魔法銃士 ミスティ・ミリィ

@japacomi

第1話

序章『海軍神兵 雷光大尉』


 昭和20年8月8日 水曜日

 結果的に最初で最後となった降神作戦であるス号作戦は、再度の原子爆弾投下を阻止すべく、この日の未明より開始された。

 再調整により深層世界AC‐12、通称「根の国」とのリンクが結ばれた海軍神兵、「雷光大尉」こと斉藤秀真大尉は愛用の飛行服に大型受信機を背負い、単座潜航艇によりマリアナ諸島へ向け出撃。小笠原沖にて浮上した後、紀伊半島は熊野から送信される降神の祝詞を受けてスサノオ神をその身に降臨させた。形成された巨大な擬似神体は、全高50メートルに達したと推定される。

 緊急展開した米機動部隊が、海上を疾駆する巨神の進撃を阻止できない中で、最終的に雷光を迎え撃ったのが、米海軍の超人兵士、ライトニングだ。

 ス号降神作戦が日本海軍の超人兵士開発における最終的な回答であるように、ライトニングがこの時装備していた原子力飛行甲冑もまた、米軍の次世代超人兵士計画の要であった。

 バターンでの初対戦以来、両軍を代表する超勇士スーパーヒーローとして対決を重ねてきた二人が、その最期にやはり、両軍のパラフィジカル技術の究極的な姿として対峙したことは、歴史の皮肉というより他は無い。

 小笠原諸島約600キロ南の洋上で戦われたこの戦闘の記録は、目撃した米海軍機動部隊とともに海の藻屑と消えた。唯一はっきりしているのは、小笠原――マリアナ間の広範な海域に、「核汚染されたヨモツヒラサカ」というべき半異世界が出現した事、それだけである。



第1章『妖精の使者 ミスティ・レイン』


平成8年9月7日 土曜日

「私たちは決してあきらめない!」

 新宿上空を覆う紫色の雷雲。

 その下に倒れ伏していた四人の娘達の中、ようやく半身を起こした一人が叫ぶ。

 彼女の身を覆うチュチュのような水色のコスチュームは、随所が切り裂かれ、その下に覗く白い肌からは幾筋もの血が滴り出ていた。

 鮮やかな桃色の髪の下で、額は割られ、流れ落ちる血が紺碧の瞳を濁していく。二房に留め分けた豊かな後ろ髪も、一方がほつれ、無残な乱れ様を呈していた。

「醜いな、ミスティ・レイン」

 その名を呼んだ青年は、滑るように宙を飛んで、少女の目の前に足を降ろした。紫の華美な甲冑を纏い、麗人と見まごうその美貌には、冷酷にして侮蔑に満ちた微笑を浮かべていた。

「醜い執着だ。華の乙女の散り際にはふさわしくないだろう?」

 ミスティ・レインは歯がみした。散り際という一言が、現実味をもってのしかかる。

 異空間に飲み込まれた新宿は、十万人を超す民間人を閉じ込めた牢獄となった。他のヒーローや防衛組織の助けも、今すぐには当てに出来ないだろう。

 そして、目の前に立ちはだかる新たな敵、ファルヘンブラウはあまりに強く、これまで戦って来た魔人グレンドラとは比べ物にならない。まさに、絵に描いたような絶体絶命だった。

「――違います」

 凛とした声に、レインは、はっと振り返る。

 傍らで倒れていた、橙色のコスチュームを纏った少女が、よろよろと立ち上がっていた。

「ああ、何もわかってねぇな」

 吐き捨てるように言ってから、白いコスチュームの少女が、片膝を起こした。

「私たち、今が一番きれいだと思うよ」

 緑のコスチュームの少女が、ゆっくりと立ち上がった。痛む背筋を無理に伸ばし、乱れた髪を掻き揚げる。

「そうだ!」

 レインは渾身の力をこめて叫ぶと、すっくと立ち上がった。

「あきらめないから――私たちは乙女なんだあぁぁぁあっ!」

 レインの叫びを引き金に、その胸元のエンブレムが青く輝いた。残る三人の少女戦士のエンブレムも呼応して、それぞれに光を放つ。

 光を凝視するファルヘンブラウの目には、もはや嘲りも余裕もない。ただ、浮かぶのは、未知の力に対する畏怖の感情のみだった。


平成10年9月19日 土曜日

【このアニメ作品は1992年から1997年にかけて活動した自警活動家、ミスティ・レインの記録を元に脚色されたフィクションです。実際の事件を元に構成されていますが……】

 エンディングテロップの最後に流れる細かな文字まで、みのりと真紀は、いちいち見ない。小学一年生のみのりたちには読めない漢字ばかりだし、本編が終わればすぐに、なりきり玩具、つまりミスティ・レインの武器をかたどったプラスチックのおもちゃを振り回し、二人でスーパーヒロイン気分に浸ってしまうからだ。

 でも二人とも、このアニメが本当のことだと知っているし、生身のミスティ・レインの映像も、何度もTVで見ていた。たしか、エンディングの最後の文章にはそういうことが書いてあるんだと、真紀のママから教えてもらったことがある。

「テーブルの上に登らないの。さ、ふたりともお片づけしてね」

 ソファとテーブルを摩天楼に見立てて駆け巡る二人を、真紀のママがたしなめる。

 母親が仕事で不在がちのため、みのりはよく幼馴染の真紀の家に預けられていた。

 今日もこうして真紀の家で、いつものように真紀と真紀のママとご飯を食べ、真紀といっしょに大好きなミスティ・レインのアニメを見て、それから、真紀のパパに送ってもらい、誰もいないマンションの部屋へと、帰る。それがみのりの日常だった。

「今日はおとまり~」

 ソファの背もたれから、逆さまに頭だけ出し、みのりは猫なで声を立てる。

「真紀ちゃん、とめてくれたらぁ、」

 自分の胸にのしかかっている真紀に向き直り、みのりはにんまりと歯を見せて笑う。

「このピストルあげる!」

 手にした拳銃状の玩具を振り上げるみのりに、真紀は目を丸くして聞き返した。

「いいの?!」

 みのりが家から持ち込んできた玩具の銃は、ミスティ・レインの武器とは違うものだ。いつの頃からか、みのりが宝物にしていたものだった。手放してしまうのは、子供心にもたいへんな事だと思い、真紀は戸惑った。

 しばらく、いひひと笑って見せてから、みのりはピストルを持つ手をぐるりと背中に回した。

「う、そ!」

「ひど~い!」

 みのりに形ばかり怒ってみせる真紀。でも、心の中ではほっとしていた。

 真紀は、お返しとばかりにみのりの脇をくすぐりだし、真紀の母親が呆れるのもかまわずに、またどたばたとじゃれ合いになだれ込んだ。

 結局その日は、みのりのぐずり勝ちにて、真紀の家に一泊する権利をせしめたのだった。


平成17年5月18日 水曜日

「このようにして、小笠原南沖の海底に、超物理的な汚染地帯が出来たわけです」

 黒板に地図を広げる、ばさりという音が響く。

 私立大清中学校、二年一組。席に着く生徒たちは、私語も無く地図を注視する。

 昭和20年――1945年、太平洋戦争の終戦直前に日米双方の決戦兵器が小笠原沖で激突。結果として南太平洋の一部地域が、超物理現象の頻発する異常地帯になった。その経緯を、社会科の女性教師は簡潔に説明する。

 世に出ているルポルタージュや歴史小説に比べれば、手抜きというほどに簡略化された説明なのだが、高校入試にはこのぐらいの理解でも別段、支障は無い。

「この地域に重なる国がどこか分かりますか?」

 そこで言葉を区切り、生徒を見回す。

「じゃ、古沢さん」

 呼ばれた女生徒は立ち上がり、よどみなく答えた。

「日本とアメリカ、それにムーです」

 早々に授業を進めたい時に、ひと通りの科目で成績の良い古沢は、当てやすい生徒であった。

「そうですね、この辺りの海底には海底人の国家、ムーがあります。太平洋上に領海が点在していて、地図上では分かりづらいですから、気をつけるように」

 女性教師は古沢に着席を促すと、再び黒板に向かい、幾つかの文言を箇条書きした。

「この海域では異世界からの干渉と放射能汚染の影響で、様々なパラフィジカル現象、つまり物理法則では説明できない現象が発生します。中でも顕著に見られるのが、生物の突然変異です」

 チョークの手を止め、教師は生徒の様子をざっと見まわす。皆熱心にノートを取っている。歴史は浅いが名門私立に名を連ねるこの学園で、授業中に気を散らす生徒などそうはいない。

「特に、災害性の高い生物の巨大化現象、いわゆる怪獣化が、1950年代から70年代にかけて、大きな問題となってきました。この有明ジオフロントの誕生も、怪獣災害が発端となっていることは最初にお話ししましたね」

 教師が向けた視線につられて、生徒達も一斉に、窓の外へ目を向けた。

 破壊と脅威に満ちた歴史とは無関係に、空は抜けるように青い。まばらに浮く白い雲の下に、お台場特有の奇抜な形のビル群が頭を覗かせている。

「さらに問題になっているのは、突然変異が人間にまで及んでいることです。えー、いいですか、この致災害性変異患者保護法という法律は、1953年に施行されてから、重度の変異患者を対象とした隔離治療の根拠とされてきました。それが96年に廃止され…」

 続く先生の声に、生徒達は黒板へと向き直った。ただ一人、春日井みのりだけが視線を戻さない。別に、みのりは窓の外に気を惹かれているわけではなかった。

 窓際の前列にぽっかりと空いた席。

 みのりはその空席に、四日前まで座っていた室田真紀の姿を重ね合わせているのだった。

 自分より頭ひとつ背の高い、少し間のずれた、それでいて妙に我の強い、きれいな目鼻立ちの十四歳の女の子。つややかな黒髪をまとめた、ゆったりと長い三つ編みが、椅子の背からふわりと垂れている。ふと、三つ編みが揺れ、真紀の目がちらりとみのりを掠め見る。

 【記憶の中の真紀】の目に浮かぶのは、かすかな甘えと、それを覆い隠す、怯えと恨み。

「春日井さん」

「は、はい!」

 教師の呼ぶ声に驚いたように、みのりの前髪がひとすじ、ばねのように跳ね上がった。

 反射的な返事と共に、みのりは立ち上がる。それから一瞬の沈黙。

 気まずそうに周囲をうかがえば、肩をすくめる先生と、鼻で笑う級友たちの姿があった。

「質問じゃないです。授業には集中するように」

 教師は冷めた口調で着席を促す。みのりは赤面して、おずおずと腰を下ろした。

 周囲の視線がちくちく刺さるような、居心地の悪さ。実際、周囲がさほど気にしていなくても、感受性の高い中学二年生にとっては、こんなちょっとした失敗がつらく感じられるものだ。

 みのりは、落ち着かない様子で、跳ねた前髪を何度も寝かせつけた。どんなに整えても、何かの拍子ですぐ跳ねる自分のくせっ毛は、こんな時すごく気に障る。

 これがその日の最後の授業だったのが、みのりにとって幸いだった。

 六時間目の終了を告げるチャイムが教室に響くと、社会科の女性教師は早々に教材をまとめて教室を後にした。解放された生徒達は三々五々、クラブに、進学塾にと散っていく。

 全校生徒クラブ所属が建前の大清中だが、クラブに籍を置くだけの幽霊部員になっている者も少なく無い。みのりも一応、卓球部に在籍はしているが、塾通いや家事を理由にしばしば練習をサボっていて、概ね幽霊部員の一人と言っていい。

 元来、運動は苦手ではない。みのりは身長146センチと小柄ながら、引き締まった体型で、腕力や持久力には劣るものの、機敏さには他の生徒より秀でるものがあった。

 うなじを覆う程度のショートヘアの、ちょっと先端が跳ねるくせっ毛。

 一つ二つは年下に見られるあどけない顔に、愛嬌のあるぐりぐりとした丸い目。

 そんな彼女の外見も、生来の活発さを感じさせるものだ。

 だが、もって生まれた機敏さや活発さと、スポーツ選手として芽が出るかということとは、また次元の違う話である。こと、練習に打ち込めないのは、忙しさより飽きっぽさが理由だろうと、周囲も、みのり自身も認めるところだった。

 「春日井ぃ、この後どうする?」

 帰り支度をするみのりの前に、級友で同じ卓球部の鷹森が立っていた。

 通う進学塾が同じこともあり、今現在、みのりとは一番つき合いの多い友達である。

「今日は春日井も塾ないべ」

「んー、今日は掃除の日~」

 みのりは頬をべたっと机に押し付けて、突っ伏したまま鷹森に答える。

 週刊誌の編集長をしているみのりの母は、夜でも家を空けることが多い。

 自宅マンションでは、炊事・洗濯・掃除のほとんどはみのりの仕事になっていた。これで木・金・土と週三日、塾に通っているのだから、日々の忙しさはそれなりのもので、部活に精を出さない事への、そこそこの言い訳にはなる。

 鷹森は、自分と違いかなり真面目に卓球部の活動に打ち込んでいる。背丈はあまり自分と変わらないが、全体にがっしりした印象があるのは、やはり鍛え方の違いというものだろう。

「そっか、あのさ、古沢が部活早く引けるから、買い物に付きあえつってんだけど」

 鷹森が背後の席に座る女生徒――古沢を親指で指し示す。みのりが鷹森の背の向こうに目をやると、数人の友達に囲まれて、手招きする古沢の姿が見えた。

「だめだよ春日井~。授業中寝ちゃあ~」

 クラスはおろか、校内でも十指に入る優等生の古沢。

 その外見は、短めのボブカットに小さいメガネと、やはり優等生然としている。

 しかし、物腰はざっくばらんで軽妙、エリートぶった近寄り難さは感じさせない。ファッションにも明るく、行動力があり、男女共にクラスの人気を集めていた。

 みのりをからかう彼女の声も、実に屈託無く、明るい。

 みのりには、この古沢の屈託のない笑顔が、何より恐ろしかった。

「ね、寝てないってば!」

 みのりは軽く口を尖らせて見せて、古沢の机へ駆け寄る。

 誰もが気安く口を利く古沢は、一方で、いや、それ故にクラスを支配する存在であった。古沢は常にクラスの利害の中心にあり、彼女と揉めることは、そのまま、クラスの枠組みから弾き出されることを意味していた。

 それを、証明して見せたのが、室田真紀だった。

 真紀がどういった経緯で古沢と対立するようになったのか、みのりはほとんど知らない。

 四月の中ごろ、古沢が真紀を無視するようになると、取巻きも皆、口を聞かなくなった。

 クラス中が真紀と口を利かなくなる頃には、とっくにみのりも真紀を避けるようになっていたから、事実がどうか、なんて知るはずも無い。知りたくも無い。

 そうだ、古沢の取巻きの一人として、みのりも、真紀を無視し続けていたのだ。

 放課後、みのりすら避けて、ひとり足早に教室を去っていく真紀の姿を最後に見たのは、先週の土曜日のことだ。明けた月曜から、今日水曜まで、真紀はそもそも学校に来ていない。

 風邪、というお定まりの欠席理由を真に受けている生徒は、少なくとも、クラスの女子には一人もいなかった。


平成16年4月14日 水曜日

「私ね、やっぱり茶道部入ることにしたんだ」

 入学式から一週間ちょっと。

 そろそろ歩き慣れてきた、中学校からの帰り道で、真紀は、はにかみながらみのりに告げた。

 日ごとに暖かさを増す陽光の下、真紀と一緒に家路を歩く。こんな日も、あと何日も無いということか。既にみのりは卓球部に入ることに決めているから、帰りの時間はばらばらになるだろう。一度、卓球部にも誘っては見たが、運動の苦手な真紀の事、うんと言う訳もない。

「古沢さんがね、茶道部に入るって言うし」

 みのりの返事を待たずに、真紀は続けた。

 人見知りする真紀が、珍しく自分で見つけてきた友達が、古沢だ。小学校の間は、ずっとみのりを通じて友達を作っていたというのに。なんでも、古沢とは小説の趣味が合うらしい。みのりは小説なんてろくに読まないのに。もう、小学生ではないのだ。クラスこそ一緒になったが、これからはそれぞれのクラブで、それぞれの趣味で、友達を増やしていくのだろう。

「そっか……」

 みのりは、かすかな寂しさに言葉を濁らせた。しばし、空しく視線を泳がせる。

 気がつくと、真紀が側を離れていた。

 道の反対側、コンビニの前に散らばるゴミを拾いにいったらしい。

「よ、よしなよーっ」

 みのりは、小声で真紀を呼び止める。投げ出されたカップラーメンのカラや、パンの袋の奥にたむろしているのは、どうにも柄の悪い少年達だ。服装のデザインが共通しているところを見ると、最近増えた、「パック」とか言う不良グループの一つかもしれない。

「ちょっと、待ってて」

 そう言って、みのりににっこりと笑顔を向けると、真紀はひとつひとつゴミを拾い出した。難癖をつけられやしないかと、みのりは気が気でなかったが、幸いにも、不良たちは興味なさそうに真紀を一瞥しただけだった。

 真紀は、拾ったゴミを店前のゴミ箱にほうり込むと、満足そうな笑みを浮かべて戻ってきた。

「なんてことないよ」

 真紀は、いたずらっぽく、みのりに耳打ちした。

 日頃は内気なくせに、みのりと一緒だと、真紀は意外な正義感を見せ、そして大胆になる。それは、みのりへの甘えであるかもしれない。

 ――純粋すぎるんだ。

 自分無しで、新しい友達と、上手くやっていけるのか、みのりは漠然とした不安を覚えた。一年後のことなど、予知能力者でもない二人には、知りようがなかった。


平成17年5月18日 水曜日

 買い物を終えて、古沢たちと別れたのが午後7時前、家路の途中、母親から電話があった。今日は帰れなくなったとのことだった。食事の用意はみのりの仕事だったから、どうせ一人分と思って外食で済ませた。

 そもそも、みのりが小学校高学年になった頃には、母と食事することは稀になっていた。

 父親はみのりが物心つく前から家におらず、物心ついたときには、既に別の家庭を築いていた。いまさら父親の家庭に割って入る理由もないし、そもそも父親が必要だとも思わない。

 小学校の頃はよく、幼なじみの真紀の家へ食事に行ったものだが、中学生になってからは、そんな機会も減っていった。真紀の家は歩いて十五分というところ。だが、この半月は、その近所にも足を運んでいない。続く道を見るのも、ためらわれた。

 逃げ込むようにマンションに帰り着いたのが、午後8時。それから、小一時間。

 みのりは自室で邪悪なゾンビ軍団と戦っていた。

 あぐらをかいたまま、迫り来るゾンビに一発、また一発と銃弾を叩き込む。間近で破裂するゾンビの頭から腐汁が飛び出て画面の端を汚す。リボルバー式拳銃の弾丸が尽きた。装填だ、みのり、今すぐ画面の外に向かって引き金を引け。だめだ、間に合わない。

 みのりの脳みそはもう、ゾンビの晩飯だ。

 GAME OVERの画面を確認すると、みのりはテレビのリモコンを握り、外部入力から地上波のチャンネルに切り替えた。

 10時台のテレビニュースが流れ出す。26型のワイド画面は、ガンシューティング、つまり画面に向かって銃を撃つタイプのTVゲームにはうってつけだが、ニュースキャスターのメガネ面を見るには少々大げさすぎる。

「掃除しなきゃなぁ」

 誰もいない部屋でみのりはつぶやいた。相槌など帰ってくるはずも無く、みのりはそれきり、見るでもないテレビに顔を向け座りこんでいた。

「現場の八戸駅です。たった今、トレインセイバーズが突入しました! 犯人のものと思われるプラズマ放射が見えます!」

 レポーターの声は、今日もどこかで正義の味方が、悪と戦っている事を伝えている。

 ――第二次世界大戦を境に、世界は大きく変容した。

 戦時における技術開発の要求が現代物理学を成立させた一方で、ごく一部の、異常な才能を持った技術者達が、既存の科学の枠組みから外れた、驚異の兵器を次々と発明して見せた。

 人間に超能力を与える薬品、空飛ぶ戦艦、地に潜る戦車、思考するリレースイッチが制御する自動兵器、果ては古代や中世の魔法を再現して見せる者すらいた。彼ら異能の発明家の理論を理解できる者は少なく、その才能自体が超能力だとまで言われた。

 当時の科学界は、これら異形の技術に散々頭を悩ませた末、結局、匙を投げた。

 現行科学で説明のつかない現象は、自然発生のものも含めて、全て「パラフィジカル・フェノメノン」すなわち「異相物理学現象」と呼んで、「正常な」科学の枠から弾き出したのだ。

 そして、正統現代科学と袂を分かったまま続けられたパラフィジカル兵器の開発は、太平洋戦争終結を目前に決定的な破局をもたらしたのである。

 汚染された南太平洋を中心に世界中の物理法則は歪み、各地で超常現象が多発し、異世界への門が頻繁に開き……そして、突然変異により物理法則を超越した人間たち、いわゆるパラフィジカル能力者たちは日本国内だけでも十万人を超して、今もその数を増やし続けている。

 外見的な変異を示す者こそ強制的に隔離されてきたが、ほとんどの能力者は普通人と変わらぬ姿で日常の社会に紛れて生きている。それは、社会にとって潜在的な脅威であった。

 事実、パラフィジカル能力を用いた犯罪は、年を追って増加していた。さらに数次にわたる異世界や外宇宙からの侵略に、怪獣やロボット反乱に代表される超常災害の数々。

 既存の防衛・警察機関だけでは対処が間に合わない中、匿名、実名に関わらず自警活動を行う民間のパラフィジカル能力者たちが、治安維持上、欠かせぬ存在となっていった。

 いわゆる、スーパーヒーロー達である。

 昭和49年に、日本でもパラフィジカル能力者による自警活動を認可する法律が施行されると、スーパーヒーローと呼ばれる存在が一気に都市部に溢れた。中には企業によって組織され、広告塔を兼ねた社会事業として活動するチームも生まれるほどだった。

 彼らの活躍によってパラフィジカル能力者は社会の一部として認知されるようになった。パラフィジカル犯罪はなおも脅威であったが、対の存在としてヒーローが登場したことで、超常の存在自体は、ある意味、日常化してしまったのだ。馴れてしまったのである。

 パラフィジカル能力者の社会活動を規制してきた、災害性変異体質者保護法が撤廃された平成8年以降、スーパーヒーローはさらに数を増し、いまや地方都市へも活動の場を広げていた。

 スーパーヒーローと呼ばれる、あるいは呼ばれたことのある者は、現在、日本国内に千人近く存在する。みのりにとっては行ったこともない聞いたこともない、東北の一都市にも、当たり前のようにヒーローは現れる。そんな時代だ。

 東北新幹線の高架上で繰り広げられる、超人同士の激突が、揺れるカメラを通じて伝えられる。みのりは、実況映像を何とはなしに見つめていた。

「だめだ、寝よ」

 ニュースに興味も無いし、他に見たい番組も無い。とり憑いた眠気に逆らわずテレビを消す。

 みのりは明朝にゴミ捨てだけすることにして、ベッドに潜り込んだ。



第2章 『大怪獣 ギガント』


昭和29年11月4日 木曜日

「……ラジオ第一放送では引き続き予定を変更しまして、東京湾の巨大生物関連のニュースをお伝え致します。現在、東京湾より上陸した巨大生物は芝浦の高圧電流線を突破し、陸上自衛隊の迎撃を受けています。あ、新しいニュースが入りました。迎撃に当たっていた戦車団が、巨大生物の反撃を受け戦闘不能とのことです。熱線です。巨大生物は口から熱線を吐きます! 繰り返します、芝浦で迎撃に当たっていた戦車団が、巨大生物の熱線による反撃を受け戦闘不能に陥りました。現在、江東区、港区、品川区、千代田区、目黒区、渋谷区にかけて避難勧告が出されています。該当地域の方は避難を続けて下さい。繰り返します。現在……」


平成17年5月19日 木曜日

 みのり達の住むこの街は、住所表示上江東区有明、と記される。しかし、80年代からこっちは、有明ジオフロントという名の方が、通りがいい。

 有明ジオフロントは、港区お台場から江東区東雲あたりを結ぶ線を一辺にして、そこから南に8キロほど、舌の様に伸びている広大な埋立地だ。

 東京湾に突き出た、その舌の先端に、低い岩山のような地形がある。ごつごつした岩肌にクレーンや鉄塔がにょきにょきと伸びる姿は、まるで浜辺に半分埋まったサザエのようにも見える。

 この奇妙な岩山の北の足元に、無数の倉庫や工場のような建物がひしめき合っている。そのさらに北側には、くすんだ外観の住居群が、やはり密集して建ち並ぶ。

 前近代の廃墟然とした雑然さを見せる南端に対して、北には未来を感じさせる近代ビル群が、整然と立ち並んでいた。両極端な南北の景観に挟まれた中央部は、少しばかり古びた、都内ではごく平凡な街だ。

 街の成り立ちにおいては、この中央部が最も古い。

 昭和29年に初めて50メートル級の大型怪獣の襲来を受けて以来、東京は何度も怪獣災害の猛威に晒されてきた。南太平洋の汚染海域からやってくる怪獣達の多くは、なぜか東京湾を北上し、沿岸の都市のどこかに上陸した。怪獣がことごとく首都圏を目指す理由については、数多くの仮説が唱えられているが、百家争鳴、未だ定説と呼べるものは無い。つまるところ、異相物理学現象の申し子たる怪獣に、条理に沿った解釈など無意味なのかもしれない。

 原因はともかく、現実問題として二十階建てのビルほどもある巨大な生き物がのし歩けば、町が瓦礫の山と化すことは言うまでもない。となれば、次に問題として浮上するのは、その大量の瓦礫の処理だ。街の復興を始めるにも、まず破片をきれいに掃除しなくては始まらない。

 そこで、関東中の瓦礫を東京湾に投げ捨てることになった。

 壊滅状態に陥った品川区、江東区を中心に首都圏中の瓦礫を回収し、怪獣への防波堤として巨大な埋立地を作ろうという計画は、昭和40年代にスタートした。

 10年近い歳月の末、東京湾に突き出す巨大な埋立地が完成したが、その頃には、怪獣同士の潰しあいで個体数自体が激減していた。また、ムーの守護神とも言われる海洋巨人アンノーンにより駆逐されたものも少なくなかった。さらに、怪獣駆除機関による関東圏の迎撃体制が確立したこともあって、怪獣が東京に上陸する危険性は格段に低下していた。

 防波堤としての役割を終えた埋立地は、今度は宅地、商業地区として転用され、都心の土地不足を解消する、新しい街並みの一つとして整備されることになった。

 都市開発の中心となったのが、今みのりが歩いている中央通りだ。

 埋立地東岸に位置するJR有明中央駅前から、まっすぐ西に走る4キロ程の大通り沿いに、繁華街が広がっている。駅前や表通りは常に新しい装いを見せているが、裏道に回れば一昔前の町並みが顔を覗かせる、中途半端に古い町だ。

 みのりの通う進学塾はこの中央通りの、ちょうど中心に位置する「ゆりかもめ」ジオホール前駅の近くにある。

 高架の上をタイヤ駆動の車両が往復する全自動の交通機関「ゆりかもめ」は、平成7年に新橋から有明ジオフロント南端の発掘施設をつないで開業した。埋立地の沿岸線を走るJR京葉線の有明支線と並んで、有明ジオフロント住民の生活の足となっている。

 塾が終わって、みのりは鷹森とともに駅までの道を歩いていた。

 時刻は夜9時を迎えようという頃。この一帯は日中や深夜は比較的静かな街区ではあるが、それでもやはり大通りの一角、夕方から宵の口にかけては多くの人であふれかえる。

 都立の学校が近くにあり、また、塾や予備校も多く立地していることもあって、制服姿の中高生達も少なくない。その中に混じるみのりたちも、やはり学校指定のブレザー姿だった。

「そしたらさ、まーた陰口たたいてんのよ、加瀬のヤツ」

 周囲の喧騒に負けない勢いで、鷹森は機関銃のように愚痴を飛ばす。

 鷹森の愚痴はクラスとクラブの友達、つまり共通の友人への陰口ばかりなので、みのりとしては非常に気まずい。こんな時にはいっしょになって悪口で盛り上がればいいのだろうが、どうもみのりにはそういう二枚舌が使えないのだ。これが気に入らない先生への文句なら大いに盛り上がるところなのだが……。

 障らぬ神にたたりなし。仕方なく、苦笑と共に適当な相槌を返す。

 そんなみのりの顔色などお構い無しに、鷹森はとめどなく愚痴を垂れ流す。

「結局さ、ワガママなのは古沢の方なんだよね。そう思わない?」

 みのりはどきりとして鷹森に顔を向けた。

 鷹森はただでさえ愚痴っぽい性格な上に、陰口の矛先を選ばないところがある。古沢の悪口となれば、当人の耳に入ればクラスでの立場を悪くしかねない、第一級の危険物だ。

 みのりは、へぇ、というか、ふーん、というか、実にあいまいな返事でお茶を濁した。気まずい空気にあえぎ、ふと空を仰いだみのりの視界の端に――

 なにか黒い影がよぎった。

「あ、カラス」

 街の灯りに照らされ、一羽のカラスが、宵闇の中を音もなく飛びすぎていく。

「ほんとだ、珍しいの。こんな時間に」

 みのりの何気ない言葉に、鷹森もなんとなく返事を返す。

 お互い、続く言葉はあんまり考えていない。みのりは続ける話題を探して、再び視線を宙に泳がせる。とにかく陰口以外の話題に変えたいところだ。

 間近の路上から、急ブレーキの音がみのりの耳をつんざいた。

 前に視線を切り替えると、スクーターが一台、タイヤを軋ませながら自分達の方に突っ込んで来るところだった。慌てて跳び退った拍子に、みのりは派手に転んでしまう。しりもちをつき、おもわず目をつぶる。みのりの脇を掠めたスクーターは、背後で同じく転倒した。

 乗っていた二人組はシートから放り出され、慌てて車体を起こそうと駆け戻る。フルフェイスのヘルメットに遮られ顔つきは分からないが、服装や背格好からして、若い男のようだ。

 男達の慌てぶりからして、何かに追われているように見える。追われる原因はたぶん、後部に乗っていた男が持つ、女性ものの高級バッグだろう。まったくこの男たちに似つかわしくないブランド物のバッグは、万引きか、引ったくりで得た盗品と思われる。

 鷹森に引っぱり起こされる、みのりの頭上を、不意に黒い影が跳び越えていった。

 二人とも、その姿に目を見張る。

 呆気にとられた鷹森はみのりの腕を取り落とし、もう一回みのりはしりもちを突くのだが、その痛みが気にならないほどに、みのりも驚いていた。

 みのりの傍に着地した小柄な人影は、すぐに、再び跳び上がった。

 束ねた黒髪と黒のマントをはためかせて、スクーターの二人組へと躍りかかる。放物線の頂点で人影が右手を大きく振りかぶった。

「キネティック・ブレード!」

 凛としたかけ声とともに、振り上げた掌から強烈な光が漏れる。

 一筋に伸びた璧緑の光線は、瞬く間に一振りの日本刀として形を成した!

 光の剣は空中で振り下ろされ、手前の男をしたたかに打った。スクーターを立て直したばかりの男は、再びスクーターごと突き倒される。打たれた男の身から、血は流れていない。光の剣は、斬るための刃の無い打撃用の武器らしい。

 バッグを持つもう一人の男は、黒い金属のマスクで目元を覆った剣士の、ゴーグル越しの眼光に気おされて情けないうめきを上げる。男はおろおろと後ずさると、踵を返して一目散に駆け出した。

「逃がさん!」

 凛とした声で叫び、鬼面の下の唇を真一文字に結ぶと、剣士は男を追うべく地面を蹴った。

 ひったくり犯と剣士が走り抜ける方向へ、野次馬達は切り裂かれるように道を開けた。剣士が目の前を走りすぎるたびに、声援とヤジとが浴びせられている。

 そのまま、みのりたちの視界から二人は消えたが、1ブロック先で男が捕らえられたようだ。歓声が、どよめきとなって沸き立っている。

 そのどよめきが耳に届くまで、みのりは呆然とへたり込んでいた。動悸が収まらない。丸い目がさらに丸く見開かれ、ひとすじ跳ねた前髪が、ふらふらと風に泳ぐ。

 『斬鬼のスズカ』――それは去年の夏から姿を現した、この街の新たな守護者だった。

 みのりと同じくらいの背丈の小柄な少女。鋭い一対の角を備えた、機械的な黒い仮面ドミノマスクで目元を隠し、丈の短い、和風の黒いマントを羽織る。マントの下に見えるえんじ色のセーラー服は、この近辺の都立中学のものに似ているが、色は違う。プリーツスカートから伸びる細い足は、黒いタイツに包まれ、すらりと引き締まったシルエットを描いていた。大きなポニーテールがマントとともに風になびく様は、まさに若武者の風情だった。

 俗に「クライムファイター」とも呼ばれる、地域の自警を専門とするスーパーヒーロー達の中で、現在最年少と目される、正体不明の少女剣士。

「春日井、大丈夫?」

 鷹森が戸惑いがちな声と共に差し出した手を借りて、みのりは立ち上がった。動悸は収まるどころか、どんどん高鳴っていく一方だ。

「びっくりしたぁ~。あれでしょ、スズカってやつだっけ?」

 鷹森が興奮気味にみのりの袖を引っぱる。みのりからは生返事しか返ってこない。

 初めて目の当たりにしたスーパーヒロインの姿に重なって、みのりの脳裏には幼い頃の自分の姿が蘇っていた。

 公園のジャングルジムから飛び降り、近所の悪ガキ達の中へと飛び込んでいく、小学一年生のみのり。その手には、宝物だった陶製の黒い銃の玩具。

 幼いみのりにとって、あの黒い銃はまさに力の象徴だった。

 あの銃を手にした幼いみのりは、自分の思う正義を、貫くことが出来たはずだ。

「……どっか打った?」

 呆けたままの、みのりの顔を、鷹森は不安げに覗き込む。目の前に掌をちらつかされて、みのりはようやく我に帰った。

「だ、大丈夫、ちょっとびっくりしちゃって……。あー、あーいうのって、初めて見たけど、……凄かったねぇ」

「あ、それ私も~。そうだ! このまま待ってたらテレビとか来ないかな?」

 鷹森も興奮気味だが、みのりよりは気楽そうだ。

 みのりはなんとなく落ち着かないままに、鷹森と数分待ってみたが、野次馬が散っていくばかりで、TVクルーの気配など無い。待ち飽きた二人は、空しく家路に戻った。

 鷹森とは帰る方向が違うので、駅で別れる。それから、一人車内で揺られる間、ずっと、スズカの剣と、宝物だった銃の玩具の姿が頭を巡っていた。

 なぜだろう、胸の高鳴りがおさまらない。

 なにか忘れているような気がして、胸のつかえが取れない。

 マンションに戻ると、やはり母は帰っていなかった。シャワーを浴びて、一人でご飯を食べて、それから、洗濯物を洗濯機に放り込んでおく間、なお「剣」と「銃」とが頭から離れない。

 部屋の電気を消してベッドに潜りこんでも、あの銃が脳裏にちらついている。あれは、何処にしまったろう。ぼんやりとみのりは記憶を辿る。弾が出ないから、握りの部分で男の子をぽこぽこ殴った、あの銃。ジャングルジムから落ちた拍子に、お尻で潰しそうになった、あの銃。幼なじみとふざけて取り合って、うっかり落とした、あの黒い銃。陶器製にしては、ずいぶん丈夫だったな……みのりは、ここでようやく胸のつかえの正体にたどり着いた。

「あれ……本当に玩具なの?」

 みのりは、他にあの銃と同じ玩具を見たことが無い。陶製の玩具というのも妙な話だ。それに、陶製にしては異常に頑丈じゃなかったか?

 がばりと布団を跳ね上げ、蛍光灯をつける。それから、みのりはベッドの下を覗き込んだ。古雑誌の束の他に見えるものは無い。みのりは跳ね起きてクローゼットを開ける。ここに無ければ、後は祖母の家の物置ぐらいしか考えられない。みのりは祈る思いでクローゼットの衣類を掻き分け、箱という箱全てを開く。

 ない。

 あの銃はおろか、昔の玩具自体何一つ出てこない。みのりは懸命に記憶を辿る。確かに玩具はひとまとめにしたはずだった。捨てていなければ、必ずひとかたまりで、とってあるはずだ。

 板張りの床にへたり込んだみのりは、かすかな期待をかけて部屋中をぐるぐると見回す。

 果たせるかな、衣装ダンスの上に、手ごろな大きさの段ボール箱を一つ、見つけた。

 机の椅子を踏み台にして、埃まみれの箱を下ろす。少し動かすと、ガチャガチャと細かいものがぶつかり合う音がする。期待大。

 今度こそと念じて、箱を封じるガムテープをはがす。埃を払い、ふたを開いた。

 期待どおり、中は懐かしい玩具でいっぱいだった。意外に埃はかぶっていない。少し中をあさると、簡単に銃は見つかった。

 盛大に息をはいて、胸をなでおろす。

 ようやく落ち着いたみのりは、改めて銃を観察した。

 黒いボディは、今見直しても、陶器にしか見えない。セラミックとかそういうものではなく、ティーカップのようにつるつるした陶器だ。かつてもてあましていた握りは、今ではピッタリと掌におさまる。自分の手が小さい方だと考えると、この大きさはもともと女性用なのではないか。握り手にあわせて皮らしい手触りのカバーが覆い、滑らないように出来ている。握りの上の本体、普通の銃で言う薬室の部分には、宝石かガラス玉か分からない、透明な球体が埋め込まれている。球体はダイアルのようにカチカチと音を立てて回った。何処をみても、玩具メーカーの刻印など無い。

 箱状の銃身を彩る銀の象嵌は、唐草模様アラベスクというより崩した文字のようで、まるで魔法のおふだを思わせる形だった。

 ――魔法のおふだ。

 そんな言葉に思い至って、みのりは一つ身震いした。

 確かに、魔法の利用は戦前から多くの国が研究しているという噂だし、みのりが小さい頃には、ウィズアースとかいう魔法世界からの侵略者「魔人」が地球中に溢れかえる事件もあった。

 だが、それでもなお、みのりにとって、いや日本中の一般人にとって、魔法は遠い世界のものだ。多くの超人や怪獣と同じ、遠巻きに眺めるべきパラフィジカルな存在の、その一番遠いところに魔法は位置している。

 TVや雑誌が伝えるには、魔法も生得的なパラフィジカル能力の発露に過ぎず、呪文や儀式は単なるスタイルだというのが定説。能力の無い一般人には、お札だろうが紋章だろうが、無意味な飾りでしかないということだ。

 でも。

 それもまた理不尽な話だと、みのりは思う。

 大怪獣がのし歩き、人間がマント一つで空を飛び、そして自分と年恰好の変わらない少女が光の剣をふるって悪と戦うこの世の中。みのりたち普通人と、超人たちとを分ける垣根が、そんなに高いものだとは思えない――思わないから、この銃を引っ張り出したんじゃないか?

 ためらいながらも、みのりは引き金に力をこめた。

 銃口から、金色の光があふれ出た。不思議な力の圧力に、前髪が逆立つ。

 見慣れた部屋が、瞬間、幻想的な世界に変わって見える。

 続けて、銃口から白い光の玉がふわふわと飛び出し、部屋の中央に滞空した。

 みのりは、気が遠くなるのを感じた。

  ***

 ゆりかもめジオホール前駅から東に2キロほど行くと、ちょっとした林が海岸沿いに広がっている。有明ジオフロントの、数少ない緑地の中では最大の規模を持つ臨海緑地公園だ。

 街灯も少ない木々の下は、夜となれば人気の絶えた静謐の世界になる。

 ひときわ大きな桜の枝の上に、セーラー服の少女が腰掛けていた。

 膝に乗せた剣道用の用具袋に、たたんだマントをしまっている。暗闇の中、桜の豊かな樹葉に遮られ、木の下からその姿を見ることは出来ない。

 少女は、目元を覆う金属製の鬼面をはずすと、深くため息をついた。

 鬼面を外すと同時にスイッチが切れ、特殊繊維のセーラー服の色が、えんじ色から濃い緑に切り替わる。臨海一中の制服の色だ。

「お嬢様、けが人を出すところでしたね」

 背後の枝に、いつの間にか長身の男が立っていた。

 少女は男に振り向きもせず、突き放すような声色で答えた。

「父さんには好きに言えばいい。お前は尾びれでも何でも、適当につければいいだろう」

「信用が無いものですね、この、旦那様には常にありのままを報告していますよ」

 そはやと名乗った青年の声には、容姿とは似合わぬ、老成した響きがあった。四角いメガネに黒いスーツと言う出で立ちは、しなやかな身振りも含め、老執事といった趣だ。

「ふん、しょせん私の護衛も、お前にとっては余興に過ぎないのだろう?」

 そう言うと、少女は枝からひと息に飛び降りた。

 肩に袋を下げたまま、3メートル下の草むらに、すっと降り立つ。姿勢を崩すこともなく、そのまま歩き出した少女の背後で、羽ばたきの音が響いた。

    ***

 乱れた前髪もそのままに、みのりは呆然と、白く朧な光球を見上げていた。あの黒い陶製の銃の銃口から、ふわふわと飛び出した光の玉だ。

 あまりの驚きに一瞬気を失いかけたみのりだったが、早鐘のような胸の鼓動にその身を揺さぶられ、どうにか気を確かに保ったまま、部屋の中央に浮き上がる光の玉に相対していた。

 へたり込んだまま息を呑んで見守っていると、徐々に光の玉が膨らんでいることに気がついた。いや、よく見ると形そのものを変えている。

 数秒すると、大きな耳をたらした、小犬のような形がぼんやりと見えてきた。ハスキー犬の赤ん坊を思わせる、丸っこい顔も見える。その愛らしさに、みのりの緊張は少し緩んだ。

 光の中を良く覗き込もうと、みのりが顔を寄せた瞬間。

 閉じられていた「小犬」の、つぶらな目が見開かれた。

 濡れた黒い瞳は犬の目そのものだったが、その動きには知性が感じられた。

 驚き、顔を引くみのりの姿を認めた「小犬」は、おもむろにその口を開いた。

「――少女よ。我が銃を必要とするか?」

 「小犬」は、少年のようなアルトを響かせ、みのりに問うた。吠え声などではない。それははっきりした人の言葉、そのうえ日本語だ。

 みのりはまた気が遠くなりそうになった。

 頭の中がひどく混線していて、ぱくぱく開く口からは何も言葉が出てこない。

「――今一度問う、我が力を持って善を為すか?」

「っは、はい!」

 畳み掛ける「小犬」の問いに、みのりはようやく一言だけ返した。何を考えて出した言葉だったか、それは当のみのりにも分からない。

 「小犬」は、みのりの答えを聞き、再びまぶたを閉じた。

 にわかに輝きを増した光に包まれて、「小犬」は、ゆったり螺旋を描きながら、その高度を上げた。天井を掠めると、今度は急旋回しながら降りてくる。

 呆けてその動きを追う、みのりの目の前に光が迫ってきたかと思うと――その小さな胸へとぶち当たった!

 うひゃぁ、と間抜けな悲鳴を上げてひっくり返ったみのりの頭上に、再び「小犬」が滞空した。激しい鼓動と、全身を覆う火照りのせいか、みのりの視界がちかちかとちらつく。

 夢のように曖昧な感覚の中、自分を覗き込む「小犬」の目は、確かに微笑んでいた。

    ***

 十数分後、みのりは家中を駆けずり回っていた。

 下駄箱にしまいっ放しにしていた、皮のブーツを引きずり出す。母が海外旅行のお土産にカウボーイハットを持っていた事を思い出し、母の寝室に忍び込んでクローゼットから失敬する。ジーンズに履き替え、デニム地のシャツを羽織る。

 部屋に飛び込むと、小学校の時のハチマキを机の奥から引っ張り出した。椅子に飛びつき、裁ちバサミを手にすると、ひと息深呼吸してから慎重に二つの穴をくりぬく。

「なにもそんなに急ぐことは無いよ?」

 白い「小犬」が呆れた様子で呼びかける。

 ハスキーの子犬のような、寸詰まりの鼻面と手足を宙に浮かせ、体ほども大きな耳を羽ばたかせて、みのりについて回っていた。

 光球の中にうっすらと見えていた「小犬」の姿が、完全に実体を成したものだ。今は発光せず、純白の柔毛に覆われた輪郭がはっきり現われている。

 みのりはハチマキから目を上げて、「小犬」に向き直る。

「いいのっ、こういうことはすぐ実行に移さないと! ええっと……」

 しばし言いよどんでから、おもむろに人差し指を向けた。

「そうだ、君、名前なんていうの?」

 銃の機能や、「小犬」自身の簡単な素性を聞かされる間に、みのりの方は「小犬」と気安く言葉が交わせるようになっていた。まだ十分そこそこしか経ってないというのに、出会った瞬間の混乱振りが嘘のようだ。「小犬」の見た目の可愛らしさと、はきはきとして丁寧な、育ちのいい少年のような口調に、みのりはすっかりほだされてしまったらしい。

「え? ……ああ、特にないよ。呼びづらかったら好きに名前をつけてくれていい」

「ふ~ん、……じゃあどうしようかなぁ」

 みのりは人差し指をくるりと下唇に持ってきて、いかにもな思案の仕草を作る。

「ロボ! ロボなんてかっこいんじゃない?」

 人差し指を大きく振って、また「小犬」の方にむけた。どこかで聞いた狼の名前だ。

「気にいらない?」

「いや、強そうだ。ありがとう」

 「小犬」は、いや、ロボは、笑みを浮かべて、みのりに頷きを返した。

 当人が言うには、ロボは妖精界から地球の少女達を守るため送り込まれた、魔法の銃「アガトダイモーン」の管理者であるという。

 妖精というのは、、確か十年ぐらい前にウィズアースから魔人の侵略があったとき、ヒーローたちに手をかした異次元の存在だ。みのりは少ない情報の中で、漠然とそのように理解している。

 その妖精の作った銃アガトダイモーンは、救いを求める少女に答え、善を為さしめるために契約を交わし、その力を貸すということなのだ。

「救いを求めるってのは全くその通りよね」

 客観的尺度はともかく、みのりにとっては、この煮詰まった日常の閉塞感を打ち破ってくれることこそ「救い」だった訳である。

 アガトダイモーンは妖精の魔法を弾倉にたくわえ、銃口から撃ちだす文字通りの「銃」である。銃把の上に見える球形のクリスタルが魔法を装填する部分、弾倉だ。銃弾になる魔法は三種類あり、装填してさえあれば、クリスタルを回すだけで種類を切り替えられる。それから引き金を引けば、銃身を通って魔法が打ち出される仕組みだ。

「でも、私が小さい頃は、引き金が引けなかったよ?」

 みのりの疑問に、ロボは「安全装置」という言葉で答えた。安全装置といっても普通の銃とは違って機械的な仕掛けではなく、分別のあるものが手にするまでは管理者、つまりロボの判断で動かないようになっているのだ。いくら少女を守る銃とはいえ、六・七歳の幼い少女が振り回すわけには行かない、ということだ。 

「それで七年も銃の中で待ってたって訳?」

 みのりが引き金を引く今日このときまで、ロボは魔法弾となって自らを銃に封じていた。そうなると自分から出ることは出来ないらしい。

「……そんなご大層なものが、なんで側溝に引っかかっていたの?」

 みのりはベランダにブーツを持って出ながら、ロボに尋ねた。

 そう、みのりが魔法銃を拾い上げたのは、雨上がりの泥水が流れる、近所の側溝だった。伝説の武器の隠し場所としては、実にふさわしくない。

「あー、いや、その……それはもう大変な冒険でね。話すと長くなるけど……」

「そっか、じゃ、帰って来てからでいいや」

 やけに歯切れが悪いロボに付き合いきれず、みのりは、そっけない言葉で切り上げた。

 みのりはとんとんとブーツにかかとを押し込むと、ベランダの淵に飛び乗った。1メートル程の高さを、ステップを踏むように軽々と跳ね上がる。

 みのりが最初にくらった、ロボの光の体当たり。それはみのりの肉体を一時的に超人化する魔法弾「エンハンスブリット」だった。ロボが、所有者として契約した証に、そして所有者に魔法の力を証明して見せる為に与える、最初のプレゼントなのだという。

 エンハンスブリットは撃たれた人間の耐久力、運動能力、反射神経、そして視力を数倍に引き上げる。データ上は並のスーパーヒーローと遜色のない戦い方が出来るはずだ。

「ちょっと跳ねただけで、天井に手が届くんだもんね」

 とはいえ、エンハンスブリットの効果も万能ではない。まず効果の継続時間が一時間ほどしかない。視覚を除いた四感は生身と同じ。痛覚は身体の耐性が上がったおかげで逆に鈍くなる。もちろん、頭の中身もそのままだ。経験の無さが補われない以上、万引き犯一人見つけたこともないみのりに、ひとかどのヒーローの働きが出来るわけはない。

 しかし何より問題なのは、姿がみのり自身のまま変わらないということだ。正体を隠すためには、自分でコスチュームを工夫しなければならない、ということになる。

「こういうのって、普通コスチュームもセットになってるものよね」

 みのりはハチマキを目元にあて、くっせ毛のショートヘアを押さえながら、後頭部で縛って留めた。黄色いハチマキに開いた二つの穴から、みのりの丸い目が覗く。即席のマスクだ。

「マンガやアニメのようにはいかないさ。それに、その姿も悪くないよ」

 ロボは軽く褒めて、みのりの愚痴を受け流した。

 トップスはデニム地のシャツ、ボトムはジーンズ。ぶかぶかのカウボーイハットをはすに被り、足元はレザーのブーツ。そして上半面を覆う黄色いマスク。

 銃使いだから、ウェスタン。安直だろうとなんだろうと、正体を隠すためにも、気分を高める為にも、非日常な格好が必要なのだ。

「へへっ」

 みのりは気恥ずかしそうに笑う。

「それはともかく、本当に今から行くのかい」

 ロボはみのりの目線までぱたぱたと飛んできて、尋ねた。そろそろ日付も変わる頃合だ。

「確かにエンハンスブリットの効果時間は一時間だけど、まだ何発でも造れるんだよ?」

 ロボの管理者としての主な仕事が銃弾の補充だ。呪文を唱えて行う銃弾の練成と装填は、ロボにしか出来ない魔法の作業である。逆に言えば、装填さえしておけば、ロボがいなくてもいつでも使えるということだ。

「どうせ気が昂ぶって寝られないよ! 誰のせいだと思ってるのさ」

 みのりは軽く口を尖らせて、ロボの鼻をつつく。

「それはそうだけど……」

 小さな前足で鼻をかばいながら、ロボは、ぼそぼそと口ごもる。

「じゃあ、いくよ!」

 みのりはちょっと声をひそめて合図し、銃を持つ右手を上げた。

 呑んだ息を止め、狙いを定める。街灯のわずかな光の中でも、増強された視覚が、目標となる対面のマンションをはっきりと捕捉する。みのりの部屋は六階、足をかけた手すりを一歩踏み違えば約20メートル下まで真っ逆さまだ。

 息を止めたまま、引き金を引いた。

 ラムネの栓を開けたような軽い破裂音とともに、灰色のゴムに似た塊が伸びてゆき、十数メートル離れたマンションの壁へ一直線に向かう。尖端がコンクリートの壁面にびしゃりと張り付くと、ゴム状の物体は、隣のマンションと銃とをつなぐ細くて長いロープとなった。

「ちょっと、大丈夫なの、これ?」

 そう言いかけたみのりの体が、出し抜けに宙に舞った。ゴム状のロープは、やはりゴムの様な収縮力でみのりの体を引っぱっていったのだ。

「うひゃぁああああぁあぁぁぁ」

 みのりは間の抜けた悲鳴を上げて、ゴムが振幅するままに激しく上下しながら、ついに向かいのビルの壁面へとたどり着いた。もとい、貼りついた。エンハンスブリットの効果がなければ全身打撲ではすまない勢いで、みのりはベランダの腰壁に真正面から激突したのだ。粘着質の弾体に、ゴキブリのように絡め取られなかったのが、不幸中の幸いだった。

「大丈夫?!」

 ロボが慌てて飛んできた。

「う~、鼻血出そう」

 痛む鼻を押さえて、急いで体勢を立て直す。ぶつかった時にかなり派手な音を立てたので、中の住人に気づかれたかも知れない。

 みのりは壁面を思い切り蹴ると、「ゴムロープ」を使って振り子のように上階のベランダへ跳び上がる。今度は軽くふわりと……みのりの踵はベランダのふちを外れ、むなしく宙を蹴る。慣れないブーツで、思うように足先が動かない。

 空中で必死にばたつかせた左手が、ようやくベランダの手すりに引っかかった。右手は下からゴムの力で引っぱられる。みのりが引き金を軽く引くと、「ゴムロープ」の根元はするりと銃口から抜け落ちた。張力がなくなると、みのりの体は嘘のように軽くなった。とても左腕一本で体重を支えているとは思えない。

 みのりはすぐに、屋上に銃口を向けた。再び栓の抜けるような音が響いて、灰色のロープが伸びる。先端が、十階建てマンションの頂上に貼りついた。ベランダの腰壁に足をつけ、反動をつけてジャンプ。勢いよく引き上げられたみのりの体はいったん、屋上のさらに上へと振りあがり、今度こそふわりと着地した。

「これがグルーブリット。どう? 大体、感じは掴めたかい」

 ロボはそう言うと、ビルの壁面沿いに羽ばたきながら下り、ガムのようにべったりと張り付く弾体に近づいた。ロボが前足でちょんと触れると、灰色の弾体は霧のように輪郭を崩し、跡形もなく分解する。

 階下を覗き込むみのりは、おおー、と驚きの声を漏らした。

「グルーブリットは、放っておいても三十分くらいで消えるけどね」

 ロボは、みのりの感心ぶりに満足げな様子で上昇してきて、彼女の肩にちょこんととまった。

「ちなみに、君の増強された体力なら、この高さから落ちても死ぬことは無いけど……」

 ロボは短い前足で地面を指し示す。慌てて飛び跳ねていたさっきはともかく、こうして落ち着いて30メートル先の地面を覗き込んでいても、みのりは不思議と怖さを感じなかった。

「打ち所が悪いと骨折ぐらいはするから、気をつけた方がいいよ」

 さらりと言うロボに、みのりは、うええ、と大げさに顔をしかめて見せた。

「さて、どうしようか」

 こうして夜更けに家を抜け出したのは、とりあえず銃の使い方を覚えるためだ。

 まあ、それ以上にみのりが今すぐ銃を使って見たかった、という事情もあるのだが。

「とりあえず、この辺をぐるっと回ってみるかい?」

「じゃあさ、駅前まで行こうよ!」

 みのりの言う駅前とは、みのりのマンションから歩いて十分ほどにある、ゆりかもめの有明ニュータウン駅のことだ。この屋上からでも、ホームと、その周辺に並ぶコンビニや飲食店の看板が見て取れる。

「ちょ、ちょっと遠くないか? それに人通りも多いし……」

「何言ってんのよ、人がいなかったら悪党だっていないじゃない」

 あっけらかんと答えるみのりに、ロボはあんぐりとあごを落とした。

「なんだって? これからすぐに人を撃とうってのか!」

「悪党がいればね!」

 ひとすじ跳ねた前髪をなびかせて、みのりは駆け出した。グルーブリットを屋上の縁に当て、そのままバンジージャンプの要領で住宅街の屋根の波間へと急降下していく。

「ま、待って、まだ早すぎるってば!」

 ロボも振り切られまいと、みのりを追って羽ばたいて行った。

    ***

「な、わかったろう?」

 ロボの言いようは、いかにも、したり、といった調子だった。

 夜12時半。みのりが部屋を飛び出してから、三十分が経とうとしていた。

「引ったくりだの強盗だの、そうそう何処にでもいるもんじゃないんだってば」

 みのりとロボは、この時間まで駅前商店街の屋根の上をうろちょろしながら、めぼしい犯罪者を探し回っていたのだ。

 もう、駅の出入り口を流れる人の数もまばらで、時には柄の悪い若者や、泥酔した酔っ払いがいるにしても、ほとんどは善良な勤め人のようだった。

 いかに近年治安悪化の一途を辿ると噂される都内とはいえ、閑静な住宅地の駅前でいきなり暴れだす不良や犯罪者、ましてあからさまに奇妙な姿の怪人など、そうそう居るわけがない。

「ヒーローってのは、何かあったときにだけ、その力を振るうもんじゃないか?」

 ロボはそう言ってみのりに帰るように諭す。初めて使う魔法の銃を撃ちたくてしょうがない、というみのりの興奮は、ロボのみならず誰の目からも明らかだろう。

「いやよ、私は有明の守護者になるんだから!」

 クライムファイターとして分類されるヒーローは、たいてい定期的に地元地域をパトロールしているものだ、というのが、世間一般の理解になっている。

 どうやらみのりも定期的に、屋上伝いに住宅街を走り回りたいらしい。

「この銃で、悪いやつみんなぶっ飛ばしてやるんだ!」

「……やれやれ」

 いきまくみのりの顔を見て、ロボは小さな肩をすくめた。

 これではまるっきり憂さ晴らしだ。正義の味方もなにもあったものではない。

「まぁ、練習だと思えば悪くないか……」

 ロボはぼやき半分つぶやいた。一応、これでみのりの言うことを認めたことにする。

 そんなロボの困り顔をよそに、足元の人通りをねめつけていたみのり。その前髪が、ぶかぶかの帽子の下で、ぴょんとひとすじ跳ね上がった。

「あれ? ママ?」

 みのりの強化された視力が、駅から吐き出される人々の中に母親、早苗の姿を捉えた。

「やばい!」

 みのりは慌てて駆け出した。さすがに外出中とばれたら、母から小言も出る時間だ。

 慌てふためいたせいか、みのりはまたも屋根の縁から足を踏み外し、二階分5メートルほど転げ落ちることになった。

 明日からブーツはよそう。それがみのりとロボの、とりあえずの結論となった。



第3章 「スカルナイトΣ」


昭和59年1月3日 火曜日


 東京湾に巨大な岩礁が忽然と姿を現したのはこの日の夕方である。

 まるでサザエのような三角錐のごつごつした岩塊は、そのいたるところに、これまたサザエの殻の角のように、無数の砲身を、全方位に向けて突き出していた。

 岩礁の全周はおよそ2キロ。くまなく張り巡らされた砲塔の間には、巨大なものから等身大のものまで、人に似た奇怪なシルエットがいくつも並び、対岸のビル街を睥睨していた。

 東京湾上の巨大な異物に気づいた海上保安庁は、CODE《コード》、すなわち「対大規模災害・対超常危機国際管理機構」へと緊急連絡。前後して、首都圏に大規模な電波ジャックが発生した。

 東京中のブラウン管に姿を現したメッセンジャーは、異様な姿をしていた。中年をわずかに過ぎたその男の顔に浮かぶ険しい面持ちの上には、歌舞伎の「土蜘蛛」のような隈取が施され、顔以外の全身は、機械の鎧に覆われていた。

「われらタイタンの地底要塞都市は、今こそ浮上する」

 男は冷厳な声で宣言すると、続けて24時間以内の降伏を日本政府に勧告した。

 タイタン――それは、昭和40年代の半ばから日本を脅かしてきた奇怪なテロ組織だった。

 外宇宙人の謀略によって生み落とされた、恐るべき秘密結社であるこの組織は、汚染海域から発生するミュータントと、自ら継承してきた超古代技術の数々を用いて、地球文明を支配すべく闇の世界から干渉を続けてきた。その暗闘が、ついに最終局面を迎えたのだ。

 CODEはその権限において、協力体制にある日本中のスーパーヒーローを即座に招集した。

 怪獣退治のプロフェッショナル「CODEレッドチーム」、新興パラフィジカル技術企業バンドウの誇る超人部隊「セイバーズ」、精密技術が生んだ掌サイズのアンドロイド「コスモジスター」、日本上空に駐在する銀河調停機構の執行官、通称「スターライダー」も、権限を越えて駆けつけた。

 超科学の戦士が次々と集結する中、最も長くタイタンの野望に立ち向かってきた超人たち、「スカルナイト」の四人が招集に応えない。

 なぜ――問うまでもない。

 彼らはこの時既に、この岩礁、タイタンの巨大地下要塞に潜入していたのだ。

 偵察に向かったコスモジスターチームがスカルナイトの一人を発見した時、彼らは既に要塞のメイン動力炉を破壊し――既にその全員が戦闘不能に陥っていた。

「聞こえるか進藤! CODEチームの総攻撃が始まったぞ」

 混濁した意識の中、進藤と呼ばれた男は、瓦礫の中から外骨格の四肢を引き起こされている自分を認識した。引き上げた男の顔は、よく見知ったものだった。

「滝川、何故ここに……」

 進藤は、銀色に光るドクロの仮面の下から、旧知の男の名を呼んだ。

 いや、それは仮面ではない。この姿の進藤にとっては、銀のドクロこそが真の顔だった。

「いちゃぁ悪いか、バカヤロウ!」

 滝川と呼ばれた青年は、そう言って口を尖らせた。進藤の奇怪な姿に動じる様子もない。

 胴に纏う防弾ベストにつけられたエンブレムが、この男の所属を示していた。警視庁、パラフィジカル犯罪特捜班。二〇代半ばを過ぎたこの青年刑事は、進藤と互いに支えあい、時に立場の違いから衝突しつつも、数々の修羅場をかいくぐってきた。

「正月早々、多恵さんを泣かせるわけにはいかねぇだろ」

 進藤は自らの恋人の名を聞くと、にわかに意識を鮮明にしていった。

「……すまない」

「その面で謝るなよ、気味悪いぜ」

 滝川は何食わぬ顔で、なおも進藤に毒づく。余裕のあるそぶりを見せてはいるが、滝川は進藤と違い全くの普通人だ。その滝川が、自分と自分の恋人の為、危険を冒している。進藤が周囲を見渡す限り、ここはまだタイタンの要塞、敵地の只中なのだ。

 滝川の肩に、10センチほどの小さな人影が現われた。電子機器と融合する能力を持つ極小のヒーロー、コスモジスターの一体だ。滝川に何事か話しかけている。

「仲間がお前のバイクを運んでくるとよ。アレがなきゃ落ち着かないだろ?」

 滝川は進藤に向き直り、歯を見せて笑んだ。

 進藤が、ようやく自力でその身を起こそうとしたその時。

 ずらりと、斬撃の音が響いた。何が起きたか判然とせぬまま、滝川がうめきを上げて倒れる。背中の防弾ベストがざっくりと切り裂かれ、血が滲んでいた。背後の襲撃者に気づいたコスモジスターは、超馬力で自分の十倍以上も背丈ある滝川の体を引きずり、襲撃者との距離を取る。

「小バエを追えば、その先、新鮮な屍が手に入ると思っておったが……」

 滝川の背後にあった影から、その鋭く尖った鋼の爪に血を滴らせ、襲撃者が歩み出た。

「これは望外の獲物であったな」

 時代がかった言葉と共に姿を現したのは、奇怪な人影であった。機械と黒い羽毛に覆われた巨躯に、金属質の鋭い手足を生やし、厚い胸板の上に乗る頭は、大きな烏のそれだ。

「妖械奇人……サーベルクロウッ!」

 進藤が、わななく声で怪人の名を叫んだ。タイタン地底要塞を守る精鋭怪人の一人にして、進藤を過去、幾度も苦しめた強敵。その正体は機械化された古代の魔剣だという。

 烏の目が嘲りに歪むのを見て、進藤は、狂おしい雄叫びと共に立ち上がった。

 怒りに燃える赤い眼窩。銀色に鈍く光るドクロの仮面。全身を覆う黒と銀の外骨格。

 掌から走る緑の電光は実体化し、二振りの剣を成す。

 人呼んで、スカルナイトΣ。


平成17年5月20日 金曜日


 有明ジオフロントの中心地にある文化施設群の外れに、有明で最も古い歴史を持つ中学校、東京都立臨海第一中学校がある。周囲には古い宅地が広がり、敷地の背後、西側にはすぐ臨海緑地公園が広がっている。

 臨海一中といえば、ここ十数年の間、都内でも五指にはいる「荒れた」中学校として有名だった。それが去年から生徒の補導数が急速に減ってきたのは、ひとえに現生徒会の地道な努力と斬新なアイデアがあってこそ、と評判を集めている。

 生徒会が中心となって行う防犯活動には大別して二つの方式があり、各クラスから二人ずつ選出される総務がその実施を担っていた。まず総務の第一の仕事は、校内外での生徒への声かけと挨拶の励行、学区内の繁華街での生徒見回りなどといった、地道な啓蒙活動だ。

 そしてこの学園生徒会を特徴づける、もう一つの仕事が、実力をもっての校内の治安維持である。この中学の生徒会は実質自警団化しており、総務を担当する各クラス二名の生徒は、一人がクラス内の投票、もう一人が生徒会による格闘能力の評価を基準に選抜されるのだ。彼ら格闘能力に長けた総務生徒が、治安維持担当として、校内での暴力的な揉め事を実力行使により解決していくのである。

 むろん、腕っぷしだけを基準に選定された生徒達は必ずしも真面目な生徒であるとは限らない。いやほとんどの場合、生徒会活動など、とても似つかわしくない筋金入りの不良たちだ。それが選抜されてひと月もすると、毎朝校門に立って、おはようございますとヤケまじりの朗らかさで挨拶運動に取り組む様になる。

 彼らの更正の秘訣は、ひとえに生徒会の陣容にあった。

 喧嘩上手の書記、狡知に長けた会計、武芸百般と噂される生徒会長。皆、物腰は穏やかな普通の生徒であるにもかかわらず、校内に並み居る不良たちの誰一人として敵としなかった。

 そればかりか、いずれも眉目秀麗な男子生徒たちであり、彼らに寄せる女子の圧倒的な支持もこの生徒会を支える原動力の一つとなっていた。

 つまり、あらゆる点で不良たちは生徒会執行部に敵わないのだ。

 その綺羅星のごとき生徒会にあって、ひときわ文武に秀で、その胆力と誠実さで人望を集めていたのが、身長145センチの小柄な少女。生徒会副会長、進藤香織。二年生である。

「いたいた、進藤!」

 武道場で剣道部の乱取りを見ていた香織に、書記の少年が声をかけた。香織と同学年で、162センチほどの小柄だが剽悍な男子生徒だ。

 小学校時代すでに、真っ赤な髪もとげとげしい武闘派の不良少年だったが、入学式早々、同じ新入生の香織に投げ飛ばされて以来、すっかり健康優良児となっている。

「なんです?」

 剣道着に身を包んだ香織が、きょとんとして書記を見上げる。

 長くたおやかな黒髪。まっすぐ切りそろえた前髪から、わずかに額をのぞかせた髪形は、いかにもお嬢様然としており、古風な立ち振る舞いも併せて、育ちの良さを感じさせた。

 一見するときつく見える切れ上がった目元も、香織の整った顔立ちに気品を与えている。

「なんです? じゃないって。放課後、一度は生徒会室に顔出してくんないと」

 腰に手を当て、香織をとがめる書記の後ろから、続いて三年の会計が顔を出した。

「武道場にいれば我々が探しに来るからいいだろう、なんて思ってないでしょうね」

 彼は書記と対照的に180センチを超す長身の持ち主だ。丸いメガネが優等生らしい雰囲気をかもし出す。気性の荒い書記に比べて、両極端というほど落ち着き払っている彼も、昨年までは少年窃盗団を仕切っていた頭脳派の不良だった。そんな彼を追い詰め、説得し、ついに窃盗団を壊滅させたのが、総務になったばかりの下級生、香織だ。

「……ごめんなさい」

 かつての仇敵も、今では信頼する先輩だ。香織は、はにかんで会計に頭を下げた。

「ほら! 先輩、俺の言ったとおりでしょ」

 書記はそう言って会計に胸を張る。したり顔の後輩を、掌ひとつで制し、会計は香織の前の板間に腰を下ろした。その隣に書記もどっかと座り込む。

 正対するやいなや急に真顔になる二人に、香織も声を正して問うた。

「一体どうしたんです? 急ぎのようでしたが」

 二人の話に耳を傾ける香織の顔に、にわかに緊迫の色が浮かぶ。

 話というのは、校内でドラッグが流通しているという噂だった。

 香織が入学したばかりの頃にも、校内で半ば公然とドラッグが出回っていた。それを香織たちがしらみつぶしにルートを押さえ、また、外部の流通元が警察の摘発を受けるなどして、少なくともドラッグが校内で売買されるという状況は覆されたはずだった。

 それがどうも、また新たな密売買のルートが開拓されたらしく、ごく少数ながらも危険度の高い薬品が出回っているらしい。

 香織はしばらく思案すると、こう答えた。

「なるほど、そういうことなら私の方から警察に相談して見ます」

「あ、あの生活課のおじさんって人?」

 書記の言った「おじさん」とは、香織の血縁らしい実年の警察官だ。臨海署生活安全課の職員という肩書きもあって、この臨海一中のトラブルに、常々相談に乗ってもらっている。

「何者なんです? 私はあそこまで眼光鋭い生活安全課の警官見たことありませんよ」

 不審を表すように、会計の丸眼鏡が鋭い光を放つ。

「はは、まぁ、いろいろな部署を渡り歩いている人ですから」

 香織は乾いた笑い声を立て、頬をかいた。それから再び真顔に戻る。

「とにかく、刑事事件に関わることです。くれぐれも内密に」

 言い含めるように二人を見回す。神妙に頷く生徒会の同僚を見て、香織は思い出したように尋ねた。

「会長にこのことは?」

 書記と会計は互いに顔を見合わせる。

「一応言っといたんだけどねぇ」

「香織君に相談しろ、で済まされました」

 香織の小ぶりの唇に、また乾いた苦笑いが浮かぶ。

「あの底の抜けた笑い顔を目にすると、十五年間なにも考えず生きてきたんじゃないかと思えてきますよ」

 会計は吐き捨てるでもなく、淡々と言い放った。

 随分な言われようだが、この会長も学力、スポーツ共に優秀な好男子だ。幾つか武道も嗜んで、腕も立つ。ただ、何でも人任せにしたがる性格のため、有能とは思われにくい男だった。

「まぁ、あの人なりに適性を考えているんでしょう。適材適所ってことですよ」

 香織が庇うとおり、会長の性格は前線向きではない。ぐうたらな分、人の扱いが巧みな会長は、ある意味、実に指揮官向けの人材といえた。

 噂をすれば影。武道場の入り口から、件の会長の能天気な声が響いた。

「あ、いたいた。香織クーン、ドラッグの事なんだけど~」

 一同、無言で頭を抱えた。

  ***

 海上の埋立地をつかまえて、有明「ジオフロント」などと呼ぶのは、南端に巨大な地下空間への入り口を抱えているからに他ならない。

 昭和59年に、東京湾上に現れた要塞が機能を停止した後、その地下に更なる巨大な空間が広がっていることが判明した。総延長数百キロに及ぶ、複雑に入り組んだ地下施設は、まさに一大地底都市の様相を成していた。一ヶ月をかけタイタン残党の掃討が終わると、無人となった地底都市に大規模な調査団が分け入った。

 さらに数ヶ月を要した一次調査の結果、この地底都市にまだ多くの超兵器や超発明が埋もれていることが明らかとなった。パイプ一本、ボタン一個に至るまで現代の一般技術を凌駕する、これらパラフィジカル技術の産物が流出すれば、社会的な混乱は免れない。

 さらに問題だったのは、この地下空間が、定期的な補修が無ければ、一年と待たず崩壊する不安定な代物だと判明したことだ。CODEはすぐにこの地下空間の整備を決定したが、いかんせんその作業にかかる膨大な人員と予算の捻出に頭を抱えた。そこに協力の名乗りを上げたのが、バンドウやスザクといったパラフィジカル技術を擁する企業群であった。

 整備事業に参加する各社の共同で、タイタン遺留品の発掘と分析の為の研究所が設立された。むろん、見返りなくてのことではない。研究所で得られた成果を参加企業の中で山分けするのが第一の目的であった。

 莫大な資金を得て、発掘と地下整備の作業が始められた。有明の埋立地は延長され、要塞頂上部を取巻く足場に接続された。鉄道が延長され、専用の桟橋が造られ、研究施設が、発掘作業所が、倉庫が、工事作業員の宿舎が、さらにその作業員を対象とした商業施設が作られ、有明埋立地の住宅地南端に、瞬く間にもう一つの都市が出現したのだった。

 この計画自体の名称「有明ジオフロント」は、やがてお台場まで含む、有明埋立地全体の名称として定着することになる。新興住宅地と港湾施設しかなかった有明に、東京有数の繁華街が誕生したのは、実に悪の巨大要塞がきっかけだったのだ。

 中央通りの商店街に比べ、発掘地区隣接の商業地区、通称「地底通り」はいかにも不夜城といった風情の歓楽街で、いささか遵法精神に欠ける飲み屋や風俗店がいくつも軒を連ねていた。

 十年越しの発掘作業が終わり、研究施設が閉鎖された今も、この歓楽街の賑わいは衰えることが無かった。夜ともなると、あちらでかつ上げ、こちらで飲酒運転と、小さな悪の種が街中にばら撒かれる、そんな街だった。

 みのりにとっては、まさに絶好のポイントだ。

 この日、適当に理由をつけてクラブを休むと、みのりは中央通りを飛び回って、サイズの合うテンガロンハットとレザーベストと、後ろ髪を伸ばすエクステウィッグとを見繕った。

 塾では、朝からそわそわと様子のおかしいみのりを気にして、鷹森があれこれ聞いてきた。対するみのりは、あいまいな返答でお茶を濁し、鷹森をふりきって1人で塾を出た。

 そしてまっすぐ、この地底通りにやってきたのである。

 そろそろ午後9時。制服姿の女子中学生に、時折、下卑た男達の視線が向けられる。身長146センチ。こんなちんちくりんの自分に、いったいどんな欲望を掻き立てているものか。男達のいやらしい目つきは、みのりには不快にしか感じられない。

 そもそも、みのりはどうも異性というものに興味が持てないでいた。別に自分が特殊な恋愛感覚の持ち主だ、などとは、もちろん思っていない。

 ただ、女友達との人間関係にすら胃の痛む思いをしているみのりには、幻想的に異性を語ったり、生臭い恋愛に汲々としたりしているクラスメイトの感覚が、どうにも理解できない。

 ――そんな面倒な思いをしなくても、うちじゃ平和に暮らしてきたじゃないか。

 男の視線を避けるように、いそいそと路地裏に身を隠すと、通学用のバックパックからごろりとした銃を取り出した。魔法銃アガトダイモーンである。周囲をうかがい、人の目が無い事を確認してから引き金を引く。

 昨夜と同じように、銃口から金色の光と共に光球が躍り出て、小犬の形を現しながらみのりの胸に飛び込んだ。光に覆われると共に、一瞬みのりの感覚は消える。それからすぐに体が軽くなり、活力が全身に満ちる。代わりにロボの身を覆う光は収まっていく。

「このまま変身完了といけばカッコいいんだけどなぁ」

 みのりはとりあえずマスクだけつけると、上に向けてグルーブリットを放った。弾頭が六階建ての雑居ビルの屋上に貼りつき、伸びた弾体の復元力で、みのりの体は上方に勢いよく引っぱられる。

 屋上に着いて、きょろきょろと周囲の様子をうかがっているみのりに、ロボが追いついた。

「まぁまぁ、どのみち人に見せるものじゃないだろう?」

 みのりの不満は、変装の為の着替えの手間にあった。家から着替えて出て行くときはまだいいが、出先で変身するには大いに悩まされる。

 むろん、みのりも方策を考えていない訳ではなかった。

 着替えの手間が最小限で済むよう、スカートの下にはキュロットをはきこんでいる。上着はベストで済ませることにし、今日仕入れた帽子も、かさばるので家から出動する時だけ使う。これで荷物は銃とベストとマスク、そしてエクステだけになるはずだ。エクステをつけると、長髪をうなじで束ねたような髪型になった。元の髪型とあまり印象が変わらないが、なんとなくウェスタンっぽいと思ったし、なにより、くせっ毛が目立たなくなるのが気に入った。

 制服のブレザーをレザーのウェスタンベストに換え、リボンタイとスカートを外す。脱いだ制服はバックパックに詰め込み、詰め込んでから「しまった、しわになるじゃん」と言ってきれいに畳みなおす。グルーブリットでバックパックをこのビルの看板裏に貼り付け、帽子を被ると準備完了だ。

「よし――行こう!」

 みのりはビルの縁を蹴って、元気よく飛び出した。隣のビルの屋上に着地したみのりを、ロボが追いかけ、羽ばたいて行く。

  ***

 それからたっぷり二時間。二発目のエンハンスブリットの効果も切れつつある。

「もう11時近いんだし、いいかげん帰ろうよ」

 ロボが缶ジュースから口を上げてみのりに言った。羽根状の耳で器用に缶を抱えている。

 魔法の生き物であるロボは、本来、生存の為には食事を必要としないのだが、魔法弾を作るときには体力を消耗するので、こうして栄養を補給する必要があった。弾種にもよるが、大体百発に一食ぐらいの割合で済むそうで、今日のところは缶ジュース一本で良いとの事だ。

「まだよ。まだ一人も撃ってないんだもん!」

 昨夜と同じように、みのりは魔法銃アガトダイモーンの餌食となる悪党を求めて、ビルの屋上から夜の繁華街を睥睨していた。地底通りだったら引ったくりや強盗の一件ぐらい、毎晩出そうなものだ。そう、期待してここまで出張ってきたわけだが、そう都合よく犯罪というものは起こってくれない。

「いいかげんにしなよ、気絶させるだけといっても、当たればひどい痛いんだからね?」

 ロボが言っているのは、グルーブリットとは違う、もう一つの魔法弾、「スタンブリット」のことである。電撃の塊となって飛び、当たった相手をショックで昏倒させる武器だ。

 魔法のおかげで、多少当たり所が悪くても後遺症になるようなダメージは与えず、きれいに気絶させられるのが特徴。ただ、ロボが言うように、かなりのショックを感じるらしい。

「撃たなくてすむなら、それに越したことじゃないか」

「わかってるわよ、だから撃ってもいいような悪党を探してるんじゃない」

 みのりは咎め立てするロボの言葉に耳を貸そうともしない。ロボとしてもジレンマのあるところではあった。確かに動く標的を狙わなければ銃の腕前も上達しないだろう。

 だが、すっかりトリガーハッピー、人を撃ちたくてうずうずしているみのりの態度も末恐ろしいところではある。

 苦慮に頭を抱えるロボの耳に、鉄板のぶつかるけたたましい音が飛び込んできた。近くで看板か何かが倒れたようだ。みのりとロボが屋上から身を乗り出して覗き込むと、酔っ払ったスーツ姿の若い男が、取り巻く二人の仲間とバカ笑いしながら、横倒しになった居酒屋の看板を指差していた。どうやらこの男が蹴り倒したようだ。酔っ払いの群を避けて歩く通行人の不快感が、ビルの上で見下ろすみのりにも伝わってくる。

 みのりはにやりと笑みを浮かべると、おもむろに銃を構えた。

「まっ、待ってよ!」

 ロボの引き止める間も有らばこそ。みのりはためらいも無く引き金を三度引いた。ジッ、という音と共に、銃口に電光が走ったかと思うと、眼下の酔っ払い三人の背に一瞬、小さな火花が散り、同時に三人、どう、と路上に崩れ落ちた。

「器物の現行犯よ!」

 ガッツポーズを決めると同時に、みのりの前髪がピンと跳ね上がった。

 その足元では、通行人の間にざわざわと囁きあう声が広がっていた。

 酔っ払いが急に倒れた所しか見ていない通行人が、頭上の狙撃者に気がつくはずも無い。危険が無い事を悟ると、彼らはまた倒れ伏した酔っ払いたちを遠巻きに避けて歩き出した。

「ソンカイだっけ?」

 みのりは首をひねった。その背後ではロボが眉根をしかめてみのりを睨み付けている。

「ただの酔っ払いじゃないか!」

「何言ってるの。もし店の人が出てきたらどうなってたと思う? 下手したら暴力沙汰よ」

 大声でいさめるロボに物怖じもせず、みのりはさらりと言い返した。

「そうでなくても、看板壊すなんて立派な犯罪じゃない。ほっといたら、あのまま逃げ出してたのよ。悪が正されず放置されてたのよ?」

 みのりは腰に手をあて、詰め寄るようにロボに顔を迫らせた。

「それは……まぁそうだけど」

 ロボはただただ口ごもった。すっかり気圧されている。

「じゃ、次、行きましょ!」

 みのりは思案顔のロボに構わず駆け出すと、ビルを次々に飛び越えて行く。

「よっしゃ! 殴りあう青春の若者たち発見!」

 数人の酔っ払いが見守る中、ふらついた青年二人がどすの利いた声で相手を威嚇し、睨み合っていた。屋上から見咎めたみのりは、すかさず両者にスタンブリットを浴びせる。

 見たところまだ殴り合っている様子は無いが、これもみのりに言わせれば大事になりかねない状況なのだろう。いかつい姿の青年二人は互いに抱き合うように崩れ落ちた。

「ちょっ、ちょっと!」

 追いついたロボが、慌ててみのりを咎めるが、時すでに遅し。

「いいじゃん、喧嘩両成敗よ」

 丸い目をにんまりと細め、みのりはあっけらかんと言い放った。

 ロボはあきらめ半分ため息を吐くしかない。

  ***

 みのりが始めて分け入った地底通りの一夜。

 その闇は、みのりの想像を超えてなお深い。

 二〇代半ばといったところだろうか、ウィンドブレーカーに身を包み、いかにもチンピラといった風情の茶髪の男が、暗い路地裏を必死の形相で駆けていた。ビルの隙間に溜まる生ゴミを踏み越え、たかっていたネズミやカラスを蹴散らして走る。

 男が振り返ると、街のネオンを背にして小柄な人影がくっきりと輪郭を現した。その影の頭部に二つの角を認めると、男は、ひいと短く悲鳴をあげ、もつれる足をどうにか加速させる。

 人影は男との距離を目測すると、その右手に緑色の光る日本刀を出現させた。小柄な人影は短い助走の後、跳躍。一気に男の前に回り込む。目を剥く男の前で、光の剣は円月を描き――

 息を呑む間もなく、したたかに男を打ち据えた。

 気を失った男を見下ろす人影は、懐から携帯電話を取り出し、コールボタンを押した。

「スズカです。売人を捕らえました」

 ネオン灯が浮かび上がらせた姿は、昨夜みのりが見た、斬鬼のスズカその人であった。

 わずか半日の調査で違法薬品の売人までたどり着いたスズカだが、所詮、末端の一人を捕えたに過ぎない。組織の全貌はまだ闇の中に沈んでいる。

 地底通りの一夜。慣れたスズカにとっても、それは未だに深く広がっている。


平成17年5月21日 土曜日

 大清中学校はいつもどおりの土曜日を迎えていた。一時間目、数学。教師が机の間を見回って歩く中、生徒たちは、黒板に書かれた例題を写し取り、解法に頭を巡らせる。歴史は浅いが名門私立の一角に名を連ねるこの学園で、授業中に気を散らす生徒などそうはいない。

 ましてや、ノートに落書きをする者などいるはずもないのだ。

「お前、絵はダメだなぁ、春日井ぃ」

 年配の数学教師の声が、思いがけなく耳元で聞こえたので、みのりは驚いて頭を上げる。目の前に、みのりのノートを覗き込む教師の顔があった。

「あー、それから、その計算も間違ってるからな」

 周囲の生徒がくすくすという笑い声を立てる中、丸めた教科書でみのりのつむじをぽんと叩くと、教師は教壇へと戻った。

 みのりはノートの端の落書きに、慌てて消しゴムをかける。見る間に消えていく不恰好な人物像は、かなりひいき目に見れば、西部劇のガンマンと見えなくも無い。

「春日井さ、絵が下手なんだから落書きなんてしなきゃいいんだよ」

 休み時間、みのりをからかう古沢の言葉も遠慮がない。古沢の席の前に立つみのりは、苦笑半分の愛想笑いを浮かべて頭を掻くしかない。

「つーかさ、珍しいよね。春日井いつもは落書きなんてしないのに」

 傍らに立つ鷹森は、不思議そうにみのりを覗き込んでいる。

 鷹森をはじめとする取巻きたちが、古沢の席を囲んでおしゃべりに興じる中に、みのりも座を占めていた。これは単なる他愛の無いおしゃべりではない。古沢と自分との距離を測る、重要な場であり、同時に、ひとつ間違えば古沢の不興を買いかねない、危険な場でもあるのだ。

「いやぁ、こう、きゅーに絵心がふつふつと……」

 そう言って、みのりは絵筆を握る真似をして、真面目くさった顔をした。こんな時は道化に徹するのが一番だ。周りの皆は、苦笑しながら首や手を振って、やめとけという意思表示。

「そういや、絵が異常に上手かったよな、ヤツ」

 古沢の何気ないひと言に、みのりのとぼけ顔が凍りつく。

 古沢は頬杖をついて、真紀の席に、今は誰もいない席に顔を向けていた。

 遠い目で、昔話でもするかのようだ。

「アイツ、どうしたんだろう?」

 後ろめたさを微塵も感じさせない古沢の口調に、みのりは心底、怖気を覚えた。皆、どう感じているのだろう。取巻きたちの口の端に浮かぶのは、苦笑なのか、嘲笑なのか、それとも、みのりと同じ、引きつった愛想笑いなのか。

「そ、そうだね、長いよねぇ。風邪」

 引きつりながら、みのりは相槌を返す。周りの何人かが、くすくすと鼻で笑った。誰が、何人が笑ったかなんて、数えたくも無い。

 そんないやらしい薄笑いは、目の前の古沢一人だけで、たくさんなのだから。

  ***

 みのりの学校は週六日で、土曜日も午前授業になっている。

 今日は部活から塾までに時間があったので、家にロボを迎えに行き、私服に着替えた。

 看板の照明が照らしだす、今のみのりの変身姿は、通塾時に来ていたシャツとジーンズに、マスクとエクステ、それにベストを加えただけの簡単なものだ。

「やっぱり、マスクは一から作り直そうかなぁ」

 ほつれ始めた目出し部分を指でなでて、みのりは言った。

「……みのり、まだ話は終わってないんだけど」

 対するロボはさも不服そうに、みのりを睨む。

「しつこいなぁ、同世代なんだから分かるの!」

 先刻からロボが食い下がっているのは、みのりが一人の中年男を撃った事についてだ。

 みのりと同世代らしき少女を同伴してカラオケボックスから出てきた男を、「援助交際だから」といって撃ったみのりと、「証拠が無い」と言って叱るロボとが、当のカラオケボックスの屋上でかれこれ十分ほど激論を戦わせていたのだ。ちなみに、同伴していた少女は、男が気絶するとあっさり逃げ出したので、どうやらみのりの方に分がありそうだ。

 みのりの方はとっくに議論する気など無くしているが、ロボはまだまだ納得していない。

「あ、ごめん、電話」

 ロボの小言を遮って、みのりは腰のポケットから携帯を引き出した。母親からの電話だ。友達と中央通りで食事している、と言って、みのりはごまかす。

 今帰るからと言って電話を切り、ロボに振り返った。急かされた様子である。無理もない、時間は夜の10時をとっくに過ぎているのだ。

「えーと、なんだっけ?」

「もういいよ……」

 ロボはただただ、ため息をつくだけだ。

「あっ!」

 ロボのボヤキをかき消すように、みのりが素っ頓狂な声を上げた。

「やば、塾にテキスト忘れてきちゃった」

「明日の朝でもいいじゃないか。塾は明日も開けてるんだろ?」

 苦い顔のみのりに、ロボはやれやれという表情を浮かべて言った。

 気が急いていたのか、みのりは装備一式の入ったポーチだけ持って出てしまったのだ。

「んー、めんどいしなぁ」

 みのりは引き金ににかかった人差し指を頬にあて考える仕草をする。数秒考え込んで、それから銃を力強く振りあげた。

「よし!」

 その自信ありげな表情を、ロボは不安そうに見つめていた。

 数分後。

「だから言わないこっちゃ無い」

 ぼやくロボの視線の先には、大慌てでビルの屋上を駆け抜けていくみのりの姿があった。

「何で四階の窓に警報機が仕込んであるのよ!」

 そう言って走るみのりの背後では、防犯警報が鳴り響いている。警報の発信源はみのりの通う進学塾だ。

「君みたいに、屋根の上を歩き回る奴がうじゃうじゃしてるからだろ」

 ロボは皮肉を言って、みのりの軽率さを責める。

 みのりは忘れ物を取りに行くのに、教室のある四階の窓から忍び込もうとしたのだ。開いている窓を探して見たが、そう都合よく閉め忘れの窓などあるはずも無い。それであきらめて帰ればいいものを、力任せに強引にこじ開けようとしたのだ。その結果が、この有様である。

「正義の味方なのに~」

 この、みのりの泣き言には、ロボは冷ややかな視線を送るばかり。

「うわ」

 間の抜けた驚き声と共に突然、先を行くみのりが急停止した。止まりきれず、しりもちをつくみのりの煽りをくって、ロボも後ろに吹き飛ばされる。

「ごめんごめん、おねえちゃん大丈夫?」

 そう言って、みのりに右手を差し出す少年こそが、みのりの行く手にひょっこりと現われた障害物だった。みのりが飛び越えようとした屋根の上に、この少年は登って来たのだ。

 声変わりも済んでいないかのような、幼い声色だ。背丈も、みのりより頭半分大きいくらいだから、小柄の部類だ。左手は何か小物でいっぱいになったビニール袋をぶら下げている。ちらりと顔を見上げると、目深にかぶったパーカーのフードのせいで口元しか見えない。

「な、なんでこんな屋根の上に飛び出して来るのよ!」

 みのりは少年の差し伸べた手を取ろうともせず、しりもちをついたまま口を尖らせた。

「そりゃ、おねえちゃんもおんなじじゃんよ」

 少年はそう答えると、行き場を失った右手を、ひらひらさせながら引っ込めた。

「わ、私は……」

 同じ、と言われてみのりは当惑した。ここで走っていた経緯を見ず知らずの相手に話すのは多少ならず問題があった。

「ひょっとして、おねえちゃんもご同業?」

「スーパーヒーローってこと?」

 少年の馴れ馴れしさに戸惑いつつ、みのりは立ち上がりながら聞き返した。

 その、みのりの言葉を聞くや、少年はいきなり吹き出した。

「それまじ? ひゃは、腹いてぇ」

 確かに少年の風体は、グレーのパーカーにジャージをだぼだぼと着こみ、片手にはどこかのディスカウントショップのビニール袋と、およそ繁華街の悪ガキ以上の者には見えない。

 腹を抱える少年に、みのりは頬を真っ赤にして膨らませた。

「な、なによ、あんたこそ、コソ泥かなんか? そういうことなら痛い目にあわせるわよ」

 おもむろに突きつけた銃口の後ろから、みのりは少年を睨みつける。

「おいおい、別に俺は悪いことなんかしてないぜ?」

 少年は両手を上げて降参のポーズをとった。とは言え、さほど狼狽した様子も見せない。悪びれない口調のまま、思い出したように少年は言った。

「まぁ、こうして人様の家の屋根歩いてるだけで、住居不法侵入っちゃそうなんだけどよ」

「ええ?!」

 今度はみのりが、ひどく狼狽した声を上げた。その声に弾かれ、前髪がぴょんと跳ね上がる。

「……なんだよ今の、ええ?! って」

 少年はみのりの驚きように、呆れた口調で問いただしてくる。

 みのりの陰に隠れていたロボが、混乱しているみのりにダメ押しのひと言を投下した。

「みのり、今のは一応ほんとの事だよ」

「……わ、私はスーパーヒロインだからいいの!」

 困惑しきったみのりの弁明には、まるで説得力が無い。

「ほんと? 自警員登録してる?」

 そう言いながら、少年はみのりを見下ろして、腕組み。

「え、じけーいん?」

 またも、みのりはきょとんとして聞き返した。

「なんだよ、ははっ、ホントに何も知らねぇーんだな」

 少年は腰に手を移し、みのりの顔をマスク越しに覗きこんだ。

 フードの下に覗く顔はまだあどけなさを残し、無邪気な笑みを浮かべていて、意外に可愛い。

 みのりは動揺と羞恥に耐えかねて、跳ねるように立ち上がった。

「と、とにかく、あんたの相手してるほど暇じゃないの。じゃあね!」

 やっつけな捨て台詞を残し、みのりは夜の街並へとまっしぐらに駆けていった。ロボも慌ててみのりの後を追いかける。

 少年が、夜景のはざまにに消えゆく一人と一匹の影を見送っていると、腰の携帯電話がマナーモードで唸った。手に取った携帯の画面から顔をあげ、みのりの去った方角を見やり、少年はつぶやく。

「ま、俺もそんなに暇じゃないんだよね」

  ***

「舐められたものだな」

 束ねた黒髪が、夜風に揺れる。

 スズカは、鬼面の下にのぞく桜色の唇を開き、独りつぶやいた。

 遠い夜景を映す東京湾に臨んで、無機質な倉庫の屋根が連なる、有明ジオフロント東岸。

 倉庫の屋根に立つ、スズカの周囲に一つ、また一つと人影が現われた。人影は七つまで増え、ぐるりとスズカを取り囲んだ。

 この時間、この倉庫街に足を踏み入れる者は、そう多くない。

 スズカとて、ドラッグの受け渡し場所があるとの情報が無ければ、わざわざ様子を探りになど来なかった。こういう出迎えがあるところを見ると、情報が正確だったのか、もしくは、おびき出す為のエサだったのか。

 スズカと、それを取り囲む男達の他に動くものといえば、はぐれたカラスが一羽きり。屋根上で剣呑に睨み合う人間達を、遠巻きに眺めていた。

 皆二〇歳前後の若者のようだ。いずれも柄の良くない、いかにも暴力的な風体をしている。ナイフを抜く者、鉄パイプを構えた者、様々な武器を手に、スズカに狙いを定めている。

 体臭がきつい。いや、尋常な汗の臭いではない。全身から異臭を放つ若者達の顔面には、おびただしい数の青筋が浮かんでいる。パラフィジカルの薬品が使われている。おそらくはスズカの追っている増強薬「スタンピード」だろう。とすれば、並みのチンピラよりも、かなり厄介な相手になるはずだ。

 だが、スズカは怖気を見せることは無い。

 ただ、念を入れ、並んだ牙にも似た鋭角的なガスマスクを、鬼面の両端から引き出すだけだ。

 獣じみた咆哮を立て、男達は一斉に躍り上った。スズカの脳天をめがけて鉄パイプが、サバイバルナイフが、バールが次々に降りかかる。

 鉄パイプは倉庫の屋根に大穴を開け、サバイバルナイフは旋風のごとく宙を斬り、バールは鉄骨をぐにゃりと歪め――そして繰り出された七つの凶器の一つとして、スズカを捉えることは出来なかった。

 スズカの姿を探して左右に巡る男達の頭を、光の剣が連続して打ち据えた。男達が殺到した瞬間、スズカはその頭上へと高く跳ねていたのだ。

 二人。延髄、脳天、それぞれの急所を叩かれた男たちが崩れ落ちる。スズカが着地すると、残り五人は手にした武器をデタラメに振り回し、同士討ちもかまわず襲い掛かってくる。

 三人。みぞおち、肋骨の隙間、それぞれ胴の急所を打たれ、嘔吐と共に倒れこむ。柄を通して剣先の感触がスズカの掌に伝わる。肉を打つ衝撃が常人のそれとは違う。薬物によって強化されているのは間違いない。

 だが、人体の構造まで変わる訳ではない。力を加減して急所を叩けば簡単に倒れるものだ。

「……キネティック・ブレード」

 スズカはようやくポツリと武器の名を口にする。自警法に定められたパラフィジカル能力の使用宣告だ。努力規定にすぎないものの、振りかざした能力や武器の名前を叫ぶことは、昔気質のスーパーヒーローにとって一種のたしなみとなっている。

 襲撃者の残りは二人、倒れた味方を踏み越え、スズカに迫る。退却が考えられるほど、理性は働いていないようだ。当然、隙だらけである。一人に一撃ずつ加えれば事が済む。

 スズカが剣を構えなおした瞬間。その腕を、鈍い、丸みを帯びた、正体不明の衝撃が襲った。

「つっ!?」

 スズカの腕から力が抜けた。掌から放射される光で形成された剣は、取り落とすことが無い。

 だが、間がずれた。

 剣を打ち込むことは出来ず、振りかぶられた鉄パイプを避けるだけで手一杯になった。

 スズカは鉄パイプを構えた男二人から跳び退り、大きく間を取った。不意の攻撃者を探すスズカの背筋を、さらに鈍痛が襲った。右腕、左腿、石つぶてのような鈍器がスズカの全身を襲っている。身を包むマントとタイツ状のボディースーツが衝撃を減らしてはいるが、戦闘時の集中力を削ぐには十分な打撃だ。弾体は銃弾ほど小さいものではなく、銃弾ほど速くもない。何種類かの色のものが、遠い街灯の光を受けて、カラフルな残像を引きずり舞っている。

 銃弾の軌道を見切るスズカの目が、この小さくも速くもないつぶての動きを追えない。

 その動きは幻惑するかのように混沌として、正確な認知を拒む。まるで極彩色の小さな竜巻だ。手を触れずに精神の力で物体を動かす、いわゆる念動力か、魔法の類――否、ならばスズカはその気配を読み取れるはずだ。

 集中の乱れたスズカに、薬物強化された男二人が容赦なく襲い掛かる。振り回される鉄パイプを、スズカは後方に宙返りして、どうにか避けた。

 そして、スズカは派手に転倒した。

 着地した瞬間、右足で何か小さな塊を踏んだのだ。球状の小さな塊は高速回転しており、コロのようにスズカの足を滑らせ、仰向けに転ばせたのだった。

 倒れたスズカに覆いかぶさるように、バールを持った男が打ちかかった。スズカは男のみぞおちを蹴り上げ、巴投げの要領で投げ飛ばす。もう一人の男が繰り出した鉄パイプを、スズカの光の剣が受け止める。体重をかけてのしかかる相手の、大またに開かれた股間を、スズカは思い切り蹴り上げた。男が急所を押さえて悶絶している間に身を翻して跳ね起きる。

 立ち上がったスズカに、一撃だけつぶてが襲う。これみよがしに直線軌道で打ち込まれるオレンジ色の球体を、スズカは難なく叩き落とした。球体は勢いよく弾かれ、倉庫の天井パネルに突き刺さるように食い込んで止まった。

「さすが鬼のねぇちゃん。やるもんだね」

 若い、いや幼げにも聞こえる少年の声。前後して、ダメージの少なかった襲撃者が三人、のっそりと立ち上がった。

 三人の背後に、小柄な人影が見える。今の声の主らしい。背丈は、スズカより頭半分大きいほどだろうか。体格のいい襲撃者の影になり、その全身が見えない。全体にだぼっとした服装で、左手に何かビニール袋のようなものを提げている。

 スズカは、襲撃者に加わった小男を睨みつけ、一喝を飛ばした。

「何者だ。姿を見せろ!」

「出来ればそうしたいんだけどね。んー、残念ながらタイムアップかな?」

 小柄な男の気安い口調に被って、サイレン音が徐々に大きく聞こえてきた。数台のパトカーのサイレン音だ。

「んじゃ」

 少年はふざけた挨拶とともに、あっさり消えてしまった。倉庫から飛び降りたらしい。後に残った敵は、薬のせいで脊髄反射並みの判断力になった筋力バカが三人だけ。スズカにとっては、対処に何秒もかかる相手ではない。

 程なくして、スズカの立つ倉庫の屋根に何人もの警官が登り、すっかりのびた七人の襲撃者達を運び下ろした。立ち働く警官たちと共に地面に降りたスズカは、一人の私服警官に事情の説明を始めた。

「ゴムのようなボールだって?」

 スズカの話を聞いていた私服警官が唸った。

 歳で言えば五十絡みだろうか。四角い無骨な顔に、たれた目尻という刑事の顔はどこか愛嬌を感じさせる。よれたスーツに擦り切れそうな安全靴。サスペンスドラマでおなじみの、いかにもベテラン刑事といった風体だ。

「そうだなぁ、そういう得物を使う奴が、都内のパックにいたかな……」

 パックというのは近年増加しつつある若年者による犯罪組織の一種の名である。80年代アメリカに誕生し、90年代半ばに日本にも「輸入」された。

 彼らとカラーギャングや暴走族といった旧来の不良グループとの違いは、ひとえにパラフィジカル能力者をボスに頂いている点にある。ボスの能力をチームの象徴とし、ユニフォームやアクセサリーなどを、ボスの能力に合わせた意匠で統一している。「パック」と名乗り、パラフィジカルのボスを家長、普通人の構成員を子弟として擬似家族的な集団を構成しているのは、まさしく普通人の青少年が抱く、パラフィジカルな存在への不健全な憧れの発露に他ならない。

 もっとも、この襲撃者達の衣装は統一されていない。正体を隠したパックの構成員なのか、かき集められたチンピラなのか、それはおいおい判ることだ。

「私と背丈の変わらない男で、中学生くらいの声でした」

 そう言うスズカも、どう見ても中学生である。他人事のようなスズカの報告に、刑事は苦笑いを浮かべた。

「ま、調べとくわ」

「ありがとうございます」

 頭をかいて答えた刑事に、スズカは深々と頭を下げた。

暴走スタンピードとはよく言ったもんだな」

 タンカの上の不良たちを見て、刑事は吐き捨てるようにつぶやく。

 不良の顔は無数の青筋を浮かべたまま、紫がかった異常な紅潮を示していた。

 パラフィジカルな存在は薬品の世界にも当然存在する。正常な生化学反応を捻じ曲げ、超物理的に人体に影響するパラフィジカル薬品の危険性たるや、通常の違法薬物の比ではない。

「やはり海底系でしょうか」

 スズカは刑事を見上げ尋ねた。海底系、つまりムー国内で生産されるドラッグは、五千年を誇るパラフィジカル生化学が生み出した驚異の人体改造薬として知られる。

「いや、どうかな、最近はどのルートからでも入ってくるからな」

 刑事は、スズカの短絡をたしなめた。

「まぁ、ここから先は警察の仕事だ、今日は帰って寝ろ」

 なだめすかすような刑事の言葉に、スズカは一礼だけ返し、立ち去った。


平成17年5月22日 日曜日

 ――【自警員】じけい‐いん 英VIGILANTE  単独、もしくは複数で自警活動を行う市民。警察組織に所属しない民間人で、個人の判断で警備活動を行う者の事。日本では自警法により、自警員として認可されるには当該警察署への登録と活動内容の申請を行う必要がある。また、認可を受けない者は自警者や自警活動家と呼ばれることが多い。――

「えー、自警法制定に当たっては、自警員登録の義務付けが、自警活動の中立性を損なうものであるとする議論が起こった。結果として未登録活動に対する罰則規定は条文化されず……」

 日曜のお昼。みのりは自分の机にかじりついて、デスクトップパソコンの液晶画面を読み込んでいた。昨夜、見知らぬ少年が発した、「自警員登録」という耳慣れぬ言葉が気になってしょうがなかったみのりは、朝からいろいろサイトを検索し情報を収集していたのだ。

 そのうちに見つけた一文を声に出して読み上げ、ロボに向け液晶画面を指差した。

「ほら! 登録しなくても構わないってことでしょう?」

 今しがた読み終えた部分を指し示し、椅子の上から勝ち誇ったようにロボを見下ろす。

「警察の対応が違って来るんだよ。あの男の子も言ってたろ? ああやって屋根の上を勝手に走れば、本来なら家宅侵入でお咎めを受けるところなんだよ」

 ロボはみのりの足元のフローリングに寝そべったまま、画面も見ずに言い返す。

「でも、ほとんど問題にされないんでしょ」

「だから、それは、ちゃんと登録していて、実績もあるヒーローの話だよ」

 実際、警察は未登録自警活動家には厳しい。家宅侵入程度の微罪でしょっ引かれることも少なくない。加えて、他のヒーローがもぐりの同業者に向ける目はさらに厳しく、あまり派手に振舞う未登録の自警活動家に対しては、業界の先輩から手荒い「指導」が飛ぶこともある。

「見つからなきゃ良いんでしょ。私は、こつこつ控えめにやるんだ~」

「そうだよ。それこそ、学園の守護者としてクラスメイトを守ればいいじゃないか」

 ロボは顔を上げてみのりに言った。実際、そういう未成年ヒーローもいないわけではない。

 みのりはロボの提案を聞くと、さもつまらないような顔をして机に突っ伏した。

「別にぃ、うちはいーとこの私立だから、揉め事なんて特に……」

 突っ伏したまま顔だけロボに向けてみのりは言った、その言葉が途中でよどむ。

「ありゃしないよ。なんにも」

 みのりは一段トーンの低い声でそう言った後、しばらく無言で画面を見つめていた。ロボが、ふと、いぶかしげな視線を向けた先で、みのりは出し抜けに眉をしかめてひとりごちた。

「げ、何この能力使用宣告って……マジで必殺技の名前いちいち叫ばなきゃいけないの?」

 ロボはやれやれとかぶりを振って、再びワックスのくすみだした木目の床にあごを伏せた。

「……ていうか、変身するだけで自分の登録名叫ばなきゃいけないってこと?」

 いちいちロボに振り向くこともなく、みのりはしばし自警法への不満をたらたら呟き続けた。

  ***

 昼食はとらずに、バックパックに衣装を詰め込んで家を出たみのりは、中央通りに着いてからジャンクフードでおなかを作り、そのへんのデパート最上階のトイレで「変身」。

 今日のコスチュームは、家から着てきたジーンズとシャツの上に、ベストとエクステ、マスクをつけただけで済ませた。もう、帽子をかぶるのは諦めつつある。かさばってしょうがない。

 着替えが済むと、トイレの窓から壁伝いに降り、いつものようにビルの屋上を飛び跳ねて街を駆ける。中央通りから地底通りに、小一時間かけて大回りで向かった。

 まだ日が高いうちに変身するのは、みのりには初めてだ。人に見られやしないかと冷や冷やする反面、人前でかっこつけたいという欲求も、首をもたげていた。か弱くも善良な人々の喝采を浴びながら、悪党を警察に突き出す自分の姿を想像し、みのりは頬を緩める。

「へん、しん」

 ちょっと、つぶやいてみる。

「……なに、にやけてるのさ」

 傍らを飛ぶロボが、みのりの横顔をかすめ見つつ、聞こえよがしにつぶやいた。

 みのりは、はっと顔を赤らめ、ふるふるとかぶりを振る。

 そもそもダメなのだ。みのりとしては人目に触れず銃をぶっ放したいのだ。こつこつ控えめにと、午前中、自分で言ったばかりじゃないか。この程度の変装で人前に姿を晒すなど、危険この上ない事だと思わないのか。ましてや名乗りなんて、もってのほかだ。

 みのりは眉をしかめ、大げさに一人頷く。

 眼下に見下ろす地底通りは、日が傾きかけたばかりだというのに、既に夜の匂いを漂わせていた。コンビニの前で缶チューハイを煽る男達。すでに雰囲気の出来上がった様子のカップル。気の早いポン引きがもう街行く男性に声をかけている。

 みのりはこの街の猥雑な様を見渡し、満足げに微笑んだ。ビルの屋上から銃口を突き出し、通行人の頭から頭へと照準を移していく。

 ゲームセンター前の、数人の人だかりが、みのりの目にとまった。柄の悪い連中が二人の少女を取り囲み、何事か言い寄っている。何人かの纏う、薄手のパーカーの背にプリントされた「中指を突き出した鉄の篭手」が、いかにもマッチョで暑苦しい。

 みのりの強化された視覚が、言い寄る男達の下卑た笑いと、少女達の怯え困惑した表情を捉えた。判りやすい構図だ。見たところ男の数は六人。アガトダイモーンに装填されている魔法弾は、スタンブリット六発にグルーブリット六発。

「みのり……何考えてる?」

 みのりの視線の先を確認してロボが問いただした。

「いいこと」

 取り囲む男達から視線を逸らさずに、みのりはにやけた口調で答える。

「あのねぇ……」

 ロボは大きくため息を吐いて、みのりにひと言……言いかけたロボの視線の先で、ひときわ図体の大きな男が、その異様に太い腕で少女の携帯電話を無理やり奪い取った。

「……撃ってよし」

 ロボの許可を待つまでも無く、みのりはスタンブリットを放っていた。銃口の先に電光が六つ閃き、取り囲んでいた六人の男達が次々に倒れ――いや、一人がまだ立っている!

「なんでぇ?!」

 狼狽するみのりの手元で、ロボが慌てて装填の呪文を唱える。弾は当たっているはずだ。みのりはそれを確かめようと、倒れなかった男を注視する。少女の携帯電話を取り上げた、屈強な大男だ。その目がこちらを向いた。

「らんだぁ? れめぇ!」

 屋上に立つ覆面の人影を見咎めた大男が、ドスの利いた、しかし妙にもつれた声で吠えた。

 その大声にみのりは総毛立ち、慌てて回れ右して駆け出した。装填中だったロボにもかまわず一目散に走る、走る。

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

 そう言って慌てて追いかけるロボに、振り返ろうともしない。

「見られたっ、見られちゃったよお!」

 みのりの声は、ほとんど泣きわめきの様相を呈していた。

「――落ち着けってば!」

 思いがけないロボの一喝に、びくりと肩をすくめたみのりは、その拍子に屋根から足を滑らせてしまった。声を上げる間も無く、建物の隙間にはまり込む。バンザイの格好でしりもちをつくみのりの、ひとすじ跳ねた前髪が、落下の衝撃でまだびょんびょんと揺れている。

「……大丈夫かい?」

 狭い壁の間からお尻を抜こうと、もがいているみのりの鼻先までロボが降りて来た。

 みのりはバツの悪い顔でロボを見返しながら、どうにか立ち上がる。グルーブリットで屋根までのロープを張り、狭い空間を這い上がった。這い出た屋根の上に腰掛け、いったん呼吸を整える。みのりにはかすり傷一つ無いものの、ジーンズには大きなかぎ裂きができていた。

「どうしよう、見られちゃったよ?」

 みのりは、すがるような目つきでロボを見上げて言った。

「大丈夫、相手はちゃんと見ちゃいないって」

「そ、そうかな?」

「それに、さっきの男の、ふにゃふにゃした声を聞いただろ? あれはきっとスタンブリットを喰らって朦朧としていたんだよ。変装もしてたんだし……きっと心配いらないよ」

「そ、そうだよね。そうそう、そりゃあ、そうだよね!」

 みのりは身を乗り出して、何度も頷いた。ロボも併せて首を縦に振る。それから、みのりとロボはしばし乾いた笑いを上げ、しかる後、二人揃って大きくため息をついた。

  ***

 それから人目の無い路地裏に忍び込み、呼吸を整え、コスチュームを外し、後はまっすぐ家に帰った。家に着いたのは午後6時半を回る頃だった。

 玄関前についてもまだ、かすかに動悸が早い。ドアに鍵を差し入れる手がこわばっているので、ガチャガチャと大きな音を立てた。

「みのりー?」

 ドアの奥からみのりを呼ぶ声が聞こえた。母親の早苗だ。

 みのりがどうにか鍵を開けると、玄関先で早苗が待っていた。

「お帰り」

 みのりとよく似た、少し童顔の母親がにこやかにみのりを迎える。髪の長さもそう変わらないが、さすがにクセ毛が跳ねるようなことは無い。普段着に着替えているところを見ると、帰ってからそれなりに時間がたっているようだ。

「は、早かったね、ママ」

 帰る途中で電話を受けていたので、ここで顔を合わせること自体はわかっていた。みのりは平静を装って言葉を交わすが、どうにもぎこちなくなる。母親に何か感づかれるのではないかと思うと、気が気でないのだ。念のため、ロボは再び銃弾になって銃の中に隠れている。

「あのね、一応、今日はお休みなのよ」

 早苗は軽くため息をつくと、苦笑して娘に答えた。どうやら、ジーンズのかぎ裂きは気が付かれずに済んだようだ。

 みのりが着替えを済ませると、早苗は掌を振って、ダイニングへ呼んだ。

「でね、せっかく早く帰れたからね」

 ダイニングのテーブルの上には、惣菜店のロゴの入ったパックが並ぶ。何個かは、有名デパートの袋に入ったままだ。

「うわ、なにこれ、ちょっとスゴイじゃん」

 パックの透明なふたから覗く、和洋中、色とりどりの惣菜を前にして、みのりは食い気に目を輝かせた。

「でしょ、夕方行くとねぇ、行列できてるのよ、この店」

 早苗はそう言って、やけに自慢げに惣菜を並べていく。そのまま夕食にすることになり、みのりは嬉々としてパックを次々レンジへ放り込んだ。その傍らで、早苗が炊飯器を覗き込む。

「みのりー、ご飯まだあるー?」

「んー、冷蔵庫ー」

 答えながら、みのりは手際よく食事の準備を進めていく。

 ひと通り食事の用意が出来上がった。デパ地下の惣菜、2日間冷蔵されていたご飯、ペットボトルのお茶。合計額で計れば豪華な夕食だ。テレビから流れる賑やかなバラエティー番組が、食卓にいっそう華やいだ空気をかもし出す。

 ニコニコと画面に食い入るみのりに向けて、思い出したように早苗が言った。

「そういえば、真紀ちゃんのママから電話もらってね」

 みのりは、ぴくりと肩を震わせた。――母は、真紀の不登校を知っているのか。

 恐る恐る顔を向けると、早苗は気安い笑顔を見せていた。真意が、みのりには読めない。

「へぇー」

 みのりは、気の無いような相槌を打って、平静を装いながら、続く言葉を待つ。

「真紀ちゃん、風邪をこじらせてお休みしてるんだって? みのりにも、お見舞いに来て欲しいって言ってたけど……」

「あ、うん、今度行こうと思ってた」

 実際のところ、母と真紀の母との間でどんな話があったのか、みのりには知りようが無い。早苗が深く聞いてこないのなら、今はとにかく、無難に答える他ない。

「真紀ちゃん、おうちに居るそうだから、学校帰りにでも寄っていってあげてよ」

「うん」

 みのりは母にひと言だけ答えて、テレビ画面に向き直った。

 しばし、跳ね回るテレビタレントのけたたましい声だけがダイニングに響く。

「みのり、ねぇ」

 早苗に呼びかけられ、みのりは伏し目がちに振り向いた。

「明日は一日、休みをちゃんと作ったから、夕飯私が用意するわね」

「え……?」

 続く母親の言葉に、みのりは少し口ごもる。その様子を見て、早苗は聞きなおした。

「何か予定があった?」

 あるといえばあるが、まさか母親には言えない。夜に銃もって地底通りでパトロールなんて。

「ううん、あ、ありがとう」

 みのりは努めて平静に、あくまで素直に母親に感謝の意を伝える。

「ホントなら、いつも私が作らなきゃいけないのにね」

 ほっとしたようにひと息つくと、早苗はそういって、苦笑いを浮かべた。

「でもね、みのりがしっかりしてるから、ホント、助かってるのよ」

 まただ。母はふた言目にはいつも「みのりがしっかりしてるから」と言う。まるで口癖だ。

 急に食事を作らせろなどというのも、埋め合わせのつもりなのだろうか。それとも、最近帰りが遅いことへの、牽制なのか。

 みのり自身は別段、母親らしいことをして欲しい、などと思ってはいない。今までだって一人で、何でもやってきたのだ。いまさら一日二日家にいられた所でわずらわしいだけだ。

「いいってば。ママ疲れてるでしょ、明日のご飯も任しといてよ」

 みのりは母に向けて、満面の笑みを、作って見せた。

  ***

 ラー神殿は、在日海底人にとって心の拠り所であるばかりでなく、その生活を支えあう互助組織としての性格も持ち合わせている。物心両面において重要な役割を持つこの神殿は日本全国の主要都市に設立されており、当然、有明にもその一つが存在している。

 この日の晩、警官隊が包囲網を張る中、捜査員がラー神殿に家宅捜索に入ったのは午後10時を回る頃だった。

 昨夜、スズカを襲って逮捕された男達の中にはラー神殿の直接の関与を証言するものはいなかったが、関係者をしらみつぶしに辿っていけば容易に、神殿事務職員の一人に辿り着けた。もともとこの神殿は海底人マフィアの隠れ蓑として警視庁も目をつけていたところで、襲撃犯の使用薬物が最後の決め手となり、ついに家宅捜索となったのである。

 封鎖線の周りを教区の海底人が取り囲んで、警官隊に抗議の声を上げている。

 若干色白ではあるものの、彼らの顔つきはモンゴロイドのもので、ほとんど日本人とは見分けがつかない。先頭に立つ神官たちは古代ギリシャのトーガにも似た海底人伝統の衣装に身を包んでいるが、続く信者達は普通の日本人と変わらない洋服姿である。

 そう、彼らのほとんどは地上で平凡な日常を送る、無辜の一般人なのだ。

 世間には未だに誤解が多いが、一般の海底人には水かきもえらも無い。彼らの生活の場は海底のドーム都市なのであり、先祖伝来の潜水服が無ければ地上人と何も変わらない。

 だが、地上人に規格外の超人がいるように、海底人にもまた規格外の存在がいるものだ。

 怒涛のような、激しい破壊の衝撃が、神殿全体を揺らす。警官隊と共に待機していたスズカは、突如響いた轟音にその有角の仮面を振り向けた。

「本庁の『変身』、頼りにならねぇなぁ」

 スズカの隣でパトカーにもたれていた年配の刑事が、苦笑交じりに悪態をついた。四角い無骨な顔に、たれた目尻。昨夜スズカの元に駆けつけた臨海署のベテラン刑事だ。

 コンクリート打ちっぱなしの、装飾性の無い巨石構造物メガリスのような神殿の壁を突き破って、全身に装甲を纏った長身の人影が弾き出された。

 白と黒のツートンカラーの強化装甲服。パラフィジカル技術により再現された超人の力を纏う、警視庁の精鋭刑事。SEDこと特殊装備捜査官(Special Equipped Detective)である。警察畑の人間や世間の事情通は、彼らを冗談交じりに変身刑事ヘンシンデカ、略して変身と呼ぶ。

 もっともガチャガチャと装備を着込むSEDの「変身」では、スカルナイトなどの瞬間的な変身と比べるべくも無い。「変身」の略称は、その辺りの皮肉もこもっているようだ。

 痛みに耐えてどうにか立ち上がったSEDを追い、砕かれた壁の穴から、直立した蛙と魚の融合体のような生物が現われた。相手の倍はある巨体で、手負いの特殊装備捜査官に迫る。

「戦闘種族か、とりあえず入管法違反は確定だな」

 寄りかかっていたパトカーから背を起こし、ベテラン刑事は一人ごちた。

 戦闘種族とはムー五千年の生化学によって生み出され、幾世代にわたって受け継がれて来た、超人兵士の血族の事だ。多種多様なタイプが存在するが、ほとんどは海洋生物の能力を取り入れた、文字通りの半漁人である。身体自体が武器と見なされ、日本への入国には厳しい規制がかけられているが、普通人への擬態能力を持つ者もいて、実際かなりの数が密入国していた。

「いけるか?」

「人外を相手にするのも慣れました」

 前に歩み出たスズカは、刑事の問いにためらいも見せず、答えた。

「違うって、ああ見えても人体の構造はほとんど変わらないもんだ。分かるな?」

 スズカはベテラン刑事の言葉にはっとして振り向く。

 刑事の笑みを見つめ、スズカは自らも力強く頷いた。

「承知しました、警部」

 スズカは、異形の海底人に向けて駆け出した。

「――キネティック・ブレード!」

 翻るマントの下で、その両手がにわかに光り、剣が、二振り出現した。


 平成17年5月23日 月曜日

 ロボは、みのりの部屋でマンガ本を漁りながら、部屋の主の帰りを待っていた。

 今日は月曜日。当然みのりは学校に行っている。ロボは自分と魔法銃アガトダイモーンを学校に連れて行けと主張したが、所持品検査が厳しいからといって、みのりはすげなく却下した。それにしては、金曜日は支障なく銃を持ち込めたのだが、その点をロボが指摘すると、みのりはろくな返答もせず、さっさと学校へ行ってしまった。

 それから十時間。早苗の「お帰り」という声が聞こえた。ロボは急いでマンガ本を棚に戻すと、宙に舞ってみのりが来るのを待つ。何秒もしないうちに、ドアのノブが回る。

「みのり、お帰り……って、うわ?」

 ドアへ飛び寄ったロボの鼻面に、ビニール袋が壁となって押し当たった。

「どうしたの。ずいぶん買い込んで」

 羽根状の耳で鼻をさすりながら、ロボはみのりに聞いた。みのりの手にはいっぱいの紙袋やビニール袋が抱えられている。

「コスチュームを改良するの」

 みのりは買い物袋の中身をベッドの上にどさどさとぶちまけた。

「昨日、相手に見られちゃったでしょ」

 ロボに話をしながら、みのりはベッドの上にばら撒かれた商品の包装を剥いていく。

「どのみち、ありあわせで作ったコスだからね。今のうちにかっこよくしとくんだっ」

 みのりはそう息巻くと、赤くて細長い布きれを手に取った。布きれを目元に当て、寸法にあたりをつける。どうやらこれは新しいマスクになるらしい。他にも手袋や、どう使うつもりか、サンダルやネジ、ドライバーセットなども見える。

「じゃ、今日はパトロール行かないのかい?」

 ロボが尋ねる。この二日、母親は帰りが早いということで、しばらくみのりも夜に出歩くわけには行かなくなったのだ。

「今日はママとご飯作らなきゃいけないしね。それに毎晩出歩くのはさぁ、正直ちょっときついんだよね」

 みのりは布を放り出して、ロボに向き直った。そのままベッドに腰を落とす。

「……塾の帰りに一時間とか、その程度でもいいよね?」

「まぁね、そりゃ無理をしない範囲でいいと思うよ」

 同意を求めるみのりに、ロボもさして難色は示さない。

 それじゃあと言って、みのりはキッチンに行こうと、立ち上がった。ドアノブに手をかけたみのりの背後で、ロボはテレビのスイッチを入れる。

「あんまり音大きくしないでよ、ママに気づかれるんだから」

 世の中の事情を学ぼうというのか、ロボはアガトダイモーンから出てきて以来、ニュース番組や新聞には欠かさず眼を通していた。

 まあ、そうでもしていないと実際、暇でしょうがないのだろうけど。と、みのりはふんでいる。

「スズカだ」

 みのりの注意を聞いてか聞かずか、画面に向いたままロボはぽつりと言った。

「なになに?」

 みのりはあわててロボの脇に立ち、画面を覗き込む。

 テレビでは夕方のニュースが昨夜のパラフィジカルドラッグ密売犯摘発の模様を伝えていた。海底人の神殿施設を囲む警官と取材陣を掻き分け、歩み出てくるスズカの鬼面が映し出される。

「すごいね」

 そう言うとみのりは、ロボと共に、しばし画面に食い入った。

「――今に、会えるかな」

 ぽつりと言ったみのりの目に、憧憬の光を認めたロボは、

「すぐに会えるさ」

 と、微笑んだ。


第4章『斬鬼のスズカ』


平成13年9月30日 日曜日

 平成に入るまで、有明ジオフロントは治安の悪いことで知られていた。タイタン地下要塞の発掘作業のため、いっぺんに人口過密になったことも原因の一つだが、最大の元凶はタイタンの残した超技術を巡る暗闘にあった。

 地下要塞の発掘調査に参加した企業は大小十数社に及ぶが、中には大国の諜報機関や秘密結社の隠れ蓑となる企業も含まれていた。その外縁にはさらに数十の犯罪組織が連なり、その尖兵である無数の職業犯罪者が、発掘作業者にまぎれて有明になだれ込んでいた。彼らの多くが精鋭たるパラフィジカル能力者だった。

 急場の開発の為、都市計画自体が混乱していた有明ジオフロントは、アジトを紛れ込ませるには最適の環境だった。勢い、有明は各種非合法組織の合同庁舎の様相を呈することとなり、その日常業務のごとく、日々熾烈な諜報合戦が繰り広げられたものである。

 発掘調査が終わってから七年、さすがに発掘技術をめぐっての攻防は途絶えたが、無数のアジトは残されていた。都心に近い利点を活かして、東京出張所として使用されているのだ。

 埋立地西岸の埠頭の下にも、そういったアジトが一つ隠されていた。

 埠頭の地下深くへと続く貨物用エレベーターのシャフトを、一台の戦闘バイクが線条を描きながら駆け下りる。アクセルを握るのは、銀のドクロを頭に頂いた奇怪な姿の騎士。

 スカルナイトΣだ。

 シャフトを抜けると、そこには広大な地下倉庫があった。無数の機械とコンテナの間に、弾痕と、銃器が散らばり、どの銃器のグリップにも、切り落とされた腕がしがみついていた。

 硝煙と鉄錆の臭いが倉庫の中に満ち、壁と床とは、血しぶきで塗りこめられていた。コンクリートの床に転がる肉片は、Σと滝川が追う、兵器密売組織の構成員たちのものだった。

 頭蓋に癒着したパワースカルが与える暗視能力と超聴覚で、Σは動いている者を探す。

 二つ。壁面に渡されたキャットウォークとコンテナの間を、超高速で跳ね回りながら、激しく斬り結んでいた。

 Σはバイクのシートを蹴って、二つの影に向けて跳躍した。

 キャットウォークに着地するのと入れ替わりに、一方の影が、どさりと床に投げ出された。空中ですれ違いざまに目視した影の姿は、過剰なほど紋章の刻まれた白銀の甲冑を纏った中年の男。超古代技術の密売組織、レリックシンジケートの日本での責任者だ。

 キャットウォークでは、一人残った人影が、Σを待っていた。

「なぜ、殺した!」

 Σは影に向けて叫んだ。

「なぜ、だと? なぜ、あんたがそれを言う」

 影は肩をすくめ、Σに振り向いた。若く、挑戦的な声だ。

 Σの赤い眼窩に映った影、それはドクロ面の騎士の姿だった。自らの姿にも似た、黒のドクロ面とアーマースーツ。その装甲のかしこに、メカニカルな意匠が垣間見える。

「殺し続けたのはあんただって同じだろう?」

 男の言葉が、Σの胸を抉る。確かに、タイタンを初めとする秘密結社との戦いの中で、多くの改造人間をその手にかけた。止むを得なかった。だが、許されるとも思っていない。だからこそ、彼らスカルナイトは社会の表舞台から身を引き、闇の中で人知れず戦ってきたのだ。

「狂乱の時代は終わったんだ。もう、スカルナイトが狩るべき人造の悪魔などいない!」

 Σは言い放った。

 タイタンの壊滅以降、人類共通の脅威は反乱ロボットや異世界の魔人・魔物へと移り変わり、秘密結社の猛威は過去のものとなっていった。年齢を重ね、疲れ果てていた他のスカルナイトたちは、戦う理由を失ったことに安堵し、次々と第一線を退いていたのだ。

 対する男は臆せず、なおも鼻で笑ってみせる。

「悪党の姿が変わっただけじゃないのか? その魂まで変わりはしないさ」

 世界征服を目論むような大規模な秘密結社を駆逐しても、人間の自由も、世界の平和も、普遍のものとはならなかった。一方で、抑圧と闘争は、パラフィジカルな存在が関わろうと関わるまいと、今も地球中に満ち溢れている。それはΣが守っていた日本でも変わらない。

 21世紀を迎える前後、激化する都市犯罪を背景に、国内の自警活動家が急増した。その中に、スカルナイトの名と姿を継承する者達も、次々に現われた。

 いわゆる「平成組」と呼ばれるこれら新世代のスカルナイトは、Σたちとは直接のつながりを持たないし、パワースカルを内蔵する改造人間でもない。様々な能力の起源オリジンを持つパラフィジカル能力者が、自らの精神の象徴としてドクロの仮面を纏っているのだ。

 彼らの半数は、今のΣのように法を重んじているが――残る半数は殺人を厭わない、過激な私刑執行人たちだ。

 表立って活動することのなかったスカルナイトの名は、いつしか一つの伝説として、畏敬と恐怖を以って語られていたのだ。

 悪を狩る、仮借なき死神の名として。

 この男、『スカルナイト』ゾアは、目の前の先達の思いより、自らの夢想するスカルナイトの名に殉じるつもりなのだ。

 Σは、自らの在り様を悔いた。もう、血に塗れたこの名を、誰にも継がせてはならない。

「――スカルナイトは、俺たちだけでいい」

 つぶやきと共に、Σは、両掌に光の剣を出現させた。

 これが、スカルナイトΣ――進藤健一郎の最後の戦いとなった。


平成17年5月23日 

 臨海緑地公園を背にした閑静なマンション街の一角に、三階建ての小さな剣道場がある。一階が三十畳ほどの稽古場と、車二台分のガレージ、二階より上が母屋として道場主の生活の場になっている。既に築二十年近く、あちこちに痛みの目立つ地味な建物だ。門下生も多く、夕方ともなると、道場からは激しい打ち込みの音と掛け声が絶えず響いてくる。

 有明ジオフロント唯一の剣道道場、幸田道場である。

 初代の道場主は既に亡くなり、今は一番弟子が娘婿として道場を継いでいた。

 不治の病を抱えているという二代目は、病身ながらも腕は確か、指導も熱心ということで、幸田道場は小さいながらも評判の道場として知られている。

 しかし、道場の地下にあるもう一つの稽古場の事を知る者は、近隣の住人はもとより、門下生にも師範にも、一人として無い。それは、先代が娘婿に贈った専用の特訓場であった。

 六十畳ほどの板張りの部屋。内装には、防音壁をかねた緩衝材がくまなく巡らされているだけの、殺風景な空間だ。天井に埋設された蛍光灯を消すと、内部は完全な闇になる。

 暗闇の中、竹刀の打ち合う音だけが、鈍く響く。

 進藤香織は道着を纏い、何一つ見通せない闇の中から、必死に音と気配を拾っていた。

 風を切る竹刀の音。ほぼ同時に五ヶ所、気配が、眼に見えない圧力となって、張り詰めた肌を突く。香織は自分の感覚を信じ、竹刀の剣先を走らせた。捉えた相手の剣筋に交差して、香織の剣が弧を描く。竹の打ち合う衝撃が四つ。五つ目の衝撃が、香織の腰を後ろから襲った。

 バランスを崩し、香織は前のめりによろめく。そのくるぶしを掬い上げるように、相手の六打目が放たれ、足を取られた香織は、無様にも真正面から板張りの床に突っ伏した。

 歯噛みして、痛む体を起こした。香織は、荒い息を抑えて、再び、闇に向け剣を構える。

「そこまで!」

 稽古場に、老いた男の声が響いた。

 電球色の蛍光灯が点灯し、稽古場を緩やかに照らす。赤みがかった光が、浮かび上がらせる人影は三つ。一人は香織、その向かいに黒いスーツの男。そして、光になれた香織の視線の先にもう一人、道着姿の老人の影があった。

 進藤健一郎。幸田道場の主であり、香織の父親でもあり、かつては、別の名で呼ばれたこともある。当年とって四十七歳。長く伸ばした銀髪を束ね、口ひげを蓄えて、肌のやつれを目立たないようにしているが、しわの深く刻まれた顔は、どう見ても七十を越す老人のものだった。

 二十六年前、改造手術によって頭蓋に融合させられた、「パワースカル」と呼ばれる超古代の結晶体が、若き健一郎にスカルナイトの力を与えた。

 そして四年前、同じスカルナイトを名乗る、若き自警者に打ち砕かれたパワースカルは、その消滅と共に健一郎の命をも、奪い去ろうとしたのである。

 香織十歳の年であった。

 運び込まれたCODE管轄の医療施設で、香織と、妻の多恵がすがりつく中、瀕死の健一郎の肉体は、急速に老化していった。辛うじて一命を取り留めた健一郎だったが、スカルナイトの力と若さとは、もはや帰っては来なかった。

 常にひたむきさを失わなかった健一郎が、このときばかりは絶望に沈んだ。自分の守ろうとした自由と平和は、もはや時代の遺物に過ぎないのではないかと苦悩し続けた。

 だが、スカルナイトΣの殉じた正義は、消えてはいなかった。

 その力と魂は、血とともにひとり娘へと受け継がれていたのだ。

「まだ、やれます!」

 香織は荒い息を張り上げて父に答え、竹刀を構えなおした。

 剣の向く先に、黒いスーツの長身の男、そはやがいる。そはやは既に竹刀を収めており、困ったように肩をすくめては、四角いメガネの下から、香織と健一郎を交互に見返していた。

「構えろっ、そはや!」

 香織には――斬鬼のスズカには、焦りがあった。

 一昨日前に自分を襲った、ボールを使う少年。警察の話では、現場で回収された小さなゴムボールはスーパーボールと呼ばれる市販の玩具に過ぎないらしい。そんな物を、念動力も用いずに変幻自在の武器とする少年の得体の知れない技。香織のパラフィジカルな反応速度をもってしても見切ることは出来なかった。

 昨夜こそ姿を見せなかったが、奴はまたどこかで現われる。

 スタンピードを捌いていた海底人マフィアをラー神殿から引きずり出したものの、傘下にあったパックの多くは既に裏社会に散っており、検挙は容易ではなかった。

「――そこまでと言ったろう」

 健一郎の、静かな、それでいて重い叱咤の声に、香織は身をすくませた。

「昨日、大捕物を終えたばかりなんだ。少しは体を労れ……いくらお前でも、スタミナは普通の中学生と変わらないんだぞ」

 香織は、はいと答えて、静かに竹刀を下げた。桜色の唇を、小さな前歯でかみ締める。

「相手が実体弾を使うのならな」

 階段に向かった香織に、不意に健一郎が声をかけた。

「見切らなくても、弾く方法はあるんじゃないか?」

 香織は、階段にかかった足を止め、無言で見返したが、父はそれ以上言葉を続けなかった。

「よろしいので?」

 いつの間にか傍らに来たそはやが、とぼけた調子で香織に尋ねる。

「む、無理をしてもしょうがないだろう!」

 苛立たしげに答えると、香織は地上階へと駆け上がっていった。


平成17年5月25日 水曜日

 小さなスニーカーの上にかぶせた黒いラバーのサンダルが、ちょうどサバイバルブーツのような、武骨なシルエットを形作っている。

 短いソックスからキュロットの裾まで素足を晒しているのは、ひとえに動きやすさを重視しているのであって、子供っぽいとか思われたって知ったことではない。裾を出したシャツの上から、腰に回した工具のホルスター。愛想は無いが、玩具の拳銃用ではサイズの合うものが無かったので仕方ない。シャツを覆うのはウェスタン風のレザーベスト。

 ぐりぐりとした丸い目を、紅い布のマスクが覆っている。後頭部で結わえられたマスクの端は十センチほど余してあり、エクステで伸ばした束ね髪と共に、ビル風にたなびいている。

 白い手袋に握るのは、箱のように四角い銃身の黒い銃。

 みのりは歓楽街の雑踏を見下ろすビルの屋上で、おもむろに銃を構えた。空中に銃口を突き出し、バン、と口に出す。引き金は引かない。

「あ~あ、せっかく気合入れてきたのになぁ」

 みのりは軽くため息をつくと、屋上の縁に腰を下ろした。

 三日ぶりの「パトロール」のため、みのりはコスチュームに徹底的に手を加えてきたのだ。見た目よりは機能を重視したつもりだ。サンダルを加工して靴の覆いを作ったのは、靴の見た目の印象をごまかし、足跡を変えるため。指紋の事も気になったので手袋をはめた。肉体が強靭になった分着るものは軽く、動きやすい方がいい。ミスティ・レインやアメリカのスーパーヒロインがあんな露出の多い、恥ずかしい格好をしている理由が、いくぶん分かった気もする。

 さておき。

 せっかくコスチュームを新調してきたのに、今日は、まるで揉め事に行き当たれない。あまり遅いと母親に不審がられる。そろそろ引き上げなくてはと思いつつも、みのりはだらだらと地底通りの屋根の上を回っていた。

 暇にあかせて、通りの南外れまで来てみた。東西に走る地底通りの南側に少し下ると、平行して鉄道が敷かれている。地底通りから線路までの間が、裏通りだ。線路から先は研究施設や作業基地の並ぶ発掘作業地区となる。もっとも発掘調査が終わって十一年、既にほとんどの研究施設が閉鎖された発掘作業地区は、今ではゴーストタウン同然となっていた。

 背後に無人地帯を背負っている為、北側に比べて南側は寂れた感が強い。線路沿いの通りに並ぶのは営業を終えた事務所か、でなければ空きテナントばかりで、まるで人の気配が無い。

 その静かな街角に、荒々しい声と、ばたばた走り回る数人分の足音が響いてきた。

 待望の揉め事のようだ。

 みのりとロボは無言で頷き合うと、騒がしい方へと屋根伝いに駆けていった。数分も走らないうちに喧騒は止み、代わって短いうめき声と殴打の音が断続的に聞こえてきた。ロボがその大きな耳で探り当てた方角へと、二人は急ぐ。

 六階建ての屋上の縁から覗き込むと、ビルの裏手に、空調の室外機の前にうずくまる人影と、それを取り囲む四人の若い男が見えた。取り囲んでいる一人が、ひれ伏した男の頭を、時折つま先で小突いているところを見ると、事態は決して穏やかでない。

 襲撃者たちはいずれもストリートファッションの上に海底民族風のアクセサリーをジャラジャラとぶら下げていて、見るからにカタギではない。アクセサリーには戯画化されたイカの意匠が共通して入っている。犠牲者の少年はシンプルな服装ながら、やはりストリート系の、柄の悪そうな風体をしている。

 囲む男達のうち一人が、輪から外れて携帯電話を耳元に当てた。他の三人はうずくまる少年を監視しているようで、少年が顔を上げるなり、少しでも動きを見せると、すぐに蹴りが飛ぶ。

「どうしよう……」

 一緒に地面を覗き込んでいるみのりが、ポツリと漏らしたひと言に、ロボは目を丸くした。

「ど、どうしようって?」

 ロボは眼を剥いてみのりに聞き返した。

「ここで撃たないで、どうするんだよ!」

「だって、あれ、パックとかいう連中じゃない?」

 みのりはロボを見返すと、つばを飲み込んでから神妙な面持ちで答えた。

 先日、屈強なチンピラを撃ち損じたせいで、みのりは及び腰というほどに慎重になっている。まして戯画化された動物イラストといえばパックファッションの定番ではないか。

「な、な、な、まさか……」

 ロボは信じられないものを見るような目つきで、みのりを見上げて言った。

「だ、だって、後々怖いじゃない……」

「かーっ! 何を言ってんだよ君はぁ!」

 口を尖らせ顔を背けるみのりの有様に、ロボはその耳で目を覆った。

「そりゃ僕は確かに、パトロールなんて必要無いって、いつも言ってるけどさ、だからって目の前で人が傷ついているのを放っておけなんて、一度でも言ったことがあるかい!」

 呆れた顔でその耳と前足を振り回し、みのりに食って掛かる。

「だって……だってさ、どうせ不良同士の仲間割れだよ……」

 ふてくされたようなみのりの反駁は、眼下からの怒声に遮られた。

 コンクリートの上でうずくまっていた少年が、不意に駆け出したらしい。囲む男達は色めき立ち、一人がひときわ大きな蹴りを、逃げ出した少年の顔面に叩き込んだ。痛みに耐えかね、犠牲者は顔を覆ってもんどりを打つ。その間にも、腹を、背を、次々と蹴りつけられ、少年は吐しゃ物と鼻血を撒き散らしながら、なおものた打ち回る。

「ああ! もうっ!!」

 みのりは一度かぶりを振ると、眉根をしかめつつ魔法銃を抜き放った。

「っよし!」

 快哉を叫ぶロボの目の前を、スタンブリットの電光が三発飛び抜け、チンピラたちの頭に叩き込まれる。これで蹴りを入れていた三人が、犠牲者の男の上に崩れ落ちた。

 すかさずみのりは、四人目、携帯電話をかけていたチンピラへと照準を移し、引き金を引いた。チンピラはのけぞって携帯電話を取り落としたが、どうにか倒れずに踏ん張っている。みのりが慌てて照準を合わせなおした時、男はようやく倒れこんだ。

「ふーっ。正直、ちょっと焦ったな」

「念のため、動けないようにしておこうよ」

 ロボのアドバイスに沿って、みのりは携帯を持っていたチンピラの足元へグルーブリットを浴びせた。保険として残る三人にも撃っておきたいところだったが、こちらはいささかややこしい状況になっていて、すぐには銃口を向けられなかった。

 つまり、助け出すべき被害者に、加害者三人が気絶して折り重なっているのだ。

 みのりは眼下の壁に向けてグルーブリットを撃ち出した。数メートル下の壁面に着弾したのを確認すると、灰色の魔法のゴムロープを命綱にして地面へと飛び降りる。

「ちょっと、大丈夫?」

 三人の不良の下敷きになっている男に声をかけたが、特に返事が無い。既に気を失っているらしい。みのりは一つため息をつくと、銃をホルスターに納め、覆いかぶさるチンピラ達を引き剥がしにかかった。

 エンハンスブリットのおかげで、自分より二回りは大きい男の体をやすやすと持ち上げることが出来るが、一方スタンブリット一発の効果は浅く、軽いショックで目を覚まさせかねない。慎重に持ち上げた一人目が、軽いうめき声を上げる度、びくりとしては取り落としそうになる。

 どうにか眠らせたまま一人目を脇にどけた。次に取り掛かろうとして、顔を上げた途端、みのりは目の前の光景に違和感を覚えた。にわかには理解できなかった状況が認識出来てくるうちに、今度はみるみる血の気が引いてきた。

 目の前に転がる携帯電話、アスファルトにへばりつくグレーのゴムの塊。その間に横たわっていたはずの男が――ジャージのパンツ一着を残して姿を消していた。

「伏せろ!」

 切迫したロボの叫びに弾かれ、思わず振り返る。ロボの警告を理解しきれず、立ったまま振り返ったものだから、当然強烈な右ストレートを真正面から喰らうことになる。どうにか両腕でガードしたものの、2、3メートル弾き飛ばされるのは免れなかった。

 しりもちをついたみのりの前には、目を血走らせ立ちはだかる男の姿があった。

 目の色がいやに紫がかっているのは、怒りのせいばかりではない気がする。気付けば男の全身からは尋常では無い薬品じみた体臭も漂っていた。どんなパラフィジカル能力なのか知る由も無いが、未だに腕を痺れさせるパンチの威力からして、いずれ常人ではないことは明白だった。

 へたり込むみのりに向かって、男は間髪入れず突進してきた。第二撃を放つべく右腕は大きく振りかぶられている。みのりは慌てて腰の銃に手を伸ばすが、震えるばかりの指先は一向にグリップを捉えてくれない。突進してくる男の下半身はトランクスがむき出しな訳だが、その姿に赤面するような余裕は、この場の誰ひとりとして持ち合わせていなかった。

 目前に拳が迫るのに間に合わず、みのりはただ徒手を眼前に構えて、顔を背けた。

 だが、覚悟していた衝撃は、無かった。

「何やってるっ、逃げろ!」

 聞きなれた叱咤に応えて顔を上げると、みのりの目の前にはロボの小さな背中があった。

 ロボが男の顔にしがみついてその視界を塞いでいたのだ。ロボを引き剥がそうと掴みかかって来る男の手を、両耳で必死に振り払っている。

「ロボっ!」

 みのりは震える声で呼びかけるが、しがみつくロボには答える余裕も無いようだ。

 男の腕がロボの首根っこを捕まえたが、ロボは引き剥がされる直前に、鼻の頭に猛然と噛み付き返す。男は、アガァと獣じみた悲鳴をあげ、ロボを放り投げた。

「今だ!」

 ロボの叫びに弾かれ、みのりはどうにか銃を抜き、立て続けに引き金を引いた。撃ち出されたのはグルーブリットだ。宝玉に残されていた四発が男の足元に向かって飛んでいく。照準を合わせる余裕は無かったが、その必要も無いほどに相手の距離は近い。結局外れたのは一発のみで、残り三発が男の下半身を丸々覆いつくし、地面にべったり貼り付けた。

 トランクス一丁の太ももが覆い隠されたのは、みのりにとってはちょうど良かったところだ。

 反動で倒れた男は、足を封じられながらもまだ、もがき暴れていた。みのりが怖々男に近づき、至近距離からスタンブリットを二発叩き込んで、ようやく男の動きが止まった。

 深く安堵の息を吐いてから、みのりは背後に向き直った。そう、気絶したチンピラの下敷きになっている被害者を助け出す作業の途中だったのだ。

「あれ?」

 ところが、肝心の被害者がいない。

「――みのりを見て逃げ出したんだな」

 皮肉なのか真面目なのか分からない、淡々としたロボのひと言に、みのりは頬を膨らませた。

 なにか言い返そうと思ったところで、気絶していたチンピラたちからうめきが漏れた。みのりは慌ててスタンブリットを一人ずつ撃ち込みなおす。

 再び裏通りが静かになったところで、みのりは四方を見回したが、リンチの傷を負っているはずの、件の被害者はついぞ見つけられなかった。

「まぁ、後は警察に任せて、ボクらは帰るとしようよ」

 ロボがそう言うと、みのりはこくりと頷いて、それから、ぼそぼそと口を開いた。

「あ、あのさ……ありがと」

 それきり、俯いてしまったたみのりに、ロボは微笑んで見せた。そして、返答する代わりに、みのりの頭にふわふわと寄っていく。頭にちょんと飛び乗ると、その大きな耳を手のようにして、みのりの頭をわしわしと撫で回した。

「もう! なんだよーっ」

 怒鳴りながら、みのりはびょんびょんと飛び出したくせっ毛を押さえる。

「あはは、何やってるのさ。さっさと通報して帰ろうよ」

 ロボは大笑いして、みのりの頭から離れた。みのりはポカンとロボを見上げるばかり。

 短い前足をふって手招きするロボの、意地悪い笑みを見て、みのりは再び頬を膨らませた。

「ふん、ちょっと待ってて!」

 みのりはそっぽを向いて、腰のポケットから携帯電話を取り出した。

「携帯はダメだよ。警察に身元が割れるからね」

「あーもう! いちいちうるさいなぁ!!」

 恥かしまぎれの、みのりの大声が、夜の街にこだました。

  ***

 覆面の少女が張り上げた声は、程近いビルの陰に身を潜めていた被害少年のもとにも届いていた。

「ええ、銃使いの女です。背格好とか、聞いてた通りっすから……」

 少年は荒い息を潜めつつ、携帯電話越しに、少女の事を報告していた。

 携帯電話を切り、少年はよろよろと歩き出した。そのトレーナーの胸元には、「中指を突き出した鉄の篭手」のマークがあしらわれていた。


平成17年5月27日 金曜日

 大清中学校ではいつもどおりの金曜日が過ぎようとしていた。五時間目、英語。生徒達は黒板の英文をノートに落としこみ、LL用CDのアナウンスを頭に叩き込む。歴史は浅いが名門私立の一角に名を連ねるこの学園で、授業中に気を散らす生徒などそうはいない。

 ましてや眠気に耐え切れずうつらうつらと船を漕ぎ、あげく机におでこをぶつけるような不心得者など、あってはならないのだ。

 ゴン、と、やおら教室に響いた鈍い打撃音。続いてばさばさと紙の落ちる音。音源を探して、若い男性教師は教室を見回した。すると、窓側二列目中ごろの席に座る春日井みのりが、腫れぼったいまぶたと、赤くなった額とを交互にさすっているのだから、たいへん分かりやすい。

「……春日井!」

 男性教師が叱咤の声を飛ばす。

「すすす、すいません!」

 みのりは起き抜けの混乱をひきずったまま、落ちた教科書を拾いに立ち上がる。その拍子にペンケースがブラウスの袖に引っかかり、これまた中身をまき散らしつつ床へ。

 みのりは頭を抱え、教師は眉根を押さえ、残りの生徒達はくすくすと笑い声を上げる。

「ったく、なにをやってんだ」

 教師は呆れ顔で着席を促した。

「すいませんでした……」

 衆人の白い視線の中、みのりはくせっ毛のひとすじ跳ねた頭を、教師に向けて下げた。

 五時間目終了のチャイムが鳴ると、もう皆はみのりの居眠りなど忘れて、それぞれ友人たちとのおしゃべりを始める。とはいえ、みのりの加わる古沢たちのおしゃべりの輪の中にて、今しがたのみのりの失態がまな板に上がるのはやむなきこと。

「いやあ、最近またガンシュー始めちゃってさー」

 みのりは眠気の訳をガンシュー、つまりガンシューティングゲームのせいにした。実際には、夜中に出歩いている分、遅くまでかけて学校と塾の宿題をこなしているから寝不足なのだが、もちろんそんな事をおおっぴらに言う訳にはいかない。

 でまかせの言い訳に、みんな特に疑問を持ってはいないようで、みのりはほっと息をつく。

 しばしゲームの話題で盛り上がってから、おなじ卓球部の加瀬が、噂話を一つ、切り出した。

「銃って言えばさ、『天誅屋』って知ってる?」

 皆一様に首を横に振る。

 日頃アンテナ高くして世間の噂を収集している加瀬は、ここぞ出番とばかりに、ひとくさり「天誅屋」なる謎のヒーローについて語ってみせた。

 皆興味深く加瀬の口上を聞いている中、みのりの額にだけ、じんわりと汗が浮かんで来た。

 ここ数日来、夜の地底通りに突如現われ、不思議な銃で小悪党を昏倒させる、姿を見せない謎の仕置き人。人呼んで「天誅屋」。

 加瀬の話を聞く限り、まさしくみのりの事ではないか。

「カッコいいね!」

 みのりは両の拳を胸元で握り締めて叫んだ。思わず上げた快哉だ。

 ちらりと、自分の席にかかったかばんを見返す。中には魔法銃アガトダイモーン、そのさらに中にロボがいる。ロボは今の話を聞いていただろうか?

「そうかー?」

 鷹森は、冷めた口調で相槌を打つ。

「誰が言ってんの? んなこと」

 古沢は問いただすように加瀬に聞いた。

「男子。どうやら美少女らしいって、オタク連中が騒いでる」

「美少女かぁ~。いいなぁ、天誅屋」

 宙を仰ぎ、にへらと笑うみのり。その脳裏には、みのりと似ても似つかぬ、スレンダーな美女のクールな微笑が浮かんでいた。自画像が、鏡に映ったそのままの姿、とは限らない。

「天誅屋って何、幕末かよ」

 古沢の皮肉に、みのりの妄想は煙のように消え失せ……なぜかスズカの姿に取って代わられた。みのりは思わず頭をひねる。

「なんでもね、この辺のパックとやり合ってるんだって」

「パック?」

 身に覚えのない話を切り出され、みのりはきょとんとして聞き返した。

「それってガイロス?」

 鷹森が当て推量で加瀬に聞く。

 都内に群立する、パックと呼ばれるパラフィジカル不良集団の中で、有明を拠点とするのが、ガイロスと名乗るチームだ。海底人の少年たちを中心とするパックで、もちろんリーダーはパラフィジカルだ。なんでもイカだかタコだかに変身する能力があるらしい。

 これくらいの事は品のいい私立校に通うみのりたちでも知っている知識だ。

 もっとも、全ては噂話の域を出ない訳だが。

「んにゃ、ドンキーって連中だって聞いたけど?」

 こちらのパックは最近現われたのか、詳しく知る者は、みのりたちの中にはないようだ。

「もう全面戦争とかって、ずいぶん死人も出てるって話だよ」

 大げさに声を潜めて言う加瀬。

「ええっ! 人は殺してないよ?」

 皆が耳を傾ける中で、素っ頓狂な大声をみのりが出したものだから周りはたまらない。

「なになに、春日井詳しいの?」

 耳を押さえる手を離すと、鷹森は怪訝な顔で聞いた。

「あ、天誅屋ってのは知らなかったけど……、そんな大事ならニュースで……」

 寝耳に水である。死人が出ているなら、もっと大騒ぎになっているはずだ。

 まさか自分が殺人を犯したとは考えたく無いし、パックのような組織だった連中を相手にするのもごめんだ。不安で胃袋がキューと冷えてきた。

 いや、いずれ噂だ。タコだかイカだかのマークを身につけたチンピラなら、確かに何人か叩きのめした。おそらく彼らがガイロスの面々なのだろう。だから、ガイロスと事を構えているというのなら話は分かるが、ドンキーという連中の事はまるで記憶がないし、他にパック絡みの事件に巻き込まれた憶えも、今のところ無い。

 そう納得して、みのりは独り頷いた。

「わかんないよ、銃で闇討ちするようなヤツじゃん」

 歯切れの悪いみのりに対して、古沢は皮肉めかして突っ込んだ。

「大体、正義の味方とか自称してるヤツって胡散臭いんだよね、そもそも。子供っぽいっていうかさ、自己陶酔じゃない? あれ」

 古沢は苦笑交じりに言葉を続けながら、後ろの机までいっぱいに椅子を傾けて、もたれかかる格好になった。

「でもさ、その『正義の味方』がいないとさ、世の中大変じゃない?」

 みのりの頬が少し引きつる。崩れかけた愛想笑いをどうにか立て直して、古沢に聞き返す。

「CODEとか地球防衛機構とかあるじゃん。あれで十分なんだって、ホントはさ。ヒーローが目立ってるから、必要なんだって、つい思い込まされるけど」

「そうかなぁ……」

「あれじゃん、世の中に分かりやすいようにヒーローとか担いでんでしょ。何かあった時も責任を押し付けやすいしね」

 背をもたれかけ、あごを引いた姿勢から、古沢はみのりを見る。いや、その姿勢は、はっきり、みのりを見下げる状態だ。

「結局だまされてんだよ、春日井」

 みのりの頬から、すでに愛想笑いは消えていた。

「……なにそれ、やっかみ?」

 口の端を上げ、妙にうわずった声で、古沢に問いかける。

「ふーん。何言ってんの」

 聞き返す古沢の声も、トーンがわずかに下がっている。

「パラフィジカルと普通の人間の間には、越えられない壁ってもんがあるからね」

 みのりは腰に手を当てて、乗り出すような姿勢で古沢に言った。すっかりムキになっている。

「いいかげんにしろ、春日井」

 古沢の脇に立ちながら、今までひと言も口を出さなかった笛吹が、刺すような口調で言った。笛吹は、クラスで最も背が高い。物静かで、成績優秀で、運動神経にも優れ、そして古沢の幼なじみ。みのりを鋭く睨みつける笛吹は、まさしく古沢の御前を固める衛兵の姿だった。

 古沢は、すごむ笛吹を手で制しながら、みのりに向けて肩を乗り出した。

「まぁ、春日井にはそんなヒーローがうらやましい訳だ」

「うん、うらやましいよ。古沢はうらやましくないの?」

 それでも、みのりは引き下がらない。

「よしなって、春日井」

 場に広がる緊張感にいたたまれなくなったのか、鷹森が慌ててみのりをなだめた。

「意固地になるなよ。ヤツみたいだぜ?」

 古沢は口の端を歪めて、みのりの顔を覗き込む。

 みのりの頬が、痙攣するほどに激しく引きつった。

 なにか言おうとして喉が動いたが、ただ、つばを飲み込むだけで終わった。

 何も言えぬまま、みのりはぐるりと踵を返す。

「ど、どこ行くの?」

 鷹森が不安げに聞いた。

「トイレ」

 みのりは振り返りもせず、投げつけるように答えた。

 みのりが教卓側の出入り口からずかずかと足を踏み出そうとした途端、廊下から入ってきた教師に押し戻され、そしてチャイムが六時間目の開始を告げた。

  ***

 六時間目が終わり、古沢たちと軽く挨拶をしてから、みのりは鷹森、加瀬と共に体育館へ、卓球部の練習へと向かった。

 別れ際、「またね」と口にする古沢の笑顔には屈託が無い。まるで、先刻の休み時間の言い合いなど、忘れているかのようだ。

 みっともなく食ってかかったのはみのりの方だ。古沢は失態になるような取り乱し方はしていない。自分が引き下がりさえすれば、まだ、自分の立場は修復可能なはずだ。

 そこまで考えて、あくまで古沢にしがみつこうとする自分に気付く。みのりは、急に腹立たしくなり、ロッカーの扉もつい乱暴に閉めてしまった。体育館の女子更衣室に、耳障りな衝撃音が響く。室内競技の運動部が共用で使う更衣室は、やたらに混み合っており、周囲の部員達の迷惑そうな視線がみのりに向けられる。

 隣で着替えていた鷹森と加瀬は、何も言わず、みのりの表情をちらりと覗うだけだった。

 部活が終わり、みのりは鷹森と塾に出て、それから駅までいっしょに帰る。

 道行き、いつものように鷹森の愚痴にさいなまれ、みのりは、いつものように無難な相槌を選んで打った。

「なんだかさ、古沢も大人気ないよね」

 鷹森の愚痴が、五時間目後の口論のくだりにさしかかった。

「……ほんとにさ」

 みのりが真顔でつぶやいた言葉に、鷹森はずいぶん驚いているようだった。

  ***

 駅で鷹森と別れてから二時間、みのりは呼び出したロボと共に、地底通りから自宅のマンションまでうろうろと悪党を探して飛び回った。

 この日は、暴れる酔っ払い二組、計五人にスタンブリットをぶち込んだ。みのりとしては今夜の自警活動は大成功である。一人撃つたび、いらいらが収まっていくのを実感する。やはり、むしゃくしゃした時は、に限る。

 意気揚々として家に帰り着いたのは夜11時を回った頃だった。いつも通り母は職場。

 多少は近所の住人の目を気にしながらも、堂々とロボを抱いて、玄関のドアをくぐる。それからみのりはすぐに風呂場へ、ロボはキッチンから買い置きの菓子を持ってみのりの部屋へ。

「私もなかなかやるもんね」

 みのりはシャワーを浴び終えると、下着にTシャツを羽織っただけの姿で部屋に戻ってきた。

「そう思わない?」

 TVに向かって座り込み、黙々とチョコバーを頬張るロボを見下ろして、みのりは同意を求める。腰に手を当て、まるで勝ち誇ったような調子だ。

「増長は良くない」

 ロボは振り向きもせず、突き放すように答えた。

 次のチョコバーを大きな耳で器用に掴み、小さな口に差し込むように放り込む。

「なによ、少しは褒めてくれたっていいでしょ。今日も地底通りの平和を守ってきたのよ」

 ロボが続けて掴もうとしたお茶のペットボトルを取り上げ、みのりは詰め寄るように言った。

「喧嘩してる酔っ払いを眠らせただけじゃないか」

 ロボはチョコに汚れた耳の先を舐めながら、しらけた調子で言い返す。

 ロボの白い視線に、負けじとみのりは睨み返していたが、不意にその目がにんまりと緩む。

「な、なんだい急に?」

 薄気味悪そうにたじろぐロボに、みのりは、にやけ顔のまま答えた。

「へへへ、学校で噂になってるんだよ」

「なんだって?」

 ロボが怪訝な顔で聞き返す。

「『姿を見せない天誅屋』だって」

 目を輝かせて、自分の勇名を反芻するみのり。

「なんだいそれ……少し名前の事考えた方がいいなぁ」

 まるっきり呆れ声のロボ。

「時代劇じゃあるまいし、天誅屋じゃ締まらないだろう?」

 言われたみのりは目をぱちくりと瞬かせた。

「そうかぁ、そういや名前のことは考えてなかったなあ」

 たしかに「天誅屋」などという通り名は、古めかしいし俗っぽい。それに、なんだかスズカと印象がかぶる。どうでもいい事かもしれないが……

 キャラクターがかぶってしまうのは、なにかイヤだ。

 みのりは頭をひねり出し、パジャマのボタンをつまんだ手が止まる。

「ただ……噂になってるってことは、そろそろ警察も動き出すってことだし、今は派手に立ち回らない方が良いかもしれないな」

 頭をひねりっぱなしのみのりに、ロボはもう一つの懸念を持ち出した。世間にその存在を知られたとあっては、今後の身の振り方がとても重要になる。

 少なくとも、「ぱっとしない通り名問題」よりは、よほど重要だ。

「ねぇ、学校を拠点にするつもりはないのかい?」

 この提案は、二度目だ。

「……くどいヒトだなぁ。学校なんかじゃやること無いよ」

 みのりは、前と同じ文句で、すげなく断った。

「そうかい? 何がしか苦しんでる子はいるんじゃないか? いじめとかDVとか」

 二度目だけあって、ロボはあくまで食い下がるようだ。

 そんなロボに、みのりは、いかにもうざったいという視線を向ける。

「あったって、どうにもならないじゃん。いじめっ子や暴力親父のところに銃もって乗り込んで行けっての?」

 ようやくパジャマを着終えると、みのりはベッドに上体を投げ出した。そのまま、じっと天井を仰いで、つぶやく。

「そんな単純なことなら苦労しないよ」

「そうじゃなくてさ、そういう苦しんでいる人のために相談に乗ってあげればいいんだよ」

 ロボはベッドに飛び乗り、みのりの耳元へ寄って、話しかける。

「噂を広めたら? それこそネットでも使ってさ。掲示板にナントカと書き込むと『天誅屋』――じゃダメか。まぁ名前はとにかく、謎のヒロインが現われます。とかさ」

 ロボはやけに具体的な案を持ち出してくるが、みのりは聞いているそぶりも見せない。ベッドの上をごろごろと回って、掛け布団の下へと潜り込んでいく。

 逃げるみのりの耳を追いかけながら、ロボはしつこく言い募った。

「問題を探るうちに、実力行使が必要な場面も出てくるんじゃないか? そのとき始めてアガトダイモーンを手にすればいいだろう」

「……なんなのよ、それは」

 かぶった布団から顔だけ出して、みのりは言った。その姿はまるで亀かヤドカリだ。

「犯罪と戦うばかりがヒーローじゃないってこと。そういうことは実力も経験も上の、スズカがいるじゃないか。みのりがこそこそと撃って回るより効果あると思うけど?」

 ロボはとにかく粘り強く言い含める。

「絵本のヒーローみたいなことをしろって? そんなのただのお人よしじゃない」

 みのりは枕を抱えて半身を引き起こした。ロボを睨みつけながら、その鼻先に詰め寄る。

「ぼうや、ママに叱られたのかい。とか?」

 真顔を作り、芝居がかった口調で言い放つと、みのりは再びベッドの中へ潜り込んだ。

「……まぁ、その気が無いなら、まだいいけどさ」

 ロボはため息混じりに言うと、みのりの前から羽ばたいて離れた。

「ただね、『銃のようなものを持った未登録・未成年の自警活動家』ってのが、警察に好かれるものじゃないってことは、ちゃんと理解しておいてよ」

 ロボはそう言うと、TVと明かりを消し、床に敷かれたクッションに降りて、丸くなった。

 部屋は、暗く静かな空間に変わった。光源はカーテンから差し込むかすかな街灯りと、CDプレーヤーの電光表示だけ。目が慣れないうちは、手の先も見えない真っ暗闇。

「ねぇ、ロボ?」

 みのりは頭半分だけ出して、ぼんやりとも見えないロボの方に向き、呼びかけた。

「なに? 早く寝なよ」

 ロボは振り向きもせず、もぞりと耳を持ち上げて、気の無い反応を示した。

「明日、土曜日じゃん。夜にさ、友達の家に行きたいんだけど……」

「好きにすれば」

 とつとつと話すみのりに、ロボは突き放すような返事を返す。

「もうっ、そうじゃなくてさ」

 みのりは半身を起こすと、焦れたように言った。しばしロボの座っている方を見つめ、それから、枕にどすんと頭を落とした。

「助けたい子がいるんだ」

 みのりは、闇を見つめて、ぼそりとつぶやいた。


平成17年5月28日 土曜日

 家族全員が声を揃え「いただきます」の一礼を終えてから椀を取る。畳にちゃぶ台、一同膝を正して静かに箸を運ぶ、正しい日本の食卓。

 進藤家の夕食風景である。週末は、香織がなにかと忙しく、家族と共に食事をする時間もままならないが、それでも出来る限り、揃って食事する機会を作っていた。

「香織、『天誅屋』とはもう会ったか?」

 父、健一郎がおもむろに尋ねた。紺の作務衣を纏い、折り目正しい所作で食事するその姿は、まさしく道場主にふさわしい。

「おじさんから、話は聞きました。まだ、活動中に遭遇したことはありません」

 香織は箸を止め、健一郎に答える。ポニーテールに黒髪をまとめ、身につけているのは淡い色合いのシャツにゆったりとしたチノパン。ラフな格好だが、凛とした清楚さは崩れない。

「そうか、で、どうする?」

「捕えます」

 父の問いに、香織はきっぱりと答えた。

「いきなりだな」

「結果は相手次第です。だからこそ最初から捕縛するつもりで備えますが」

 香織は言い切ると、箸をタクアンへと伸ばした。

「その子に、いろいろ手伝ってもらえばいいじゃないか。パック同士の抗争が増えて、手がかかってるんだろう?」

 健一郎もタクアンの鉢をつつく。

「まず警察に預けるのが先です。その後に彼女がバリアンツかセイバーズにでも身を寄せるのなら、それから考えればいいことです」

「相変わらず筋を曲げないな、お前は」

 嘆息交じりの父の声には応じず、香織はただ静かにタクアンを噛み続ける。バリアンツはスズカが予備メンバーとして籍を置くヒーローチームだ。拠点が千葉市と遠く、週一回の訓練の他は情報共有をする程度の立場だが、父の実績とともに、活動上の大きな後ろ盾となっている。

 娘の答えを待たず、健一郎は、白い口ひげの下にいたずらっぽい笑みを覗かせ、言った。

「その調子じゃ、滝川はさぞかし手を焼いているだろ」

「お、おじさんも今回の件で独自に動くのは構わないと……」

 吹き出すほどに慌てて、香織は言い返した。

 おじさんと言っても、別に血縁は無い。健一郎がスカルナイトとして活躍していた頃から、滝川はあくまで一人の友として、進藤家を手助けしていた。

 臨海署捜査課、パラフィジカル犯罪担当班長、滝川和彦警部。ある時は対パラフィジカル犯罪の責任者として、スズカのフォローにあたり、ある時は生活安全課の肩書きを名乗って香織たち一中生徒会の相談に乗っているベテラン刑事が、すなわち彼である。

「まぁ待て、何も叱ってる訳じゃない。実際、俺も手を焼かせたからな」

 娘の慌てぶりに、健一郎は苦笑した。

「いや、俺のほうが酷かったかな?」

 大仰におどけて見せてから、娘の目を覗う。まだ、香織の表情は固い。

「まぁ、お前は滝川の言う事をよく聞いて、その上で筋を通せばいい」

 健一郎は軽く笑い飛ばしてから、茶碗に残った飯を掻き込んだ。

 食後の茶をすすりつつ、健一郎は改めて娘に尋ねる。

「それなりに、情報は掴んでいるのか?」

「週末は長く出歩いているようです。私もそれに合わせて地底通りで網を張ります」

「銃を……持っているんですって?」

 母の多恵が尋ねた。母が活動の話に割って入るのは珍しいことだった。

「殺傷能力は無いそうです。被害者は四人ほど確認されていますが、死者、重傷者はありません。他にも不審な昏倒事件が何件かありますが、類似する変死は未だに」

 香織は、警官が上司に報告でもするかのような、事務的な口調で多恵に答える。

 控えめで、言葉少ない母が、香織には苦手だった。

 自分を抑え、決して夫の健一郎に逆らわない。四十を過ぎながら肌は少女のように白く、清楚な顔立ちの多恵は、どこか浮世離れして、自分を抑えているというより――自我の無い人形のように、香織には、見えた。

 やはりパラフィジカル能力者である多恵は、昔の事は多く語ろうとしない。

 しかし、長く制御できなかったという精神感応サイオニク能力と、そのために受けた幽閉ともいうべき隔離治療がいかに母を苛んだか、父と滝川から少しずつ聞き知ることは出来た。

 そうでなくても、母の額の大きな手術痕に、その苦しみを窺い知ることは難くない。

 だから、嫌いにはなれない。

「おじさんは目撃証言から、魔法じゃないかといっています。魔法弾体なら気配も読めるし、剣で弾けますから、別段、問題はありません」

「そうか」

 頷くだけで言葉のない多恵に代わって、健一郎がひと言、答えた。

「まぁ、そはやもいるしな」

 続く健一郎の言葉に、香織はかすかに眉をしかめた。

 香織はごちそうさまの礼をすると、母と共にてきぱきと食卓の片づけを始めた。

 洗い物が終われば、次は地底通りの掃除に出ることになっている。

 ドラッグ密売シンジケートの壊滅以来、地底通りはひどく混乱していた。だが、叩き出すべき悪党というものは、こういう時ほど目に付くところに姿を現さなくなるものだ。

 今日も、深夜までかかることになるだろう。

  ***

 土曜日は深夜まで晴れ渡っていた。ぼんやりと蒼い夜空は遥か高く、みのりの吐息を吸い込んでいく。みのりの増幅された視力は、普段なら街灯りに遮られ見ることの出来ない星々の光も捉えてくれる。常人には決して見ることの出来ない、青く、朧な光に満ちた星空。

 屋根の上からゆっくり空を見上げるのは、考えて見ればこれが初めてだ。

 みのりは携帯のメッセージを聞きながら、星を眺めていた。素足を晒すコスチューム姿では、夜はまだ少し肌寒い。

 三度かけなおしても、電話がつながらない事を伝える、電話会社のメッセージしか流れない。

「よしっ」

 みのりは携帯を切ると、勢いをつけて立ち上がった。

 いったんマスクをはずす。屋根に貼り付けたグルーブリットを命綱にして、木造二階、瀟洒な一戸建ての壁をそろそろと降りて行く。ロボはその後ろを、羽音を立てぬように滑空して来る。二階の窓の手すりに足をかけ、腰を落とした姿勢で、窓の中を覗き込んだ。

 カーテン越しに光が漏れている。青みがかった光は、不規則に明度や色合いを変える。おそらくテレビ画面の光だろう。部屋の主は、まだ起きているに違いない。

 みのりは、ごくりとつばを飲み込んだ。躊躇を振り払うように、いったん目を閉じ、それから窓をノックする。

「真紀ちゃん?」

 みのりは声を潜めて、窓の奥に呼びかける。がたりと、奥から物音が聞こえた。

「みのりだよ。真紀ちゃん、起きてる?」

 カーテンが少しだけ開いた。中から緊張した真紀の目がのぞく。外がはっきり見えないのか、みのりの影を認めても、まだいぶかしい様子だ。

 みのりは顔を窓ガラスすれすれに近づけた。にかっと、いたずらっぽい笑みを見せる。

 窓越しに、真紀の口がわずかに開くのが見えた。「うそ」とつぶやいたようだ。みのりの顔を見て、ようやく警戒の色が消えるが、戸惑いは薄れてはいない。

 真紀が、おそるおそる窓を開いた。

「ごめんね、こんな時間に」

 みのりは片手で詫びる仕草をしてから、上半身を窓から乗り込ませた。

「ど、どうしたの?」

 真紀はかなり動転した様子で、おろおろと立ち尽くしている。

 テレビ画面の青白い光が、真紀のくすんだ肌を照らし出した。二重のパッチリとしたまぶたも、どこか腫れぼったく、今は奥二重に見える。くたびれたデニム地のシャツに、裾の長いスカート、ほつれた三つ編みにも艶がない。生気の無さが、全身に滲み出している。

 たった二週間ぶりに会う真紀の変わりように、みのりは一瞬たじろいだ。じわじわと染み出してくる罪悪感を振り払って、精一杯、明るい声で真紀を呼ぶ。

「助けに来たよ! 真紀ちゃん!」

「え……?」

 みのりが差し出した左手と、大げさなほどにこやかな顔とを、真紀は交互に見返している。

「ちょっと、土足で失礼」

 真紀がためらっているのを見て、みのりはするりと部屋の中へ滑り込んだ。カーペットを踏まない様に注意して、膝から降りてぺたりと座り込む。

「携帯ある? さっき電話したら、電源切れてるみたいでさ」

 真紀は戸惑ったまま、机の脇にかかったかばんから、携帯電話を取り出した。電源ボタンを押すと、みのりの顔と、みのりのからの不在着信が表示されている画面とを、何度も見返した。

「じゃあ、おでかけしよ。その携帯持ってさ!」

 みのりはそう言うと、きょとんとする真紀を尻目に、背負っていたバックパックから自分の携帯電話を取り出した。次に、窓の外に手招きしてロボを室内に呼んだ。

 驚きっぱなしの真紀の目は、耳で空を飛ぶ小犬――ロボの姿に、さらに見開かれる。

「ほい、ロボ。留守番お願いね」

 みのりは携帯電話をロボに向かって放り投げた。

 前足で器用にキャッチしてから、ワンテンポ遅れで、ロボは驚いた。

「ええっ?」

「家の人が部屋に入って来るようなら、すぐ連絡してね。飛んで帰るから」

 みのりに意図を説明され、ロボは不承不承、頷く。

 真紀は二人、というか一匹と一人のやり取りを、呆然と聞いていた。

 ロボがベッドに潜り込んだ事を確認すると、みのりは爪先立ちで窓へ向かう。手すりによじ登り、笑顔と共に、真紀にその手を差し出す。

「みのりちゃん、ど、どういうこと?」

 勢いに流されるままに、真紀は差し出されたみのりの手を取った。そのまま、みのりは真紀をぐるんと窓の外へと抱き寄せる。

「言ったでしょ。助けに来たって」

 みのりは真紀の腰をぐっと抱え、グルーブリットを向かいの家の屋根に向けて打ち出した。

「私ね、ほんとはスーパーヒロインだったんだ!」

 驚く真紀に、みのりは得意満面の笑みを見せた。

 みのりの前髪のくせっ毛が、その威勢に弾かれるように、跳ね上がる。

 ――相変わらずのみのり――真紀は思わず、くすりと吹き出した。

 みのりは、左手で真紀の腰を抱き、魔法銃から伸びるゴムのロープで、ターザンよろしく住宅街を飛び回る。自分より頭一つ背の高い真紀を抱えながら、びゅんびゅんと風を切っていく。

 最初は、眼をつぶってみのりにしがみついていた真紀も、ぶんぶんと振り回されるうちに、過ぎ行く夜景に目を向け、胸を高鳴らせていった。

 五分ほど飛び回って、小学校の体育館の屋根にたどり着いた。屋根の上に腰を下ろし、懐かしい校庭を見下ろす。そこは、二人の母校だった。

「ごめんね。外の噂なんて、まるで分からなくて……」

 謝る真紀の表情には、もう恐れも戸惑いも無い。このひと月以上、無気力と怯えに濁っていたであろう真紀の瞳は、今は心地よい興奮に輝いていた。

 みのりは、ロボと出会ってからの事を、真紀に話して聞かせた。真紀は、みのりの語るロボの愛らしさに何度も頷き、驚異の魔法銃に驚き、悪党へ放たれたお仕置きの銃弾に胸を躍らせ、なにかと屋根から落ちるお茶目なスーパーヒロインの姿に頬をほころばせてくれたのだった。

「あ、いいのいいのっ。私だって本当は秘密にしておきたいんだよ。こんなに噂になってるなんて、考えもしなかったもん」

 手を振ってみのりは真紀の詫びを遮った。真紀が元気付く様子を見て、みのりの声も弾む。

「名前は無いの? 天誅屋じゃなくて」

「いろいろ考えちゃいるんだけど、私ってセンス無いからさー」

 真紀の問いに、みのりは苦笑して答える。

「なんだったかなぁ。確か、みのりちゃん子供の頃に名前決めてたよね」

 真紀は人差し指を振って、幼い日の記憶を掘り起こしているようだ。

「……だっけ?」

 みのりはなんとなくいやな予感がして、思わず眉をしかめた。

「あ、そうそう。ミスティ・ミリィ! ミスティチーム5人目の戦士とかって」

 人差し指がいったん止まって、それからみのりの鼻先にドンと向けられた。

「みのりだからミリィなんだよね。たしか」

 真紀の人差し指を、みのりは苦い顔で見返し、それからおもむろに頭を抱えた。

「うひゃーっ。かんべんしてよ~」

 大仰に悶絶してみせてから、頬杖着いてみのりはつぶやく。

「あーあ、私ってやっぱりセンスないな」

「そんなこと無いよ。結構、らしいじゃない?」

 そう言って、真紀はくすくすと笑った。改めて、みのりの姿をしげしげと見回す。

「でも、ほんとにスーパーヒロインになっちゃうなんて。びっくりした」

 感嘆のため息をつきながら、真紀は言った。

「パラフィジカルなものなんて、けっこう身近に転がってるもんなんだよね」

 みのりはそう言って顔を上げ、へへへとはにかむ。

 銃がみのりの手に入った経緯は、真紀もよく知っているはずだ。道端での拾い物。犬も歩けば棒に当たるといったところだ。いや、この場合、に当たったというべきか。

「覚えてる? 日曜とか公園行くと、いつも小さい男の子達がつっかかって来てさ」

 真紀は、外灯に照らし出される校庭のジャングルジムを見下ろしながら、昔話を切り出した。

「違うよ、真紀ちゃんその頃から背が高かったんだよ。男の子達だって、私とそんなに変わらなかったと思うけどなー」

 みのりもジャングルジムに目を向け、その上に幼い自分達の姿を重ねる。

「うそうそ。みのりちゃん、そいつらよりも、もっと背が低かったよ」

 肩をすくめて苦笑するみのりの傍らで、真紀は遠い目のまま、話を続けた。

「だけど、私が泣かされてるとすぐ、その銃もって飛び込んできて、いじめっ子をぽこぽこ殴っちゃうんだよね。なんだかさ、銃なのに鈍器扱いなの」

「ははは。弾出なかったんだからしょうがないよね」

 みのりは頭をかいて、真紀に向き直った。

「私の方がずっと背が高かったのに、てんで泣き虫で、代わりにみのりちゃんが自分より大きな子に向かっていって……」

 みのりが見守る中、真紀は徐々に自分の手元へと視線を落としていく。

「私、みのりちゃんに守られてばっかりで……」

 真紀の肩ががくりと下がり、膝の間にうずもれた口元からは、もう言葉が続かない。

「……ごめんね、真紀ちゃん。ごめん」

 みのりは、ようやく言うべき言葉を口にした。

 そもそも、こんな夜更けに真紀を連れ出したのも、このひと言のためだ。コスチュームでなら、心のままを口に出来ると思ったのだ。それでも――うなだれた真紀のうなじを見ていると、遅すぎたと悔やむ思いが、みのりの心をじわじわと締め付ける。

「う、ううん。いいんだ。悪いのはわた、わ」

 真紀の言葉はノイズにさえぎられるように、途切れた。肩が小刻みに震え、カチカチと歯の根が鳴った。みのりはその手を、そっと真紀の背に当てた。みのりの体温が伝わると共に、真紀の震えは静まり、代わって嗚咽の波が背中から掌に伝わってくる。

「真紀ちゃん。もう帰ろう?」

 真紀の返事は待たずに、その肩を抱き起こした。

 来た時と同じように、真紀の胴を左手でしっかり抱え、屋根から屋根へと飛び移っていく。時折ビルを見つけては、グルーブリットを飛ばして振り子のようにスイングする。ぶんぶんと振り回されるうちに、みのりの肩にしがみつく真紀の涙は止まっていた。

「……みのりちゃん。ありがとう」

 真紀の言葉が、みのりの肩に染み込んだ。

 家に着き、真紀を窓から部屋に差し入れる。

「おかえりー」

 ロボはベッドから顔を出すと、待ちくたびれたというようにみのりに飛び寄ってきた。この様子だと、家人は部屋に入って来なかったようだ。

 みのりの肩にとまったロボを、窓の中から真紀がもの欲しそうに見ていたので、しばし抱かせてあげる。ロボに頬ずりする真紀の、満足そうな笑みはありがたいが、民家の窓に取り付いた状態では、残念ながらいつまでも立ち話とはいかない。

「そうだ。ちょっと待っててもらえる?」

 真紀はそう言うと、ロボを抱いたまま、奥の勉強机に駆けて行き、引き出しからなにやら取り出して戻ってきた。ロボを放して、みのりに開いた掌を見せる。

「これって?」

 真紀が差し出した掌を覗き込んで、みのりは尋ねた。乗っているのは小さな、金属製のバッジだった。その水色と、水滴のような形に見覚えがある。

「忘れた? ミスティ・レインのバッジ」

 真紀の口から、思いがけず、懐かしい名がこぼれた。

「胸元が寂しいと思って。ふつう、星のバッジとか付いてるじゃない?」

 真紀は、コスチュームのアクセントに、このバッジをくれると言うのだ。

 小1の頃の玩具をすぐ出せる所に取っておいた真紀の、物持ちの良さに、みのりは驚いた。

「あ、ありがとう」

 みのりはバッジを手に取ると、ベストの胸元に刺した。

 幼い日々のささやかな冒険。そのドキドキが、みのりの胸に蘇る。

「カッコいいね!」

 街灯りに鈍く光るバッジを突き出して、みのりはにんまりと微笑んだ。

「ねぇ、みのりちゃん」

 真紀も笑みを浮かべて、それから、ためらいがちにみのりを見上げて言った。

 窓の手すりにしゃがむみのりは、いつもと違って、真紀から見上げる格好になっている。

「携帯、ちゃんと電源入れておくからね」

 おずおずと見上げる真紀に、みのりは気前よく笑って答えた。

「うんっ、明日また電話するよ!」

 真紀に手を振りながら、窓の手すりを蹴って跳び上がる。

 家々の屋根を飛び渡るみのりの横顔を、ロボは満足そうに眺めて、一緒に家路を急いだ。


平成17年5月29日 日曜日

 真紀と再び連絡を取ることにしてから約十七時間。時間はきっかり午後5時になるところだ。まだ一回も電話を入れてはいない。せめて昨夜と同じ時間に電話をすれば良いのだろうが、それだけで済ませるのも気が引ける。

 タイミングを見て電話なりメールなり連絡しようと思っても、この状況ではなかなか出来るものではない。なにしろ友達と映画を見に来ているのだから。

 外出先が映画館であること以上に、連れ立っている友達の方が問題なのだ。言うまでも無く、古沢とその取巻き達である。いや、取巻きというのならみのりもその一角を占めているから他人事のようには言えない。

 そして、室田真紀も、半月前までその取巻きの一人だったはずだ。

 劇場の椅子についたみのりは、スクリーンをところせましと駆け回るCGカトゥーンを目で追いながらも、背後から聞こえる古沢の気楽な笑い声が気になっていた。

 後ろめたいような、腹立たしいような、そんな落ち着かない思いを感じていた。

 先月みんなで映画に来た時は、真紀が隣にいて、いっしょに屈託無く笑いあっていたはずだ。

 シネコンから出て、おやつに選んだタコスタンドに入るまで、ずっといらいらと気になっていたが、おなかが埋まる頃には苛立ちはおさまって、愛想笑いと、取巻きの心得を取り戻した。

 ――自分は上手くやっている――

 いつの間にか、苛立ちは奇妙な高揚感にすり替わっていた。

 こうしている間も、手にしたバッグにはコスチューム一式、そして宝玉にロボが納まっている魔法銃が隠され、その出番を待っている。古沢たちと食事をしている間も、思い起こすのは高みから見下ろす夜景と、頬をかすめる風の冷たさだ。

 かつて独り占めにしていた夜の秘密を、今は共有する友達がいる。息の詰まる昼の地上から、二人きり、解放される夜の空へ――

「この後どうする、春日井」

「へ?」

 問いかける鷹森の声に、みのりは昼の地上へ引き戻された。

 気付けば、鷹森は呆れたように、みのりを見返している。

「あ、なに? これから?」

 みのりは慌てて身を乗り出した。

 よく聞いていなかったが、今日これからの予定を話し合っているらしい。

「最近ぼっとしてるよね」

 加瀬が興味深そうにみのりを覗き込んだ。

「大丈夫か春日井」

 尋ねる古沢に、みのりは焦りとわずらわしさをひた隠して向き直った。

「ごめん、最近……」

 通りから響いてくるけたたましいサイレン音に、みのりの言い訳はかき消された。店中の注意が表の通りに向く。二台のパトカーが連なって走り抜けていくところだった。

「なんだろ?」

 みのりもとっさに、窓の外に視線を向ける。

「パトカー二台か……」

 口調は落ち着いているが、古沢も好奇心を募らせているようだ。

「結構大事じゃない?」

 皆に同意を求める鷹森は、すっかり興味津々のようすだ。

「あ、親から電話入ってる」

 みのりは、おもむろに携帯電話を取り出し、聞こえよがしにつぶやいた。液晶にはいつもの待ち受け画面しか表示されていないが、皆には見えていないはずだ。

 家の番号にかけなおし、留守番電話のメッセージ相手に相槌を返す。

「ごめん、帰って来いってさ。なんか急ぎみたいだから先に帰るね」

 みのりは大仰にわびる仕草をして立ち上がった。

「ふ~ん」

 古沢は怪訝そうに鼻を鳴らした。隣に座る笛吹が、探るような視線を送っている。

 みのりの脳裏に迷いが走った。電話の嘘がばれたか、それとも母親に呼ばれたくらいで友達の和を乱す、幼稚なヤツと思われているのか。

「どしたの」

 鷹森の方はたいした不審も抱かないようで、気安い調子で聞いてくる。

「えっと、あ、いっしょに出かける約束で、私、時間を間違えてたみたい」

 ままよ。みのりは芝居の不自然さを、強引に押し切ることに決めた。

「じゃね。また明日っ」

 これ以上の問答はボロが出る。みのりは別れの挨拶も早々に、店外へと飛び出した。

 足早に路地裏へ回り込み、辺りを覗う。周囲に人の目がない事を確認して、かばんから銃を取り出した。引き金を引いて、管理者、ロボを呼び出す。

「どうしたの。なにか事件かい?」

 緊迫した面持ちのロボに、みのりは声を弾ませて耳打ちした。

「たぶんね。パトカー二台分のちょっとした事件なのは、確かだよ」

  ***

 二台のパトカーは、中央通りを横切って、地底通りの裏へと突入し、封鎖線を抜けて一軒のパチンコホール前に停車した。既に閉店したまま次の借り手も無く、大量のパチンコ台もそのままに放置されていたホールの周囲は、いまや騒乱の巷と化していた。

 押っ取り刀で駆けつけたパトカーの助手席から、年配の刑事が降りてきた。それに続いてセーラー服の少女がマントをはためかせて後部座席から飛び出す。滝川警部と斬鬼のスズカだ。

「何人だ?」

 ずかずかと包囲網を掻き分け、状況報告を求める滝川に、機動捜査隊の刑事たちが答えた。パチンコホール内に立てこもり、抵抗を続けているのは未成年の男、四名。

 彼らは移動中、出会い頭的に検問に引っかかっり、車内のスタンピード数十グラムを発見され、しばしのカーチェイスの後に車を捨て、この廃墟へと飛び込んだ。つかの間の膠着状態の後、追い詰められた彼らが、まさに今、打って出たところだった。

 すでに濛々たる催涙ガスの煙のなかで、怒声と電撃とパチンコ台とゴムスタン弾が飛び交う。対パラフィジカル装備に身を固めた機動隊員と、立てこもり犯との激突が繰り広げられているのだ。どうやらホール内には電撃能力者と怪力の持ち主がいるらしい。未成年四人に五倍の機動隊員が投入されているにも関わらず、収拾のめどはついていない。

 滝川の傍らで報告を聞いていたスズカは嘆息を漏らした。

「ガイロスですか」

 報告に上がっていた犯人の名前は、全てスズカには耳慣れたものだった。四人が四人ともパラフィジカルであり、リーダーを含むガイロスパックの上位メンバーばかりだ。

 つい最近まで有明のみならず湾岸一帯に覇を唱えていたガイロスパックも、後ろ盾となっていた海底人マフィアをラー神殿から引きずり出されて以来、弱みに付け込む格下のパックから突き上げを食らっていたことは、スズカも知っていた。

 しかし、こんな風に幹部が少人数で警察に囲まれるなどと言う失態を犯すほどに、追い詰めらていたとは、凋落の原因を作った当のスズカでさえ、予想し得ない事だった。

「スタンピードも使っている。今までとは違うぞ。気をつけろ」

 スズカは滝川の言葉に一つ頷くと、鬼面のガスマスクを引き出した。光剣の輝きを両の掌から放ちつつ、包囲の強化プラスチック盾を飛び越えて一気に煙幕の中へ突入する。

 パチンコホールの破れ窓からから、自分に向けてミサイルのごとく放り投げられたパチンコ台を、スズカは空中で一刀の元に切り捨てる。着地と共に身をかがめて駆け出し、耐電シールドを構える機動隊員の脇を、電撃をかわしつつすり抜ける。

 山と積まれたパチンコ台のバリケードを十文字に切り裂き、陰に隠れて電撃を放っていた禿頭の少年に肉薄する。スズカはとっさに剣の硬度を落とした。高電圧にポニーテールを逆立てながら、電撃に防護スーツが耐えられるわずかな時間に、非殺傷の一撃を加えて昏倒させる。

 発電少年が倒れると同時に、直立する人間大のザリガニ――若い戦闘種族海底人――がパチンコ台を叩きつけてくる。難なく避けたスズカの背後で、機動隊員が一斉にゴムスタン弾を放ち、その長いひげを叩きのめす。キチン質の顔面を押さえてうめくザリガニ男が立ち上がる前に、スズカはその首筋をしたたかに打って眠らせた。

 包囲する警官隊の怒号がにわかに増したのを聞きつけると、スズカは瓦礫を足場に、パチンコホールの屋根へと跳び上がった。ガスマスクを解除し、周囲を見回す。数軒先のビルの屋上を走る、長髪痩躯の少年の姿が見えた。ホールの裏口では光の銛を打ち出すパラフィジカル能力者と機動隊員がバリケード越しの銃撃戦を展開している。スズカはわずかな逡巡ののち、警官隊に援護は不要と判断して逃げた敵に集中することにした。

 スズカは、自分の突入と同時に、屋上に回りこんだパラフィジカル能力者の気配を察知していたのだ。下階の敵には最低限の時間で対処したつもりだが、逃亡者には既に数百メートルまでの逃走を許してしまった。

 幸い、光るロープを伸ばしながら屋上伝いに逃走する犯人を、地上の警官隊が捕捉しているので追跡に支障はなかった。スズカは滝川からの無線も頼りにして、数ブロック先のビルの屋上で追いつくことが出来た。

「落ちぶれたものだな、スクウィッド」

 スズカは迎え撃つ光の鞭を払いのけ、逃亡者の前に降り立った。

「てめぇのせいじゃねえか! がさがさの陸棲女がぁっ!」

 スクウィッドと呼ばれた長髪の少年は、指先から伸びる光の触手を蠢かせ、仇敵の少女を威嚇する。十指から伸びるこの光の触手こそが烏賊スクウィッドの名の由来であった。

「身内には情の厚い男だと思っていたが。買いかぶっていたようだ」

「ドンキーだ!」

 スズカの皮肉を打ち消すように、スクウィッドはその名を叫んだ。端正な顔が憎悪に歪む。

「あのクズどもに借りを返さねぇ内は、てめぇの相手をする暇だってねぇんだよ!」

 未成年の海底人を中心に構成されたガイロスパックは、同族意識から来る強固な結束がその最大の武器だった。自らスタンピードを呷り、囮としてスクウィッドの逃走を助けた幹部達も、納得ずくでリーダーに復讐を託したのであろう。それはスズカにも分かってはいた。

 だが、胸にくすぶる同情は深く鎮め、ただ、剣先をスクウィッドに突きつける。

 吠え立てるようにムー語交じりの罵声を吐き散らしながら、スクウィッドはスズカからじりじりと間を広げていく。四方八方に広げた十本の光の触手がスズカの接近を阻むべく蠢く。

「――ガンテの野郎が、川崎でヘンな小僧を拾って来てからドンキーの連中はっ」

 不意にスクウィッドの言葉が途切れた。背中に衝撃を感じたのか、少年はうめきと共に背をえび反らせる。十本の光る触手が波打つように震えた。

 その直前、スズカの眼球の奥に引きつるような違和感が生じていた。

 スズカは一気に間を詰め、スクウィッドの延髄をしたたかに叩く。スクウィッドはうめきながら、前のめりに倒れこんだ。どさりと言う振動と共に、光の触手も消滅する。

 悶絶しているスクウィッドにスズカは注意深く近づく。胸元から、掌ほどの円盤状のケースを取り出した。拘束用の粘着テープである。

 また、スズカの目の奥が引きつる。とっさにその場から飛び退けた瞬間。

 今度は灰色の粘着質の塊が、少年の背を襲い、屋上にべったりと固定した。

 見るべき方向は本能が知っている。スズカは隣の一段高いビルに目を向けた。

 屋上看板の手前には、果たせるかな、スズカに向け得意げにガッツポーズを送る、小柄な人影があった。その手には、銃と思しき長方形の影が見えた。

 視床下部の違和感は、かの人影が発する、物理現象に干渉する精神エネルギーに原因があった。いわゆる「念動力」や「魔法」に類する超物理エネルギーを感知する能力が、スズカには、生得的に備わっているのである。それは精神感応者である母からの贈り物であった。

 銃と魔法。スズカの脳裏には、思い返すまでも無く一つの通り名が浮かんでいた。

「お前が天誅屋か?」

 手を振る影に呼びかける。聞いていた話どおり、相手は目元をマスクで覆った少女であった。

「知ってるのーっ?」

 少女はにこにこと、弾む声で尋ねた。

「探していたからな」

 少女をねめつけ、スズカは冷たい声で答える。それからひょいと隣のビルへと跳び上がった。

 射手の少女と同じく看板の前に降り立つ。モノトーンのアパレルの看板を背に、スズカと射手とが対峙する格好になった。

 真下を行き交う車のエンジン音が、遠く響く。後は、看板の上で時折カラスが足音を立てるばかり。裏通りからスズカを追跡しているであろう警官隊は、まだ追いついていないようだ。

「あ、あの、スズカ……さん、だよね」

 しばしの沈黙を破り、少女は手袋に包まれた左手を差し伸べる。

 見れば「天誅屋」は自分と背格好の変わらない少女だ。何処にでもあるキュロット、シャツ、その上に革のベスト。ベストの胸元には、本物よりもふた回りも小さい、ミスティ・レインのエンブレム。材質もダイキャスト辺りの安いものだろう。そして手縫いと思しき目元のマスク。

 見るも安っぽい、せいぜいが西部劇のコスプレといったところだ。

「何者なんだ、お前は」

 スズカは握手を返す代わりに、剣を突き出し、歩み寄ろうとする射手の少女を制した。

「み、味方だよ?」

 突きつけられた光の剣先を前に、少女は狼狽もあらわに答える。

「な、名前は……まだ無いけど」

 上目づかいに少女は言った。

「悪いことは言わない。私と警察に来い」

 スズカの言葉に、少女はしばし呆然と見返すばかり。

「あ、そうか犯人突き出すんだよね? でも私、警察はちょっと……」

 ようやく少女は頷いた。事態がまるで飲み込めていないのか、それともとぼけているだけなのか。スズカは射るような視線を崩さない。

「甘えたことを言うな。お前未成年だろう。その銃を警察に預けろといってるんだ」

「へ?」

 マスクからのぞく少女の目は、鼻先に迫る剣先の光を受けて、狼狽の色を強める。

「今ならまだ訴追されるほど大事になってはいない、さしたる咎めもないはずだ」

 スズカは少し息を抜くと、声の調子を和らげて言った。

「な、なに、何を言ってるの」

 ようやく抜き差しならない状況を理解したらしい。少女は愛想笑いを浮かべていた口を、一転尖らせ、その手は銃把を握りなおした。

「手向かうようなら容赦はしない」

 鬼面の下の、スズカの目にも緊張が走る。

 少女の銃を一瞥すると、少女に向けてあごで指し示した。

「言っておくが、お前は既に銃刀法違反の、立派な触法少年なのだからな」

 少女は、ピクリと動きを止めた。よほどの驚きだったらしく、小さな唇がぽかんと半開きになり、ご丁寧にも、前髪がひとすじ間抜けな調子で跳ね上がる。

「え、だだだだ、だってこれ、ほ、本物の銃じゃないよ?」

 急に銃を持ち上げた少女の右の拳を、スズカの剣も切っ先で追う。銃口はスズカの方ではなく、空へと振り向けられた。左手は人差し指で銃を指している。少女に降伏の意図はないようだが、両手の位置は、いわゆる「ホールドアップ」の格好になった。

「魔法武器か? ならば入手経路によってはパラフィジカル技術管理協約に抵触するぞ。国際法違反とは恐れ入ったな」

 少女の手にしていた黒い銃は、スズカには初めて見る武器だったが、造作の雰囲気には見覚えがあった。自分の属するチーム、バリアンツが保管するデータベースに、似たような装飾の入った魔法武器が数多くファイルされている。

「ええええ?」

 スズカは、少女の素っ頓狂な声に逆に面食らい、しばし言葉を失った。

「……冗談だ、警察もそこまで大事おおごとにはしないだろう」

 なんとも調子が狂う。

「ちょ、ちょっと待ってください」

 ふいに少年のような声に呼びかけられ、スズカは少女の脇へと視線を向けた。

 見れば少女の足元に隠れていた、チワワほどの大きさの生き物が歩み出てくるところだった。白い体毛で、犬のような姿をしているが、耳が身体を覆うほど大きい。

「なんだ。妖精か?」

 スズカは現われた小犬状の生き物に問いかけた。視床下部の疼きが一段と増す。間違いなく魔法によって生存する生き物だ。

「え、ええ、妖精界の使者です。か、彼女も妖精の創造物で、本当は人間ではないんです」

 「小犬」は緊張した声でスズカに答えた。隣の少女は驚いた様子で「小犬」を見下ろした。

「なぜ妖精界が。原則不干渉のお前達が、ただのチンピラを追う必要が何処にある」

 スズカはあまり多くない妖精の知識を総動員しながらも、畳み掛けるように「小犬」を問い詰める。犬の口から人語が発せられる程度の奇怪事はスズカには慣れっこだが、それでも相手が妖精となると対応にも緊張が強いられる、というものだ。

 個々の妖精の能力の強大さ。加えて、決して人界と組織的な交わりを持たず、そのくせ魔人との戦いに有形無形の援助を惜しまないという、彼らの気まぐれな秘密主義。長く地球人の味方と認識されてきた彼らは、それでも多くの防衛機関にとって不気味な存在であり続けた。

「そ、それは、ひ……機密です」

 スズカの詰問に押し切られるように、「小犬」は口ごもった。

「疑わしいな。彼女のなりでは、よく見ても能力覚えたてのヒーロー志願者だ。とても強大な妖精界を背景にしているとは思えん」

 半分はブラフだ。スズカの少ない経験では妖精のエージェントにふさわしい姿かどうかなど判断し得ない。ただ、自称「妖精界の使者」たちの落ち着かない様子を見るにつけ、彼らが、なにがしかのウソをついていることには確信が持てる。

「いずれ私だけでは判断できん。警察がイヤな千葉のフェニックスシティへ来い。バリアンツの主力メンバーなら、何度か妖精にも出会っているからな」

 話が進まないと思ったスズカは、思い切って先輩達に頼ることにした。そもそも他の自警活動家への説得など初めての経験で、どうにも勝手がつかめないのだ。

「バリアンツ?」

 少女と「小犬」とが声を合わせて聞き返してきた。

「知らなかったのか。私は予備メンバーなんだが」

 前述のとおり、スズカが自警活動を認められているのはバリアンツの後ろ盾あってのものだ。

 そもそも彼女は所轄の臨海署に自警員登録をしていない。公に警察へ正体を明かすことをためらったからだ。父の進藤健一郎、すなわちスカルナイトΣも公的には正体を明かさぬまま引退した。なればこそ、父も娘の判断には反対せず、知己のヒーローチームに加入させた。

 それがバリアンツだ。

 バリアンツは平成3年に誕生したヒーローチームで、日本有数のパラフィジカル技術企業、スザクPSTの後援の下、東京湾千葉市沖の海上研究施設「フェニックスシティ」に本部を構えている。歴史は浅いが、バックに付く大企業スザクの影響力もあって、今や巨大ヒーローチーム「セイバーズ・スクワッド」に並ぶ、国内ヒーローチームの双璧と認められていた。

 セイバーズ・スクワッドでは、メンバーは皆、巨大コンロマグリット、バンドウが出資する自警機関の雇用者である。上意下達の命令系統の元、五人前後のチームに振り分けられ、統一デザインのコスチュームと装備を与えられる、ある意味、たいへん日本的なチームである。

 それに対し、バリアンツはアメリカ型のスーパーヒロイズムを理想としている。チームメンバーは皆、対等な共闘関係にあり、それぞれのスタイルや方針を最大限尊重する、という活動形態をとっているのだ。

 自己のスタイルを押し通しながら、他のヒーローや警察との連携を確保したい進藤親子には、バリアンツしか選択の余地が無かったとも言える。

 バリアンツ等の公認ヒーローチームにメンバーとして認められれば、警察への登録無しでも、慣習的に自警員としての活動が認められる。今、警察でスズカの正体を知るものは、滝川も含め、建前上は一人もいないことになっていた。

 ……と、そんな事情は一片とて知らないのだろう。自称、妖精界の使者たちは目をぱちくりとさせてスズカを見返している。

「ヒーローごっこをするにしても、少しこの稼業を勉強してからの方がよかったな」

 まさかバリアンツを知らない訳でもあるまい。確かに予備メンバーであるスズカはいわば正規メンバー候補として修行中の身であり、表に出ることは稀だったが、スズカが加入していることはチームのホームページでも公表されている。

「な、なによ……私と何歳いくつも違わないくせに」

 勉強といわれてカチンと来たのか、少女はマスクの下の頬を膨らませた。

「好きに言え。とにかく今のお前には分不相応な力としか思えん。放って置けば、お前にも、この街にとっても、いい結果にはならん」

 スズカは剣を少し引き、少女に左手を差し出した。銃を渡せという合図だ。

「だ、だからそれは……」

 少女は気おされたように、じりじりと後ずさる。

「問答無用だ。返事を待ってくれとは言わせんぞ。はなから連絡先を明かすつもりなどないのだろう?」

 スズカは語気を強めて少女に詰め寄る。正直、少しじれ始めていた。

「一応、自警活動家だと思えばこそ、こうして説得しているのだ」

 看板の上から、おもむろにカラスが飛び立った。

 周囲が騒がしい。階段を登る大勢の足音に混じって、時折、怒号のような指示の声が聞こえてくる。ようやくスズカに追いついた警官隊が、このビルと周囲に展開を始めたのだ。

 握った銃を向ける先も定まらぬまま、少女はおろおろと立ち尽くしている。

「い、行こう、バリアンツに出頭する!」

 「小犬」が震える声で言った。

「冗談!」

 少女は相棒に怒鳴る。

「な、何でだよ!」

 「小犬」は、まるで意外だというように、声を荒げて聞き返した。

「相棒は説得不能か」

 そう言って、スズカは冷ややかな眼を「小犬」に向けた。

「か、彼女は混乱しているだけなんだ! 時間をくれ、僕から言って聞かせるから!」

 「小犬」はスズカの前に飛び出し、必死の嘆願を言い募る。

 スズカは、視界のど真ん中に飛び込んできた「小犬」の懸命な目の色に、一瞬気おされた。

 その隙に、少女が駆け出した。共謀か、独断か、少女は相棒の「小犬」を盾に、スズカに背を向け一目散にビルの縁へと駆けていったのである。

「なっ?!」

 狼狽に言葉を詰まらせつつも、「小犬」は少女を追って、慌てて羽ばたいた。

「逃がすか!」

 スズカは一気に「小犬」を追い越し、少女の背に迫った。

 少女は振り返りもせず、屋上の縁から、隣のビルへと跳躍した。スズカも追って跳ぶ。

 二つ、三つと飛び石が水面を切るように、少女とスズカはビル街の最上層を駆ける。足下の警官隊やいつのまにか増えていた野次馬のどよめきに煽られるなか、両者の距離はわずかずつ縮んでいく。

 追い詰められたと察したのか、少女は引きつった顔を振り向かせた。

 おののく少女が、顔の前に突き出した銃口。三度、電光が瞬いた。

 脳が捉えた弾道の気配を追って、スズカは剣を振る。

 剣の描く光の弧に沿って、三度、火花が弾ける。

 スズカが魔法弾を弾いた直後、少女が姿を消した。気配が一気に下へと遠ざかっていく。屋上から飛び出し、地上へと急降下していったのだ。ここは、十階は越すビルの屋上だ。身を投げたわけでもあるまいと思いつつ、スズカは屋上の手すりに飛びつき、下を見回した。

 少女は灰色のロープに引っぱられ、はす向かいのビルへと飛んでいくところだった。気づけば空飛ぶ「小犬」も追いつき、少女の脇を飛んでいる。

 追えるか、追えないか、微妙な距離だ。

「追い詰めすぎた……か」

 ひとりごちるスズカの背に、羽音が響いた。

「逃げられましたな」

 いつの間にか、スーツ姿のそはやが立っていた。

 スズカは無言で踵を返すと、傍らのそはやには目をくれずに歩き出した。

「私なら、今からでも追えますが」

 そはやの声に、スズカは苛立たしく振り返って、突き刺すようにその指を向けた。

「父さんはお前に頼れと言ったが、私は御免だ!」

 そはやは気安い苦笑を浮かべ、いきまくスズカを黙って見下ろしている。

 まるで応えない様子のそはやに、さらにスズカは苛立ちを強めた。

「くれぐれも手を出すなよ、怪人め!」

 ――一年前、香織がスズカとして活動を始めるにあたって、父から贈られた装備一式の中に、一振りの太刀が添えられていた。刃引かれていない、つまり殺傷能力を持つ真剣を前にして戸惑う香織へ、お前の護衛だ、と健一郎は言った。

 その言葉と共に剣は掻き消え、代わって黒いスーツの男が、忽然と現われた。

 そはやと名乗ったこの男は、実体は千年の時を生きた魔剣、すなわち妖怪なのだと言う。父は信頼している様子だったが、香織は、挨拶するそはやの笑みに、どこか不吉な気配を感じていた。

 後に聞いた滝川の話で、その忌避感の由縁を知った。

 このそはやという怪しげな男は、かつて文字通りの怪人としてタイタンに仕え、父と激しい戦いを繰り広げてきたというのだ。幾度もの死闘の果てに、タイタンの呪縛を破られ、そはやは父を、スカルナイトΣを正当な所有者と認めたというのだが……。

 慇懃ながらも、どこか人を見下したそはやの態度を見るにつけ、言いようの無い気味の悪さを、香織――スズカは感じずにはおれない。

 スズカは返事も待たずに背を返し、非常階段へ向けて再びつかつかと歩き出した。

「よろしいでしょう」

 主に聞かせるでもなく、そはやは言った。その口元に、さも、面白くてたまらないといった笑みが浮かぶ。あるいは、可愛くてたまらないといったところか。

「では、お手並み拝見ということで」


第5章『フーデッド・ウルブズ』


「昔むかし、魔法世界ウィズアースの人々は、魔人たちとの戦いに明け暮れていた。大地には魔人の呪いが生み出した獣人が溢れかえり、人々はその荒々しい力に脅えて暮らしていた。

 その中に、人々が最も恐れる獣人がいた。身の丈3メートル近い巨大な人狼。真っ白なたてがみが王のマントのように、その逞しい首を覆っていた。

 獣人は怪力の持ち主で剣の腕も立つ。その上、強大な魔力を秘めていて、口からは炎の息吹を吹き出すんだ。人間の勇者達はおろか、魔人すら一人では太刀打ちできない、無敵の怪物だ。

 そいつは自ら魔獣王と名乗った。魔人にも人間にも組せず、獣人の軍団を率いて、自らの欲望のままに諸国を荒らしまわった。

 魔獣王を倒すべく、まず人間の軍隊が、次に魔人たちが順に襲いかかった。それぞれ獣人の軍団を蹴散らすことは出来たが、魔獣王を討ち取ることは、どうしても出来なかった。

 どうして一斉にかからなかったかって? そりゃ、魔人たちは他人と協力するのが大嫌いだったからさ。魔獣王と同じで、魔人はとてつもなくわがままなんだ。

 いつも寸でのところで逃げおおせる魔獣王は、すぐに軍団を立て直して、再び暴れまわった。いたちごっこが続くたび、一番傷つき弱っていったのは、人間達だ。

 このままでは人間は滅び、ウィズアースは魔人と獣人があい争う不毛の世界になってしまう。人間たちに絶望が広まっていった、その時だ。

 ついに妖精界の戦士が、魔獣王の前に立ちはだかった。

 それぞれの世界の運命は、それぞれの住人が切り開かねばならない――その掟を破ってまで妖精たちは魔獣王を打ち滅ぼすべく光臨したんだ。増長していた魔獣王はまるで恐れることなく戦い、妖精の軍団をひどくてこずらせたけど、結局、妖精の力には抗えなかった。

 潔く滅びる事を覚悟した魔獣王だったが、妖精たちは、その死を認めなかった。魔獣王が強大な魔力を蓄えている事を知り、その魔力を以って妖精に仕えさせることにしたんだ。

 妖精たちは魔獣王の力を封じるべく呪いをかけた。大きな吊り上がった眼が、長く鋭い爪が、太い牙が、そして体全体が、みるみる縮んで入った。体は小犬ほどの大きさになったけど、耳だけは大きなまま残って、その重さに耐えかねて、ぺたりとたれた。こんな感じでさ。

 すっかり戸惑う魔獣王に、妖精の女王は、こう命じた。

『弱き者を虐げた罪を購う為、自らも弱さを知り、そして弱き者を守るのです』

 そして魔法の武器、アガトダイモーンの中に、魔獣王は封じられたんだ。

 それから永き時が流れ、魔人たちがこの地球に攻め寄せた時、彼らを追ってウィズアースの勇者達も現われた。その中に、アガトダイモーンを携えた、一人の魔法銃士がいた。

 ……気高く美しい、人狼の女戦士だった。

 魔人との激しい戦いの最中、魔法銃士は倒れ、その手から魔法の武器が転げ落ちる……」

「ウソくさっ」

 ロボが滔々と語る前半生を、縫い針を運びながら黙って聞いていたみのりは、きりの良いところでストレートに不信を表明した。

「何でさっ!」

 ロボは小さな口を尖らせる。

「だってロボかっこよすぎだよ。ラノベのファンタジーみたい」

 ぷっくり膨らんだロボの頬を見て、みのりはころころと笑った。

 ロボも口元を緩めて、苦笑を浮かべた。

 ――平成17年5月23日、月曜日の夜のこと。


平成17年5月30日 月曜日

 光が、まぶたを抜けて、まどろむ視界に突き刺さる。

 みのりが目を覚ますと、もう部屋のカーテンは開いていた。ロボが開けてくれたのだろうか。今、小さな相棒は部屋にいないようだ。

 まぶたが腫れぼったく、凄まじく重い。乾いた涙をぬぐう。なにか夢を見ていたように思うが、思い出そうとすると、胃袋がキューとうずいて、いたたまれなくなる。

 はっきりしない頭のまま、目だけ動かす。枕もとの目覚まし時計が、朝7時を25分ほど回っている事を告げた。日付は5月30日、月曜日。

 時計のデジタル表示を確認すると、急に血の気が引いて、頭がはっきりしてきた。

 このままでは、遅刻する。

 みのりはベッドから飛び起きると、慌ててクローゼットに飛びついた。

 ここでようやく、自分が下着姿であることに気がついた。そのまま上から制服を羽織る。遅くとも7時40分には家を出ないと、ほぼ確実に始業時間に間に合わない。

 何でこんなに眠いんだ? そもそも、昨夜は何時に寝たんだっけ。

 みのりはせわしく制服を纏いながら、ぼんやりと昨夜の事を思い返した。

   ***

 みのりがマンションに帰り着いたのは、斬鬼のスズカとひと悶着起こしてから約2時間後、夕方7時も半ばを過ぎようという頃合だった。

 人気の無い路地裏でコスチュームを脱ぎ、道すがら、人の目に怯えながら帰った。逃げ場の無い車内では不安なので、ゆりかもめには乗らず家まで足早に歩いた。ロボはその間、黙ってバッグの中に隠れていた。二人とも、ひたすら押し黙っていた。

 マンションについてからも、しばらくみのりとロボは言葉を交わさなかった。

「なんであんなこと言ったのさ」

 ダイニングのテーブルで、もそもそとレトルトカレーを食べていたみのりが、ようやくロボに話しかけたのは夜8時過ぎだった。

「方便だよ、君は正真正銘人間の女の子さ」

 ロボもテーブルの端にちょこんと乗り、大きな耳で器用に箸を使い、玉子フリカケのかかったご飯を食べていた。

「そのことじゃない!」

 みのりは声を荒げた。ロボが露骨にとぼけていることが癇に障る。

「……まさか、このまま正体を隠して活動を続けられるなんて思っちゃいないよね」

 ロボの言いようは冷たい。

「学校だけの活動に切り替えたところで、いずれ警察やバリアンツに知れるだろうし、いまさらどうやっても正体は隠せないよ」

「コスチュームを変えればいいことじゃない。後は、ほとぼりが冷めるまで黙っててさ」

 そう言うと、みのりはスプーンを運ぶ手を早めて、がつがつとカレーを掻き込んでいく。あっという間にカレーを平らげると、その勢いのまま、みのりは声高に宣言した。

「とにかく私は正体を明かすなんてイヤだからね!」

「大丈夫だよ、バリアンツなら世間に正体を明かすようなことはしないから」

 ロボは一つため息を吐くと、すこし調子を和らげて、みのりに言った。

「でも、その人たちには、ばれるわけでしょ? 私が、どこの誰かってさ」

「それは仕方ないよ。なにも、正体にご大層な秘密があるわけじゃないんだから」

 わずかに、何かためらって、それから、茶碗に鼻面を向けて、ロボは言葉を続けた。

「別にいいじゃないか」

「……いいよ、もう」

 みのりのつぶやきを聞きとがめ、うつむいていたロボが、弾かれるように顔を上げる。

「私向きじゃないんだ、こんなこと」

 なにもかも面倒くさくなったような、みのりはそんな投げやりな口調で言った。

「何だって?」

 聞き返すロボの声色には、もう茶化した調子は感じられない。

「大体、ただの人間の女の子に、いきなり正義の味方になれって言われたってさ」

「そうか、たしかにそうだね。僕の人選ミスさ」

 二人は互いに宙に言葉をぶつける。向き合っているはずなのに、視線がかみ合っていない。

「君だって、正義なんてものは爪の先ほども信じちゃいなかったんだろ?」

「かもね」

 そう言って、みのりは食器を片付け始めた。奪うようにロボから茶碗と箸を取り上げる。

 ちらとみのりを見上げて、ロボはつぶやいた。

「結局、憂さを晴らしたかっただけなんだ」

 みのりは流しに食器を放り出して、蛇口を開けているところだった。

「悪い?」

 そう言ってみのりは、シンクの食器に、ごしごしと手荒くスポンジをこすり付ける。

「最低だな」

 ぼそり放たれたロボのつぶやきは、ガチャガチャという洗い物の音をぬって、みのりの耳まで、確かに届いた。みのりはたまらずスポンジを握りつぶした。

「なによ! そんならあんたは何やってたの」

 みのりは急に振り返り、ロボに食って掛かる。

「女の子盾にして正義だなんだなんて、何様のつもり?」

 泡がたれ落ちるのも構わず、握ったスポンジを、叩きつけるように振り下ろす。

「なんだよっ。僕が何度、君の盾になったと思ってるんだ!」

 ロボも、拳のように丸めた耳の先をテーブルに叩きつけて、立ち上がった。

 小さな前足をみのりに向かって突き出し、言った。

「今日だって、君は僕を放り出して――」

 それから、二人、随分いぎたなく罵り合った。数分のことだったかも知れないし、数時間の事だったかも知れない。ただ、口論の最後は鮮明に思い出せた。

「――もう、君のもとには居られない」

 ロボは、銃と共にみのりのもとを去ると言った。銃弾になった自分とアガトダイモーンを中古品店にでも売ってくれと。巡り会えるかも分からない、次の所有者を待った方がましだ、と。

 はっきりそう言ったのだ。

 みのりは、その言葉を聞いて、内蔵が急に冷えていくような、薄ら寒い感覚に襲われた。

 その後はもう、ロボとはひと言も話さなかった。話せなかった。歯も磨かずに、そのまま部屋へ、ベッドへ駆け込んだ。いつ上着を脱いだかまでは覚えていない。

 不快な感触だけが、胃にしこりとなって残っていた。

 身も心も重苦しい中、どうにか支度を7時35分までに終え、玄関でいそいそと靴を履く。

「みのり、大変だ!」

 背後からロボの声がかかった。随分慌てている調子だ。

 相変わらず、胃は疼く。でも、耳慣れたロボの慌て声を聞いたら、なんだか、頬が緩んだ。

「なに? 遅刻しそうなんだけど――」

 みのりは努めて明るく振り返った。背後に、新聞を前足で抱えた、ロボが浮いていた。

 怪訝な顔をするみのりの前に、ロボは新聞を落として、その社会欄を広げる。

 片隅の記事に、みのりの目は釘付けとなった。

 ――「斬鬼のスズカ」 未登録自警者と衝突 銃撃を受ける――

 みのりは、この日初めて学校に遅刻した。

  ***

「春日井、調子でも悪いの?」

 遅刻の訳を聞こうと、鷹森が机に突っ伏すみのりの顔を覗き込んで来た。

「ちょっとね、うちでね」

 みのりはちらりと鷹森を見上げ、ぼそぼそとつぶやくばかり。

 今朝読んだ新聞記事には、未登録自警活動家、通称「天誅屋」が、警察への出頭を求めるスズカに対して、銃らしき武器で抵抗し逃走したと書いてあった。警察は銃刀法違反、傷害、家宅侵入の容疑で捜査を開始したとあったが、みのりの正体に関する情報は何も伝えてはいなかった。未成年ともかかれてはおらず、ただ、女性とだけ書かれていた。だからと言って、スズカや警察が何も掴んでいないとは、限らない。

 何日もしないうちに、家か、学校に、黒い手帳を掲げた人たちがやってくるのだろうか。

 ――潮時って、あるよね。

 一時間目が終わって、教室のそこかしこにおしゃべりの声が響く中、みのりの席だけ特異点のように落ち込んでいた。

 みのりは声を出すのも面倒といわんばかりの様子で、鷹森にかまわず、また机に頬を押し付ける。

 鷹森はみのりの方から視線を上げ、戸惑いがちに後ろの席を見やった。

 その視線の先に座っていた古沢が、人差し指をちょいちょいと振って鷹森に来るように促す。みのりを除いて取巻き達が集まる中、古沢は皆に耳打ちを始めた。

 それから一日、みのりは何事も無く授業時間を過ごした。まるで、何事も無く。話しかける者も無く、みのりも最低限必要なことしか話さない。みのりに宿題の事を尋ねられると、鷹森は手短に答え、そそくさと話を打ち切った。

 腫れ物に触れるような、まるで厄介ごとそのものを見るような、煩わしげな鷹森の視線。

 みのりは気づいた。

 自分もついこの間まで、鷹森と同じ目で、真紀を見ていたのだ。

  ***

 春休みが明けて間も無くのある日、真紀も朝から暗い顔をして席に着いていた。訳を聞こうとしたみのりに、真紀は躊躇を見せた。

「ここじゃちょっと……」

 そう言って、真紀がみのりを連れて廊下に出ようとした時、古沢がみのりを呼び止めたのだ。

 みのりが古沢の元に駆け寄ろうとするのを、真紀は止めなかった。ただ、ためらいがちにひと言、言っただけだった。

「すぐに……戻って来てね?」

 うんと言って、みのりは真紀の元を離れた。

 古沢の話が終わると、みのりは一人で席に戻った。その次の休み時間から、みのりはひたすら真紀を避け、古沢たちのおしゃべりの輪に逃げ込んだ。

 みのりは、最初の休み時間に受けた古沢の忠告に従ったのだ。

「あの子、ちょっとおかしいからさ、放っておいた方がいいよ」

 それが、古沢の「忠告」だった。

 そしてクラスの女子は、誰もがこの忠告を受けて、従った。

 ――聞いてよ、あいつひどいんだよ――ジコチューなんだよアイツ――私らの事、バカにしてない?――なんか勘違いしてるよね、ヤツ――

 ヤツ。

 皆、真紀の事をこの名でしか呼ばなくなった。みのりは、出来るだけ真紀の話題を避けたが、必要ならばこの名を呼んだ。

「ヤツ」と、他の女子と同じように、軽蔑を込めてみせながら。

  ***

 きっと、明日から自分もそう呼ばれるのだろう。そうなったらもう、教室にみのりの居場所は無い。だが、どうにも、危機感が沸いてこない。

 学校にだっていられるかどうかも分からないのに――そう思うと何もかも煩わしい。

 真紀もこんな思いだったのだろうか。昼食時、購買で買ったシュガーラスクを独り黙々と噛みながら、みのりは空いたままの真紀の席に目を向けた。

 いや、同じじゃない。あの時、真紀は自分に助けを求めていたじゃないか。

 みのりが真紀を避けるようになって間も無く、真紀がノートを借りに来たことがあった。

「今使ってるから、他の人あたって」

 すげなく断るみのりの前で、真紀はおどおどと愛想笑いを浮かべて立ち尽くしていた。

 他に、借りる相手など無いことは、みのりにも分かっていた。この教室には、誰一人、言葉を交わせる者がいないのだ。

 なおも、笑って見返すしかない真紀に、みのりは耐え切れなくなって、ノートを投げつけた。

「貸してあげるから、席に戻ってよ!」

 ろくに目をくれずに投げつけたノートは、真紀の顔面に当たっていた。

 真紀が嫌いになったわけじゃない。ただ、たまらなく厄介なのだ。

 たまらなく怖いのだ。真紀と一緒にいる事が。

 おずおずとノートを拾い上げた真紀の顔があまりにつらそうだったからだろうか、皆、その日から真紀と少しだけ言葉を交わしてあげるようになった。

 皆、いろいろと、物を貸し与えるようになったのだ。

 もちろん、顔に向かって投げつけながら。

 真紀の事を思い出すうちに、みのりは、吐き気を催すほどの胸焼けを覚えた。ラスクは半分も食べられずに、喉に詰まった分をカフェオレで押し流すと、残りは捨てた。

 放課後、卓球部に顔を出さず、みのりはまっすぐ家に向かった。ロボは今日も部屋で待っているはずだ。たぶん。

 足取りは重く、かといって回り道も出来ずに、みのりはまっすぐ家に向かった。

 その間、携帯電話の液晶画面をずっと見つめていた。

 昨日、真紀に電話を入れなかった事に気付いたのだ。

 また、約束を破ってしまった。

 真紀のアドレスを呼び出し、親指を何度か上下させては、クリアキーを押す。また、入力キーを叩き、消去。信号待ち、歩道、進行方向から目を離す余裕がある限り、何度もメール文を書き込み、そして消す。

 自宅のマンションが見えてきたところで、みのりはようやく送信ボタンを押した。

 『ごめん』――たった三文字。

 他に、続ける言葉が決められない。何を書いても、何を約束しても、守る自信が、無い。

 マンションのエレベーターの中で、ひとり、鼻をすすった。

 家に帰り着くと、午後4時を過ぎていた。

 みのりが、恐る恐る自室のドアを開けると、ロボは独り部屋の真ん中に座っていた。西日の入らない、薄暗い部屋で、正座でもしているかのように、ちょこんと座っていた。

「おかえり」

 ロボは表情を見せずにポツリと言った。

「あ、うん。ただいま」

 返事をするみのりも、強ばった顔には確かな表情を浮かべられない。

「どうする?」

 おもむろに問いかけるロボの前には、銃が、魔法銃アガトダイモーンが置かれていた。

「いっしょに……」

 数秒、黙って立ち尽くしていたみのりが、ぼそりと口を開く。

 ロボは無言で、続く言葉を待った。

「いっしょにいられない?」

 ようやく吐き出されたみのりの言葉を受けて、ロボの表情がかすかに緩んだ、ようだった。

「次の持ち主なんて、家でごろごろしながら待っていればいいじゃないの」

 みのりは飛び掛るようにロボの前に膝を落とすと、必死に笑顔を作って見せた。

「だめだ」

 ロボは顔を背けて、ぴしゃりと言った。

「僕は……君のペットじゃない」

 ロボは声を詰まらせながらも、言い切った。落胆に歯がみしているようにも、聞こえる。

「じゃあ、どうすればいいって言うのよ!」

 みのりは声を荒げ、激しく床を叩いた。そんなみのりの姿から眼を逸らして、ロボは言った。

「僕が君に頼んでいることは、ただ一つだけだろう?」

「本当にそれでいいの? また何年も眠り続けるだけで!」

 みのりは、泣くような、怒るような、震える声で叫ぶ。

「僕はいいんだ、今までと同じことだもの」

「そんな……」

 うなだれるみのりに対して、ロボはやけにさっぱりとした調子だった。そう、聞こえた。

「そうだな……。信用できて、アガトダイモーンを使いこなせるような子が、すぐに現われたら……別だろうけどさ」

 それきり、二人は黙りこくった。

 数分の静寂だったろう。しばらくして、みのりは膝に埋めた顔を持ち上げ、言った。

「いないことは、ないよ」

  ***

 それから四時間後。

 みのりは地底通りでスズカを捜していた。

 時刻はもう午後8時半になる。原色の毒々しい看板の下を縫い、狭い通りをひしめき合って、人々が流れていく。月曜の夜もこの街は関係なく、会社帰りのサラリーマンから、見るからに分かりやすい風体のチンピラまで、雑多な人々を呑み込んでいく。

 みのりは、雑居ビルの屋上に立ち、眼下の喧騒を苦々しい面持ちで見つめていた。昨日まであれほど心躍らされていたこの街の猥雑さが、今は不快にしか感じられない。

 ガード下の落書き、ゴミ捨て場の壁、めぼしい場所を見つけてはグルーブリットを張り付かせ、「天誅屋」出現の目印をばら撒いた。時折、ひときわ高いビルの屋上から周囲を見回し、自らもあえて姿を晒すように立つ。

 地底通りに着いてから最初に、ネットカフェからバリアンツ公式サイト宛にメールを送っておいたので、今日「天誅屋」が地底通りに現われる事は伝わっているはずだ。身元が割れないようにフリーメール……いわゆる捨てアドで送った為に、いたずらだと思われたのだろうか。

 こんな手間をかけて、三時間近くも探しているというのに、未だにスズカは姿を現さない。やはり待ち合わせ場所をきちんと指定するべきだった。いきなり捕まることを警戒して、回りくどい方法をとってしまったことを後悔した。

 エンハンスブリットの力でスタミナが増しているはずなのに、ひどく、くたびれる。

 見通しのいい屋上を見つけると、みのりはへたり込むように腰を下ろした。十階建ての古びた雑居ビルだ。みのりの背の後ろに、ロボも降り立ち、羽ばたかせていた大きな耳を休める。

 二軒先のビル看板の照明が、ぽつんと座るみのりたちも、ぼんやりと照らしだす。

 ずっと二人でビル街を跳びまわっていたが、ほとんど言葉を交わすことはなかった。腰を下ろしてからも、みのりとロボはただ街路の喧騒を聞いているだけだった。

 どうしてこんなことに――みのりが尽きぬ後悔に苛まれている傍らで、ロボの表情にも逡巡と、悔悟の念が滲み出していた。

 ロボが思い切ったように顔を上げた直後。

 不意に、腰のポケットで携帯電話が震えた。みのりは着信表示を見る。

 真紀だった。

 みのりはつばを飲み込み、おずおずと通話ボタンを押した。

 ロボも、足元に来て、みのりの顔を覗き込む。

『もしもし、みのりちゃん?』

 真紀の声が飛び込んできた。みのりの名を呼ぶ声は、なにか、切迫していた。

「あ、私だよ……みのりだよ」

 みのりは、戸惑いがちに答える。

『大丈夫なの? みのりちゃん捕まったんじゃないかって、私心配で……』

 みのりにとっては意外な言葉だった。にわかには意味を飲み込めなかった。

「え? ……あ、そうか」

『大丈夫だったのね?』

 みのりの言葉を無事の証と思ったか、真紀の声は安堵に緩んだ。

「あ、ありがとう、……今のところ、大丈夫だよ」

 おそらく、真紀も新聞かテレビニュースを目にしたのだろう。真紀が心配してくれている事を理解して、みのりも声を落ち着けた。

 そして、言うべき言葉を思い出した。

「ごめん、また約束破っちゃって」

『だって、スズカとか言うのに追いかけられてたんでしょ』

 わずかな間をあけて、真紀は答えた。落ち着いた真紀の声は、とても柔らかく感じられた。

『こっちこそごめんね。私、あのメールを見てもしばらく気がつかなくて』

 しばらくたってから新聞記事を読み、ようやく事情が飲み込めたと、真紀は言った。

「あ、ごめん、分かりづらいよね、やっぱり」

 みのりの頬のこわばりが次第にほぐれてくる。メールの文面に心をすり減らしていたのが、なんだかバカバカしいように思えて、独り、はにかんだ。

『その……警察とかは大丈夫なの?』

「うん、たぶん大丈夫。スズカってのと話し合ってみるから」

 笑顔を見せるみのりを、ロボも明るい面持ちで見上げている。

『え、スズカと?』

 うん、と答えようとしたみのりの言葉が、突然途絶えた。

 電話の向こうの真紀には、携帯電話のぶつかるガシャンと言う音だけが届いていたはずだ。

 みのりは数メートル、前のめりに吹っ飛んで、屋上を囲うフェンスへと叩きつけられた。頭から鉄線の網に飛び込み、反動で弾かれてコンクリートの床に転がり落ちる。うなじに、ハンマーを叩きつけられたような鈍痛が残っていた。

 火花の散る視界の中に大きな男の影が映る。だぼだぼとした赤いTシャツが、大男のずんぐりした上半身を強調して、まるでカトゥーンの大男そのものだ。

 魔法でタフネスを強化されているとはいえ、みのりの体重が増す訳ではないから、生身の男の力でも突き飛ばすことは出来るだろう。だが、数メートルも突き飛ばし、首筋にこれほどの鈍痛を残すとなると、これはもう常人の力を超えている。

 大男の背後には屋上への出入り口があるらしく、子分と思しき男達がぞろぞろと姿を現し、ぐるりとみのりを取り囲んだ。総勢十人前後だろうか。手に手に武器らしき物を握っている。

 みのりは、全身から冷や汗を吹き出しながら、朦朧とする頭をおさえて何とか立ち上がろうとする。だが、後頭部を襲った衝撃は長い残響となり、平衡感覚がまだ回復しない。

 男は、その太い指で、みのりが取り落とした携帯をつまみあげた。

 携帯のスピーカーから響く真紀の呼び声が、みのりの耳にもかすかに届く。

「も~しも~し。えー、『真紀』ちゃんかな~?」

 男は携帯を耳に当てると、そう言って、にたりと頬を歪ませた。みのりの顔が蒼白となる。

「――返せっ!」

 怒号と共に、ロボが飛び上がり、小さな前足で大男の右手に掴み掛かった。

 前足の爪が男の持つ携帯電話にかかったところで、ロボは羽根状の耳をつかまれ引き離された。腕、としては人並みの筋力しかないロボの耳では、この大男の握力に抗うことは出来ない。

「ロボ!」

 みのりは弾かれるようにホルスターから銃を抜く。

 ふらつきながらも立ち上がり、大男へと銃を構えた。ロボは、握りこまれた耳の痛みに喘ぎながらも、みのりに向けてどうにか笑って見せる。その四肢には、みのりの携帯電話をしっかりと抱きかかえていた。

「驚かせんなよ、この犬っころがっ」

 そう言って、男はぎりぎりとロボの耳を締め上げる。

「放して!」

 みのりは銃を突き出し、叫んだ。

「いいから聞きな。そんな物騒なものは引っ込めてよ」

 大男はロボの耳を掴み、みのりに見せつけるようにぶらぶらと振った。

 携帯にしがみついて悲鳴を上げるロボの姿に、みのりは総毛立つ。

「離してって、言ってるんだっ!」

「っ聞けよ、おらぁあ!」

 みのりの絶叫を、大男の怒号が打ち消した。

 同時に、ロボを掴む男の左拳が、黄色い炎に包まれた。ロボは絶叫を上げるが、それは炎に焼かれたからではない。炎は徐々に硬質の輪郭を形成していき、黄色く輝く篭手となった。

 念動力場――それは、比較的多く観測されているパラフィジカル能力である。

 オーラとも、生体磁場とも呼ばれる光の塊を身体から放射し、精神の力で物質のように操作する。その発現形態は個人差が大きく、例えばスズカの場合は掌から剣状に、スクウィッドの場合は指先から触手状に形成される。大抵の場合は、道具や衣服のように、身体に付随した形を取るものだ。身体から切り離して力場を扱えるのは、よほどのパワーか経験を持った能力者に限られていた。

 そして今、ロボの耳をぎりぎりと締め上げているのも、この男の放つ念動力場であった。

 取り囲む手下達がボスの繰り出した十八番に歓声のどよめきを送っている中、みのりは銃口をわずかに下げた。ロボの上げるうめき声に耐えられなかった。

「よーし、それでいい」

 男はロボを掴む念動力場の巨大な手を緩め、諭すような調子で話し始めた。

「さっきの一発は、この間のお礼だ」

 みのりはにじり寄って来る男の風体を見回した。男のゴツすぎる体格は確かに独特で、見覚えがある。そして、Tシャツの胸元にプリントされているのは「中指を突き出した鉄の篭手」。 

 思い出した。いつぞや地底通りで撃ち抜いた、荒っぽいナンパ男だ。あの時、スタンブリットが効かなかった訳を、みのりはようやく理解した。タフネスも常人を上回るのだろう。

「忘れてたのか、つれねぇなぁ『天誅屋』ちゃんよ」

 男の皮肉を聞き、みのりは血の気がひいた。

「俺はガンテだ。チームの名前はドンキーパック。聞いたことねぇか?」

 大男は素性を名乗ると、イヤに馴れ馴れしい様子でみのりに笑いかけた。

「まぁ、これで貸し借りなしってこった。そこで一つな、『耳より』な話をしてやろう」

 ことの成り行きが飲み込めず、みのりはただ黙ってガンテの言葉を聞いた。

「お前さんは怖いお姉さんに追いかけられてる。このままじゃ、いずれは絶体絶命だ。ところがだ。自分じゃ気がついちゃいないかもしれないが、お前さんには仲間がいる。怖いお姉さんに追っかけられてるお仲間がな」

 ガンテは得意げに語り、みのりの顔をマスク越しに覗き込んだ。

「……仲間になれって言うの?」

 吐き捨てるように、みのりは尋ねた。

「言っとくが、お前さんは、前にもうちの兵隊を一人助けてくれたんだぜ?」

 みのりは不審に顔をしかめた。みのりは気がついていなかったが、確かにみのりは五日前にドンキーパックのエンブレムをつけた男を、他のパックのリンチから助け出していたのだ。

「知らないわよ、そんなの!!」

 みのりは虚勢を張っていた。覚えがないのも本当だが、気付かぬうちにパック同士の抗争に巻き込まれていたことに、激しい後悔も感じていた。

「撃たれた借りを返したんだから、今度は恩返しをしてぇんだよ」

 当惑するみのりの姿を、ガンテはサディスティックに笑って、ねめつける。

「俺のつてを使えば警察やヒーロー共から匿ってやるぐらい、どうってことねぇぜ」

「ダメだ! こんな連中に耳を貸すな!」

 たまらずロボが叫んだ。ガンテの光る拳の下で必死に身をよじっている。

「ったく、いちいちこうるせぇ犬だな」

 ガンテは顔の前までロボを掴み上げると、

「犬っころが喋んじゃねぇよ」

 そう言って、右の拳で、ロボの横っ面を張った。

 生身の拳による小突く程度のパンチだったが、小さな体のロボには大変な勢いだ。まして耳をぎりぎりと締め上げられていて、衝撃が直接耳の付け根に響く。ロボは高い声をさらに張り上げて悲鳴を立てたが、それでもみのりの携帯を抱きしめて痛みに耐えていた。

「さ~ぁ、おじょうちゃん。お返事は? ねぇねぇ?」

 ガンテは、ぐったりとしたロボをみのりの前に突き出し、声に併せて上下にゆすった。パペットのつもりなのだろう。いやらしい口調で、芝居がかりに見せつける。取り囲む手下達も、ボス同様、にたにたと下卑た目つきで、みのりをねめつけている。

 みのりには撃つことも、逃げることも出来ない。揺さぶられているロボの顔を、目で追うことしか出来ない。がちがちと歯の根を震わせながら。

 その、焦点の定まらないみのりの視界の隅、ガンテの頭上を、一瞬、黒い影がかすめた。

 どかっ、と鈍い衝撃音。

 ぽろりと、ロボが視界の下に落ちた。携帯を抱きしめたまま、まりが跳ねるように床を転がって来て、みのりの足元で、止まった。

 ぐったりと床に倒れ伏すロボの背後で、ガンテが、後頭部を抱えて崩れ落ちた。

 すらりとした黒タイツの足元でのた打ち回るガンテに、凛とした罵声が叩きつけられる。

「いいかげんにしろっ、阿呆ぅが!」

「ス……」

 みのりを取り囲んでいたドンキーパックのチンピラたちが、にわかにざわめきたった。

「スズカだぁ!!」

 一人がその名を叫ぶと、男達は手にした武器を一斉に闖入者へと向ける。

 頭を抱えてうずくまるボスを見下ろして、仁王立ちに二振りの剣を構えているのは、ポニーテールの黒髪に、鋼の鬼面。まさに斬鬼のスズカ、その人だった。

 スズカが、バリアンツ本部から、自称「天誅屋」からのメールが届いたとの連絡を受けたのは、午後7時頃の事だ。既に地底通りで張っていたが、その時は「天誅屋」との接触より優先する目標があった。ドンキーパックだ。

 ガンテら幹部勢がたむろするディスカウントショップ前に、地底通りのあちこちから構成員が集結しているのを見咎め、彼らの頭上から様子を探っていたのだ。

 鬼面内蔵の集音マイクが拾った言葉をつなぎ合わせると、彼らが、地底通り南側に現われた「天誅屋」を追って動いていると分かった。

 ドンキー一味に追いつき、付近のビル看板の上に身を隠すと、スズカはあえて事の成り行きを見守った。「天誅屋」の正体が知れない、ということもあったが、本当にヒーロー稼業に首を突っ込む覚悟があるのか、それを知りたかったのが一番の理由だった。

 だから、相棒の小動物が痛めつけられている間も、スズカは黙って、手を出さなかった。

 だが、そんな非道に耐えられる程に非情なら、そもそも正義の味方になど、なりはしない。

 結局、「天誅屋」の正体だの覚悟だのは放り出して、スズカは心の命ずるままに悪漢たちのど真ん中に飛び込んでいたのだ。

 突きつけられた凶器の群にも動ずる事なく、スズカは不良たちを睥睨する。

 うずくまるガンテの脇の兵隊二人が、慌てて、構えていた鎖をスズカに打ちつけた。

 スズカは腕を広げ、左右の剣でそれぞれの鎖を絡め取ると、一気に両手を交差させた。兵隊二人は鎖を離す間も無く引きずられ、互いに真正面からぶつかり、倒れ込む。

「ア、アロマオイルッ!!」

 後頭部を押さえて這いつくばりながらも、ガンテはどうにか部下の名を呼んだ。

 ウィンドブレーカーのフードを目深にかぶり、顔全面をガスマスクで覆った異様な風体の男が、両手に持てるだけ握った小さなガラス瓶を、左右の味方の足元に投げつけた。

 コンクリートにぶつかって割れたガラス瓶から、鼻を突く刺激臭が漏れ出した。

「『天誅屋』、吸うな!」

 みのりに警告を発すると、スズカはすかさず鬼面から薄型のガスマスクを引き出した。口元が牙のようなエアインテークに覆われると、鬼面はまさしく鋼の鬼の形相を成した。

 スズカの緊迫した声に追い立てられるように、みのりはロボと携帯電話を引っつかんで、すかさず隣のビルへと飛び渡った。

 逃げ出す「天誅屋」の背を横目で見送り、スズカは安堵の混じった苦笑を漏らす。

 スズカはこの臭いに覚えがあった。深夜の倉庫街で、あるいは地底通りの荒れ果てたパチンコ店で、強烈な体臭に混じりかすかに伝わってきた薬品臭、スタンピードの臭いだ。

「きたきたきたキタァ――ーッ!」

 ガンテは随喜に打ち震えた。その両手に光の篭手がくっきりと形成される。

 鼻孔から吸引したごく微量のスタンピードが、血中に蓄えられていた同成分を活性化させ、ガンテの身体と念動力に怪物的なパワーを漲らせた。ばら撒かれた揮発性の液体にはどうやらトリガーとして特殊な調合が施されているらしい。同様の変化が、周りの手下達の体内にも起こる。皆、スズカに向けて獣じみた咆哮を上げて殺到してきた。

 まず四人、兵隊達が手斧を振り上げスズカに踊りかかった。スズカはわずかに腰を落とすと、避けもせず二振りの剣で斧を全て受け止める。ドンキーパックの兵隊達は手斧を再び振り上げようとするも、剣が柄に絡み、びくとも動かない。スズカが両の腕をぐるりと回すと、バランスを崩した男達は手斧もろとも吹っ飛ばされた。

 自分の方へと飛ばされてきたた手下を跳ね飛ばし、ガンテがスズカへと突進してきた。ガンテの動きはその体格に似合わず速い。体格によるリーチ差は剣の長さで補えてはいるが、今のところスズカには拳を打ち払うだけで手一杯だ。矢継ぎ早に繰り出される光の拳が形作る防壁を、突き崩すための一穴が見切れないでいる。

 残る六人の兵隊は、激しく打ち合うガンテとスズカとを取り囲んで、めいめい武器を打ち込むタイミングを見計らっている。攻め寄せる手下達の力はさして強くない。だが、その分理性もあまり失われていないようで、闇雲にかかっては来ない。どうも、アロマオイルが放つ揮発性のスタンピードは効果に個人差があるようだ。常用の度合いが影響しているのだろう。

 スズカは、ガンテと間合いを取るべく後方に飛び退った。ガンテは勢い込んで追いかける。さらにスズカの後方には二人の手下がバールを構えて待ち、はさみ撃つ構えのようだ。

 背を見せて目の前に飛び込んできた獲物に、手下二人は奇声を上げて打ちかかる。

 スズカは振り向きもせずさらに後方へ宙返る。手下の背後のフェンスを蹴り、三角跳びの要領で、そのすぐ真後ろへと回り込んだ。腰を落として男二人の脛を続けざまに剣で打つ。相手は二人とも前のめりに、突進して来るボスへ向かってけつまずいた。

 ガンテは手下を左右に突き飛ばし、さらにスズカに掴みかかろうとするが、一瞬、標的を見失って動きを止めた。

 スズカは左に突き飛ばされた手下の背後に潜んでいた。死角から飛び出し、一気にガンテに突きかかる。狙うは脇腹、肋骨の隙間だ。運が悪ければ大怪我はさせるだろうが、動きを止める為にはいたしかたない。剣先がガンテの緩いTシャツの裾をかすめ、その下の肉へと突き立てられようとした、その時。

 ガンテがその背をのけぞらせた。背中に刺すような痛みを感じたのか、短いうめき声と共に一歩、後ろへよろめいた。スズカの突きは浅くなり、ガンテの脇の皮を抉るだけに終わった。

 いやな既視感デジャヴ。そして眼球の奥に走る魔法の気配。たった一日前に同じような状況があった事を、スズカはすぐに思い出した。

「邪魔をするなぁ!」

 たぶん、近くの見通しの良いビルの上から狙撃しているであろう「天誅屋」の少女を、スズカは、ろくに居場所の見当をつけもせず、いきなり怒鳴りつけた。

「なんだよ、っとに偉そうにしちゃってさ」

 果たせるかな、みのりは二軒先のビルの、その上に設置された箱状の巨大な看板の上に陣取って、ドンキーパックの兵隊達を狙撃していた。

 看板の裏に渡された鉄骨の上に膝をおろし、看板の上辺から顔を出してスズカ達の戦場となっているビルの屋上を見下ろしている。地上からは十五階ほどの高さになるだろうか。直線距離にすると50メートルに及ばない。視力を強化されたみのりにとっては、至近距離だ。

「ごめん、こっちの話」

 右手には魔法銃アガトダイモーン、左手には携帯電話、そして膝の上には痛む耳を休めているロボ。みのりは真紀から再度かかってきた電話に応答しつつ、スズカを取り囲む五人の悪漢に銃を向けている。

 いったん、戦場のビルから逃げ出したみのりだったが、思い直して二つ隣のビルに取り付いていたのだ。もちろん、最初は隠れて様子を覗うつもりだったが、取り囲む屈強な男達に、独り立ち向かうスズカの姿を見るにつけ、黙って見ていられなくなり、結局、銃を抜いたのだった。

「あ、うん、ロボも大丈夫。怪我はしてないってさ」

 真紀に答えながらも、片目を閉じて照準を合わせ、一人二人とザコに向けてスタンブリットを放つ。みのりの不真面目な戦闘ぶりを、ロボは不満そうな目で見上げているが、痛みで息が荒くなっているせいか、特に口を挟むことはない。

 そもそも、様子を見ようといったみのりをロボはたしなめなかった。スズカを援護すべく銃を構えたみのりを止めることもなかった。やはり、みのりが勇ましく戦う姿が好ましいのか、ロボは苦笑を覗かせながらも、満足そうに頷いたのだった。

「うん、今から悪党どもをぶっ飛ばすところ。忙しくなるからいったん切るけど、けりがついたらまた連絡するね!」

 みのりは携帯を腰のポケットにしまい、銃を両手で構えた。

 薬品で強化されているためか、ドンキーパックの男達は一撃では倒れない。数発ずつまとめ撃つつもりで標的を追うが、スズカの素早い動きに翻弄され、右往左往する連中は狙いづらい事この上ない。

 援護のつもりなのでスズカの背後に回りこんだ相手を狙う。それはいいのだが、照準を合わせようとすると、そこにスズカ自身が飛び込んでくるのだから面食らう。

 引き金にかかった指をとどめようとするが、ついに間に合わず、一発スズカに向かって飛んで行ってしまった。

「いいかげんにしろ!」

 超音速で飛んで来るスタンブリットの電光を、光の剣一本で弾き返すと、スズカはみのりに向き直って再び怒鳴った。先ほどの一喝も色を失う大音声だ。わざわざガスマスクを解除して、くもぐっていた怒声を、今度は明瞭に響かせる。

「素人の援護など迷惑だ! さっさと……」

 そこで、スズカの声が途切れた。

 見開かれたみのりの視線の先で、スズカが前のめりに、よろめいた。

 みのりが息を呑む間に、合掌した光の篭手が、あたかも杭を打つハンマーのように振り下ろされたのだ。ガンテの強烈な一撃を脳天に受け、スズカはコンクリートの床へ崩れ落ちる。

 ガンテはスズカの背を踏みつけ、勝どきとして獣じみた雄たけびを上げた。

 だが、みのりはガンテの勝利が独力のものでないことを知っていた。スズカを最初によろめかせたのは、彼女のみぞおちに抉るようにぶち当たった、ピンポン玉程度の丸い塊だ。それが何なのか、何処から飛んできたのかは、みのりには突き止められない。

 ガンテが、みのりの方へ顔を向けた。

「ったく、遅えってんだよ。フックトイ!」

 文句を言いながらも、ガンテは歯を見せ、親指を突き上げて讃える仕草を作った。

 みのりは、ガンテの視線が自分に向けられていないことに気付いた。サムズアップの状態で突き出された、ガンテの腕の指し示す先を追う。

 そこは、みのりの陣取っている看板の、真下だった。

 3メートルかそこら、みのりからすぐ下の、看板と屋上の縁との狭い隙間に、灰色のパーカーを着て、フードを目深にかぶった、小柄な男の姿があった。男は、顔を真上に――みのりの方へ向けて、聞き覚えのある声で言った。

「ナイスフォローだぜ、おねえちゃん」

 そう言って、フックトイと呼ばれた少年は、高い声でシシシと笑った。

 みのりはとっさにアガトダイモーンの引き金を引いた。黒い銃口に電光が三度閃く。

 だが、電撃はコンクリートを弾くだけだった。フックトイは魔法弾の発射の直後には、すでに看板の上の縁に取り付いていたのだ。助走も無しに、3メートルの壁を一瞬である。

 みのりは、先々週、屋根の上で出会ったこの少年もまたパラフィジカル能力者なのだと理解した。

 フックトイはあっという間に看板を乗り越え、みのりと鉄骨の梁の上で対峙する形となった。

 みのりは片膝を立て、フックトイへ銃口を向ける。

 ロボも立ち上がり、間際に迫った敵に、牙を見せて威嚇する。

 じっくり狙いをつける余裕は無い。みのりは、スズカが倒れた眼下のビルと、ニヤニヤと薄笑いを浮かべるフックトイとを交互に見返した。ちらりと目を向けた屋上では、ガンテがぐったりしているスズカを小脇に抱えて連れて行こうとしているところだった。全く、余裕は無い。

「やっぱ、おねえちゃん悪党向きだよな」

 口の端を上げて少年は言った。

「うるさいっ!」

 叫ぶみのりの額に、じっとりと汗が滲む。

 スズカのみぞおちにボールのようなものを叩き込んだのが、この少年であることは間違いない。対してみのりは、結果的に足を引っぱったとはいえスズカの味方として援護していたのだ。「フックトイ」という通り名の、得体の知れないこの少年も、自分を敵と見なしているだろう。

「どう? このまま、うちのガンマンにならない?」

 フックトイは緊迫感の無い声でみのりに問いかけた、

「うちってさー、てっぽ仕入れるルート持ってないんだよねー」

 無言で、切羽詰った表情で銃を向けるみのりへ、フックトイはさも面白そうに笑みを向ける。

 みのりは逡巡していた。スズカを助けるべく飛び出せば、おそらくあのボールのようなもので後ろから狙い打たれることになるだろう。だが、ここで戦っている余裕などあるはずも無い。

 もう一度ちらりと、眼下の屋上を見やる。ドンキーパック一味が仲間の負傷者を抱え、階下への入り口に次々に駆け込むところだった。ガンテもスズカもいない。既にビルの中なのだ。

 みのりはつばを飲み込んだ。それが意を決した徴となった。

 ロボをかき抱き、みのりは看板の上から躍り出た。

 地上へと自由落下しながら、みのりはフックトイに銃口を向けた。

 既に、遅かった。

 みのりが飛び出す瞬間に、フックトイは右の掌におさまっていた五個の小さなボールを、一斉に放り投げていた。人の指とは思われぬ玄妙な動きでスナップされたボールは、急角度の軌跡を描いてみのりを襲う。

 五個のボールのうち三つが、みのりの身体を打った。超高速の回転がかかったゴム製のボールは凄まじく重い。みのりの強化された皮膚に鈍痛が走る。一つはすね、一つは頭、そして最後の一つが、右手の甲だ。

 むこうずねの痛み、頭蓋骨に鳴り響く衝撃、そして右手の痺れ。魔法銃アガトダイモーンを握る指から、不意に力が抜けた。四角く黒い銃身が、みのりの手から転げ落ちる。

 みのりはめまいに耐えて銃把を掴みなおそうとしたが、さらに幾重もの衝撃を受け、手が思うように伸ばせない。右から、左から、縦横無尽に次々とボールが襲う。ビルの隙間の、狭く灯りの乏しい空間に突入し、どこからどれだけの弾体で撃たれているのか、みのりにはいよいよ見当がつかない。打撃力は少しずつ落ちてはいるが、動きを封じられるには十分な痛み。

 銃は完全にみのりの手を離れた。みのりは状況が認識できないまま、体を丸めて地面へと自由落下を続ける。アガトダイモーンが手の中に無い以上、もはや落下を食い止める手段は無い。

「みのり!」

 ロボは必死にみのりの腕を掴み、精一杯、最大限、その翼状の耳を広げた。

 耳を襲う風圧と四肢にかかる重量に、小さな牙を剥いて立ち向かう。

 アスファルトに激突する、その瞬間まで。


第6章『魔法銃士ミスティ・ミリィ』


平成10年7月20日 月曜日

 路面に溢れる雨水を蹴立てて、暗い色のポンチョをまとった人影が走る。夕方から降り出した雨は、夜更けにはシャワーのような勢いに変わり、人影の足音を、気配をかき消す。

 影はフェンスを飛び越え、うずたかくそびえる鉄骨のやぐらへと駆け込んだ。建設中の高層マンションである。入り組んだ鉄骨の隙間に身を隠し、周囲を覗う。ポンチョのフードから、ちらりと歳若い女の顔がのぞいた。高校生ほどの年頃だろうか。整った面立ちに緊迫したまなざしを見せ、荒い吐息をもらす口元には、大ぶりの八重歯がのぞいていた。

 ポンチョの胸元から、小犬が上向きに顔を出した。垂れた耳は大きく、大部分が裾の中に隠れているらしい。

 小犬は少女と眼を合わせ、軽く頷く。無言の合図を受けて、少女はポンチョから右腕を上げた。その手に、黒い拳銃が握られている。

 箱状の銃身に、埋め込まれた赤い宝玉と銀の象嵌。光沢のある装飾は、しかし、なぜかくすんでいて目立たない。魔法銃「アガトダイモーン」。宝玉が真紅の輝きを示しているのは、魔法弾が装填された徴だ。

 少女は追われていた。

 数十分ほど前、少女は一軒のビルの屋上に立ち、高級ホテルの前からリムジンへと乗り込む三つ揃え姿の青年を狙撃した。魔法弾は『コミニューションブリット』。命中すれば超震動で半径一メートル内のあらゆる物質を粉砕する、必殺の一撃だ。

 立て続けに放たれた六発が標的に襲い掛かる。一発は青年にさしかけられた傘を消滅させ、残る五発が、青年の体を霧散させた――五回、連続して。

 青年の体は、まるで明滅するかのように、きっかり五回、爆ぜてはまた現われたのだ。五回目の出現の後、何事も無かったように、青年はリムジンに乗り込んだ。

 狙撃に気付いた黒服の護衛たちが慌しく駆け回る中、青年だけは何事もなかったように落ち着き払っていた。青年を乗せたリムジンは緩やかに発進し、この場を去る。

 少女が狙った青年は、魔人の一人だった。

 ミスティ・レインらスーパーヒーローたちの華々しい活躍で、地球上の魔人勢力が掃討されつつある。生き残りを図る魔人たちは、各地で人間社会に紛れ込んだ。社会の裏表を問わず浸透し隠れ住む異界の侵略者達。彼らを狩り出すには、仇敵たる妖精界としても不干渉原則を踏み出す荒療治が必要だった。

 そのひとつが、少女の属する暗殺部隊、通称「フーデッドウルブズ」だ。地球各地からかき集められたパラフィジカル能力者たちが、妖精界直接の指示の元、魔人たちを一人ずつ仕留めていく。その標的がどんな状況にあろうが関係ない。大国の政府機関に紛れ込んでいる者、犯罪組織に身を寄せている者、平凡な生活を装う者。全て排除する。

 妖精たちが何故そこまで執拗に魔人を滅ぼそうとするのか、少女には知る由もない。少なくとも、自分が生かされている理由であるからには、疑念をさしはさむつもりなど毛頭無い。

 狙撃の失敗を悟って、少女はすぐに逃げ出したが、既に追手は放たれていた。

 雨のそぼ降る夜のビル街を跳び、有明ジオフロントの中央通りを走りぬけ、このとき少女はマンション群の造成が進む北部の再開発地区に追い込まれていた。

 雨足はなおも強まり、鉄骨を激しく叩く。

 少女は深くため息を吐くと、かすかに苦笑いを浮かべた。

 妖精に危険な汚れ仕事を押し付けられたのは、その多くが魔人のばら撒いた伝染性の呪いによって獣の力を与えられた、元地球人たちだ。力に溺れ、自らの欲望を開放し、数々の罪を犯した彼らを、妖精界は庇護し、それぞれの国家の法の裁きから逃れさせた。その代償として、彼らに妖精の手駒として生きる事を要求したのだ。

 魔法の武器と、その管理者であるパートナーを与えられた日から、自分が使い捨ての存在でしかないことを少女は理解していた。さして不幸だとは思っていない。身体を作り変えられ、去勢済みの家畜となった相棒よりはずっとましだろう。

 ポンチョの裏で、胸元にしがみついているその相棒は、不安そうに自分を見上げている。

 少女は小犬の顔をした相棒に、寂しい笑顔を向けた。

 鉄柱の上に、重機の下に、建材の束の陰に、殺気が満ちている。

 少女は手当たり次第に魔法弾を放った。鉄骨や他の建材が砕け、折れ、地面に降り注いでくる。殺気は一斉に霧散し、少女を囲んで再び結集した。

 反撃の手裏剣が突き立つ鉄骨の隙間から、少女は躍り出た。ポンチョを脱ぎ捨て、唸りを上げ、闇にはびこる殺気の下へと、弾丸のように飛び込んでいく。

 追っ手の黒装束に飛びかかり、その喉笛を喰いちぎった少女の顎には、紛れも無い、狼の牙が並んでいた。

 誰が観るでもない、暗闇の殺陣。吹き上がる血は入り混じり、少女のものか、追っ手のものか判然とせぬまま雨に流されていく。

 崩れた骨組みの下では、相棒の小犬がアガトダイモーンを咥え、必死に気配を消して逃げ出していた。濡れそぼった大きすぎる耳を引きずって、雨の工事現場を抜け、側溝に潜り込み、濁流に潜みながらひたすら逃げた。

 妖精界と連絡を取らなくてはならない。連絡場所は分かってはいたが、小犬は敢えて感情の指し示すままに、闇雲に走った。

 一時間ほど経っただろうか。小犬は泥水の奔流の中、力尽き、気を失った。途端に球状の光の塊となって、咥えていた銃の中に取り込まれた。

 さらに、半日が過ぎた。

 後にロボと名づけられる魔法生物は、そのまどろみの中で見上げた。

 初夏の日差しを背負い、自分を覗き込む、幼い少女の顔を。


平成17年5月30日 月曜日

「何なのよ、なんで今頃、そんな話すんのさ……」

 星を見上げて、みのりは、つぶやいた。

 夜9時をまわる頃合だが、夜空は街の灯りを受けて、ぼんやりと青く明るい。

 本来なら、人工の明りに阻まれ届かないはずの星の光を、みのりは、確かに青黒い夜空の中に認めていた。まだ、エンハンスブリットによる身体強化が持続している証しだ。

 みのりは、ビルとビルとの隙間に積み重なったゴミ袋の山に、半ば埋もれる様にして横たわっていた。ひどい臭いがするし、ハエも耳障りな羽音を立てて飛び回っている。気持ち悪いと思っていても、手足にはまるで力が入らない。血は流れていないはず。骨も折れていないはず。頭が働かず、自分のダメージも良くわからない。……少なくとも、死んではいないはずだ。

 怖いのか、悔しいのか、自分の気持ちも、よく分からない。

 亡羊とした感覚の中、全身を覆う鈍い痛みだけは理解できた。 

 十五階分の高さから墜落して辛うじて無事でいられたのは、エンハンスブリットと、ゴミの山と、そしてロボが耳の翼を広げてブレーキになってくれたおかげだ。

 自分の無事を確かめるロボの声を聞いたとき、みのりはうれしくて泣いた。

 でも、続けてロボの口から出てきた言葉は「もう、よそう」

 そのひと言に、張り詰めていたみのりの心はパンクしてしまった。

 「全てを忘れて、一緒に家に帰ろう」そうロボは畳み掛けた。

 どうして今更そんなこと――むせぶ声で問うみのりに、ロボは、今までのウソを白状した。地球の少女を守れという指令なんて受けていない事、自分が妖精界の暗殺部隊から逃げ出した事、魔獣王なんて大仰なもんじゃない、元地球人の、けちな人狼でしかなかった事。

「あんたの昔話なんて関係ないじゃん」

 ロボの話を、黙って聞いていたみのりは、ただ空を見上げてつぶやいた。

 もう、泣く気にもなれない。

「そうだよ、こんな事、どうだって良いんだ……僕が君を騙していただけなんだから!」

 涙声だ。みのりは、ロボがこんなふうに泣くだなんて、想像してもいなかった。

 それから、ロボは感情の昂ぶるままに、早口にまくし立てた。

「暗殺者に戻るのはいやだった。だからって、君のペットのふりをして窮屈に生きるのもごめんだったんだよ。いいか! 僕は永遠に近い寿命を得た代わりに、生理的な欲求をほとんど奪われたんだ。食欲すら必要のない限り働かない、その上……」

 そこで、ロボは急に口をつぐんだ。

「いや……だから……ごめん……」

 血の気が引いているのだろうか。途切れ途切れに、ロボは言いよどむ。

「そうなんだ、君を……まどろみの中で、ずっと見てきた君の事を……」

 ロボの言葉は、おずおずと核心に触れようとしていた。

「僕のヒロインに仕立てようと思ったんだ」

 搾り出されたロボの思いに、みのりの胸は疼いた。彼が何者なのか、ようやく分かったような気がした。

 ――だけど、きっと手遅れだ。

 なんとなく、みのりは、そうも思った。

 良いとか、悪いとか、許すとか、許さないとか、そういう次元とも違う、そんな思い。

「……アガトダイモーンの力があれば出来ると思った。でも甘かった。このままじゃ君は死ぬ。今日は助かっても、いつか死んでしまう。だから……」

 ――後悔ばっかり。

 みのりは、急に腹立たしくなった。

「……それだけなの?」

 みのりは体を起こすと、いきなりロボの体を両手で掴まえた。

 のしかかるように、掴んだロボに覆いかぶさり、その小さな顔を睨み付ける。

「だから何? あんたが誰だろうが、何を考えていようが……そんなの関係ないよ!」

「み、みのり……?」

「私は……」

 コンビニの前に散らかるゴミ、CGのゾンビの群、床に落ちるノート、ひとりで食べた購買のパン、正義の味方を映し出すTV、悪漢をなぎ払う、鬼姫の剣。

 ――そして、銃口から躍り出た金色の光。

 みのりの脳裏に、混沌と浮かんでは消えていく。

「私は、やりたいようにやってるだけだもん!」

 みのりの叫びに、ロボは息を呑む。

「あんただってそうじゃん。あんたが好きなようにやって、それで私、楽しかったんだから、それでいいんじゃないの?! きっかけがウソだからって、それがなんだってのよ!」

「それがダメだって言うんだ。それじゃあ、君はいつか死ぬ!」

 ロボは歯をむき出して、みのりを威嚇する。その声は、怖れに満ちていた。

「その時は、あんたが盾になれ!」

 みのりの言葉は衝撃波のようにロボを震わせ、刹那、二人を取巻く全てを、弾き飛ばした。

「……みのり」

「また逃げ出したら……あの子を置いて逃げたりしたら、私、一生後悔する」

 みのりは、ロボを掻き抱いて、胸につかえていたものを、全てをぶつける。

「私の好きなようにやってさ、それで誰かを守れるなら、それを……」

 ロボの鼻先に、硬いものが当たった。

 それは、みのりの胸で揺れる、ミスティ・レインのエンブレムバッジだった。

「それを正義って言うんじゃないの?!」

 叫び、そして、みのりは肩を落とした。

「だから、だからさ」

 堰を切ったように、みのりの目から大粒の涙がこぼれ落ちては、ロボの大きな耳を濡らす。

「最後まで付き合ってよ……ロボ……」

 すがるようにロボを抱き、すがるような声で、みのりは言った。

 ロボは黙ってみのりを見あげていたが、おもむろにひとり頷いた。

「みのり、僕にエンハンスを放ってくれ」

「え……」

 戸惑うみのりの腕をすり抜け、傍らのゴミ袋の陰からアガトダイモーンを引きずり出した。そして、泣きはらしたみのりの目をまっすぐ見上げ、ロボは言った。

「そうすれば、君を掴んで飛べる」

  ***

 フックトイは、フードのふち越しについ先刻まで自分がいた屋上看板をぼんやり見上げていた。

 傍らの路上ではドンキーパックの面々が、二台のワゴン車に負傷者を放り込んでいた。ガンテの乗り込んだ一台には、大きなスポーツバッグを二人がかりで抱えた手下が続いて入る。

 雑居ビルの裏手の路地で、一同は逃走準備を始めていた。特に人目は無い。もともと人通りの少ない道ではあるが、ましていかつい不良たちが、ものものしく動き回っているとなれば、誰もが避けて通るというものだろう。

 大きなスライドドアから顔を出し、ガンテがフックトイを呼んだ。

「おい。何ぼっとしてやがんだ。出るぞ!」

 曲がりなりにも拉致を遂行中のドンキーパック一味に、のんびりしている余裕など無い。スポーツバッグの中には名の知れた自警活動家「斬鬼のスズカ」が、拘束用の粘着テープで手足を縛られて詰め込まれているのだ。

「ごめん、ちょっと様子見てくるわ。死なれてると後味悪いし」

 フックトイは頭をかいて答えると、軽い足取りで一軒先のビルの下へと駆けていった。

 「天誅屋」の少女が墜落した地点だ。

 聞き知った少女の身体能力から考えれば、死ぬほどのダメージにはなっていない、とは思う。加えて、下に溜まったゴミが衝撃を弱めてくれるはずだ。

 とはいえ、相手もパラフィジカル能力者だ。

 フックトイがその異常に高度な予測能力をフルに働かせても、パラフィジカル能力というものは底が読めない。良きにつけ悪しきにつけ、予想通りには行かないものだ。

「あ、おい。置いてっちまうぞ!」

 背後でガンテが声を荒げているが、フックトイが立ち止まる様子は無い。

「んー、後で追いつくからー」

 フックトイは手を振って路地裏へと駆け込んでいった。聞き分けの無い子分の姿が見えなくなると、ガンテはあきらめたようで、ワゴンのスライドドアを閉めて車を発進させた。

 遠ざかる二台分のエンジン音を聞きながら、フックトイは安物のペンライトを灯した。弱い光線を向けながら真っ暗な路地裏を見回す。

 奥のゴミ溜めに光が向いた時、出し抜けに羽音が響いた。

 驚くフックトイの目の前で、白い羽根を背にした人影が飛び出し、見る間にぐんぐんと上昇していく。暗くて顔は判別できなかったが、その風体は間違いなく「天誅屋」の少女だった。

 フックトイが呆然と見上げているうちに、少女はあっという間に路地裏から夜の街路へと飛び出していった。

「あー、こりゃまずいかな」

 そう言いいながらフックトイは苦笑を浮かべ、さして急ぐでもなく少女の影を追った。

  ***

 フックトイが路地裏から抜け出てきた頃、すでにドンキーパックの車両二台は、拘束されたスズカを連れて地底通りの裏道を飛ばしていた。

 車内ではガンテが、抱えていたバッグをわずかに開いて中を覗き込んでいる。中にはぐったりとしたスズカが、膝を折り、背を丸めて詰め込まれている。

 ガンテの立てる下卑た笑い声に、同乗する部下達も、呆れつつ調子を合わせていた。

「んだよ? はずれねぇのか……」

 ガンテはスズカの鬼面に手をかけガチャガチャと揺すりながら、苦々しく舌を打った。どういう機構なのか、マスクを何処から外したらいいか、さっぱり見当がつかない。

「まぁ、いい」

 いったん、鬼面から手を離すと、ガンテはその手をセーラー服の襟にかけた。

「そんじゃ、体の方を見せてもらおうじゃねぇか」

 人差し指を胸元から差込み、力任せに引き裂く。

 だが、布を裂く耳障りな音は、急ブレーキの音にかき消された。続いてガラスの割れる音が響く。

 ガンテは驚くままに顔を上げた。

 その目に映るのは、フロントガラスを突き破って車内に飛び込んだ、鋭く、黒い塊だった。

「なんだぁ?!」

 一気にリアウィンドまで突き破った黒い塊は、急旋回して車内に戻ってくると、おもむろに羽根を広げて激しく飛び回り始めた。暗さと、あまりの素早さの為、姿が捉えきれないが、カラスに違いないだろう。だが、明らかに尋常なカラスではない。羽根が当たる度、脚がかすめる度に手下達の肌が切り裂かれ、血が滲むのだ。

 車内は瞬く間に阿鼻叫喚の騒ぎとなり、運転手もまともにハンドルを取ることが出来ない。

 ふらつき、ガードレールや電柱をかすめていく先行車を見て、異変に気付いたもう一台の運転手は、先行車の中の様子を覗おうと、車体を併走させた。

 ガンテは後続のワゴンが脇についたタイミングを見逃さなかった。

 カラスのくちばしを避けつつもスズカの入ったバッグを取り上げ、勢いよく車体左面のドアを開ける。すぐに天井の縁を片手でつかみ、逆上がりの要領で車体の屋根へと飛び上がった。

 カラスもすぐに車外へと飛び出したが、既にガンテは併走するもう一台へ飛び移っていた。

 必死のガンテは、カラスに向かって高々とバッグを突き出した。

 高速で狭い路地を飛ばすワゴン車の上に膝立ちになり、左手でバッグを肩に掲げて、振りかぶるポーズをとる。いつでも車体の前に放り出すぞという意思表示だ。

 ワゴン車に並んで追いかけていたカラスは接近を止め、いったん上昇する。

 距離を取りつつ、カラスはなおも車を追う。その姿を見上げて、ガンテは舌打ちしながらも、速度を上げるよう、中の運転手に指示を出した。

 上空のカラスは滑空しながら、右足で胸元をまさぐるように掻いた。

 するとどうしたことか、その右足に突如、携帯電話が一つ出現した。カラスは足を不自然な角度で前に曲げ、携帯電話を口元にあて、くちばしの先で器用にボタンを操作する。

「あ、もしもし、滝川警部でいらっしゃいますか?」

 カラスは街明かりで薄明るい夜空を滑空しながら、日本語で、それも丁寧な口調で話し出した。

  ***

 ガンテたちが一羽のカラスに襲われたちょうどその頃、みのりはロボに左腕を掴まれて、雑居ビルの上空を旋回していた。スズカが戦っていたあのビルだ。右手は魔法銃をしっかりと握っている。

「いない!」

 叫ぶみのりのこめかみに冷や汗が浮かぶ。ビルの屋上はもちろん、その周囲にもドンキーパックのごろつきの姿は見えない。

「もう、移動したんだな……」

 ロボが、かすれた声でつぶやく。

 魔法生物であるせいか、ロボにはエンハンスブリットの効果がみのりとは違う形で現われた。耳がさらに大きくなり、身体の二倍以上の大きさになったのだ。それでも、みのりを掴んで飛ぶのはかなり体力を消耗するらしく、息が荒い。

 心配そうにロボを仰ぎ見たみのりの耳に、タイヤの軋む甲高い音が届いた。

「行こう!」

 みのりの言葉を受けて、ロボは音のした方へと羽ばたいていく。

 窓ガラスの割れたワゴン車が、狭く、車通りの少ない裏道を塞いでいた。

 上空からのぞく限り人の影は無い。念のため、みのりはロボに地上へと降りてもらう。

 路上へと駆け下りてワゴン車に取り付き、中を覗き込む。車内はひどく散らかり、あちこちにこすり付けたような血の跡がある。まだ新しいようだが、その血の主は見当たらない。

 みのりは血の気の引く思いで、ロボにつかまり再び空を飛んだ。

 上空から必死に周囲を見回し、スズカの手がかりを探す。

 発掘作業区画に付随する商業地区として計画された地底通りだが、急場の都市設計のせいでえらく入り組んでいる、その上、過密なビル群を抜ける細い道は、上空からでは見通しづらい。

 焦るみのりの視界の端に、奇妙な黒い影がよぎった。カラスに見えるが、何かおかしい。

「あっ、あのカラス!」

 みのりは叫んだ。

「カラス?」

 聞き返すロボに、みのりは大声で答えた。

「あのカラス携帯持ってる!」

「……へ?」

 ロボは、あまりに唐突なみのりの言葉に唖然とした。確かに携帯電話を握ったカラスなど、そうそういる存在ではない。非常時に異常な存在となれば、つい関連付けてしまうのもわからないではないが……そんなロボの疑いとは裏腹に、みのりには確信があった。

 最初にスズカを見た夜、街灯を受けて飛んでいくカラスがいた。次に、お互い顔を合わせた時、やはり一匹のカラスが二人の戦いを見つめていた。今の今まで気に留めたことなど無かったが、こと、ここに至って確信を得た。

 敵か味方か――とにかくあのカラスは決してスズカと無縁の存在ではない。

 みのりはカラスの見下ろす先にスズカの影がある事を期待して、地上をつぶさに見まわした。

「ほら! あの車」

 果たせるかな、そこには線路をくぐる立体交差を、猛スピードで抜けて来る一台のワゴン車があった。その上に大きなバッグを抱えたガンテがしがみついている。

 線路を越えてワゴン車が差し掛かった、工業団地のような街区は、地底要塞の発掘研究施設が立ち並ぶ作業地区である。平成6年に発掘作業が終了して以来、作業施設も研究施設も次々に閉鎖され、ゴーストタウンの様相を呈していた。

 再開発も計画されているが、各企業も発掘作業ほど熱心になれないようで遅々として進んでいない。今は細々と続けられる地下整備のために、作業基地とゴミ処理施設が稼働しているだけの、裏寂れた地区となっている。

 そしてこの地区を南へ抜けると、そこに広がるのは……

「要塞跡!」

 行く先を悟り、叫ぶみのりの眼下に、荒涼たる岬が見えてきた。

 かつて、無数の砲塔が東京の中枢を狙って並んでいた異形の要塞も、いまはゴミと重機と作業用クレーンが点在するだけの寂れた荒野だ。長い不況で地下空間の再利用に手をつける企業も少なく、巨大で危険な廃墟として、作業員以外は原則立ち入り禁止となっている。

 だが、この封鎖地区のあちこちに不法居住者が住み着いているという噂はみのりも耳にしていた。全長三キロ近い、長い長い鉄条網に、そこかしこ穴が開いているのだろう。街中の不良であるパックと結びつけて考えたことは無かったが、なるほど、後ろ暗い連中がアジトを構えるにはいかにも似つかわしい雰囲気だ。

 ワゴン車を追跡するカラスを、さらに、みのりを吊り下げたロボが追いかける。人ひとり抱えて空力が悪いせいか、ロボはどんどん離されつつあったが、みのりの超視力が暗がりを飛ぶカラスを何とか捉えていた。何か、ワゴン車から矢のようなものが打ち出されているが、カラスは避けつつもほとんど速度を落とさず追跡している。

 数分ほどの追跡劇の末、みのりの眼下に広がるごつごつとした岩場に、大きなトンネルが見えてきた。「第26発進口跡」と書かれた鉄の扉が、半径7メートルはある巨大な半円のトンネル口を塞いでいる。堅牢であろう鋼鉄板の隅に、車両用の小さな搬入口が開いていた。ガンテを乗せたワゴン車が、土ぼこりを蹴立てて中へ飛び込むと、搬入口もすぐに閉められる。

 前方を飛ぶカラスが、ちらとみのりたちの方へ振り向いた。何を考えているのか、カラスの表情を読みとれるはずも無い。それからカラスは携帯電話を懐に収め――収めたように胸元で消滅させ、一直線に鉄扉めがけて急降下を開始した。

「私たちも!」

「待って」

 はやるみのりをロボがとどめた。

 カラスの羽先を黒い棒のようなものがかすめた。短い金属製の矢だ。その一閃を皮切りに、矢がさかしまの雨のようにカラスに襲い掛かる。トンネル口に展開したドンキーパックの兵隊十人ほどが、次々とクロスボウを撃ち込んで来たのだ。

 息を呑むみのりたちの前で、カラスの黒い羽が散り……その身は金属音を立てて矢を弾きながら、なおも急降下を続けていった!

 カラスは襲い来る矢の雨をものともせず、ついには、分厚い鋼板を突き破ってトンネルへ突入した。中で守りについていたであろう男達の悲鳴や怒号が、上空のみのりの耳にまで、漏れ響いてくる。対空迎撃にあたっていた連中も、慌ててクロスボウから手斧や鉄パイプなどの手近な接近戦用武器に持ち替え、小さな通用口からトンネルに駆け戻って行った。

 どうやらカラスに気を取られてみのりたちの接近に気がついていないようだ。

 ロボはみのりと頷き合うと、一気に降下を開始した。一発だけ装填しておいたコミニューションブリットを選択すると、鉄扉の中ごろへ、慎重に狙いをつけて撃ち込む。

 みのりは空中でロボの手を離れ、鉄扉に丸く抉られた、直径2メートルほどの穴へ身を丸めて飛び込んだ。奥からわずかな明りが届いており、トンネル内部は意外に暗くない。

 着地と同時にコンクリートを蹴って、駆ける。新たな襲撃に慌てふためくザコを、スタンブリットで撃ち払いつつ、みのりは、追いついたロボと共に一気にトンネルの奥を目指す。

 薄暗い直線の通路を、数百メートルひた走った末、にわかに空間が開けたかと思うと――

 激しい光が、みのりの強化された視界をくらませた。

 ヘッドライトでみのりたちを射抜きながら、二人乗りの大型のスクーターが突進してきた。運転する手下の後ろに、ガンテがまたがっている。その腕には、何か黒い影を抱えていた。

 手足を縛られたスズカだった。

 みのりが銃を構えた姿に気づき、スクーターの運転手は急ハンドルを切った。みのりを軸に大きく旋回し、背後に回る。側面を見せ、スクーターはいったん停車した。

 踵を返したみのりの後方、暗闇の奥から、ハチのような甲高い羽音が響いた。カラスが、ガンテへとくちばしを向け、地下空間をホバリングしていた。

 ガンテは拘束されたスズカを、みのりとカラスに見せつけようと、高く突き出した。

 スズカはその身をよじって必死にもがいている。既に意識を取り戻しているのだ。えんじ色のセーラー服の胸元が裂かれ、その下の黒い、ぴったりしたシャツがのぞいている。緑の光が拳から漏れるが、ガンテの光の篭手で両手ごと握り込まれ、剣状に形成できないらしい。

 スズカをはさんで、みのりとガンテとの視線が交差する。その背後にカラス、そして周囲にはドンキーパックのごろつき共が武器を構えて群がり、包囲の輪を形成していく。

 この広大な空間は、元は要塞の格納庫だったらしい。

 かつてはタイタンの超兵器がひしめいていたのだろうが、今は廃材の山の間に、普通の車両が五台ほど停まっているばかり。そのヘッドライトが、広大な闇を控えめに照らし出している。左手には壁面補修のための作業用足場が高くそびえており、右手には朽ち果てた小さなプレハブがあった。格納庫の壁面は、随所で岩肌がむき出しになっており、まるで採石場を思わせる。

 天井は吹き抜けのようで、頭上の暗がりがどれほど伸びているのか、にわかには測れない。

 その暗闇に向け、ガンテは、スズカの身を高く掲げて見せている。右の篭手でスズカの両腕を掴み上げ、左の篭手が、スズカの首筋をつまむ。念動力場の巨大な指は、たった二本でも、スズカの細い首筋を覆い、締め上げるには十分な太さだ。

「――私に構うな。ただの脅しだ!」

 スズカは詰まる喉をこじ開けて、カラスに向かって叫んだ。直後、さらにガンテの黄色く光る指がスズカの喉を締め上げる。スズカの掌から漏れていた緑の光が、徐々に輝きを失う。

 ガンテは不敵を装って、冷や汗の滲んだ顔に、にたりと笑みを浮かべた。

「撃つなよっ。くそがぁ!」

 そう怒鳴ると、ガンテは運転手の足を蹴って発進の指示を送る。

 獰猛に吠えるガンテを、みのりは黙って見据えた。生唾を飲み込みつつ、視線はそらさない。

 マフラーから轟音とともに排ガスが吹き上がる。躊躇なく、みのりはスクーターに向かって跳んだ。ガンテは血走った眼を剥き、慌ててスズカを盾に突き出す。

 みのりは構わず引き金を引いた。立て続けに三度、ラムネの栓を抜くような軽い破裂音。灰色の塊が三つ連続してスクーターに向けて飛んでいく。

 初弾が、スクーターの後輪に貼りついた。次弾がスズカの足とスクーターを貼り合わせた。最後の三弾目は、スズカの胸からマスクまでを覆った。結局ガンテには一発も当たっていない。

 だが、グルーブリット最後の一発には魔法銃の銃口へ続く、が付いていた。みのりはゴム状のの収縮力に任せて、スクーターへ、スズカのもとへ、思い切り跳躍する。

 スクーターのエンジンが唸りを上げるが、灰色の粘着体が後輪を抱え込んで放さない。

 ガンテは動かないスクーターと、盾にならない人質に見切りをつけて、後部座席から飛び出した。飛び出す瞬間、スズカの背中を蹴りつける。

 スズカはスクーターごとひび割れたコンクリートに倒れこんだ。煽りを食って吹っ飛ばされた運転手は、ほうほうの態で這い逃げる。

「ごめん!」

 ひと言謝ってから、みのりはスズカを避けてガンテを追う。スズカは粘着体に覆われているおかげで怪我もないし、口もともふさがっているから、みのりも文句を言われずに済む。

「ロボ、お願い」

 みのりのささやきに頷いて、肩からロボが離れる。

 同時に、みのりは逃げるガンテに向けて次々とグルーブリットを撃ち込んだ。その内の一発が、ついに足を捕え、転倒したガンテは顔からコンクリートに激突した。取り囲む手下たちで、動揺がざわめきとなって広がる。

「やっ、やりやがったなぁ……」

 ガンテは突っ伏したまま、唇を震わせた。床面から跳ね上げるように、砂まみれの顔を上げ、振り向きざまにみのりに向けて叫ぶ。

「っざけんな天誅屋ぁっ!」

「違う!」

 青筋立てて怒鳴り散らすガンテに、みのりは微塵の怖気も見ない。

 胸に光るミスティ・レインのバッジに、魔法銃アガトダイモーンをかざし、そして、叫んだ。

「魔法銃士、ミスティーッ・ミリィッ! ――覚えとけっ!」

 放たれた口上とともに、前髪が、ひとすじ、威勢よく跳ね上がる。

 ここに一陣の風が吹いたら、少々出来すぎか。だが確かに、マスクの結びから垂れた布地と、エクステの束ね髪と、跳ねたくせっ毛が、かすかにたなびいていた――地下だというのに。

「……うるせぇよガキ。名無しのまま死んでろっての」

 ガンテは歯噛みし、全身に青筋を浮かび上がらせて、グルーブリットの粘着力に負けじと立ち上がった。

「――殺れっ!」

 事の成り行きを半ば呆然と見ていた手下の数人が、ボスの怒号に弾かれて、慌ててクロスボウを撃ち放す。

 グルーブリットで迎撃しようと、銃を構えたみのり――いや、ミスティ・ミリィの目の前に、碧緑の稲妻が走った。矢は、コンクリートの床に落ちて、からからと音を立てる。

 光剣の一閃が、群れ襲うアルミの矢を打ち払ったのだ。

「ふん、やっと踏ん切りがついたか」

 ミリィの前に立ち、スズカはつぶやいた。束ねた黒髪ごしに、かすかな微笑が覗く。

 裂かれたセーラー服から黒いボディースーツがはだけたままだが、スズカは恥じらいを見せたりはしない。はためく制服の荒い破れ目は、少女剣士の剽悍さを際立たせていた。

 ミリィは、はにかみながら、スズカに頷き返した。スズカからグルーブリットと拘束テープを取り去ったロボが、パタパタと戻って来て、ミリィの肩にとまる。

 カラスが上空へ、吹き抜けの暗がりへと飛び去る。

 スズカの左手が輝き、もう一振りの光の剣が現われた。

 ミリィの手元で、銃の宝玉が鈍く光った。

 ロボが、ミリィの右手に寄り添い、装填の呪文を詠唱したからだ。

 悪漢達は、二人のスーパーヒロインを前に、その動きを止めた。ミリィとスズカは互いに背を預け、取り囲むドンキーパックの手下に向かい、二人、立ちはだかった。

「アロマオイールゥッ!」

 部下を呼ぶガンテの叫びに応じ、包囲網の一角から無数のガラス瓶が四方に散った。床面に当たって割れると同時に、異臭が格納庫中に漂う。ミリィは鼻を押さえたが、スズカがその手を制した。心配ないと言われ、銃を構えなおす。この程度の微量な薬剤では、常用者以外に影響を及ぼさないという事を、先ほどの戦闘でスズカは悟っていた。

 一方、ドンキーパックの兵隊達の方は、見る間に様子が変わった。個人差はあるが、皆、紫がかった紅潮を示し、興奮もあらわに息を荒げている。

 兵隊達は一斉に手にした武器を振り上げた。二十人は下らないだろう。次々に凶悪な武器を振り下ろし二人に襲い掛かる。手斧にバール、ハンマーに電動ドリル、チェーンに続けてチェーンソー、いわば「人殺しにも役立つ日用品」のちょっとした見本市だ。

 押し寄せる凶器の波に怖気づく様子も無く、スズカは、ミリィに目配せする。

「後ろは任せる」

 悪漢どもの殺到する中、スズカは群れ襲う武器を撃ち払い、返す刀で男達を叩き伏せた。余勢を駆り、ひるむ包囲陣に向かってずかずかと踏み出す。

「私から離れるな」

「いちいち命令しないでよ!」

 ミリィは文句を言いながらも、加速するスズカのステップに必死についていく。スタンブリットをばら撒き、スズカの背後に迫る敵を、ひたすら撃ち払う。

 自分のガードは考えない。自分の飛び込むべき安全圏は、常にスズカが切り開いてくれるから心配ない。大きな耳でみのりの腰にしがみつくロボが、常に魔法弾を装填しているから、弾切れだって気にしない。

 先陣スズカ、殿軍はミリィ。間に装填手のロボを挟んで、たった三人の小さな進軍が、屈強な男達の群を切り裂き、敵の本隊へ――いまだにグルーブリットに足を止められもがいているガンテへと迫っていく――その時だ。

 にわかに異臭が増し、スズカの表情に緊張が走った。スタンピードの臭いに近いが、違う。

「ぶぶぶぶっ殺してやるぞてめぇらぶっ殺すてめぇらぶっ殺す……ぶ、ぶ、ぶ……」

 グルーブリットを引き剥がそうと、もがいていた筈のガンテが、なにやらぶつぶつとわめきながら、にじるように歩き出した。灰色の粘着体は床面からコンクリートのかけらごと引き剥がされ、ガンテの足にへばりついている。全身からは、汗と共に、奇妙な体臭が噴き出ている。

 汗で滑ったか、ガンテの左拳から小さな注射器が、ぽとりと落ちた。床に転がり、ガンテのスニーカーに踏み潰される。

 同時に、ガンテの両手が、吹き上げる爆炎のような燐光に覆われた。それだけではない。見開かれた眼から、むき出した歯の隙間から、黄色い光の塊が、煙のように吹き上がっている。

 ボスの放つ異様な気配に、ドンキーパックの兵隊達も動きを止めた。

 身構えるミリィに向け、スズカが叫んだ。

「伏せろ!」

 そう言ってスズカはミリィの首根っこを掴み、自らも真横に跳んだ。

 ミリィも訳の分からぬまま、引きずられるまま、ロボを抱いてその身をコンクリートの地面に投げ出した。その頭上を、猛スピードで黄色く光る何かが飛び去って行く。

 それは、黄色い燐光を放つ、巨大な半透明の拳だった。それも一つ二つではない。身構え、逃げ惑うドンキーパックの兵隊達を、無数の拳がミサイルのごとく宙を飛んで襲い掛かる。地面でも、廃材でも、人間でも、とにかく物体に当たると、拳を形成する念動力場が衝撃と共に弾ける。人が消し飛ぶほどの爆発ではないが、それでも直撃すれば骨折は免れない威力だ。

 頭を上げたミリィは、その異様な光景に、言葉を失った。視線の先では、ガンテがぐるぐると腕を振り、次々に拳を、拳を覆う篭手状の念動力場を闇雲に打ち出していた。その姿は、まるで一昔前の格闘戦用ロボット兵器だ。もはや敵味方の区別がついていないらしく、逃げ回る手下達にも構わず光の拳を打ち出しながら哄笑し続けている。

「早々にけりをつけるぞ、こいつらの身が持たない!」

 片膝立ちになったスズカが、背を向けたままミリィに呼びかける。ミリィは半身を起こすと、きょとんとして周囲を見回した。手下のほとんどが倒れ伏し、動ける者はあらかた逃げていた。

 ――身が持たないのはこっちじゃないか?

 ミリィには、犯罪者を出来るだけ無傷で捕えようという気構えが、まだ無い。

 当惑気味のミリィに、スズカは、語気を強めて再度呼びかけた。

「あのトリモチは撃てるか。足止めさえしてくれれば良い」

 スズカの声に弾かれ、ミリィは反射的に銃を振り上げた。宝玉を回し、弾種をスタンブリットからグルーブリットへ切り替える。立て続けに三発。

 もう、避けるだけの判断力も無いのだろう、ガンテは真正面から全弾をかぶり、肩からつま先まで粘着体に捕らわれて、その動きを止めた。意味をなさないわめき声をあげて、辛うじて露出した右手で粘着体をかきむしっている。

「よくやった!」

 ひと声叫び、スズカはとどめの一撃を食らわせるべく駆け出した。残った右手から時折放たれる拳ミサイルを難なく切り払い、トリモチの山となったガンテに躍りかかる。

 ミリィも援護の為、立ち上がって銃口をガンテに向けた。

 狙いを定めるミリィの前を、何か丸いものがよぎった。

 床面に落ちた丸い塊は、コンクリートのヒビに引っかかって、ぐるぐると高速回転を始めた。

「ミリィっ、危ない!」

 危険を察知したロボが、ミリィの肩を掴み上げた。

 直後、回転していたスーパーボールが、地面からミリィに向かって弾かれる。

 ミリィは、目の前に迫ったボールを思わずアガトダイモーンで打ち返した。引き金は引いていない。銃身を横なぎに振って、「レシーブ」したのだ。

 少しは卓球の練習をしていて良かった……などと思う間も与えず、ミリィの視界に無数のボールが飛び込んできた。実際には十個も無いのだろうが、暗がりの中あちこちに跳ね回り、動きも数も読み取れない。嵐のようにミリィの体を覆い、次々に打ちかかっては跳ね返っていく。ミリィはロボを掻き抱き、背を丸めて打撃をしのぐ。

「いったん後退しろ!」

 ボールの猛襲に呑まれたミリィへ、スズカが叫ぶ。ミリィはその言葉を待つまでも無く、ボールの勢いに押されて、じりじりとガンテから距離を開けていた。

 スズカは、もがくガンテの顔面に一撃、昏倒させるべく強打を食らわせ、自分の右手へ駆け出した。古びたプレハブに潜む、ボールの狙撃者の影を、スズカの鋭敏な視覚は捉えていた。

 プレハブへ駆けるスズカを、新たなスーパーボールの乱舞が迎え撃った。

 スズカは全身をばねにして最大限に跳躍、頭上に剣をクロスさせると、空中で身を丸めて宙返る。スズカはそのままジャイロのごとき大回転で緑の光球となり、襲い来るスーパーボールを次々、弾き返した!

 プレハブの屋根に着地したスズカを、感嘆を示す口笛が迎えた。

 整備工事の現場事務所であったろう小さなプレハブは、放置された木材やパネル材に半ば埋もれていた。乱雑に積み上げられた鉄筋や、ワイヤーの束。身を隠す場所はいくらでもある。

 だが、スズカは迷わず左手の剣を突き出した。

「何度も遅れは取らん!」

 剣が指し示す先に、小柄な人影が現われた。灰色のパーカーを纏い、左手にはビニール袋をぶら下げている。東岸の倉庫で取り逃がした、フックトイという名のパラフィジカル能力者に相違ない。つい先刻、みぞおちに痛打を食らわせたのも、この男だろう。

「さすが鬼のねえちゃん。小細工はいつまでも通用しないってトコ?」

 フックトイはそう言ってにたりと笑った。やはり、東岸の倉庫街で聞いた声だ。

「スーパーボールとか言ったな。玩具で私を倒せると思ったか」

 スズカの足元には色とりどりの小さなボールが転がっている。この他愛の無い玩具のゴムボールが、フックトイ独自の変化球投法と兆弾予測能力とによって、変幻自在の飛び道具と化しているのだ。忍法、あるいはそれに比肩しうる超絶の投擲術であった。

「手下もほとんど倒れ、ボスもあの有様だ。じきに警察も来るぞ、いいかげんあきらめろ」

 スズカは剣を突きつけたまま、フックトイへつかつかと歩み寄る。

 フックトイは苦笑しながらかぶりをふった。

「こっちにもいろいろあってね。シガラミってやつだよね」

 フックトイが顔を上げたと同時に、強烈な光と、けたたましい衝撃音が地下格納庫に広がった。ガラガラと、物が乱雑に崩れる音がして、ミリィの相棒の小犬が何か叫んだ。

「それに、ガンさんまだ元気だぜ」

 口の端を吊り上げて、フックトイは皮肉めかして言った。

 ちらりと横目で見やると、スズカは舌打つようにつぶやいた。

「?! あいつ、下がれと言っておいたのに!」

 眼下の床面では、トリモチの拘束を力ずくで破ったガンテが、倒れ伏しているミリィに向かって、猛然と駆け出したところだった。コンクリート廃材のガラ山にしなだれかかったままのミリィは、小犬が懸命に揺さぶっているのに、まるで立つ気配が無い。

「そはや!」

 破れかぶれとでも言うように、鬼面の下で眉根を寄せつつスズカはひと声叫んだ。

 頭上で、カラスが、かぁと鳴いた。

 同時に、フックトイは青い銃を抜き撃った。手にしたビニール袋から取り出したものだ。

 バチン、身構えるスズカの前で、銃声にしては軽い音が響く。緩やかな放物線を描いて飛んでくる遅い弾体。スズカは難なく剣で打ち払う。

 弾体は中空で弾けた。矢のような弾体の先に括り付けられていたプラスチックのカプセルが割れ、緑の粘液がスズカの前に広がった。スズカはすぐに跳び退ったが、マントの先に、わずかに飛沫が飛ぶ。付着した粘液からはゴムのような樹脂臭がするが、特殊繊維で編まれた黒いマントに、これといった変化は無い。

 再びコンテナの上に着地したスズカに、フックトイは、口の端を釣り上げて言った。

「心配すんな、そいつもおもちゃのスライムだよ!」

 フックトイが手元でぶらつかせているのは、プラスチックで出来た玩具の鉄砲だ。

「なめるなぁ!」

 雄たけびとともに振り抜かれたスズカの剣がフックトイのパーカーを捉えた。なぎ払われた少年の上半身が力なく弾き飛ばされる。刀身を成す念動力場から伝わる違和感にスズカは眉をしかめた。人体を打った手ごたえではない。しまったと思う間も無く――

 パーカーに包まれていた風船が廃材に当たって割れると同時に、スズカの足元に潜んでいた六発のスーパーボールが、一斉に跳ね上がった。

 高速回転するボールは、瞬く間に光の剣の間合いを抜けた。スズカがそれに気がついた時には、既に左右三発ずつのボールがわき腹を襲っていた。

  ***

 スーパーボールの嵐からミリィを抜け出させたのは、皮肉にもガンテの光の篭手であった。

 スズカがフックトイと対峙した直後、ガンテの放った、何発もの拳状の念動力場が、乱舞するボールを蹴散らし、身構えていたミリィを襲ったのだ。

 念動力場はミリィの後頭部で弾け、その衝撃が、ミリィを小高く積まれたコンクリートのガラの山へと、きりもみさせて弾き飛ばした。

 何秒、意識が飛んでいただろう。襟首を引っぱられて、ようやく頭を起こしたミリィの目に、自分に向かって突進してくるガンテの姿が飛び込んだ。全身にグルーブリットの粘着体をぶら下げたまま、ガンテは一直線に向かってくる。走りながら打ち出された念動力場のパンチが、ミリィの周囲のコンクリート片を次々吹き飛ばしていく。

 必死にミリィの体を引き起こそうとするロボだが、もはや羽ばたく力も満足に残されておらず、瓦礫に埋もれたミリィの腰が上がる気配は無い。ミリィはこわばる腕で銃を突き出して、ガンテにありったけのスタンブリットを浴びせる。効いてくれと祈りながら引き金を引くが、突進してくるガンテの勢いはまるで衰えない。カチカチと、引き金が空しい音を立て、弾切れを告げた瞬間には、もう、ガンテの猛獣じみた凶相が目の前に迫っていた。

 ――ママ、ごめん――、ミリィが目をつぶった瞬間。

 ミリィの体は飛び上がるような勢いで、何者かに抱き上げられた。

 いや、実際に抱き上げた者はその勢いで宙に舞い、ガラ山の上にふわりと着地したのだ。

 ミリィを救い出したのは、黒いスーツの、すらりと長い腕だった。ロボもミリィの首にしがみつき、共に助け出されている。

「大丈夫ですかな?」

 黒いスーツの男は、ミリィのマスクを覗き込み、柔和な口調で尋ねた。

 歳は二十代半ばといったところか、長めの前髪に四角い眼鏡。その下に浮かぶ男の微笑を見上げ、ミリィは無言で頷いた。

 唐突な状況の変化。その上、一種、場違いなほど上品な男の物腰にミリィは言葉を失った。

 加えて言えば、異性に抱きかかえられるのが、物心ついてから初めての経験だったことも、ミリィ――みのりの混乱に大きく影響している。

 男は襲い掛かる拳のミサイルを軽々と避け、あっという間に、壁面の足場の上に跳び上がった。二階建てか、それ以上の高さがある鉄骨のやぐらの最上部まで、一足飛びだ。

「私がお手伝いできるのはここまでです」

 そう言ってスーツの男は、みのりを足場のスチールパネルの上に降ろす。

「あ、あの……」

 未だに状況の飲み込めないミリィが、自分の言葉も整理できないままに、男に呼びかけ――

「っのわ!」

 足元を襲う強烈な震動に遮られ、続くミリィの言葉は途切れた。

 とっさにロボを抱きかかえ、ミリィは足場のパネルに膝をついた。鉄骨のやぐら全体が激しく揺さぶられる中、何発かの光の篭手が最上部まで届いて弾けている。ガンテが足場ごと破壊しようと、次々に光の篭手を叩き込んでいるのだ。その獰猛さたるや、狂戦士というのも生ぬるい、もはや類人猿の変異した怪獣そのものだ。

「これはいけない」

 自分達の状況を指しているのか、それとも視線の先、朽ちたプレハブの上で苦戦するスズカを見て言っているのか。混乱するみのりはただ男を見上げて、続く言葉を待った。

「えー、ミリィさん、でしたか」

「は、はい?!」

 だんだん斜めになってきた鉄骨にしがみつきながら、ミリィは聞き返した。ロボは既に体力を使い果たしたのか、ぐったりとミリィの腕に体を預けている。

「スズカを、お願い致します」

 ガラガラと音を立て、徐々にやぐらが崩壊していく中、男は丁重な仕草で頭を下げた。ミリィは呆気に取られて見返す。ミリィが男の言わんとするところを掴みかねている間も、鉄骨は震え、パネル材が吹っ飛んでいく。

「で、でも……」

 自分でも問題を整理できないまま、ただ不安げな声ばかりが、ミリィの口をついて出てくる。

「どうしました?」

「弾が……弾が無いんです!」

 ミリィは混乱する頭の中からどうにか第一の懸案より分け、告げた。アガトダイモーンの銃身の宝玉はもはや白く半透明に濁っている。何の魔法も装填されていない証拠だ。再装填も、ロボがこれほど疲労困憊した状態ではかなうまい。

「まだ、一発装填できる……!」

「ロボ!?」

 ミリィの腕の中でどうにか頭を上げ、ロボが言った。

「スタンか……グルーブリットなら何とか……ッ」

「グルーブリットというのは、あのトリモチ弾のことですな」

 あえぎあえぎ言葉を続けるロボに、男は尋ねた。ミリィが代わって首を縦に振る。

「ならば重畳」

 そう言うと、スーツの男は膝をつき、ミリィに耳打ちした。

「……ええっ?」

 ミリィは一瞬渋い顔をしたが、微笑みかける男の顔を見返すと、みるみる頬を赤く染めて、

「はいっ」

 と頷いた。

  ***

「ひっ?!」

 跳ぼうとしたスズカは、引きつるようなうめきを漏らして、一瞬、その身をよじらせた。

 フックトイの術中にはまり、身代わりの風船を弾いてしまったスズカは、罠と悟った瞬間にその場を飛び退けようとしたのだが、かなわなかった。

 突然、わき腹を襲った不快な感触に、全身の力を奪われたのだ。

 マントの下をくぐり、破れたセーラー服の裾からわき腹に抉りこんだボールは、その奇怪な回転で脇から背中を縦横に這いずり回っていた。ボディースーツのおかげで痛みはほとんど無いが、とにかく不快な感触が全身を襲う。気を張って不快感を押し殺そうとするが、どうしても力が抜けてしまう。

 情けないことに、スズカはくすぐり負けしていたのだ。

 スズカの眼前に、既にフックトイの姿は無い。パーカー一つ身代わりにしてプレハブの上から消え去っていた。

 くすぐりに耐えながら、スズカは歩を進めた。フックトイがただ逃げたのでなければ、向かう先はただ一つ。鉄骨のやぐらの下で猛り狂うガンテへと跳躍すべく、スズカは屋根を蹴った。

 その瞬間、焦るスズカの足元をスーパーボールが掬い上げた。運動エネルギーのベクトルを曲げられ、スズカは跳び上がる勢いのまま屋根から転げ落ちる。

 ガシャンガシャンと幾重にも衝撃音を響かせながら、スズカはジャンクの山に激突した。

「――す、スズカ!?」

 足場から戦いを見下ろしていたミリィは、転げ落ちるスズカの姿に息を呑んだ。

 激しく上下するガレージの屋根にしがみついたまま、不安げに振り向いたミリィに、黒いスーツの男は、ただ穏やかに頷きを返した。心配ない、そう言っているのが、なぜか分かった。

「……彼ですね。来ましたよ」

 黒スーツの男の囁きに促されて向き直ると、確かにフックトイが眼下に姿を晒していた。スズカが廃材の隙へ転げ落ちるのと同時に歩み出てきたのだ。Tシャツ姿のフックトイは、鮮やかなオレンジのルーズヘアの下に無邪気な笑みを浮かべて、格納庫跡を悠々と横切っている。

 目が合った。フックトイはミリィを見てニヤリと歯を見せ、ミリィは慌てて頭を引っ込めた。

 そのミリィの頭上をガンテの拳ミサイルが飛び去っていく。

 ミリィのおかれている状況も悪化する一方だ。やぐらの支柱は既に何本か折れ、しがみついていなければ滑り落ちるほどに足場は傾斜していた。ガンテの方は既にどれほどの念動力場を放出しているのか分からないが、一向に萎える気配は無い。

「早くしないと、ボスと彼が合流してしまいますよ」

 黒スーツの男の言葉に急かされ、ミリィは肩膝を起こした。

 スーツの男に預けたロボを一瞥し、ごくり、つばを飲んでから一気に駆け出す。

 頭を上げたミリィを狙い、ガンテが拳を放って来た。一発、二発と光る拳がミリィの鼻先をかすめた。三発目の拳にタイミングを合わせ、足場から跳び出す。

 空中でつま先が触れた瞬間、篭手を構成する念動力場が爆発した。ミリィは両足で衝撃を受け止め、そのエネルギーで、ひときわ高く跳躍する。

「そこまでだぁ――――っ!」

 ミリィは叫び、中空で身を翻した。そこからフックトイに狙いを定め降下する。

 フックトイは焦るでもなく一歩だけ後退すると、右手に持った五個のボールを奇怪なスナップで投げつけた。ミリィに向かって上昇するボールは互いにぶつかり合い、複雑怪奇な弾道を描く。たった五個のゴムボールは何重もの残像を生み、原色の嵐となってミリィに迫った。

 ミリィは、フックトイが右手を振った瞬間に引き金を引いていた。

 標的はフックトイではない。自分の左掌に銃口を押し当てて放ったのだ。グルーブリットは顔の前で一瞬ピザ生地のように広がり、風圧に押されてミリィの体を包み込む。そのまま空中で半回転して、ミリィはコンクリートの大地に立つ。その姿は、言うなればまさに――

 まさに、歩くトリモチだった。ねずみ色のゴムの塊が頭から腰まで覆い、その上には五個のスーパーボールがまばらに貼り付いていた。

「どうだぁ!」

 蓑虫のミノのように上半身を包む粘着体から、顔を半分出し、ミリィは仁王立ちで叫んだ。

 自分の攻撃を無効化した敵が、目の前に立ちはだかっている。

 フックトイは目を丸くして、しばし、立ちはだかる敵の姿を呆然と見つめ、

「ぷ」

 と吹き出すと、あとは腹を抱えて爆笑した。

「――ひゃ、いやっ、おねえちゃんウケるっ、ぶわっはははは――」

「笑うんじゃない!!」

 ミリィは頬を真っ赤に膨らませつつも、フックトイの緊張が途切れた瞬間を逃さなかった。

「てぇーっりゃあああああーぁっ!」

 後は野となれ山となれ。「走るトリモチ」ミリィは恥も外聞もなくフックトイに突っ込んだ。

 グルーブリットで体を覆ったまま体当たり。

 フックトイは半ば諦めたように腹を抱えて立ち尽くし、ミリィの特攻を真正面から喰らった。

 ミリィの下敷きになりながら、なおも笑う。

「おねえちゃん、カッコよすぎ」

 そう言って、くすくす笑っていた。

  ***

 事の成り行きに、開いた口がふさがらない。スズカは、こんなバカバカしい戦い方に助けられた自分が情けなくなったが、いやいや、今はそんなことは言っていられない。

 真顔に戻ると、ガンテに向かう足取りを速めた。

 スズカが廃材の山を押しのけて這い出してきたのは、今まさにミリィがフックトイのところへ落下して行く瞬間だった。援護に入るべく、息つく間も無く駆け出した。

 さらに悪いことに、ガンテが足場から離れ、着地したミリィに向けて突進を始めていた。しばらく標的になってガンテの注意をひきつけていた、そはやの姿はもうない。

 そして今、ミリィがフックトイと相打ちになる形で戦闘不能に陥った。

 味方を巻き込むことを、暴走状態のガンテが躊躇するとは思えない。

 スズカは全身をばねにし、ガンテめがけて飛ぶように駆けた。床面に転がるドンキーパックの兵隊を、そしてミリィの脇を駆け抜け、乱れ打たれる光の篭手を交わし、神経を極限まで研ぎ澄ませ、狙いを定めて跳躍。ガンテの背中に回り込み、その首へと取り付いた。

 光の剣を交差させ、幹のような太い首に押し当てる。鋼の剛性としなりを持つ緑色の念動力場が、ガンテの頚動脈をぎりぎりと締め上げる。

 ガンテの光の篭手が鬼面を叩くが、スズカはひるむことなく力を込め続ける。

 背中のスズカを振り払おうともがいていた、ガンテの腕から、黄色の光が消えた。

 鈍い音を立てて膝を落とし、前のめりにガンテは倒れこんだ。

 落ちた。

 ほっと息をついて、スズカはガンテの背から立ち上がろうとしたが、足が動かない。

 まさかと思ってスズカが足もとに目を向けると……案の定、ガンテの背にこびりついていた粘着体が、自分の足も絡め取っていた。

 またしても、不覚。

「……一つ聞いて良いか」

 スズカは、鬼面の下に覗く口の端を、ひくひくと引きつらせて、ミリィへ向けた。

 ゴムまみれでフックトイにのしかかるミリィは、顔を背けたまま頷く仕草をした。

「そいつと共倒れになって、それからどうするつもりだった」

「いいじゃん、全滅した訳じゃないんだから」 

 ミリィはしれっと答えたが、やはり恥ずかしいのか、スズカには顔を向けない。

「――ええいっ、少しは後先を考えろっ!」

 スズカの一喝がこだまする地下格納庫を、にわかに投光器のまばゆい光が照らし出した。

  ***

「……なんで?」

 実年の刑事に気前よく出迎えられ、何事か言葉交わしているスズカに対し、ミリィは、電磁警棒を構えた特殊装甲服の機動隊員によって、遠巻きに包囲されている。警官隊が放つ投光器の強烈な光線が、ミリィの高感度の視界に容赦なく突き刺さる。

 ガンテとフックトイ、そしてドンキーパックの一味のほとんどは、警察によって既に拘束されていた。一方、ミリィの腕の中では、最後の力を振り絞って粘着体を除去したロボが、ぐったりと身を預けている。こんなふうに包囲されていてはゆっくり休ませることも出来ない。

「なんで、なんでなのよ?」

 ロボを胸に抱きミリィは恨めしげにつぶやいた。おどおどと周囲を見やるうちに、スズカと眼が合う。すがるような視線を送ると、逆光の中のスズカは、無言で頷いた。

 スズカの脇に立っていた刑事が、ミリィの方へ歩み出て来た。

「ほら、撤収――」

 五十絡みの刑事、滝川は、ぽんぽんと手を叩きながら、軽い口調で機動隊員を下がらせる。ミリィの前で立ち止まると、警官隊全体を見回して、大声で呼びかけた。

「この子はバリアンツのメンバー候補だ。まだ正式に登録されてないから証明章エンブレムがないが、とりあえずスズカが身元を保証するそうだ」

 ミリィは目を丸くして、刑事の横顔を見上げた。刑事はたれた目でウィンクを返す。

「それと、この銃みたいなのは非殺傷武器だからな、そんなごつい装備いらねーぞー」

 機動隊員は不承不承といった様子で警棒を下ろし、囲みを解いた。刑事もスズカに合図を送ってから、ミリィの元を離れていく。

「ど、どういうこと? バリアンツって」

 刑事と入れ替わりで歩み寄ってきたスズカに、ミリィは尋ねた。

 スズカは呆れ顔で聞き返してきた。

「なんだお前、この期に及んで単独活動が続けられると思ったのか」

 その語気には、強くいさめる響きがあった。

 ミリィはしばし言葉に詰まったが、

「だ、だからって勝手にメンバー扱いされても困るわよっ」

 と、破裂させるように口を開く。声の大きさに、寝息を立てるロボの耳がピクリと動いた。

 スズカは慌ててミリィの口元を押さえ込む。

 気がつくと、周りの警官たちが不審そうな視線を送っていた。

「お前な、少しは私の立場も考えろ。このまま警察に引き渡してやっても良かったんだぞ」

 スズカはきょろきょろと周囲の様子を窺いながらミリィに言い含めた。

「なによ、恩着せがましいの」

「――っ、い、言うに事欠いて、なんだ、その言い草は!」

 ミリィのボヤキを聞きとがめ、スズカは途端に鼻白む。つかみ掛からん勢いで食って掛かるスズカの肩を、しなやかに男の手が制した。

「お嬢様、声が大きいですよ」

 ミリィを助けた黒スーツの男だった。ロボをミリィに手渡した後、男は刑事たちとなにやら話し合っていたのだが、今度は、けんか腰の二人を見咎め近寄って来たのだ。

 スズカは男に顔を背けて、押し黙る。その片頬が、さも不服そうに膨らんでいた。

 黒スーツの男に続けて、先ほどの、五十路の刑事が戻ってきた。

「しかし、スーパーヒロインにしちゃひどい格好だな」

 苦笑交じりにミリィの姿を見回している。

 ミリィは赤面した。思えば、ゴミために落ち、瓦礫に突っ込み、髪も手足もめちゃくちゃに汚れていた。殴り飛ばされボールにもまれ、ベストもキュロットもぼろぼろにほつれていた。

「風呂入って寝ろ、と言いたいところだが……あと小一時間ぐらい付き合っちゃくれないか」

 刑事はあごを掻きながら気安く言った。

 対して、見上げるスズカは真剣な口調で、念押しに聞いた。

「それは捜査協力ということでよろしいですか、滝川警部」

「まぁ、いつものごとく正当防衛と民間人逮捕で丸くおさめるつもりだがな、一応状況確認だけでもさせてもらえれば良いんだ」

 滝川という刑事がやろうとしている事は、いま一つ理解できなかったが、とにかく警察署で色々聞かれることは、ミリィにも想像できた。

「……え、け、警察署に行くんですか。それも、一時間も」

 ミリィは戸惑いも隠さず、もじもじと尋ねた。そろそろ時刻も夜9時半を回る。

 ロボは寝入ってしまい、か細い寝息を立てている。安静なようだが、心配は消えない。

 根掘り葉掘り聞かれたら正体もばれてしまうかもしれない。

 それに夜更けになると母親も帰ってくるかもしれない。

 その他もろもろの心配事が、中身も判然とせぬまま、ミリィの脳裏をぐるぐる回っていた。

「そはや、ついて行ってくれ」

 スズカはそう言って、携帯電話をスーツの男に放り投げた。

「とりあえず、警部とは私が同行する」

 不安そうに見送るミリィを尻目に、スズカは滝川と共にパトカーに乗り込んだ。

 そはやと呼ばれたスーツの青年は、携帯電話をしばし眺めて、

「なるほど」

 とつぶやくと、ミリィの腕を取って、他の刑事達の方へ向かうように促した。

 ミリィは一瞬、戸惑ったものの、そはやの顔を見返すと、もう言葉が出ない。

「なるべく、お手間はかからないようにしますよ」

 そはやの丁寧な口調に、ミリィは気の抜けた顔でこくりと頷いた。

 それから、臨海署まで向かうパトカーに乗りこんだ。

 隣に座るそはやの顔を、ちらちらとかすめ見ながら、何者なんだろうと考えを巡らせる。

 その跳躍力や戦い慣れした態度から見て、やはりパラフィジカル能力者なのだろう。立場としてはスズカの護衛か執事といったところか。その物腰といい、考えられる肩書きといい、非日常的過ぎて、みのりは、なんだかくらくらとめまいすら覚えた。時折そはやと目が合っては、赤面して視線を逸らす。

 そうこうしているうちに、警察署に到着。

 そはやに続いて降りようとしたミリィの腰が、まるで上がらない。どうやら車内でエンハンスブリットの効果が切れたらしく、気がつくと、どっと力が抜けていたのだ。その上手足を動かすと、ぎしぎしと痛む。立ち上がれないミリィの手を取って、そはやが降ろしてくれた。

 そはやはそのまま玄関ロビーへとみのりを先導する。警官があわただしく行き来するロビーの中に、スズカの姿は見当たらなかった。

「ちょっと、つかまっていて下さいね」

 そはやはそう言うと、にわかにミリィの手を取りぐいぐいと引っぱっていった。同乗していた警官たちの目を盗むように、足早にどんどんと奥の方へと向かっていく。ミリィは訳のわからぬまま、ロボを抱え、痛む足を引きずって必死についていく。

 署内の人気のない通路をあちこち回って、気がつくと通用口らしき所から外へ出ていた。

「警察の方には、私から良い様に伝えておきますので、今日はこのままお帰り下さい」

 ミリィは呆気に取られたまま、そはやを見返している。

「この携帯を持っていって下さい。登録された番号にかければ、直接私と連絡が取れます」

 そはやはポケットから携帯電話を取り出すと、ミリィの手に押し当てた。

「後ほどお会いしたいと、スズカが申しております。いずれ連絡を取りますので」

 そう言うと、人通りの少ない道を示して、ミリィを送り出してくれた。

「お礼を、言いたいみたいですよ」

 そはやと名乗った黒スーツの男は、別れ際そう言って笑みを見せた。

「あ、え、こちら……こそ」

 ミリィは頬を染めたまま、おずおずと礼を返す。

「……す、スズカ……さんにも……どうも」

 ぽつり、ひと言つけ加えて、別れた。

 警察署は中央通りの中ごろにあった。十数分も歩けばジオホール前駅に着くだろう。

 ミリィは疲れと痛みとで、茫洋となりながらも、どうにか人目を避けてビルの陰に隠れた。

 ベストとマスク、手袋だけとって、変装を解いた。

 春日井みのりに戻るのは、実にあっけない事だ。

 拾ったビニール袋に銃を隠し、ベストでロボの体を覆う。

「……ごめん」

 ロボはベストの隙間から顔も出さずに言った。いつからかは知らないが、ずっと目は覚めていたらしい。

 みのりはベストごとロボを掻き抱き、目を閉じて、つぶやいた。

「ありがと」

 ベストを両腕で抱えたまま、ゆりかもめに揺られて家まで戻った。

  ***

 マンションに戻ると、もう母の早苗が帰っていた。月曜日の夜にしては珍しく早かった。

「遅かったじゃない、電話もつながらないし――」

 ドアの開く音に、慌てて飛び出してきた早苗は、娘のくたびれた格好に目を剥いた。

「……ど、どうしたの?」

 みのりは抱えてきた大きなビニール袋を下ろすと、黙って、早苗に背を向けて腰を下ろした。へたり込むように、どさりと尻をつく。

 靴紐を解きながら、返事をポツリ。

「うん、友達と……」

 わずかに、言いよどんだ。

「……友達とケンカしたんだ」

「え……?」

 娘がそっけなく返した答えに、早苗は一瞬、言葉を失った。

 みのりも、それきり口をつぐみ、靴を下駄箱にしまっている。

「け、けがは? あ、相手の子は?」

 早苗は、どうにか言葉をつないで聞き返した。

「うん、もう大丈夫だよ」

 みのりはそう言うと、ビニール袋を持って立ち上がり、早苗に顔を向ける。

「仲直りしたから!」

 と、満面の笑顔で、みのりは言った。

「そう」

 早苗はひと言、相槌を返した。娘の笑顔が、あんまり満ち足りた笑顔だったので、戸惑いながらも、つられて頬が緩んでしまう。

「ごめん、後で話すから、ちょっと電話させてね」

 軽く頭を下げて部屋へ入っていったみのりを、早苗は黙って見送った。

 閉まったドアをしばし見つめて、それから自分の頬を両手でぴしゃりと叩いた。

 それから、気合をこめるように早苗はつぶやいた。

「私が信じてやらないで、どうするっ」

  ***

 みのりは部屋に戻るとすぐ、手にしたコンビニのビニール袋を、ベッドの上でひっくり返した。大量の菓子の包みといっしょに、マスクやらエクステやらのコスチューム一式、アガトダイモーン、それから最後に、板チョコを咥えたロボが転がり出てきた。

「ひどいよ、いきなりひっくり返したりして」

 と、ぼやいてから、ロボはバリバリとチョコを噛み砕いた。

「死にそうだったくせに、現金なもんね」

 みのりは皮肉めかして笑った。一時は、虫の息かと思うほどの衰弱していたロボだったが、帰り道にコンビニで買った菓子を次々平らげ、見る見る体力を回復していったのだった。

「回復が早いのはいい事じゃないか。それより電話は?」

 ロボが口を尖らせてせっつくまでも無く、みのりは自分の携帯を取り出し電源を入れた。

 菓子の袋を少しどかして、自分もベッドに倒れこむ。天井を仰ぎながら、みのりはコールボタンを押した。

「あ、真紀ちゃん。まだ起きてた?」

 スナックの袋に首を突っ込んでいたロボが、いったん、頭を出してみのりの声に耳を傾ける。しばらくすると、安心したように笑みを見せて、またスナック菓子を食べ始めた。

 5月30日、月曜日。平日の夜としては、遅い時間の長電話になりそうだ。

「いやほんと、大変だったんだよぉ。まだあちこち痛くてさ。ううん、いいのいいの。あ、それでさ……あのさ、明日の朝なんだけど……大丈夫? あ、うん、私は大丈夫。じゃあ7時ぐらいには迎えに行くから」

 ミスティ・ミリィの戦いも、春日井みのりの戦いも、まだ始まったばかりだ。

「一緒なら平気だよ。私、スーパーヒロインなんだから!」

                                 ――――終

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魔法銃士 ミスティ・ミリィ @japacomi

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