第5話 故郷の音色
薄目を開けた遥の瞳に、もうかなり高くなった夏の陽光ひかりが飛び込んできた。
「ごめん、起こしちゃった?」
妙に、自分に近い位置から声がする。
「……」
「おでこ、痛い?」
「う~……」
寝ぼけた声を出しながら、意識の靄もやをかき分けるように、ゆっくりと自分の額に手を伸ばしてゆく。何でかはわからないが、包帯の感触が指先に触れた。
「……」
重く閉ざされた目をこすりながら、遥は上体を起こした。傍らで、先ほどから聞こえ続けている声が、優しく「おはよう」と言った。
ほんの僅かに癖っ毛の少女が、遥の顔を覗き込むように見ている。
長かった髪の毛が短くなってはいるが、よく知っている顔だ。くりくりとした、好奇心の強そうな目が、二度ほど忙しく瞬きをした。
遥とは、一学年下にあたる渡辺の本家ほんけの一人娘、
「ほんとに、大丈夫?」
「────?何が?」
「だって遥ちゃん、昨日、道で倒れているところを、家うちまで運ばれてきたんじゃない」
「倒れてた?……僕が?」
「うん────覚えてないの?」
いまだに夢の中にいるような受け答えをする遥に対して、声は、いっそう心配そうな響きを帯びた。
「昨日のこと────」
どうも、記憶が曖昧である。一つ目の、巨大な化物が出てくる夢を見たような気がする。そして、自分と同い年くらいの二人の女生徒と、小学校高学年くらいの少年。髪の長いほうの女生徒と、黒白こくびゃくの美少年タイプの少年のほうは、長い、竿のようなものを持っていた。
ような気がする……。
「まったく、あんまり心配かけさせないでよね」
やれやれ、といった感じの、しみじみとした口調だった。
「とにかく、お帰りなさい」
そう言って、渡辺結は過剰なくらいの笑顔で、何年かぶりで自分の従兄弟のことを迎え入れた。
「……ただいま。ところでさ」
「何?」
「その『遥ちゃん』ってのさ、いい加減でやめない?」
「なんで?別にいいじゃん」
遥ちゃんは、遥ちゃんでしょ?と、ショートカットの少女は笑って答えた。眉に触れるか、触れないかの微妙な長さで切りそろえられた前髪が、はしゃぐように揺れている。
諦めたように、遥は深くて長い溜め息をついた。何度言っても、この従兄弟は子供の頃から、この呼び方をやめてはくれないのだ。
「それにしても────」
「え?」
「いや、また随分と、思い切ったなって思ってさ」
「……」
「髪」
「あ、これ?」
ちょっと前にね、バッサリ、切ったの。と、微笑みながら、結は自分の指を鋏はさみに見立てて、文字通りバッサリと、髪の毛を切る真似をしてみせた。
「でも、こんなことなら切るんじゃなかったかな……何だか少し、男の子みたいでしょ?」
結は、一人恥ずかしそうに、鼻の頭をすりすりと掻いた。
「そうだ、遥ちゃん、お腹すいてるでしょ?」
照れくさそうに笑って、結はそそくさと立ち上がった。
「朝ご飯、とっておいてあるんだよ!」
張り上げるような声も、どこか必死で、ぎこちない。髪を切ったと言われることは、そんなにも、言われて恥ずかしいことなんだろうか……。そのへんの心理は、遥には、よくわからない。
結は、足早に廊下の奥の台所へと姿を消した。
────もう、お昼近いのか……
見るとは無しに、部屋の壁にかけてある柱時計が目についた。二つの針が、あと10分ほどで重なろうとしている。
「ねぇ、遥ちゃん起きられる?ご飯、そっちへ持って行こうか?」
長い廊下を渡って、結の声が聞こえてくる。
いくらなんでも、そこまで従兄弟に甘えるわけにはいかない。呼び鈴チャイムが二度鳴ったのは、遥が布団から出ようとした、ちょうどその時だった。
「誰だろ?ちょっとゴメンね」
玄関へと小走りに向かいがてら、結が襖ふすまと襖の間から、ちょこんと顔だけを出して言った。スリッパの音が、パタパタと遠ざかってゆく。ただっ広い畳敷きの部屋が、しんと静まり返った。
渡辺家は、旧家である。
旧家の家は平屋ひらやが多く、ここ渡辺家も、
────伯父さんと伯母さんは、相変わらず留守なのか……
本家のお屋敷、と言えば聞こえはいいが、国内外の、あちらこちらに豪奢な別邸をいくつも持っている渡辺家では、旧い本邸は、あまり見向きはされない。そのうえ使用人たちの多くは、伯父さんや伯母さんの逗留先に付いていってしまうため、昔から、この家は閑散としていることが多かった。
────洸こうさんも、いないんだろうか……?
「あの、ね、遥ちゃん、今、
再びパタパタと音がして、玄関先から戻ってきた結が言った。卜部季武、といえば、遥をここへと呼び寄せた張本人の名である。
「遥ちゃんと会って、色々、お話がしたいそうなの。今、家の前に迎えの車が来てるんだけど……どうする?」
遥の怪我の具合を気遣うように、「断ってこようか?」と、結は視線を玄関口へと向けた。
だが、卜部季武なる人物には、遥自身にも色々と訊ききたいこと、そして言いたいことが山ほどある。なにしろ、この名前の差出人から手紙が届いた翌日、遥は、父親に強引に独逸ドイツの学校ギムナジウムを中退させられ、ほとんど押送の態で、ここへと送られてきたのだから。
「いや、ぜひ会って、話がしたい」
遥の口調は、言葉自体の内容とは裏腹に、嫌そうだった。
「『ういろう』の事とか、問い詰めたいことだってあるし」
枕元に置いてあるボストンバッグに、細めた視線を投げかける。
「ういろう?」
結は、そう言いながら小首を傾げた。まるで、その名を聞くのが初めてでもあるかのような顔だ。
部屋の大きな柱時計が、旧家に相応しい重い音色で、ゆっくりと十二時の鐘を打ち始めた。
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