第18話 勝手に捕ったらダメですか
気分が高揚して止まらないのは理解できるが、ここでずっと留まる訳にもいかないので、真中ははしゃぐ充希に言う。
「騒ぐのもほどほどにな。傍から見ると凄く子供っぽくて、恥ずかしいぞ」
はっとした充希は顔を真っ赤にしながらも、平静を装って返した。
「えっと、周りに誰もいないですね? 今見たことは忘れてください」
「駄目だ。俺の脳裏にこびり付いて離れない」
少しからかいたくなった真中は、そう言った後、充希を一瞥する。
「じゃあ、殺してしまいましょうか?」
無表情にさらりと言う彼女の様子は、本当に人殺しさえ躊躇しないのではないか、と思えるほどに機械的で、人の心が見て取れなかった。
怖気づいた真中は、精一杯の勇気で突っ込みを入れる。
「しれっと怖いこと言うんじゃあない」
「貴方が変なこと言うからじゃないですか」
そんなこと言う奴は、ちょっと脅かしてやるか。
「ほら、あっちで見てる神様がいるぞ」
「ええ!? どこですか。やだ、見られてたらどうしよう……」
きょろきょろと見回す充希だが、誰もいないので真中の嘘だと悟ると、彼を一度睨み付けて、前を向いて歩き去って行く。彼女の歩いた後には、靴の跡が確りと残されていた。
ああ、蹴られるかな、とかちょっと期待したけど、そんなことなかったわ。
少し落胆した真中だったが、迷子になるといけないので充希の後を追う。
迷子になるのはどっちだ。俺か、充希か。いや、充希だな。
後ろの事など気にもかけずに、すたすたと歩いて行く充希に、少しは後ろの事も考えてくれよ、と思いながら追いかける真中。二人の距離は縮まるどころか、更に開いてさえいた。
勘弁してくれよ、と悲鳴をあげる彼の声を聞いての事かはわからないが、突然、彼女の足が止まった。
これは好機だ、とばかりに走り寄る真中の事など全く気付かない充希は、眼前に広がる大河に圧倒されてしまい、声を失っている様だった。
彼女の元へと追いつくと、真中は窘めるように言う。
「おい、もう少しゆっくりと歩いてくれよ」
しかし、聞こえていないのか、意に介さないだけなのか、振り返った充希は、真中の注意には答えることなく、満面の笑みで叫ぶ。
「……萬屋さん! そんなことより、これ見てくださいよ。凄くないですか!」
その屈託ない笑顔は、同意を求めているというよりも、同意を迫っているというくらいに、強く真中の心を打つ。
そして、真中はつい返事をしてしまった。
「あ、ああ……凄く綺麗よね」
おまえがな。ああ、我ながら情けないよ……。
「そうですよね! はあ、これを見れただけでここに来た甲斐がありますよ……」
恍惚とした表情で大河に見惚れる充希、に見惚れる真中。
この大河は隔世壁と呼ばれており、淡水で、水深はどの場所でもかなり深く、陸地がこの河へ至ると、切り立った崖の様に突然大地が凹む形だと考えられている。
神原の東端を沿うように真っすぐに流れており、この対岸へと渡ったものは誰もいない。また、対岸側の半分くらいは、濃い霧がかかっていて見えない。
過去には渡ろうとした神様や人もいるが、霧の中では、穏やかな水面が突然荒れ狂うように波がたち、雷が鳴り響いて嵐に巻き込まれる、といった次第で、皆ほうほうの体で逃げ帰ってきたと言われている。
充希は徐に手を伸ばすと、河にちょこんと手を付ける。その手を中心に波紋が生じ、波一つない穏やかな水面を歪める。
しかし、その波紋はすぐ大河にのみこまれ、彼女の指だけが取り残された。
「ほら、萬屋さんも触ってみてくださいよ。凄く冷たいですよ。落ちたら心臓止まっちゃいそう」
「ああ、滅茶苦茶冷たいよな。初めて来たとき、喉渇いて飲もうとして口つけたら、驚いて落ちそうになったもん」
あの時は怖かったな。落ちたら絶対助からないよ、こんなの。
「でも、ここには魚はいませんね」
笑顔を残したまま、眉を曲げて、少し残念そうに言う充希。
「そうだな、なんでだろうな、同じ水の中なのに。よくわからん」
充希に同意する真中が河を眺めると、あまりの広大さに言い知れぬ魅力を感じ、思わず水の中に吸い込まれてしまいそうになる。
寸でのところで、河に飛び込むところだった彼は、恐ろしくなり顔を背けると、ここを早く離れよう、と充希に提案した。
「ええ、まあ魚がいないんじゃ仕方ないですね」
口をへの字に曲げる充希だが、渋々ながら承諾し、二人は隔世壁を後にする。
それから、二人はしばらく歩き続けて、山林の中へ入る。その間も充希は、隣を流れる川を眺め、泳いでいる魚達をにこにこして追っていた。
緩やかな上り坂を特に会話もなく進んでいくと、その内に平坦な道となり、少し行った所に大きな湖を発見した。
「わあ、大きな湖ですね」
これまた嬉しそうに言う充希だったが、真中は違った思いを抱いたようで、これを否定するような返答をする。
「そうか? さっきの隔世壁が凄すぎて、あんまり驚きがないなあ」
実際、これでもかなり大きいはずなのだが、感覚がおかしくなってしまったな。
すると、この返答に不満があったようで、不愉快であることを隠そうともしない膨れっ面をしながら、腰に手を当てて、充希は言い返した。
「もう、何でそういう反応しかできないんですかね! あれも凄かったけどこれも凄いね、でいいじゃないですか。面倒な人ですね」
何か怒られたよ。
はいはい、と気のない返事をした真中は、ふと湖の周りを見る。
すると、数件の家が並び、隣に小屋を伴って建っていた。神様が住んでいるのだろうが、小屋は何なのかな、と疑問に思ったが、態々そのために訪ねていくというのも憚られるので、そこから目を逸らして湖に遣る。
「確かにでかいな、水も澄んでて魚が泳いでいるのがよく見える」
そう小声で呟いた真中。
それを聞き漏らすことのなかった充希は、腕組みしてしたり顔で、何度も頷きながら彼に言う。
「うんうん、やっとわかりましたか。最初から素直に、そういえば良かったんですよ。全く、天邪鬼なんだから」
何故か負けた気がして、悔しく、恥ずかしくなった真中は、噛み付く様な勢いで充希の方を向き、黙ってろ、と頬を朱色に染めながら叫ぶ。
それを見た充希は、ますます面白がって真中をかからった。
そんなことで、しばらく時間を浪費してしまった充希は、真中を一通りからかった後、しまったと言わんばかりに、走って湖に近寄ると、そこに座り込む。
「ああ、いいな。可愛い魚達……。あんな男に構っている時間がもったいなかったなあ」
「可愛げがなくて、すまんかったな」
お前だって可愛げがないぞ、と反論してやろうかと思った真中だったが、彼女の魚を見る顔つきの穏やかさに、荒んだ心を浄化されたらしく、口から出かけた言葉が再び喉の奥へと帰って行ってしまった。
そして真中は、俺も魚が見たい、と言って充希の横に行き、勝手に座り込んだ。
彼が落ち着いたところへ、口角の上がり切った充希は顔を向けると、上目づかいで、駄々をこねる子供の様に、甘えた声で語り掛けて彼の頭を熱くする。
「この魚、勝手に捕ったらダメですか?」
「え……、あ、まあ、ちょっとだけなら、いいんじゃない、かな……」
思わず顔を背けた真中は、頬を掻きながらそう答えた。
「本当ですか! やったあ!」
そう言うと、充希は真剣な表情をして、水中の魚を何とか掴もうとする。
てっきり、釣りでもするのかと思っていた真中は、手で掴むのかよ、と苦笑いする。彼の呆れた声は、魚を求めてじっと水面を見つめる充希へは、届いていないようだった。
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