第30話 満漢全席でなくて、すみません
案内された食堂を見て、俺は宴会でもひらくのかなと、呑気なことを考えていた。しかし、原田課長と前田は、大広間の真ん中にセッティングされている巨大な丸テーブルを見た瞬間、これは大変なことになったと冷や汗を背中に流した。
「前田君、私は胃腸が中華料理を受け付けなくなってきているんだ。君と若い二人に任せるから、李大人の顔を潰さないように存分にご馳走になりなさい」
勝手に戦線離脱を宣言した原田課長を恨みがましく眺めたが、一週間以上も上海で売り込みをしていたら仕方ないと諦める。
「黒龍、聡、お前達は若いから、しっかりと食べるんだぞ!」
丸テーブルでも、上座、下座があるのかなと、俺は他の人達が席に着いてから座れば良いと待っていたが、李大人みずからが席へと案内する。
「中国のマナーって、こんな風だったかな?」
こそっと黒龍に尋ねて、どう見ても上座なんだけどと、首を傾げながら李大人の横に座る。原田課長は、李大人の近くで料理をどんどん勧められるのは勘弁して欲しかったので、新入社員より下座だろうが、何だろうが気にしない。
綺麗なチャイナドレスを着た女の人達が、大きな皿を次々と大きな丸テーブルに並べていくのに、俺は目を真ん丸にして眺める。
『今日は急な食事会なので、満漢全席とはいきませんでしたが、東洋物産との契約が成立しましたら、是非、三日三晩飲みあかしましょう』
小さな瑪瑙のグラスに、老酒が注がれて、先ずは東洋物産のアクアプロジェクトが上海市に受注されることを願って乾杯した。
『美味しい、老酒ですね!』
李大人は幼さの残る顔の俺が、アルコール度数の高い老酒をスッと飲み干したのに驚いたようだ。
『これは、百年前につくられた老酒を、土の中に埋めておいたものです。東洋物産との巨大プロジェクトが、上手くいくことを願って取り寄せたのです』
中国でのビジネスでは、食事を共にするのは基本だ。李大人は接待する主人として、にこやかに大皿から自ら料理を取り分けて、東洋物産の全員に勧める。
『これは、燕の巣のスープです。中国では、珍味として喜ばれているのですよ』
俺は、燕の巣? と不思議そうな顔をする。
『日本の燕は、土と藁で巣をつくりますが、中国の燕の巣は食べれるのですね』
李大人は、からからと笑い、上機嫌で海藻で作るのだと説明する。
『聡は意外とビジネスセンスがあるのか? それとも、単に大食いなのか? しかし、これほど食べてくれると、嬉しくなるな』
ぱくぱくと李大人が取り分ける料理を気持ちよく食べていくので、もてなしがいがある。黒龍も結構な量を食べるので、原田課長は楽ができてホッとする。
『李大人の健康を祈って、乾杯!』
何回も乾杯を繰り返すが、俺はお腹いっぱい食べているので、酔ったりしない。
「おいおい、黒龍と聡はザルだな! 羨ましいかぎりだ」
途中からビールでの乾杯に切り上げた原田課長と前田さんは、老酒を何十杯も乾杯して飲み干している俺達李大人を呆れて眺める。
昼過ぎから始まった食事会は、夕方近くまで続いた。
『美味しいお茶ですね』
さすがの俺もお腹いっぱいだったが、香りの良いお茶を飲むと、小さな白い塊に手を伸ばす。
「聡、まだ食べるのか? お腹をこわすぞ」
黒龍も呆れるが、李大人はにこやかに勧める。
『そのお菓子は、昔は後宮でしか食べれなかったのですよ。砂糖を熱して、絹糸よりも細く引き伸ばしたもので、アーモンドを包んだお菓子です』
お菓子を口に入れると、ふわぁと解けて、カリッとしたアーモンドの食感も加わり、絶妙な美味しさだ。
『凄く美味しいですね、黒龍も食べてみたら?』
元々、甘いものは好まないが、俺にあわせて食べているだけの黒龍は、お腹いっぱいだからと断る。折角の御馳走も、李大人が真ん中にいたのが邪魔で、俺に取り分けたり、食べさせたりできなかったので、黒龍は少し機嫌が悪い。
『そんなにお気に召したのなら、包ませましょう』
ありがとうございますと、喜んでいる俺に東洋物産の大人二人は複雑な心境だ。
「こちらが接待する立場だと、天宮君は理解しているのかね? お土産まで包んで貰うだなんて、どう李大人を接待すれば良いんだ」
中国でのビジネスでは、食事を何度も一緒にして、お互いの信用関係を築いていくのが基本だ。
「和食といっても、まぁ食べれるという程度の味ですからねぇ。兎も角、ホテルに帰ってから考えましょう」
そのホテルで、大騒動が待っているとは知らない、原田課長と前田さんだった。
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