第6話 戯言遊ビ 弐
「なあ、三ツ又…戻って来てねーの?」
擢磨の声が、心許無く朝壬に問いかける。傍でそれを聞いていた
『ソウ云エバ見ヌナ。何処ゾ道ニ迷ウタカ。』
バカ猫だとけらけら笑う小角鬼を尻目に、不安げな眼差しで擢磨は縁側の空を見上げた。もう随分と暗くなっている。
和馬は自宅であるにもかかわらず、ホテルを取ってあるからと家を離れた。朝壬は残ったまま、今日も擢磨の家に泊まり込みで打ち合わせだ。
『腹ガ減レバ、其ノ内戻ルデアロウテ。』
気にするな、と明るく小角鬼が擢磨を窘める。それは朝壬の心声を、代弁するかのようだ。朝壬は擢磨の不安に揺れる顔に、秘かに溜め息を洩らした。
先程から、風がビュウビュウと吹き抜ける。身体の両側を物凄い速さで降りている。
何も見えぬ暗闇の中、頑なに眼を瞑ったまま、オレはひたすらに突っ走っていた。
戯言とも云える
『…ゥッ…ぐ…』
風が冷たい。気が重い。何度も息を飲みながら、鼻先からも目尻からも雫が垂れて、凍てていく。
『…ゥッ…ゥッ…』
寒い、ツライ。何故オレは此処ニ居るのだろう。本当は、疾うの昔に分かっていた筈だった。
アノ時に…。
『階段ヲ降ル帥ノ背ガ…ナ。』
『背中が…どうかしたのか?』
呆気からんとオレは聞き返した。小角鬼は黙ったまま、真摯に見詰めていた視線を僅かに伏せる。
物悲しくて。見ていて辛かったのだと胸の中で呟く。多分訳がわからぬが故に苛つく三ツ又には、この先も聞けぬ詞だろう事を、小角鬼は笑って流した。
『薄気味悪いヤツだな…』
『帥ガ言ウカッ!!』
喧々囂々騒ぎ立てる。そんな風に笑い合える事が、戯れる事が、幸せなのだと。
いつからか、当たり前になってしまった。
そう、オレは“三ツ又”ダ。獣でもない、化け物でもない、中途半端な出来損ないの、
だから、そんな幻を突っ切り、ひたすらにオレは走っていく。
空気が重く、全身の毛を逆立てて纏わり付く。石段をか、登っていくような冷たい感触も肉球を通して感じる。
オレは境を越えた事を、薄々気付きながら、それでも知らぬ振りをして、一心不乱に突き進んだ。
途中から脚が攣って、崩れ折れそうになっても、吹き下ろす妖気流が頭を強かに打ち付けても。
『三ツ又よ。ぬしは死にたくて生きたかったのだろうが。』
死にたいと望むも、生きたいと願うも、どちらも在って然るべき命の業欲、何も迷う必要は無いのだと。
あやつはそう…オレに言った。その無骨な掌をオレの頬に当てて。
『 ぬしはぬしのまま在って良いのじゃな 』
あやつの笑う顔が、未だ在る気がして。もう堂もあやつも骸さえも、無いとわかって居るのにオレは、縋ろうとしたのかもしれない。
最後の一段を踏み締め、顔をあげる。ソコには─
虚、ガ広がってイタ
『全ク世話の焼けるバカ猫ゾ!!』
先程からひたすら文句を言いつつも、辺り一体の妖気を探る。小角鬼は何だかんだ言いながらも面倒見が良いのだ。
いつの間にか、朝壬も交えての擢磨達のバカ猫大捜索網が始まっていた。当のバカ猫、つまりオレ…は、ナニも知らずに居た、という訳だが。
「…その内放っておいても帰ってくるだろう。」
あからさまに気の向かないぼやきを呟く朝壬に、普段とは違う真剣な面持ちで擢磨が語る。
「そうはいかねぇって。アイツ、天の邪鬼の淋しがりなんだから。」
何を擢磨が恐れているのか、朝壬は分からなかった。だが擢磨の胸中を占める不安に、朝壬は唇を密かに噛み締める。その苦々しさが朝壬の心に広がっていった。
オレは逆様に石段を転げ落ちながら、ゆっくりと噛み締めていた。
─アあ、ないノカ。
肩を打ち付ける磐が。背を叩く冷たさが。辛くとも、否、酷いのかさえ分からない。
─戻レヌのだナ。
ポーンと、中身の無い体躯が転がり、墜ちていく。不思議と涙も無く、胸の痛みももはや感じなくなった。
オレは、虚に取り憑かれたのかもしれない。
─ハはハハハはハハ…
可笑シさがオレの顔を歪めていく。
全てを投げ出しタかッタのだ。─存在する事を。
投げ棄てたノダ。─オレというモノを。
…お……れ……ハ……
細い路地を覗きつつ、擢磨はずっとオレの名を呼んだ。
「おぉい、三ツ又あっ。」
勿論、側には朝壬が居る。擢磨は隈無くオレの姿がないか、そこいら中を覗いて回った。
「っあ!!三ツ又あっ!! 居たっ」
ふらふらと路地を歩み出る黒い塊に、擢磨は駆け寄って手を差し伸べた。
「コラッ、心配したぞっ。」
そう言いながらも、顔は笑って優しく頬を撫でてくる。塊のオレは、よろけて擢磨の手に落ちた。
「…三ツ又?」
鳴かないオレを怪訝に見る。擢磨は塊のオレを持ち上げて、覗き見た。
「どうした?」
眼を見開いたまま、表情の無いオレは、虚に擢磨を映すだけ。その擢磨の眼差しが泣きそうに歪んでいくのも、ただ映し返すだけだった。
『一先ズ戻ラヌカ?』
声の主は小角鬼であった。擢磨はオレに釘付けのまま、微動だにしない。
埒が開かぬと思ったのか、珍しく小角鬼が提案してきたのだ。朝壬もそれに乗じる形で、擢磨の背を押す。
それに釣られる様に、漸く擢磨もゆるりと歩き出し…オレは擢磨の懐で揺すられ、アノ縁側へ戻っていった。
実際の処、オレはよく覚えていないノダ。
空気が夏にしては涼しかったのと、止まったように音がやんで静かだったのと。それだけが、身に沁みて感じたモノだ。
「死な…ない、よな?」
弱々しい声で擢磨が呟く。床に転がるオレは、人形の様に四肢を投げ出し、凍り付いていた。今にも泣きそうな、相変わらずの眼で擢磨は笑う。そんな擢磨に気付いてか、おもむろに朝壬は黒い塊のオレの頭を握り持った。
「おいっ、ちょ…!! 朝壬っ!!」
慌てる擢磨を小角鬼が制し、オレは朝壬の手からだらりとぶら下がった。
頭を被う朝壬の手。オレは…そう、オレはいっそこのまま握り潰して欲しい、と願って哭いていた。
「………。」
声にならぬ鳴き声をあげ、音のない言の葉を吐き続ける。半開きに開いた口からそんなろくでもない嘆息を零すオレを、朝壬は無言で見つめていた。
「あ…朝壬…」
ぐ、とオレの頭が持ち上がる。そして胴へ握り変えた朝壬の顔は、オレに間近に迫った。
「ぅ…ぐ、」
『オオオォ…』
「なっ…何してんだよ!?」
慌てるのも無理はない。平素で有れば、オレだって慌てた。真っ赤になる擢磨や、好奇の眼を向ける小角鬼を尻目に、朝壬とオレはなんと…接吻していたからだ。無理矢理捩じ込む様に、朝壬の霊力がオレの中へ雪崩れ込んでくる。く…苦シイ。
『ン…フゥぅ…、』
身体がどんどん重くなる。化けの皮の破れる音がして、朝壬諸共オレは床に倒れ込んだ。
『…ぬを…わつ!?ナニをする!?』
上に覆い被さる朝壬と、押し倒されたオレ。同じ顔貌、同じ体躯が並んで存在する。
「ええっ?朝壬?三ツ又!?」
驚く擢磨を尻目にして、朝壬の怒りに任せた瞳がキラリと輝く。何処か嬉しそうに見える朝壬の表情に、未だオレは状況が飲み込めずにいた。
「これで…思う存分…」
笑っている。朝壬の奴が怒りながら笑って…居る!?
朝壬の拳が力強く握られて、腕がギリギリまで後ろに引かれた。
『ゥガッ!!』
ナンの遠慮も無く、オレは朝壬に殴られた。顎の骨が折れるかと思ったぐらいだ。
『ぃ…ぃひゃい。』
続いて二発目。三発入った所で、朝壬はオレを引き起こした。
「貴様が何処でどうなろうと、俺の知った事じゃないがな。」
目が座ったまま、間近で朝壬がオレを睨み付ける。そういや、蛇に睨まれた蛙というモノが在るが、その心境を嫌という程、オレは今味わった。
『…ナ、』
「出て行くつもりなら、ちゃんと別れを言え。だがな…」
まだ、続くのか? 戦々恐々とオレは身を竦ませる。
「擢磨を泣かすのは承知しない。どんな事をしても、逃がさないからな。」
そこで漸くオレは胸倉を解放された。尻餅を付き、情けない顔でオレは朝壬の奴を見上げて居る。
「で、」
『で?』
情けなく怯えたオレは、縋るような眼を向けた。
「ただいま、は?」
『ナ…』
ただいま。理由は考えるまでも無いのだろうが、オレに其れを言う資格があるのだろうか。
『全ク…
間を挟む様に割り込んだ小角鬼の声が、オレに染み入って届いた。
『…う…』
油断をすると涙が零れそうだ。そんなみっともないオレに、擢磨の声が追い討ちを掛ける。
「お帰り。三ツ又。」
『…ぅ…ぅグッ…………タダ…いまっ。』
ボロボロと涙の雫がオレの頬を濡らした。毛の無い肌を伝う水が、熱く冷たく肌に張り付く。
気持ちが悪いゾ。痩せっぽちの猫の姿なら、体毛が弾いて肌に張り付く事ナゾ無いのに。
細長い指で拭っても拭っても上塗りするように涙が伝う。
「ほい。」
ポイ、と擢磨が布切れを寄越した。
「可愛いな。」
嬉しそうにオレを見つめ、当て付けるように朝壬に視線を送る。ムスッとしたまま視線を逸らした朝壬の様子に、擢磨はほくそえむ。
「絶対ェ、見れねぇもんな。お前のはさ。」
ナンのことだかさっぱりだが、擢磨の嬉しげな笑顔に、オレの気持ちもナンだか…和んだ。
朝壬に無理矢理に送り込まれた力が、身体の中で渦を巻いて落ち着かない。あれから少しは落ち着いて、オレはちょっと気の抜けただらしない格好で、夜空を眺めていた。
『………。』
また人の姿は慣れなくて、気持ちが悪い。でも。
「三ツ又、」
振り返ると擢磨の顔が間近にある。そして擢磨の口唇がオレのと合わさった。
「ん…」
温かくさわさわと触れてくる。慰められて居るんだろう、オレは。潤んだ触り心地を堪能しつつ、オレもそっと舌を絡め合わせた。
こうして擢磨と接吻をするのは、人の姿で良かったなと思う。
「おい。」
とてもドスの効いた太い声が、殺気と共に頭上から降りてくる。オレは毛の無い身体を総毛立たせて、身震いした。
翌日。昼が明けて、オレは丸くなったままで目が覚めた。
『ンあ?』
目の前に黒い小手がある。動かすとヒラヒラ動いた。嗚呼、オレの…か。
オレの? 尻尾?
勢いガバッと身を起こし、オレは慌てた。
『ヨク寝テオッタナ。』
『小角鬼っ!!』
いつの間にか、元の体に戻ったらしい。擢磨も朝壬も出掛けているのか、気配はなかった。
そか、居ないのか。
『襲ワレズ、デ良カッタノォ。』
ニタァリ、小角鬼は不気味に笑を浮かべ、オレは昨夜を思い出す。
『なななナニを!?云っあっ!?』
ぽかぽかぽか。小さく元に戻ったオレの前足では、叩いた所でたかガ知れているけれど。
『ハハハ、ソウ照レルナ。』
両頬をうりうり指先で弄られる。ナンカ…敵わない。弄られても其れが温かくて、優しくて。嗚呼、オレは此処に居てても良いのだろか。
そんなオレ達を受け入れてくれる大きな存在が、この家に戻ってきた。
「ただいまぁ。っと、三ツ又起きたかぁ。」
開口一番、擢磨の声が家に響いた。オレはこれ幸いとばかりに、小角鬼を振り切り、玄関へまっしぐらに走った。そこには嬉しい擢磨の笑顔と、ちょっと余計な朝壬の仏頂面と、擢磨に似た顔がある。確か和馬…と云ったか。
ひょい、と擢磨はオレを抱き上げた。
「で、コレがじさまの言ってた三ツ又。」
両脇を擢磨の手にがっちりと挟まれたまま、オレは和馬と対面した。興味津々に和馬はオレを覗き込んでいる。
つか、近すぎる。
「へぇ、これがねぇ。」
感心するように何か頷いて居るが、こやつは
「蹴鞠の物の怪は初耳だな。」
あはは、と愉しげに笑い声をあげる。誰がケマリぞっ、と怒るオレを他所に、擢磨は同じ様に笑いながらフォローしていた。
「やだなぁ、猫だよ。丸くなるけど。」
「
ぼそりと朝壬が呟いた。玉は同じだな、と嘲笑いやがる。ケ…化ノモノの? いや奴がそんなことを云う筈が無い。ケ、け、ケとは何ぞぉッ!?
一人こんがらがるオレを除き、皆は盆の準備に取り掛かる。単純に法要だけではないようだが、まだ其の時のオレには関係の無い事であった。
其は戯言ナリ。
遊びに等しく、戯れに久しく。幾多迷い惑うても、オレの足掻きはきっと…コノ先も続いていくのであろうナ、と。
化モノ譚 九榧むつき @kugaya_mutsuki
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