静かなる老人

第26話 揺れる町

「じゃあ川島さん、そういうことで、宜しく頼むよ。それにしても遅いなぁ、工事業者」

 院長は時計を見ながらイライラしていた。

 人を待たすことはあっても待たされることは嫌いなのだろう。見た目はドクターというよりは、すし職人の風体に近い。短く刈り上げた頭は、ねじり鉢巻きがよく似合う。頑固おやじという言葉がしっくりくるタイプの医者だ。


「あまりきっちりした時間を指定できませんからね。特に3月4月は引越しシーズンで立て込んでいるのでしょう」

 こういう不快な待ちの時間を共有すると、多少なりとも親密になれる。電話業者には申し訳ないが、ここは利用させてもらおう。このタイプは、こちらのあらを見つけては、ああだ、こうだと注文をくけてくる事だってありえる。

 前任者はすっかり院長を怒らせたらしく、その尻拭いにきた自分としては、なるべくことを穏便に済ませたい。前任者の悪口、工事業者の悪口、ここはそれで乗り切るのが吉だろう。


「だって、オレ、言ったんだよ。診療時間とかあるから、この時間じゃなくちゃ困るって」

 そんなことをいちいち電話会社が対応していたら、それこそ予定通りになんか行くはずがない。それにしても面倒なことになった。こちらの作業は30分もかからないというのに、いや、正直10分もあればできる作業なのだ。12時からの作業だと指定を受けてきたものの、肝心の工事業者が来ないのでは、院長の愚痴を延々と聞きながら待つしかない。


 できれば、早く帰りたいものだ。


 世田谷区の閑静な住宅街にある診療所に着いたのは12時前だった。最初、ギクシャクしていたやりとりも、謝るべきところは頭を下げ、正当な要求は多少アレンジを加えて相手が納得する形で通した。担当の交代と客が望んだシステムの改修と費用の請求。わずかばかりのディスカウント。


 あとは実作業として、光回線の変更に伴うシステムの動作確認だが、肝心の回線工事会社がまだ来ていない。時計は昼の2時を過ぎていた。外には午後の診察を受けるために、4~5人の患者が入り口のところに立っていた。みんな年寄りばかりである。午後の診療は3時からだが、年よりは気が早い。


「どうしよう。患者さん着ちゃったよ」

「大丈夫ですよ。今お使いのシステムはオフラインでも機能しますし、回線が途中で切り替わっても影響ありませんから、業務には支障はありません」


 本来はオンラインで使えているべきシステムが、まだ完全に稼動していないのは、前任者の積み残した宿題のせいなのだ。今日ようやくその光回線が院内に引き込まれることになった。通信機器の接続設定をちょっと書き換えるだけの作業ではあるが、そういった機器は直接医院の人間には触れないようにしてもらっている。セキュリティという言葉は、こういうときに便利でもあり、また不便でもある。


「どうぞ、受付を始めていただいて結構ですよ。私は外で工事業者が来るのを待ちますから」

 体のいい言い訳で、私は院長の愚痴から逃げることに成功した。スタッフが休憩から戻り、受付が始まった。



 14時30分を過ぎて、ようやく業者から連絡が来たようだ。院長の大きな声が聞こえてくる。

「川島さーん、やっと連絡来たよ。前の現場今終わったって、10分くらいでこっちに着くって。まったく、何をもたもたしているのか」

「ぎりぎりですかね。わかりました」

「すまないねぇ。じゃあ、業者が着たら、あとはよろしく頼むよ」

「かしこまりました。終わりましたら、ご報告します」


 診療所の入り口で携帯のメールをチェックしながら、業者を待つ。

 そして時計は14時46分をまわった。


「あれ、揺れてる」

 不意に目眩のような感覚に襲われる。立ちくらみなどではない。院内が騒がしくなった。

「こいつは……」

 地震だ。しかも大きい。

「これは……ちょっと……やばいかも」

 私はすぐさま院内に飛び込み、様子を伺った。地面の直接的な揺れと、建物の揺れは違う。椅子や机、パソコンのモニターに花瓶、絵画。ありとあらゆるものがそれぞえれは規則的に、しかし全体としてはバラバラに揺れている。

「やばそうなのは……」

 それが値打ちものであるかどうかはともかく、壁から落ちたら危険だと判断した。色鮮やかな花が描かれている大きな絵画は、壁の上を這うように踊っていた。私は壁にかかった大きな絵画を手で押さえた。

「扉開けて! でも外に出るなよ! 何かに捕まって! 姿勢を低く!」

 院長が冷静に大きな声で患者やスタッフに声をかける。あまりのことにみんな声が出ていなかったが、院長の声にとっさに数人のスタフが反応し、ひとりはドアを開け、一人は花瓶を抑え、院長は待合室の患者に声をかける。

「大丈夫、大丈夫、もう少しすれば揺れは止まるから!」

 しかし、院長のその言葉はむなしく裏切られた。揺れは恐ろしいほど長く続く。目の前でうずくまる小柄なおばあさんに声をかける。

「大丈夫ですよ。ほら、僕の手を握ってください」

 左手で絵画を押さえ、右手をおばあさんに差し出す。おばあさんは両手ですがるように私の手を弱弱しく握った。私は少し強く握り返した。

「もう、収まりますよ。大丈夫」


 揺れは次第に小さくなっていったがなかなか止まらない。

「長いなぁ、これはそうとう大きいぞ。震源地どこだ」

 みんな不安げに天井を見上げる。そこに何があるわけでもないし、この3階建ての建物が普通の家とはちがって、相当に丈夫にできていることに感謝をしていた。

「もし時間通りだったら、電車の中で足止めだったな。これは……」

 いろんな事が思い浮かぶ。この規模の地震であればおそらく交通機関は麻痺、通信手段も断たれる可能性が高い。そして何より、この時間、娘が――私の娘は学校が終わって塾へ行く時間だ。はたして、無事でいるだろうか……いや、無事に決まっているじゃないか!


「大丈夫、もう大丈夫です。ちょっと、テレビ、テレビつけて」

 院長は患者に一通り声をかけると奥の部屋に入っていった。私室だ。みんないっせいに携帯を手に様々な手段で事態を把握しようとする。が、案の定、携帯電話は通じない。


「すいません。遅れました。車、ここに止めて大丈夫ですか?」

 なんとも妙なタイミングで回線工事業者が現れた。この人たちだって、下手をすれば今の地震の最中、電信柱に登って作業をしていたかもしれないのだ。彼らはラッキーなのかもしれない。院長もこの地震で彼らに対して怒ることは忘れるだろう。


 私室から院長が出てきた。

「東北だよ、東北。震度6強だってよ。津波警報があちこちに出てるぞ」

 それを聞いて年寄りたちが騒ぎ出す。

「怖いわねぇ。でもここに来ていて良かったわ。わたし、ひとりじゃとてもとても……」

「そうよねぇー、一人で家に居たら、どうしたらいいか、わからないわねー」

「でも、家の中が心配」

「困ったわぁー。携帯繋がらない」


 こんなとき、人はまず、自分が無事であることを喜び、更に深刻な事態になる可能性があったことを想像して、そうならなかったことを『運がよかった』と思う。そして、自分よりも大変な目にあっている人のことを聞けば聞くほどその理由なき安心感は更に高まる。今にして思えばとんでもないことだが、人が事態の深刻さ、それも自らの痛みを伴わない深刻さを自分の痛みとして変換して考えられるようになるには時間がかかる。それは想像力という特殊な能力が発揮されて始めてなしえることなのだ。


「はしごかけるから、しっかり抑えておけよー」

「はいー」

 どんなときでも、どんなところでもやるべきことはある。遅れてきた業者は、このような状況だからこそ、ここでの仕事を早く終わらせる必要がある。しかし、やはり滑稽に見えてしまうのはいかんともしがたい。回線工事は、もっと簡単なものかと思っていたが、どうやら近くの電信柱に登り、そこから物理的に線を引かなければならないらしい。こんなときに大変だ。余震の心配だってあるだろうに。


「いやね。車の中でもわかったんですよ。もうとても運転できるような状態じゃなかったですよ」

 工事業者は2人組み。明らかにひとりがベテランで棟梁の風情があり、もう一人はなんともいやらしい不貞の弟子といった感じをうけた。こういうときには、こういうめぐり合わせなのか……普通じゃない日には尋常じゃない事が続くものなのかもしれない。


 棟梁がてきぱきと仕事をこなしていく。不貞の弟子はそれを補佐する。工事中の交通整理やはしごの固定、状況に応じて棟梁が必要な道具をワゴン車から取り出して渡す。そして後片付ける。二人の関係は傍目からも仲が言いようには見えないし、棟梁と弟子という一方的な服従を強いるものでも約すものでもない――強いて言えば店長とベテランアルバイトみたいな関係のようだ。


「ほら、わかります。あれ、点灯してるでしょ。あれね、防犯システム作動しちゃってるの」

 不貞な弟子はニヤニヤと笑いながらある人家を指差した。世田谷の一軒家2階建てのしっかりとしたその家の玄関近くに黄色いライトが点滅している。想像するに家の中のものが倒れたり揺れたりしたのをセンサーが感知したのだろう。高価な花瓶やちょっとした著名な画家が書いた絵画とかが床に落ちているのかもしれない。しかし、それを少しもかわいそうだとか、気の毒だと思えないのは、私もこの男も同じようだ。


「ほらほら、こっちは瓦がすごいことになっているよ、あー、あー、ありゃ大変だ」

 言葉とは裏腹に不貞な弟子はその家のことを本気で心配しているようには見えない。それは悪意とも違う、強いて言うならば、『いやらしさ』であろうか? この男は回線工事をしながらいろんな住宅を覗き見してきたのではなかろうか? それが楽しくてこの仕事をしているのではなかろうか? たしかに電柱の上から見える景色は、地上の景色と違ってはるかに赤裸々に違いない。そんなものを見せ付けられては、人はこんなふうに『いやらしく』笑うえるようになるのだろうか?


「おーい、ワイヤーとってくれ」

 棟梁は少しばかりイラついているようだ。不貞な弟子との談笑は、棟梁の機嫌を損なうのかもしれない。ここは自粛したほうが懸命だ。私は繋がらないとわかっている携帯を何度かかけてみる。その行為によってこの不毛な会話が終わることだけは期待できそうだ。

「携帯はダメでしょう。この道をいって右に曲がったところの酒屋の前に公衆電話があったから、公衆電話なら通じるかも知れませんよ。もっとも、相手が電話にでられるかどうかは、また別の話でしょうけどね」

 言っていることは助言なのに、そう聞こえないのは、ワザとなのか、根っからそうなのか。たぶん両方なのだろう。


「なるほどですね。じゃ、ちょっと電話かけに行ってきます」

 工事はまだまだかかりそうだ。自分の愛想笑いがいやらしくなる前に、あの男から離れたいと思った私は、どうせ無駄だと思いながらも不貞な弟子の提案を受けることにした。


 少し行った交差点の角、右に酒屋が見える。その隣にタバコ屋なのかパン屋なのか、よくわからない。もしかしたら、どちらでもないかもしれない。信号機はない。サラリーマンらしき二人組みが携帯を眺めながらなにやら深刻な顔をしている。公衆電話は誰も使っていなかった。とりあえず会社にかけてみるが通じない。


「この時間、誰もいないよな」

 そう思いながらも家に電話をかけてみる。繋がった。だが当たり前に留守番電話に切り替わる。この時間家には誰もいない。妻は、パートに出ているし、娘は学校から塾、息子はまだ低学年なので共働きの夫婦の子供を預ってくれる児童スクールに通っている。いずれも5時を過ぎないと帰ってこない。しかもこの規模の地震なら、親が迎えに来るまで児童は学校で待機か。


「まいったな。きっと電車も全部止まってるだろうな」

 私は家族と連絡を取るのを諦めた。後ろに3人が公衆電話があくのを待っている。二人は主婦、一人はさっきのサラリーマンのうちの一人だ。多分、部下のほう。

「あ、終わりました。どうぞ」

 事務所に関しては、ほとんど心配は要らないだろう。液状化とか、そういうことはあるかもしれないが、怪我人が出るようなことはないだろう。


「こりゃあ、まともに帰れないな。まいったなぁ、家はどっちの方角だ?」

 今居る場所から、まっすぐどっちに向かえば家に近づけるのか、まったく検討もつかなかったし、何のアイデアもなかった。

「まずは、ここの厄介ごとを片付けて、それからだな」


 医院の前に戻ると作業は順調に進んでいた。不貞な弟子はにやつきながら私に尋ねた。

「どうですか?つながりました?」

「事務所はだめですね。呼び出しはしてるんですが、誰も出ない。まぁ、何もないとは思います。いろいろと混乱しているんでしょう。」

 私が勤めている会社は、東京でも浦安に近い場所に事務所がある。医療系のシステムの販売といっても、ほとんどの人間が営業で、昼間は事務員が二人、技術者が一人である。およそ電話は鳴りっぱなしだろう。私のように外回りをしている営業からの電話や客からの電話が、ひっきりなしに鳴りつづけているだろう。ビジネスフォンの4回線のランプがずっと点灯している様子を想像し、少し気の毒になった。


「そちらはどうです? 会社から連絡とかありました?」

 不貞な弟子は、さらにいやらしい顔でニヤニヤしながら答える。

「所詮会社なんてね、わたしらの安全なんて、これっぽっちも考えちゃいくれませんよ。電話の一本もかかっちゃ来ません」

「なるほどね。どこも同じですか」


 どうにも調子が狂う。私は本来、それほどの不平屋ではないのだが、この男と話していると、世の中全てが敵に思えてくる。不満はあるかもしれないが、不平とは思っていない。みんな平等に、蔑められている。少なくとも私の周りでは……


「もっとも、こんな調子じゃ、連絡を取ろうにも、取れないでしょがね。次の現場まで行けるかどうか」

 確かにそうである。このあたりは踏み切りを多いようだ。場所によっては相当な回り道をしないと線路の向こう側にいけなかったりするのだろうが、そもそも道路がまともに機能しないだろう。この規模の地震があった場合、線路の点検など含めたら復旧まで相当の時間を要するに違いない。まぁ、それもいい。今は、この場所、この現場から一刻も早く離れたい。

「よーし、終わったぞー。はしご片付けろ。中で通信確認するから準備しろ」


 棟梁の言葉を聞き流しながら、すでに不貞な弟子は次の作業の準備にかかっていた。これでようやく開放される。時計は午後4時になろうとしていた。


「はい、では、こちらの作業は終わりましたので、あとはお宅のほうで機器の設定はお願いします」

 棟梁は礼儀正しく、しかし義務的に私に作業の引継ぎを依頼した。どうやら、あまり好かれてはいないよだ。それまで利用していた通信回線は、まだ生きている。新しく引いた安価な回線は、もっとも家庭で使われているものだ。わたしの作業はその新しい回線にあわせて、古い環境のバックアップと新しい回線用の設定……とはいてもひとつの設定ファイルのコピーと、たった2行、IDとパスワードを書き換えるだけの作業である。ちょっと知識のある人間であれば、5分もかからない。その5分の作業のために、片道一時間、業者が来るまでの2時間、業者の作業が終わるまでの1時間、計4時間を費やしたのである。


「はい、こちらの設定も終わりましたので、現場のネットワークの確認をお願いします。とりあえず、WEBがみれて、メールが出来ればOKですから」

 確認をするのに5分。これでようやくこの場所から離れられる。

「申し訳ないけど、こっちも見てもらっていいかな?」

 帰れると思った矢先に、院長の部屋においてあるPCになにか不具合があると頼まれる。

「いいですよ。どういった症状です?」

 これは仕事じゃない。


 それでも、こういうひとつひとつのサービスが、信頼に繋がり、売り上げにつながるのだと上司はよく口にする。それはいい。だがその一方で、効率の悪さが業績があがらない原因でもある。なんでもかんでも相手の要求をのんでいたら、それこそ前任者と同じ轍を踏むことになりかねない。


 画面を覗き込むとセキュリティソフトの更新を促すメッセージが表示されている。

「あ、なるほどですね。セキュリティソフトが複数ありますので、古いほうは削除なさったほうがよろしいかと思います」

 ソフトが無料だから、新しいのが出たからといって、何でも「はい、はい」とボタンを押してしまうのは、残念ながら院長もうちの会社の上司も変わらないようだ。私なら絶対にそんなことは……そう思ってはみても、それはそれで仕方がないことだと最近は思えるようになった。


 そうやって世の中は回っているのだ。


「終わりました。これで余計なメッセージは出ないと思いますよ」

「おー、そうか、そうか。助かったよ。じゃあ2階のPCも同じかなぁ。それもお願いできるかな」

「2階ですか?」

「あー、2階のリビングにPCがあるから、ちょっと待ってて、いま内線で妻に言っておくから、そのドアを開けてすぐの階段ね」

「はい、わかりました」


 まったく、いつもこうだ。


 言われたとおり2階に上がると立派なゴールデンリトリバー――決して賢そうにはみえないし、だいいち私は猫派だ――が、間抜けな顔で私を出迎える。そして跡に続いて、若い院長夫人が現れた。


 まったく、いつもこうだ。


「すいません、なんか余計な事まで頼んじゃって、ご迷惑おかけします」

 院長の『いかつさ』に院長夫人の『物腰の柔らかさ』と『しなやかさ』は……


 まったく、本当にいつもこうだ。


「いえいえ、おかまいなく」

 そう言いながらも、私の目は部屋の隅々を物色しながら、ふだんどのような生活をしているのかを観察する。いつの頃か、そういうことが、実はとても役に立つことだと思うようになった。院長の人となりは容易に想像できた。この部屋は完全に奥さんの管理下にある。すべて家のことは奥さんに任せているのだろう。部屋の家族の写真……息子が一人いるみたいだが、大学生くらいか。この奥さんは見た目よりもかなり歳がいているのか、或いは再婚か。


「これなんですけど、わかります? わたしはぜんぜん機械のことはわからなくて……いつも息子に怒られるんです」

 一台のノートパソコン。壁紙に愛犬の画像。


 まったく、いつもこうだ。


「あ、大丈夫です。すぐに終わりますよ」

 作業は簡単だ。まったく同じ問題だった。ものの数分で作業は終わる。大画面の液晶テレビから地震の被害を伝えるニュースが聞こえてくる。


『本日、14時46分ごろ、太平洋沖を震源とする。強い地震が観測されました。地震直後に発生した津波により、太平洋沿岸部の地域に大きな被害が出ている模様です。また、福島の第一原発においては……』


 私の考えは少し甘かったようだ。思わず作業をする手がとまる。

「こ、これって、かなりやばいことになってますね」

「そうなのよ。もう怖くて怖くて、やぱり原子力発電所って危ないのかしらね」


 まったく、いつもこうだ。


 46型であろうか。リビングの大きなテレビは私の座っている場所のちょうど真後ろにあった。ノートPCはパソコンラックに壁向きに設置してあるので、画面を見るためには思いっきり振り向かないといけない。すぐに作業を終わらせ、終わりましたと報告する体裁で後ろを振り向くと、テレビの中では信じられない光景が映し出されていた。

「津波だけじゃなくて、火災も起きてるんですって」


 院長夫人は、全体的に線が細く、少し気弱な性格に見える。院長とは正反対だ。毛並みのいい間抜けな顔をした犬の大きな背中を撫でながら、テレビのニュース映像を食い入るように見ていた。飲みかけのコーヒーカップはすっかり冷めしまっていて、湯気は上がっていない。


「今日はどちらからこられてんですか? おうちのことご心配でしょう?」

「葛西からきました。江戸川区です。浦安の手前です」

「まぁ。千葉に近いのね。あっちのほうは大丈夫なのかしらね」

「どうでしょうか。全然連絡がつかなくって」

「電話は全然つながらないわねぇ。電車も全部止まっているみたいだし、渋谷へ行くバスが隣の経堂駅から出てたと思うけど、動いているかしらね」

「バスですかぁ。渋谷までいければ、何とかなるかもしれません。ありがとうございます、あっ、一応作業は終わりましたので、ご確認ください」


 ノートパソコンを再起動し、立ち上がった画面――壁紙の犬の顔は実物よりかは少し賢く見える――いくつかの見慣れないアプリケーションが起動したあと、例のメッセージ『ライセンスはすでに有効期限が過ぎています。ライセンスの更新の手続きをしてください。コンピュータは危険な状態です』はもう現れなくなった。


「よかたわ~、ありがとうございます。あら、ごめんなさい、お茶も入れずに」

「いえ、お構いなく、もう帰らないと、遅くなると、この先どうなるかわかりませんから」

「いろいろとありがとうございました。じゃあ、お気をつけて」

 

「はい、ありがとうございます。では、これで失礼します。また、なにか不具合がございましたら、こちらの連絡先までお願いします」

 心から、そう思うっていうときもあれば、二度と来るか、と思うこともある。この日はどちらだっただろうか、あまりにもいろんなことがあったので思い出すことも出来なくなっている。


 一駅先の経堂までは歩いて20分くらいだろうか。まったく土地勘がないが線路沿いに歩けばなんとかなるだろう。心配なのは本当にバスが動いているかどうかだ。非日常的な出来事の中で、それでも私は冷静さを保ち、自らの行動、判断になんら不安はなかった。こういうときは下手に動かないほうがいいんだが、ここはあまりにも遠すぎる。少しでも家に近づいたほうがいいだろう。まずは、選択肢を増やすことだ。ここから離れない限り、選択肢は増えないだろう。そして私は出会うことになる。


 非日常的な状況の中で、非日常的な存在に……。

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