第6話 「禁断の果実をそそのかしたのは彼女の罪」
8月も中旬になった日曜日。
イズちゃんが家出した。
「カニクリちゃんのお
行き先を示した置き手紙を残して家出とは言わないのかもしれないけれど、そんなことを気にしていられない理由が私にはあった。
「私は悪くない」
私を裏切ることのないイズちゃんを私は、完璧に裏切ったのだ。
「私が悪い」
誰もいない私達の部屋にカーテンの隙間から朝日が入り込む。
気持ちの悪い汗が私の全身を包んでいる。
「ただ、さみしかったの………」
こんな時に限って私を癒してくれる存在は海外に出張で会いにも行けない。
「———さみしいの………」
座り込んだ私をテレビ台の上のガジュマルの木が見下ろす。
その隣のコルクボードの写真では高校生だった私達が、私とイズちゃんが修学旅行で行った沖縄の海で笑っている。
私の隣にいるイズちゃんが笑ってる。
「私を裏切らないイズちゃん」
私を置いて出ていったイズちゃん。
「私を———裏切ったイズちゃん」
一人にしないで。
「ヒトリはイヤなの!」
立ち上がった勢いで私はガジュマルごとコルクボードを振り払った。
床に落ちたコルクボードに貼られた写真が土に埋まる。
私だけが、
「………さみしいね。梨世」
ただ、私がさみしそうで近くに置いてあった化粧ポーチからバラバラと化粧品をまき散らした。
買ったばかりのファンデーション、かわいいデザインのピンクのグロス、真っ赤なリップ、鮮やかなピンクのチーク。
「ほら、もうこれでさみしくない」
割れた小さな鏡に映る私は、
***
きっとこれは、真夏のせいだ。
「ねえ、カニクリちゃんのお家ってまだー?」
全てをそう思いたかった。
女優帽をかぶりグレーのロングカーディガンをひらひらとさせて歩くイズちゃんはそう言った。
やけに主張したボーダーのVネックのTシャツの裾をパタパタとすると見えるかわいらしいおへそと白いデニムから伸びたはちきれそうなくらい
私がなぜこんな豊満なだけのオンナを自分の、いや彼と過ごした部屋へと連れていこうとしてるのか。
「さっきも言ったけど、この階段を登ればすぐだよ」
登り切る前に何回言うつもりなのか。
思えば、朝から電話で起こされた。
締め切り間近で夜通し書いていた私はうたた寝していたのを起こされて機嫌が悪い上に、朝に連絡があり昼前には着くはずが迷って乗り換えの駅まで電車に乗って迎えに行く羽目になったことがさらに輪をかけた。
「もう体が重くて歩けないよ。暑いし虫がいっぱいだし」
この子、こんな文句言う子だったっけ?
とにかくその体に、特に胸にムダに蓄積された脂肪を燃焼させればもう少しは楽になるだろうよ。
その胸の脂肪が!
て、胸、胸って私は盛りのついた男子中学生か。
これ見よがしにざっくりと胸の開いた服を着たこの子がいけないんだ。
その白い肌にじっとりとかいた汗が谷間に流れ落ちて———
いや、もうやめよう。
何だか
見下ろした自分の胸が、足元が何の苦もなく見えるこの私の胸が憎い。
「どうしたの? カニクリちゃんも疲れちゃった?」
いや、やっぱりこの胸が、巨乳が憎い。
「わぁー! すごーい! キレー!」
イズちゃんが窓を開けて眺める。
「カニクリちゃん、こんな眺めのいいところに一人で住んでるの?」
「まあね」
「あ、でも何か誰かと住んでたみたい」
察しがいい子は嫌いだよ。
と私は心の中で思った。
「昔ね、好きだったヒトの部屋なの」
そして私も何を話し出すのか。
この話は、誰にも、二度としないつもりだったのに。
「そっか。どんなヒトだったの?」
「———マジメなヒト」
彼の顔を思い浮かべると今でもちゃんと思い出せる。
「バカみたいにマジメでさ、私みたいなギャルにも真っ直ぐな目で、うーん何て言うか、真っ直ぐに生きろって言うヒトだった」
もう四年も前のことなのに。
「ふーん。だからカニクリちゃんは、朋弥くんが好きなの?」
「………は? え? 何でそこで椋木くんが出てくるの?」
「だってカニクリちゃんも朋弥くんのこと、好きでしょ?」
察しがいい子は嫌いだよ。
と私は心の中で再び思った。
「朋弥くんはモテモテだな。確かにメガネ取ったらかわいい顔してるからなー」
天然のくせに洞察力が鋭い。
「このこと、あの子には言わないでよ」
「あの子? 梨世ちゃん? 言わないよ。言わないけど………」
「うん。何となくわかる。家出したのだってあの子がアナタのカレシに手を出したからでしょ?」
「まあ、それは私が彼のケータイ見ちゃったからいけないんだけどね」
「それは違うでしょ。ヒトの、しかも親友のカレシだってわかっててやったんでしょ。アナタは何も悪くないじゃない。それよりもカレシだって悪いじゃない。アナタはただの被害者じゃない」
「彼は私と梨世ちゃんが友達だって知らなかったみたい」
「だったらいいの? カレシが浮気しても」
「梨世ちゃんはさみしがり屋さんだからなー。だから、早く朋弥くんと付き合ってもらいたいって思ってるんだけど、そうすると今度はカニクリちゃんがさみしくなっちゃうかなって」
「何言ってんの。私は別にいいのよ。あの二人が付き合うなら、それで」
「ほんと?」
「うん。それでいい―――」
「そっか。………今日はカニクリちゃんのお話聞けてうれしいなー。カニクリちゃんギャルだったんだねー。メイク上手いしオシャレだし何か梨世ちゃんと似てるなって思ってた」
「似てません」
「あ、そうだね」
ベランダに出た私達は自然に笑い合っていた。
***
「あ、もしもし?」
いつもならそろそろイズちゃんが夕飯の支度を始める時間だった。
「もしもし? 鹿山さん?」
「うん。カニクリ今、一人?」
「あ、———うん。一人。イズちゃん張り切って美味しい魚料理作るって買い物に行ったから」
その電話の向こう側で私達の部屋からは聞こえない波の音が聞こえる気がした。
「住んでるのって江の島の近くなんだよね。一人はさみしくない?」
「さみしくはないかな。この部屋に思い出もあるし、管理人のお姉さんも遊びに来てくれるし」
「そっか。いいな」
私はいつもの調子を装っていた。
それでもカニクリは私に合わせてくれているのがわかった。
「ねえ、鹿山さん。………その、大丈夫?」
「うん。私は平気」
と会ってもいないのに心配そうな彼女の顔が思い浮かび、私は引きつった笑顔をしていた。
「それならいいけど」
何か含んだ言い方に彼女が私達のことを理解しているのだとわかった。
「今度私も泊まりに行っちゃおうかな」
「何なら今来れば? あ、でも駅から階段いっぱい登るよ。イズちゃんなんかずっと文句言いっぱなしで———」
「今日は、やめとくよ。階段って何段あるの?」
「わかんない。今度数えてみる」
ほんとうは辛いのに、辛いなんて言えずにいた。
「わかったら教えて。何段あるかで行くか行かないか決めるよ」
わけのわからない作り笑顔を浮かべて、平気なフリして楽しいフリをしていた。
「………カニクリさ、心理学っておもしろい?」
「うん、おもしろいよ。私が好きなのは集合的無意識の話かな」
「へぇ、どんなお話?」
「簡単に言うと、全てのヒトの無意識はつながっているって話。神話のモチーフとかね」
「そうなんだ。何かいいね。無意識ではつながってるって」
「そう言うとね。ちょっとロマンチックな話かもしれない。だけどね、私は少し違うと思うの」
カニクリは電話の向こうで少し笑った。
「たとえば、百人が全員完全に同じことを思ったり考えたりすることは難しいけど、その中で二人だけは同じことを思って考える偶然は起こり
二人だけは同じことを思う奇跡。
「恋をするってさ、無意識だと思うの。気付いた時にはもう恋に落ちてる。知らず知らずのうちに相手のことを気にかけている。それを理解したら、恋が始まるの」
相手が自分を好きだと思い、自分も相手を好きだと思う。
決して一方通行ではない恋の奇跡。
そんな簡単な奇跡が私には起きない気がする。
「言うほど簡単じゃないんだけどね」
と言って微笑むその気配の裏側にはカニクリ自身のことを言っているようだった。
「ヒトってね、波があって、リズムみたいなその波長が合ったヒトを好きになるんだって」
カニクリが私に優しくしてくれる。
いつもはキツいツッコミしかしないのに、二人で話す時はその何倍も優しくて、ついつい甘えてしまう。
「そういうヒトともちゃんとわかり合えたりするのかな」
「できるよ。理解してあげたいって理解してほしいって、鹿山さんが思える相手だったら、できるよ」
けれどその距離を時々さみしく思う。
「カニクリ、梨世って呼んで」
「急にどうしたの?」
「ううん、急じゃない。前から思ってた。———私、ちゃんとカニクリと友達になりたい」
カニクリに私を理解してほしい。
「だから、梨世って呼んで」
そして、私もカニクリを理解してあげたい。
「———梨世」
「………うん、ありがとう。私もカニクリの下の名前で呼んでいい?」
「私はカニクリだからそれでいいの」
「そっか。そうだね。いつか教えてね。カニクリのこと、もっと知って理解したい」
「わかった。それよりも、梨世は他に理解してほしいヒトがいるでしょ? 話し合わなきゃいけないヒトがヒトがいるでしょ?」
そうか。私は理解してほしいのか。
話を聞いてもらいたい、かまってもらいたい。
私はちゃんと誰かに向き合ってもらいたいんだ。
そして、私にちゃんと向き合ってくれるのは———
「イズちゃんに伝えて。明日ちゃんと話し合いたいから帰ってきてって」
「今日じゃなくていいの?」
「今日はもう一人向き合いたいヒトがいるから、そのヒトと話すよ」
「………そうだね。わかった。伝えとくね」
「うん。ねえ、カニクリ。最後に教えて。私がしたこと、イズちゃんから聞いたんでしょ?」
「聞いたよ」
「どうして、怒らないの?」
「怒ってほしいの?」
「………わからないよ」
どこか歪んでいた。
いつからかはわからない。
「カニクリ、———わかんないよ」
それに気付いた頃には元に戻せないくらいへこんでいて、私は歪み続けるしかできなかった。
「梨世———」
心の深い底に
「………さみしいよ———」
積み重なって我慢できなくなって、
「一人ぼっちはイヤだよ………」
私は彼女の前で初めて泣いた。
フラレて泣いていたのとは微妙に違う、全ての感情がごちゃまぜになって涙があふれた。
ただ、さみしいと思うだけだった
「結局、さみしかっただけなんだね。いいよ。今日は好きなだけ泣きなよ」
電話の向こう側でカニクリの優しい声と野菜を切る音が聞こえた。
私はそれ以上の言葉を口にすることもできず、コドモみたいに泣きじゃくり眠ってしまった。
インターホンの音がする。
と私が目を覚ましたのは西日が差し込む時間だった。
全身がダルくて重くて少しフラつきながらインターホンの画面を見ると、椋木くんが映っていた。
「………椋木くん?」
「鹿山さん、大丈夫?」
「どうして?」
「カニクリが教えてくれた。鹿山さんが大変だって」
「だって、バイトは?」
「ミオ先輩に頼んできた」
「………そっか。ごめん」
「それであの、開けてくれない?」
「あ、ごめん」
開錠のボタンを押してから数分、私はカニクリのお節介に少しだけ感謝した。
そして同時に少しだけ恨んだ。
涙でぐしょぐしょの顔を洗い、手ぐしで髪を整えて、
「何やってんだろ。私」
誰かに会うのにこんな顔じゃ、ね。
と理由をつけて玄関のドアを開けた。
「あ、………こんにちは」
すっぴんで彼に会うのは二回目だった。
「———とりあえず、入って」
スリッパを出して私は彼を招き入れた。
「けっこう広いね」
すれ違うとちょっとだけ彼の汗の匂いがする。
「二人暮らしだもん。アイスコーヒーでいい?」
「うん。ありがとう。あ………」
彼が散らかった床を見て言葉を詰まらせた。
「え? あ、………それは気にしないで。あとで片付けるから。ソファに座ってて」
まだ少しだけフラつくけど思ったよりすっきりしていた。
「………何か、ごめんね」
「何があったの?」
私はキッチンで氷の入れたグラスに作り置きのコーヒーをそそいだ。
「———カニクリは何も言ってない?」
「うん。あ、またフラレた?」
「また、は余計です」
どこかぎこちないと自分で思う笑顔で私はグラスを彼に差し出した。
「でも半分正解。イズちゃんに、フラレた」
「ケンカした?」
私は夕日がまぶしくてカーテンを閉めてから、彼と向き合わないようにテーブルの斜め前の床に座った。
「ううん。ちょっとね」
言えない。
私が何をしたかなんて、彼には言えない。
「それで、あれ?」
彼の視線の先、私が見ないように背中を向けた床に広がる土とコルクボード。
「………うん。私、今は普通にしゃべれてるのが不思議なくらい情緒不安定なんだ」
コーヒーを一口飲むと、冷たくて苦い液体が体の中を通っていくのがわかる。
朝から何も入っていない胃の中で冷たさを失っていく。
「椋木くん、コーヒー苦手?」
彼は私を見つめたままでコーヒーはテーブルの上で汗をかいたままだった。
「甘いほうがいいかな。ガムシロップある?」
「あるよ。ちょっと待ってて」
「いいよ。自分でやるから」
「わかった。そっちの上の棚の中だよ」
「ああ、あった」
彼は何を考えているんだろうか。
かわいそうな女の子を慰めに来てくれた?
それとも哀れな私を笑いに来たんだろうか。
彼が何を思っているか少しだけ知りたくなった。
「椋木くんって、ブラック飲めないの?」
「飲めないこともないけど、ちょっと甘くしたいかな。でもミルクはなしで」
戻ってきた彼は照れた笑いを見せながら再び座った。
「もしかして牛乳嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
「じゃあ、何が好き? あ、前にサーモン好きって言ってたような気がする」
「うん、好きだよ。鹿山さんもでしょ?」
「うん。好き。あれ美味しかったよね。他は?」
「他? 肉とか?」
「意外と肉食? 草食だと思った」
「この前、バーベキュー行ったじゃん。肉食べてたよ」
「あ、そっか」
「興味なさすぎ」
「そんなことないよ」
好きなヒトの好きなモノが知りたくなるって言うなら、
「今は、ちょっと興味あるかな」
私は間違いなく、彼のことが好きなんだと思う。
今まではそんなことなかった。
ただ私の心を満たしてくれさえすればよかった。
私を好きじゃなくても、私がさみしくなければそれでよかった。
「椋木くんさ、浮気、したことある?」
「ないよ。されたことはあるけど」
「あ。………ごめん。忘れてた」
だけど、彼は違う。
彼のそばにはシズクがいる。
浮気して戻ってきたシズク。
きっと今日だってシズクが彼のお家で待っているんだろう。
彼を好きになってはいけない。
そんな思いが
こんな私が彼を好きになってはいけないんだ。
「その話がしたかったんじゃなくて、どうしてオトコのヒトは浮気しちゃうのかなって」
だったらどんなオトコが私を好きになってくれるんだろう。
妻子持ちのオトコ?
カノジョ持ちのオトコ?
親友のカレシ?
「どうなんだろうね。僕にはちょっとわからないかな。カノジョだけでも精いっぱいなのに」
「………そうだよね。シズクがいるもんね」
彼が私を見つめている。
私の心を見透かすその瞳から逃れたくて私はまたコーヒーを口に含む。
「———私、一人になっちゃった」
イズちゃんは許してくれるだろうか。
「イズちゃんはきっと許してくれない」
「ちゃんと話し合ったら許してくれるよ」
「………椋木くんは、シズクのことを許したの?」
その問いかけに彼は答えなかった。
不意に立ち上がると私の背後に行き、散らばった写真を拾い始める。
「何があったかは知らないけどさ、友達なんだろ?」
彼が土を払ってテーブルに並べた写真は過去だ。
それなのに、私は変わっていない。
外見ばかりが派手になって、中身は相変わらず誰かの一番にはなれない私のままだ。
「友達だから、だよ………」
どうして私だけを好きでいてくれないんだろう。
私一人だけを愛してくれるヒトはどこにいるんだろう。
「………友達を裏切った私はどうすればいいのかな?」
嘘ばかりの恋で心を満たしても、心はすぐに空っぽになってしまう。
「———椋木くん。どうすれば、さみしくなくなるのかな………?」
テーブルの写真が笑っている。
オマエはこのまま一生誰からも愛されることなく、一人で生きて一人で死んでゆくんだ。
これからずっとオマエは———
「ほら、これでもう———さみしくない」
思っていたよりも大きな手が私を後ろからそっと包み込む。
細いのに筋肉質な腕に私は手を添える。
「………椋木くん」
記憶の最果てで高校生の私が目を覚ます。
あの時も、私は彼にそう言われて後ろから抱きしめられた。
「———ごめん」
思い出される記憶と込み上げる感情が私の涙を誘う。
「………やっぱり椋木くんじゃ、ダメだ」
その涙が、彼の腕にこぼれ落ちた。
彼の優しさを感じるたびにその先にいる存在を意識してしまう。
彼の幸せを、壊したくない。
今まで、そんなことを思ったこともなかった。
ただ私がさみしくなければよかった。
「———私ね、イズちゃんのカレシとセックスしたの」
私の頭に触れる彼の胸が呼吸を一瞬止まらせる。
「だから、軽蔑して———」
私は汚い。
ズルい手を使って、親友のカレシを奪おうとした。
こんなにもケガレた私は彼に優しくされる価値もない。
「………椋木くん」
ぽろぽろと涙を流す私に彼は何も言わなかった。
「———お願い。私を嫌いになって………?」
何も言わないで私を強く、より強く抱きしめた。
耳元で聞こえる彼の息遣いと私のリズムが重なる。
「………シズクが、待ってるでしょ?」
これ以上、彼を思ってはいけない。
彼に甘えてはいけない。
「———そう、だね………」
彼は静かに手をほどく。
彼の温もりがゆっくりと失われていく。
「今日は、ありがとう。もう———大丈夫だから」
私は振り向いて彼を見つめる。
「うん。わかった」
彼に触れたいと、彼にキスをしたいと思う衝動に、私はそっと
***
夜空が白み始めた頃、
「カニクリちゃん、起こしちゃった?」
目を覚ましたカニクリちゃんが荷物をまとめている私をベッドから見ていた。
「………おはよう。もう行くの?」
「うん。梨世ちゃん、きっと泣いてるから」
「許してあげるの?」
「わかんない。………どうすればいいのかな?」
「イズちゃんのしたいようにすればいいよ。何だったら殴ってあげたら?」
ベッドに入ったままカニクリちゃんは笑った。
「そんなことしないよ。私は梨世ちゃんを傷付けたくないから」
「傷付けられても?」
「うん。———私だけが梨世ちゃんの、親友だから」
「そうだね。そうしてあげて」
私と梨世ちゃんが初めて会ったのは高校の入学式だった。
あの頃から梨世ちゃんは特別で、目立っていた。
長く
少しだけ紅潮した頬と全てのヒトを魅了してしまう明るく茶色い虹彩の瞳が、近寄りがたさを演出していた。
他のヒトにはそれが美人に見えたかもしれない。
けれど私には、さみしさの塊にしか見えなかった。
高校生になったばかりの梨世ちゃんはとても無愛想で、チャラそうな男子が話しかけてもちっとも笑わなかった。
それどころかますます機嫌が悪くなる。
そんな
私にはそれが許せなかった。
彼女から距離を取った先に私自身がいたことに。
そして、中学で私も同じように距離を置かれていたことに。
小学五年から大きくなった胸と少しぽっちゃりな体型のせいでイジメられ、中学では男子にからかわれるのと同じくらいアピールもあって私は影で「ヤリマン」なんて言われていた。
彼女は、私だった。
そしてそんな彼女を
ほんとうに許せないのは自分自身だ。
彼女をさみしそうと思った自分だ。
彼女のさみしさを理解できると思っていた私の
それは今も変わらない。
それでも、私は彼女の親友でありたい。
彼女の笑顔を見ていたい。
「カニクリちゃん。私ね、梨世ちゃんのさみしいを利用したんだと思う」
ああ、私も嘘つきだ。
「私のさみしいを誤魔化すために、梨世ちゃんを利用した」
梨世ちゃんを許してあげられない。
カレシを許せない。
「きっと、これからも利用すると思う」
「———それでいいんじゃない?」
カニクリちゃんはゆっくりとベッドから起き上がると大きく伸びをした。
「私だってイズちゃんだって、利用して利用されてる。そういう言い方はよくないけど、みんなそうやって生きてくんじゃない?」
カニクリちゃんがぎゅっと私を抱きしめた。
「さみしいから一緒にいて、楽しいから一緒にいる。依存かもしれない。だけど、それも共生。共に生きていくってことでしょ?」
梨世ちゃんも嘘つきだ。
私を親友だなんて言っておいて、カレシになったのを知っていながらセックスするなんて。
「………カニクリちゃん。私、やっぱり梨世ちゃんのこと許せない」
「うんうん。許せなくて当然だよ」
こんなことを思うのは初めてだった。
悔しい。
「———どうしよう。私、梨世ちゃんのこと嫌いになっちゃう………」
悔しくて、私は泣いた。
カニクリちゃんの耳元で、きっとうるさかったと思う。
それくらい、いっぱい泣いた。
「それだったら、いっそ思いっきり嫌いになって、また好きになればいいんだよ」
私は何度もうなずいた。
「だって、大好きなんでしょ?」
素敵なその提案に、何度も何度もうなずくので精いっぱいだった。
***
それから夢と現実と無意識を行ったり来たりしながら私は一人ぼっちの朝をもう一度迎えた。
誰かとつながっているはずの無意識の中の、真っ暗な世界で私は一人泣いていた。
夢の中で私はイズちゃんと初めて出会った高校生だった。
まだコドモだった私達。
同じクラスで私の前の席に座ったイズちゃんが振り返る。
「初めまして。伊豆市から来た
彼女が真顔でいきなりそう言うから私は笑わずにはいられなかった。
その日から私達はずっと一緒にいる。
現実では、やっぱり一人だった。
リビングのソファで目を覚ますと、全身がいつも以上に汗をかいていた。
床に散らばったままのカジュマルと土が、ちゃんと鉢植えに戻されている。
テーブルの上の写真は一枚もなく、コルクボードだけが置いてあった。
「梨世ちゃん。おはよう」
キッチンを見るといつものようにイズちゃんがいた。
「夏休みだからってこんな時間までダラダラしてると太っちゃうよ」
「………イズちゃん、どうして?」
「帰ってこないほうがよかった?」
二人分のサラダをテーブルに置いてイズちゃんは私の隣に座った。
「ううん。———帰ってきてほしかった」
私は首を振って素直に答える。
「だけど、梨世ちゃんを許したわけじゃないよ」
イズちゃんが潤んだ瞳で私を真っ直ぐ見ている。
「———私、梨世ちゃんのこと、許せない」
逃げてはいけないと、目をそらしてはいけないと思った。
「嫌いになった」
これが私の罪と罰なのだから。
「………一回、たたいてもいい?」
私が覚悟を決めてうなずくと、イズちゃんの手がぺちっと優しく私の頬をたたいた。
「私と梨世ちゃんの話はこれで終わり———」
ああ、終わりなんだと思っていた。
「だから、もう一回好きから始める」
イズちゃんは私と向き合うように座り直した。
「初めまして。伊豆市から来た伊豆谷蜜希です」
不意を突かれて一瞬わからなかった。
それでもあの時の、高校生だった頃から変わらないイズちゃんの笑顔がそこにはあった。
「———私、鹿山梨世。私も伊豆から来たの。これから、ずっと………ずっとずっと仲よくしてください」
私は涙でぐちゃぐちゃになっていて、イズちゃんの笑顔がよく見えなかった。
***
海外での仕事、といっても新しいクライアントに
デザイナーの僕がすることは、代表としての顔であること、それとデザインと非常勤講師の仕事だけだった。
メインの美術大学のほうは教え方の上手い後輩に代役を頼んだ。
後々、彼に非常勤講師の職ごと譲り渡すためだ。
彼も業界では名が知られ始めているから問題ないだろう。
もう一つの
こんな僕でも講義を受けたいと思ってくれる生徒がいることはありがたいことだ。
フランスのマルセイユからパリ経由で日本に帰ってくるとそのまま僕は夕星大学に向かった。
今日明日と夏期の特別講義があり、こちらは会社の部下三人に任せてあった。
今回は直前まで教壇に立つ予定だったが共同経営者のゴリ押しのせいで立てなくなってしまった。
それでも今からなら午後の講義には参加できそうだ。
学生に対する申し訳なさもあるが気がかりなことがもう一つあった。
「梨世———」
彼女の存在だ。
昨日のメッセは彼女らしくなかった。
いつもは強がりなメッセージを送ってくるのに、昨日はとても弱々しかった。
「———桂木さん?」
学食で彼女をそう呼んでしまったのは
「桂木さん!」
何のしがらみもない男女だったら問題なかった。
学生と講師。
年端もいかない娘と既婚者の男。
「………桂木さん」
いきなり飛びついてきた梨世を抱き止めた反動で持っていたトートバッグを落としてしまい、中から妻とコドモに買ってきたおみやげが他の学生の足元まで飛んでいく。
「梨世、ダメだよ。みんな見てるよ」
小声で言うと渋々離れる梨世の視線の先で、おみやげを拾ってくれた学生を見ていた。
「………椋木くん」
「彼が?」
時折、梨世の口からバイト先の男の子の話が出てくる。
「………どうして?」
「栄川ゼミの集まりがあったから」
クラゲが大好きな彼の話をする時の梨世は
今までの男達とは少し違う距離感だった。
「ありがとう。心理学科の椋木くん」
「非常勤の桂木先生、ですよね?」
彼は僕に鋭い視線を向けながら拾い上げたおみやげの袋を渡す。
「鹿山さんと付き合ってるんですか?」
じっと見据えたまま、動かなかった。
「椋木くん、やめて」
梨世がそっと間に入る。
それでも彼は僕から目をそらさなかった。
「椋木くん。外で話そうか?」
昼時の学食では野次馬が周りを囲んでいた。
「わかりました」
「私も!」
「鹿山さんは友達といなさい」
振り返って僕を見た梨世は
そんな彼女を残して僕らは学食の外に出る。
夏の日差しを避けるように僕らは歩く。
「ズルいですよ」
先に口を開いたのは彼だった。
僕は立ち止まり、先に歩みをやめた彼に振り返る。
「君は鹿山さんのことが好きなのかい?」
「アナタこそ、鹿山さんのこと、どう考えているんですか?」
静かな怒りが目に込められていた。
「あの子が幸せであることを祈っているだけだよ」
「あの子の幸せって何ですか? 桂木先生は結婚していて、お子さんもいるんですよね?」
少し驚いた。
梨世が彼に僕のことを話したのだろうか。
いや、そんなことはないだろう。
彼女が真実を語るのは僕だけのはずだから。
ああ、そうか。指輪とおみやげか。
「君はなかなか鋭いね」
そう言って笑顔を見せても彼はじっと僕をにらんでいた。
「はぐらかさないでください」
僕と彼の間にいる梨世の存在は、どんな距離でそこに存在しているんだろう。
「今のままなら鹿山さんはアナタに捨てられてからも同じような恋愛しかできないですよ」
彼との距離を保ちながら、
「きっとそれは恋愛ですらない。ただ、妻子持ちのオトコにいいように利用されるだけ」
僕との距離も遠くならずに存在する。
「いつかあの子が一番だと思えるオトコが現れるまでの埋め合わせだよ」
けれど、いつか僕から離れていく。
それを僕は望んでいるんだろうか。
「本気で彼女のこと考えているんですか? 都合よく自分の手元に置いておきたいだけなんじゃないんですか?」
波風立てずにそっとしておいてくれればよかった。
「そんなことはないよ」
「それでも彼女の幸せを考えているんですか?」
「彼女が一番幸せである結末を思ってるよ」
「だったら今すぐ離婚してください。それができないなら、ただの逃げですよ。奥さんからもお子さんからも」
感情的になって何を言い出すかと思えば。
「僕が離婚してあの子と結婚すれば君は満足するのかい?」
そう言うと、彼は押し黙る。
「結婚さえすれば、幸せになれると本気で思っているのかい?」
そこにあるのは理想ではなく、現実だった。
「君こそ理想ばかりを追いかけていないで、ちゃんと彼女と向き合ったらどうなんだ?」
現実は否応なく僕に理不尽を突き付ける。
いや、理不尽なのは僕のほうか。
「僕はちゃんと、梨世と向き合っているよ」
彼女と迎える終わりのいつかのために。
***
離れていくその背中達に私はどうしようもないさみしさを感じた。
その距離が、さみしさの距離がもどかしくて。
それでも私は、叫びたくても我慢してしまう。
泣きわめけば、きっと楽になれただろう。
けれど、それでは何も変わらない。
たとえようのない寒さに似た孤独。
ずっと続くかもしれないという不安。
私はそれを埋めるために、隣で心配してくれるイズちゃんを抱きしめた。
***
何も言い返せなかった。
だって、僕は鹿山さんと何も向き合っていなかったから。
彼女が繰り返すさみしさの衝動が僕に向き合うことがなかったから。
もどかしくて、どうしようもできなくて、僕は立ち去っていくオトナの背中を何もできず見送るしかなかった。
それでも僕の中に一つだけ答えがあった。
彼女が彼と結婚するなんて想像したくなかった。
わがままでも、僕のそばで笑っていてほしかった。
***
「何もできない私は、私なりに答えを探した」
「だから僕は、僕なりに彼女と向き合う準備を始めた」
「キミのためにできることは何か考えることがキミのためにできることでしかなかった」
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