃなくて。朝っぱらから喧嘩でも売られたらどうしようかとドキドキしてしまった。

 折角の手に手を伸ばしたところでパツンと弾けた冷気と熱気を同時に感じ、続いて乾燥した時によく発生する静電気のスパーク音に聴力が反応していた。


「え、何?」

 これまで一度として聴いたことのないツンと尖った独特の鳴りに、どこかで何かが破裂したような振動を体でも感じた。そして突如発症した頭痛がドクリと脈を打つ。

「いたっ!」

 こめかみに右手を添えたのも同時に、体はグラグラと湧き立つ交差点のダンスによって弄ばれた。

「何だ!?」

 男の人も激しい上下左右の振動に立っていられず膝を折った。頭を支える私を心配したのか、伸ばされていた手は片腕に添えられていて。ほんの小さな寄り添いだったけれど、嬉しかった――気分は一瞬で吹き飛ぶ。

「見ぃーつけた」

 いつの間にか背後に現れた男の子が発言したのを受けて二人一緒に振り返る。そこにいたのはブリティッシュ系なファッションで身を包んだ少年、にしては年齢的にもう少し上だろうか。少なくともまだ成人はしていないだろう青年が交差点の信号をじっと見入っている。

「見つけたって何を?」

 サラリーマン風の男性が少年のような青年に吠えると、私たちの周囲が瞬く間に黒い霧に覆われたかのようにふつと明るさを失った。


 空は青い。白い雲は遠くに薄くかかっているだけ。この交差点の上空は首都圏を往来する飛行機のフライトルートからは外れている。よって、東から昇りし太陽の光を急に遮るものの正体とは。

「何って、伝染の事に決まってるでしょ?」

 そうと聞いて、並大抵の者は疫病や感染の恐怖を脳裏に浮かべるだろう。だけれど男の子は淡々とした態度と物言いで携帯電話を耳に当てた。

「あ、ママ? こっちが殿しんがりみたい。どうしよう?」

「この地震の揺れと、どう関連してるってんだ?」

「探してるんだよ。電線の中でひっそりと、息吹く時を見極めながら」

 男の子は。これからさも愉快な出来事が繰り広げられるに違いない、と確信染みた薄ら笑みを携えた表情で続けた。

「交差点ってのは万物の思い、万人の心中が様々に募る未練の交叉とも言われてるから――交錯が続く限り、生と死せるもの然りの輪廻は終わらない」


 言葉を受けて、私は瞬時に出来得る限りの想像をフル回転させてみる。

 万人と乗り物、物が行き交う交差点では日々、喜怒哀楽や歴史が膨大に刻み込まれているだろう。中には嘆き苦しみ憎しみを抱いた怨念もこぼれ落ち、こびり付き、根付いた悔恨は伝染するかに大きくなって膨らんで。終いには収まり切れず、とうには縛り付けていた鎖が切れる。

 暗き地中で息を殺しながら眠りについて。ふいに目覚めた衝動は、大地を揺るがしながら濛々と黒煙を迸らせて唸るのだ。溜まりに貯まってようやく生まれたものの、生への執着はさぞ高揚して深かろう。興奮の武者震いはさぞ懸命であろう。

 折角この水の惑星、地球上において生まれた命であるならば。互いに手と手を取り合って共存、互助するのも道であろうけれど。生体系はピラミッド型がごく自然のなりゆき。一方的な侵略において食いつくそうとするならば。おのずと頂点を目指すであろう、その異形なるものは――幽霊だとか妖怪だとかそんな生緩い表現では済まされず。獣、怪獣、モンスターのどれでもない、あらぬ妖異な化けものたちと呼ぶに相応しく。相違なく、猛々しくも王座に就かんとすべくの咆哮を上げ、迸らせた飛沫は噴き上がった地中からの水しぶき。


 シュオジュプと、轟々と、高き水圧が解放を求めて陸地を叩く。跳ねる水滴、滴り吸収された水の流れは淀みに溜まって深みを作り。さわさわと、霧雨状のミストが私の顔や手に水滴を作っては濡れそぼる髪や衣服。足元をびしゃびしゃに浸らせてゆく水の行方を目で追っていると、苦き思い出が回帰してくる。雨も、雨上がりが作る光景も好きだけれど。穿つものは大嫌いだ。第一このまま、濡れた冷気の元では本格的に風邪を引いてしまう――ものも何とかしなければ。


 激震に見舞われているのは、どうやらスクランブル交差点の内側だけのようだった。既に行き交っていた人の多くは、近隣の交番などから駆けつけた警察官たちによる誘導などで悲鳴と怒号を上げながら退避している。

 ふと、ぶつかった男の人が握っているスマホの画面が見てとれた。電波は圏外。もしくはそれら全ての電子機器類が使い物にならなくなっているのか。いずれにしても、尋常ならざる事態に直面しているのは確かであった。

 私も立ち上がり、早く逃げなくてはと思っても。持ち前の片頭痛が鼓動を打ってやまない、こんな大事な時に。

 それは手を貸してくれている男の人も同じなようで、体が固まってしまっている。妙なことを口走った少年のような青年も。だけれど咄嗟に、私の口から迸ったものは。

「それなら、あなたも名もなき連鎖の?」

 しまった――! 私ったら勝手な妄想もあるがままに、脳内に留めておくべき煩悩の一節を思わず口に出してしまった。とんだ失態。これぞ一生の不覚。もう御嫁にいけない悲しかな――貰ってくれる相手などそもそもいないけれど。

 男の子は私の顔を食い入るようにも見て、はっと正気を取り戻した私もその場を取り繕うとして目だけを剥くも。いつの間にか男の子の後ろで、仁王立ちでいた薄ら髭面の男性が後を引き継いでしまっていた。

「そうだ。アクロスティックも終わらない」

 逃げ惑う人々と野次馬が、白線の外側で交錯する交差点に現れた薄ら髭面の男性は。先の男の子と同じように、驚愕の事態を予期していたかに告げたのだった。


 あなたは誰なの。どうして私の言葉に賛同を? その言葉の意味も中身も、うっすら髭の顔、形。がたいの良い高身長な背格好のどれをとっても。

「あなた――、どこかで?」

 唐突に見覚えを求めた記憶の引き出しがどこにあるのかもわからずに。

 片っぱしからの疑問を問うより先に、呼吸をするのが精いっぱいな白い吐息はもやに消え。交差点のど真ん中に忽然と姿を現した黒き巨木の幹は、噴出しながら分裂と枝分かれを繰り返し。発達しながら頭角を現したものは、名もなき嵐の出現を自らの咆哮で知らしめていた。

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