シェルレインに謳えば

久麗ひらる

第1話 始まりの名は


 いい日は幾らでもある。手に入れるのが難しいのはいい人生だ、とするアニー・ディラードの格言にもあるように。良くも悪くも平凡な日々こそが世の常の中。特別な日など一度としてなかった俺の人生において。いつもの朝と恒常的な日夜を越えて、また陽が昇るサイクルを旋回させたこんな日によって転変しようとは。


 行動のちに躍進、もしくは撤退。俺はいま緊迫の最前線でこれらの選択肢全てを一気に迫られている。でなければ明日の命どころか瞬殺も空前の灯火直前。全身を駆け巡る焦燥の鼓動と、沸騰するアドレナリンで手の平はびしょ濡れの汗でぬるりとぬめり、とっくに役に立たなくなったスマホを投げ捨てたいのに体は主の命に従わない。

 さぁどうする。恒心を保てよ――、俺。


 そうして言い聞かせている場所こそが、世界中で最も往来が激しいとされている首都は都心を仕切るスクランブル交差点。歩行者用の信号機が青を点滅させては、まもなく赤へと変わることを示唆すれば。

「走れるか?」

「へ?」

 俺の背後に立った男は、銃を片手に握る軍人風の――と、どうしてそう思ったのかと言えば。迷彩柄が入っていれば確実にそう見えたであろう、いかにも防水、防火に長けていますと言わんばかりな頑丈な布地に硬化そうな腰ベルト。そこに巻き付くホルダーポケットには、これからすぐに無人島でサバイバル生活を始めても生き抜けそうな、名も用途も知れぬ装備品がぎっしりと付いていて。その内の一つは無線の発信器だろうか。間違ってもこれから蕎麦屋の出前に赴く格好ではないことだけは明白だ。

 何より長袖の袖口を肘辺りにまでまくり上げている事で垣間見える腕っぷしには逞しさしか窺えず。手には指先が出る皮のグローブが嵌められていて、どう見繕ってもこれから映画やデートに出向く出で立ちではない。短く刈られた頭髪も無造作なのに、高確率にて誰もが戦闘スタイルだと思う――あんたはいったい何者なんだ?


 他にも尋ねたいことは山ほどある。だけれど腰が抜け、ガチガチを震えるものを押さえこむにも必死な俺の口から言葉は出ない。しかしながら迷っている暇も考えている余裕もない。次に目の前で何が起きようとも息だけは止めるな。呼吸を続けろ。バクバクと唸る心臓よ、頼むからどうか持ってくれ!

「みんなを引きつれて交差点の外へ出ろ!」

「あ?」

 普段からトレーニングなどを欠かさないのであろう筋肉質な体格を持つ男の力強い介添えによって、俺はへにゃりと座り込んでいた足腰を立たせた。へたり込もうとする弱腰を、再び砕けさせることなく奮い立たせるは目下、守らなければならない己の有言実行の為に。少なくともそれで俺の小さな小さなプライドとこの先の妄想も保たれる。

「……い、行こう。俺たちがここにいては足手まといになるだけだ」

 震える足元に目線を落としながら振り返れば、たまたまこの交差点に居合わせた偶然の集結者たち。

 すっ転んだままアスファルトに座り込んでいた女性も「そ、そうですね」と言いながら立ち上がり。眼鏡をかけ直した手はタイトスカートについた埃を払いのけ。うっすらと髭を蓄えたサラリーマン風貌の男も「懸命だな」と告げながらスーツのネクタイを締め直しては、奇怪な言葉を連ねた青年も「その方が良いよ」と続いた。


 もはや誰が主人公で陣頭指揮を執るかなどは関係ない。この場から無事に生還出来ればそれでいい。今ここで、俺はこれ以上のことは望まない。

 すんと鼻をすすった俺に「早く行け!」なる体当たりで、小脇を突く強烈なタックルをかましてくれた男はまさか、俺たちを背にして戦うつもりだろうか。ならば彼に、物語の終焉たる主人公の座を素直に譲ろう。あの目は本物だ。血走る慟哭をありありと映していたあの真剣な眼差し、筋を立てるこめかみ。迷いなど一切ない鋭き物言い。あれこそ狩り場で獣を仕留める本物の男だ。

 平平凡凡たる世間並みで構わないから。俺は今。ただただ昨日と同じ明日が欲しい。それだけを願いながら白線の外側へ向けて走り出した。だってその内側は、範囲を限定された戦場と化していたのだから――。


 日の出より幾分時を経た朝、目が覚めた時のぼんやり感はいつもと同じであった。

 薄暗い天井張り付いている丸いライトもまだ目覚めずに、どれだけ睡眠をとっても倦怠感が残る朝の知らせは閉め切ったカーテンの隙間からやってくる。残念だ。平均にして八時間以上は眠るのに。いつだって一日の中でどっと疲れが訪れるのは起床の時だ。

 しかしながらその覚醒は悪くはない。六時四十分に一度目の目覚ましアラームが鳴る、おおよそ五分前には自然と意識が覚めるのは幼少の頃からの癖のよう。

 同時間帯にはエアコンが自動の予約作動で暖房を開始すれば、ワンルームの部屋が徐々に温まり始める。外気の気温は、今季一番の冷え込みらしいと昨夜の天気予報でやっていた。寒さは大の苦手だ。可能であるならば冬眠したいくらいだ。


 部屋が温まる頃合いも見計らいながらベッドの中でごろごろと眠気にまどろむ。十分後のスヌーズ機能もワンコールが鳴り終わらない内に先手で止めた午前七時。ここからが本当の勝負どころだ。

 うつらうつらとしている内に時計は六分、八分と過ぎてゆく。まだいける。まだ大丈夫、あぁ眠い。そんな葛藤と一緒に毛布に縋りついても時は流れる。

 七時十二分にはあと三分でと己を許し。十五分を過ぎたところでもはやの限界がやってくる。どうして昨夜、もっと早く寝なかったのかの後悔をしても時既に遅し。


 キシシと鳴ったベッドフレームに手をついて、起床と同時に「あぁまた今日も昨日と同じ一日が始まる」なる深いため息をつきながら重たい腰を上げれば。そう、一昨日どころか数年前も同じであった行動が繰り返される。

 顔を洗い、口をゆすぎ。部屋着からスーツへと着替えて頭髪を整え。昨日までの残り物や冷凍食品などを順にレンジでチンチンしながら平らげる。

 そうしてどんなに早朝になろうとも朝食だけは必ず取るのはもはや意地かもしれない。朝は一日の栄養源だ。ただ歩き、突っ立っているだけに見える通勤途中に何が起きるか分からない。意外と体力を消耗する不測の事態があったらどうする。昼まで何も胃に入れずに仕事をするなど、考えただけで貧血を起こしそうだ。朝は食えないだとか、少ない睡眠時間を自慢する輩は勝手に自滅しろ――とは心の中で呟く。

 リンゴをかじり、最後にミルクをたっぷり注いで割ったカフェオレでひと段落。テレビでニュースを流しているのは時報代わり。真っ白なコーヒーカップを握る反対の手に握るはスマホで情報を流し読み。相変わらず世間は忙しない。世界も、この俺をひとり残して動いてゆくとは気の毒に。

 刻々と、時が世の中心たる俺をみすみす逃しながら刻み進むとは――歴史よ、あまり時間を無駄にするなと声を大にして言いたい。俺にだって、許される時間は早々限られているのだから。


 そんな勝手な妄想を馳せながら、俺は今日も通勤ラッシュの戦場へ赴くのだ。

 賃貸アパートの玄関に鍵をかけてゴミを出し。最寄り駅までのルートは三つあり、その日の道筋は二階から一階へ降り立った時刻を見てから決めるに限る。

 そして見上げるは紺碧の。澄み渡った空を翔け、丁度のタイミングで頭上を横切って行くのは大型旅客機。遅れて耳に届くエンジンとタービン音にも耳を貸して、「行って来い。俺の分まで頼んだぞ」と微笑みながら囁くのも日課の一つだ。その飛行機が何処へ飛ぶのかも知らないままに。むしろ知ったことか。


 ようし、今日はまだ二分の余裕がある。これなら他人の庭先を両断するショートカットラインは論外。急こう配な坂を一気に下るか、長い長い階段を下りるかの二択にして前者を選ぶ。

 最近、運動不足からか膝が痛んで仕方がない。先日行われた会社内の大掃除兼引っ越し作業で重い荷物を運び過ぎた所為だろう。

 別段、健康診断で引っかかったことなど一度もない根っからの健康優良児。普段は机にかじり付きのデスクワークが商業柄、一日中パソコンモニターと向かい合っているのでほぼ運動とは無縁の日々だ。本格的にジムにでも通うか。だって俺はまだ十分に若い。多分にして恐らく、同年代同世代に比べれば筋力も体力も劣っているだろうと思う自覚だけはあるけれど。今ひとつ実行に移した試しがないのも現実だ。つまりは色々と計画はするものの、大抵は三日坊主で終わってしまう性質でもあるのだ。


 みっともないだって? よしてくれ。俺の周りではダイエットだの筋力トレーニングだのを自ら決意して始めた結果、三日と続いた輩を知り得ない。準備を整え、道具を一式揃えたところで満足円満。達成感でやる気などどこへやらだ。

 そうこう潜考している間に、勾配をきつい坂道に差し掛かり。一歩ごとに前へつんのめっては転がりそうになる勢いを殺しながら丘の下へとたどり着く。あとは平坦な道すがら。家を出てから初めての交差点に差し掛かると、いつものタイミングであれば丁度の青信号で渡れる時間帯であるのにこの日は何故か赤である。

「妙だな。どこで違(たが)えた?」

 この俺が、この交差点で引っかかるなどあり得ない。誰の工作か、何の陰謀か。俺をこの道に留めておくのに何の意味があるというのか。全く朝から勘弁してくれ。


 まぁこんな日もあるだろうと、剃り残しを見つけた顎で遊ぶ手持無沙汰なもう片方の手元でスマホをいじる。報道ゴシップ、スポーツ動画。どれを摘まんでも際立った変動は垣間見られない。ついでに言えば新着メールもなし。SNSにコメントなし。拍手なし、いいネなし。――運命よ。お前はいま、どこを見ている?

 ふと見上げた東の空には眩しい太陽が昇っているのに。俺には、煙る黒き煙幕に霞む社会は先の見えない灰色の泥沼にも嵌り込んだきり、我武者羅にもがいているかに見える。

 足掻くのなら、この俺を稜線上に立たせて問いかければいいものを。いったい何を躊躇っている――。

 ジリジリともどかしさを覚え、俺は小刻みに首を横に振った。焦るな、と自分に言い聞かせながら。


 いつもより長くに感じた待ち時間の末に信号が青へと変われば。横移動だった波が引き、今度は縦方向へと流れを変える。

 足早に駅へと向かう人の群れは、それぞれが個と個々を抱えて黙々と進み。交差点の真ん中で足早に俺を追い越した中年の男の背を見送れば、さては寝坊かと勘ぐっていた時に。駅を背にする逆流の一人と目が合った。

 じっと俺を見入る視線は血走っていて、ふいに背筋がぞぞぞと戦慄く。――何だこいつ、やる気か?

 ギロリと睨まれたまま、肩が触れるか否かの至近距離ですれ違う。こちらとて訝し気に凝視したままの強気でやり過ごしたけれど。正直なところ、理由もなく殴られるのではないかと血の気が引き気味であった。――いるんだよな時々。徹夜明けの睡魔や疲労と、果てなき帰宅への道の路頭で妙な高揚と戦うおっさんが。


 何事もなくやり過ごせてほっと胸を撫で下ろした。――あぁ良かった。拳を交える喧嘩など、この二十と幾有余年の人生において一度もないのだから。争い事はもう真っ平御免だ。いや、素直に白状しよう。痛みが嫌いだ。だから避ける。人との交わり合いも。だから友達も少ない。昔から。面倒な事も何もかも。妄想だけが親友だった。


 そうして俺はいつも見えない何かと戦ってきた。今日のランチを五百円にするか三百四十円の仕出し弁当にするかで悶々と葛藤し。千円オーバーなデザート付き優雅なコースを食らう者とは絶対に付き合わん。と、手前勝手な恨み節をこっそりと吐く。実に醜く滑稽だよな。

「ふっ……」

 一人の世界にどっぷり浸かっている俺は、整然と並ぶいつもの駅のいつものホームの、いつもの立ち位置で電車がやってくるのを待っている。アクシデントがなければ定刻通りに出発する電車に乗って、いつもの面々に挟まれながら運ばれるこれぞ運命だ。


 正しきリズムによって、今日もレールの上をひた走る列車に淀みないダイヤの秩序。そう言えば、今日は角のおっさんが居ないな……。

 必ず扉付近の三角地帯を陣取ったまま、乗り入れの際には邪魔になるにも関わらずテコでも動かないおっさんの姿が見えない。数いるサラリーマンたちと同じくにして平日は出勤のはずなのに休みか、はたまたサボリかと思案しているものに金切り声が突き刺さった。

「はぁ? どこで買ったの?」

 通勤列車というものは大抵、見慣れた顔ぶれが乗っていることが多い。時にイレギュラーな乗車があるのは公共の乗り物であるからにして仕方がないにしても。車内は座りたいがための攻防がそこかしこで殺伐と展開されていても意外にして淡々と、粛々と静かなものである。

 だからこそ余計に、扉を背にした女と向かい合い、首元のネクタイを掴まれている男との痴話喧嘩らしい模様が大きく響く。

「ねぇ、どこで買ったの?」

「いや買ったんじゃなくて」

 男は、しんと静まる車内を気にしてか。声色も低くして音量も小さ目でぼそぼそと語っているのに。女と言えばお構いなしだ。

「買ったんじゃないのなら貰ったって言うの?」

「ん? んうん」

「いつ貰ったの? 誰に貰ったの? こんなネクタイ、あたし一度も見たことなかったのに?」

「全部見たことないだろ?」

「何よそれ。あたしが知らないこと、まだあるの?」

「いや。あるだろお互いに色々……」

 女は男を睨みつけたまま、ネクタイもひん剥かん勢いでぐいぐいと引っ張って問いただす。

「どこで貰ったの? 誰にいつ貰ったの? 何で貰ったの?」

「覚えてないって」

「本当は買ったんじゃないの? どこで買ったの? 何で買ったの?」

「んだから。買ってないって」 

「じゃあどこで貰ったの? 誰にいつ貰ったの? 何で貰ったの?」

 堂々巡りな論争によって通勤電車の車内は、誰でもいいからその女を黙らせてくれと言う一体感で包まれている。男も男だ。ガツンと言ってやればいいのに、もそもそと切り返すだけで防戦のみとは頭痛がしてくる。

『ご乗車、ありがとうございます。この電車は通勤快速――』

 車掌の案内ではっと顔を上げた。そうだ、この電車は次の停車駅まで十分以上は走りっぱなしでドアも空かない。最悪だ、とした空気がまたもや同じ車内に漂う一方。女は永久機関の如く男を問いただし続けている。

「何でこの色なの? どうしてこれを選んだの? 折角あたしが用意したネクタイを何でつけなかったの?」

 男にだって選ぶ自由があるだろうに。朝っぱらから無駄に疲れる。ネクタイ一つで毎日厄介な質問攻めにされるのかと思うと、結婚していなくて心底良かったと思う前にまず彼女すらもいない俺は所詮負け組か。いや――、そんなはずはないだろう。だって理想の彼女ならいる。この空想尽きぬ脳内に。純粋に俺一筋で。優しく清らか、時に拗ねては甘えてくれる照れ屋さん。そしてその記憶は腐ることなく裏切らず不平も漏らさず。憎しみや悲しみにも決して変わらない従順自在の絵空煩悩。

 賃貸のアパート暮らしだって今年いっぱい。来年からは都心の新築マンションでローンもなしに通勤地獄ともおさらばな、勝手気ままの羽を大いに広げるのだからお一人様万歳だ。けれどそもそも、勝ちだの負けだのを天秤にかけている段階で価値観が狂っているのかと己を嗤う。どちらが良かったかの決断なんて、唯一絶対と断言できるものはないだろう。例え多数決で否定が一だったとして残る九十九の肯定が悪だとしたら?


 そんな事を考えながら地上を走る電車より、今度は地下鉄へと乗り換えれば。

「んでね、聞いてる?」

 今度はOL同士か。またもや一方的な女の声が、地下をひた走る以外の騒音となって静かな車内に響いていた。

「だからぁ。平日は無理でしょ? 水、木、金で土曜しかないじゃん? ねぇ聞いてる?」

 話しかけられているOLと言えば、手元で操作しているスマホに夢中で無言だ。

「だから平日は無理って言ったの。だって無理っしょ? だから言ったのね? ねぇ聞いてる?」

 いくら問いかけても友達だか同僚だかの間柄は知らないけれど、相手の女は無関心だ。

 喋り通している女よ、気付け。相手はお前の話になど興味はないぞ。

「もうさ、困っちゃうんだよねー。アタシってほら、押し切られると断り切れないタイプじゃん? しかもやってあげちゃうタイプだし。で、とことん完璧にしてやるタイプだからぁ。自分でもダメだってわかってるんだけどダメなんだよねぇ……。ねぇ、聞いてる?」

 認めて欲しいのか、アドバイスが欲しいのか。それともただ、同意と同情が欲しいだけなのかの判断もつかない一方的な話が続く。そもそも会話として成り立ってもいない、冗談にしても笑えない場面だ。

 そうして地下鉄一駅分の間において、相槌という返事らしきものを一度も耳にすることなく俺は電車を降りたのだった。


 誰しもが納得する正解があったにせよ、人は自身が納得しなければ結局不満を募らせる生き物。そうして生きるに正解なんてものはないのだ、とは平凡でしかない己に言い訳をしながら。今日も今日とて微々たるドラマに出くわした滑稽な通勤ラッシュに別れを告げた俺は会社へと向かう改札口を後にした。


 天気は快晴、紅葉も進んだ街路樹の木々が黄々と揺れるひんやり風を頬にも感じて。商業とオフィスが入り乱れる街の中へと歩み進む人の足音は何と無機質にして整然と打ち鳴るものか。どいつもこいつも虎視眈々と、毎日毎日同じ道を歩んで帰る事に疑問の一つも抱かないのだろうか。俺はいつだって問いかけているのに――本当の自分は、どこにいるのかと。


 だけれど分相応にして俺は結局、妄想だけの男なのだ。そうして想像することなど意外にちっぽけで、たったの一度だって実現した試しもない儚い偶像。でなければ昨日と同じ進歩のない日など送っていない。違う明日が欲しいと理想は抱くけれど、詰まるところは変わる未来が怖い臆病者なだけだ。悪戦苦闘な末のジタバタを一度も受け入れることなく、経験することもなく実はこっそり避けてきた。すったもんだの末の英断を下したこともない果ての人知れずにひっそりと、人生の幕を下ろすのがお似合いなのさ。


 あぁ、それでも一度でいいから。何か、誰かと劇的な演目を作り上げてみたいものだとして歩みを止めれば。そこは都心を代表すべくの交差点。一日にして幾万人もが往来してすれ違うスクランブル交差点を、これまで幾度通り過ぎては引き返してきただろうか。だのに赤から青へと変わるのを待つ人々の大半は俯き、俺のように周囲を観察している者は皆無だ。あまりに日、刻々と変化している世界に対して関心がなさすぎる。

 だからこそ、いつも青信号への一歩は俺が早い。常に全身の五感を敏感にして稼働させている一歩目だけは誰にも譲らない。どんな事だろうとも先に達したものには追いつけない、つまりは先手必勝。と言っても、子供の頃からの単なる負けず嫌いなだけなのだけれど。それが俺のポリシー、信条なのだから。よって、スクランブル交差点の真ん中に到達する前に。信じがたいわずかな変貌に気づけたのは俺だけだった。

「何だ?」

 指先に軽く静電気の放電をくらったかのようなパチリと弾ける痛みを感じた。ピリピリと手の平や頬を撫でた生ぬるい風にも乾燥を覚えて産毛がサワサワとそそり立つ。鼓膜に確かとパチパチ届く、弾ける音は何の知らせか。


 瞬間的にキンと冷えた冷気を全身に浴びたようで、つま先から頭の天辺までがぞわ立つ。

 俺の脚は交差点を行き交う人の流れの先頭で止まった。すると当然、背後を歩んでいた人がこの背にぶち当たる。

「ちょっ!」

 顔面から突っ込んだのは眼鏡を掛けたOL風の、歳は同世代か二十代後半かと推測しながら「すいません。大丈夫すか?」と素直に謝った。

 これは俺が悪い。落ち着け、ここは紳士的に尻もちをついた女性に手を差し出すのが正解だ。――良かった。想定外なシチュエーションに出くわしても、いつでも速攻でかつ迅速に対処できるようにと脳内シミュレーションを施しておいて実際、役に立ったではないか。

 ぶつかった拍子の所為か、女性はかけていた眼鏡のフレームが曲がってはいないかを確認するのに一時の間を置いてから、俺の手を見て腕を伸ばした。

「あ、の。ありがとうございま……、え。何?」

 幾十、幾百の人々が往来する交差点の中で俺と女性だけが流れに取り残されながら。歪に出来た堰を歩道に寄せて戻るか先へ進むかの判断にも迷っていたところで始まったのだ。

 地震に似た局地的な揺れを感じて咄嗟と身を屈めれば、誰かが言った。

「見ぃーつけた」


 声色に反応して即座と振り返る。

「見つけたって何を?」

 一見するに高校生くらいだろう容姿の青少年は、携帯電話を耳に当てながら俺の疑問に応じた。

「何って、伝染の事に決まってるでしょ? ――あ、ママ? こっちが殿しんがりみたい。どうしよう?」

 そうと聞いて大抵の者は疫病か何かを思い浮かべるではないか。だけれど普通、菌などの感染源で地震が起こり得るものか。そんなもの聞いたことがない。

「この地震の揺れとどう関連してるってんだ?」

 青少年は、さも当然なる口調で淡々と告げる。

「探してるんだよ。電線の中でひっそりと、息吹く時を見極めながら」

「はぁ?」

 激しくなる一方の揺れにがくがくと揺さぶられながら、まだ幼き少年の面影を色濃く残す男の子は交差点の信号機をじっと見入っている。

「交差点ってのは万物の思い、万人の心中が様々に募る未練の交叉とも言われてるから」

 漏れた溜息。そして地震より生じた大地の割れ目より、空高くへと突き沸き、立ち昇ったのは漆黒の。

「交錯が続く限り、生と死せるもの然りの輪廻は終わらない」


 ――俺は死ぬのか? 

 こんなに突発にして唐突に。ならばもっと、あらぬ想像を妄想しておけばよかった。みみっちく貯金ばかりしてないで、ぱーっと豪勢に使ってしまえばよかった。


 終わりなき始まりを見上げたそれこそが。昨日までとはまるっきり異なり、生まれて初めて戦慄と恐怖で震え。身をもって実体験した名もなき連鎖の朝だった。




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