ドリップ

梅屋 啓

第1話 着任

 平成二十八年。飲食業界の人手不足は深刻だ。カフェ、ファミリーレストラン、ファストフード。業態や店舗数を問わず、現場を支えているのは少数の正社員と多数のアルバイトという図式が一般的だ。ところが少子化の影響か、アルバイトを募集しても応募してくる人間はひと昔前に比べれば大きく減少している。就職難と言われた時代が終わりを迎えつつあり、フリーターという人種が減っていることもひとつの要因だろう。社会全体として見ればよいことなのだろうが、短時間勤務のアルバイトでシフトを組み、時間帯に見合った人員を巧みに調整することで経費をコントロールしている飲食業界にとっては憂慮すべき状況だ。

 末端の人間には全く実感がないが、景気が上向いているのだろうか。どの都道府県も毎年のようにこぞって最低時給が上昇している。毎年決まった時期に十円から、都市部に至っては二十円近く、働く本人が何も努力しなくても給料が上がっていく。だが同じ時間働いて今までより高給を手にするようになったというのに、消費者は値上げに消極的だ。おかげで売上高は昨年とほぼ変わらないか、むしろ下回っているというのに人件費率だけが高騰して利益を圧迫していく。そのため固定費と言われる正社員人件費に経費を割く余裕がなく、今では一店舗に一人の社員、即ち店長以外全てアルバイトという状況が当たり前のように罷り通っている。

 そうなると、どこかの店舗で店長が稼働不能な状況に陥った場合、他の店舗からヘルプに来る社員がいないことになる。ということはどうなるのか。

 ああ、やっぱりね、と胸の内で自分を納得させながら高坂こうさか日和ひよりは現場勤務を命ずる辞令を受け取った。

「ごめんね高坂ちゃん。せっかく念願の本社勤務になったのに」

 日和の上司である中川は、五十を過ぎて皺の目立ち始めた顔をさらにしわくちゃにして、申し訳なさそうに手を合わせた。

「中川室長が謝ることじゃないですよ。決めたのは人事ですから」

 日和は受け取ったばかりの辞令をデスクの上にそっと置いた。日和の勤務する株式会社東羽(とうは)フードビジネスは関東を中心に外食産業を展開している。主にカフェ業態が中心だが、最近では麺類やベーカリー業態の出店にも力を入れている。日和が在籍しているのは総務部のお客様相談センター。消費者から寄せられる現場や会社へのご意見――と言ってもその半数以上は苦情ということになるが――の電話やメールに対応するのが主な業務だ。所謂「クレーム処理班」のイメージが強く、志願する人間の少ない部署だが日和はこの部署での仕事を気に入っていた。ここに寄せられる意見や苦情が、最も真実に近い、嘘偽りのない消費者の声であり、会社にとって真の問題点であるからだ。その為、会社も相談センター社員の意見は受け入れ易い体質であった。見方を変えれば、会社の業務改善活動の全てがこの部署から発信されていると言っても過言ではない。改善策の提案やお客様への回答にあたって、現場や各部署に対する事実確認や相談をする機会も多い。刑事か探偵にでもなった気分だ。そして何より、苦情を申し立ててきた消費者に相対し、最後に「ありがとう」と言われたときの嬉しさだ。

「いろいろキツいこと言っちゃってごめんなさいね。なんか、あなたと話したらすっきりしたわ。また、お店寄るから、次はちゃんとしてよね」

 ここまで言われれば相談センター社員の役割は全うしたと言えよう。そんなわけで日和自身、辞令に書かれた店舗のことも噂程度には知っていた。

「店長、亡くなったんですよね」

 前任の店長であった須田健一が急死した。まだ四十代だったと聞いている。会社にとっても想定外の出来事で配置転換が間に合わず、偶々通勤可能圏内に住んでいた日和にお株が回ってきたというわけだ。

「体調、悪かったんですか」

 現場社員が急な死を遂げたとなれば、否が応にも日和の頭の中には「過労死」という単語がよぎる。だが、日和の問いに相談センター室長である中川は首を横に振った。

「事故、らしいよ。僕もそれ以上のことは」

「事故って、仕事中のですか」

「まさか。仕事中の事故で死人が出たなんてことがあったら、今頃お店は営業休止だよ」

 それもそうか。と日和は納得した。不幸な事故だったのだろう。確か須田には小学生になる息子がいたはずだ。だいぶ前の社内報で家族自慢のコーナーに載っていた写真を思い出した。家族のことを思うといたたまれない気持ちになった。

「次の店長が着任するまで一年もかからないだろうから。それまでの辛抱だよ」

 中川が話しを切り替えるように言った。日和は今年で二十八になる。現場にいたのは大学を卒業して新卒で入社した後の三年間だ。そのうち店長として勤務したのは相談センターに配属になる前の一年間のみ。二年ぶりの現場復帰だった。

「メニューはだいぶ変わっているけど、お店そのもののシステムはほとんど変わってないからさ。高坂ちゃんならすぐに勘を取り戻せるでしょ。僕と違ってまだ若いんだから」

 中川はそう言ってにこりと笑顔を見せた。この笑顔と褒め上手なところが日々様々なクレームと戦う中川の武器だった。上司としても尊敬できる人間だ。

「この店、人はいるんですよね」

 人がいる、というのは営業するにあたって十分なシフトを組むことが出来るアルバイト人員が揃っているかという意味だ。中川はあまり心配していないようだが、日和自身は二年ぶりの現場復帰にあたって不安でいっぱいだった。人手不足な現場で店長経験も一年のみの自分では満足な店長業務ができるか心配で仕方がない。

「充足率は九十パーセントくらいだって。今はどこも人手不足で全社平均が八十五パーセントくらいだから。恵まれている方じゃないかな」

店舗には必用適正人員というものが設定されている。売上規模に応じて何人のアルバイトが在籍していることが適正かという数字だ。一言でアルバイトといっても、高校生、大学生、専門学生、フリーター、主婦とそれぞれの身分や家庭環境は千差万別だ。お小遣い程度の稼ぎで満足する者もいれば、一定の収入がないと生活に支障を来す人間もいる。とはいえ店舗によって使える人件費は限られている。人手不足を懸念して人数を抱え過ぎれば、当然一人当たりの収入は目減りする。そうなると、足りない収入を補うためにかけもちで別のアルバイトを始めたりして、最終的には退職なんて人間も往々にして存在する。かと言って人員が足りなければ、本来アルバイトで賄える仕事を社員が肩代わりすることになり、結果社員としての役割を十分に果たせなくなる。学生のアルバイトは卒業と同時に退職することがほとんどだから、どのタイミングで何人いなくなり、それを見越して事前に何人採用しておくのか。リクルート計画は店長にとって重要な仕事である。次の店長がいつ着任するかが不明である以上、日和も少なからず手を付けなければならない仕事だと認識していた。

「ただね」

 着任後の構想を練っていた日和の思考を中川の一言が停止させた。

「ただ、何ですか」

「定着率はあまりよくないみたいでね。須田店長もそこは頭を悩ませていたみたいだよ」

「アルバイトがすぐ辞めちゃうってことですか。でもそれって、どこの店舗でも最近の傾向じゃないですかね」

 忍耐が足りない。叱られるとすぐふてくされる。たった一日辛い勤務があっただけですぐ辞める。ここ数年の傾向であった。全てがゆとり教育の所為というわけではないだろうが、論理的で合理主義になりつつある若者に対して、気合論で苦境を乗り切ってきたベテラン社員が手を焼いている実情は確かにあった。どこも人手不足で、アルバイトなど探せばすぐに見つかる時代だ。裏を返せば雇われる側が仕事を選べる時代なのだ。ちょっとでも自分に合わないと思えばすぐに辞めていく。雇う側の社員も言葉遣いや接し方には気を付けなければならないご時世だ。

「それもあると思うけど、須田店長ってあまり理不尽なことは言わない人だったし、今までいた店舗もESは悪くなかったんだよ」

 ESとは従業員満足度のことだ。東羽の経営する飲食店では年に一回、アルバイトを対象としたアンケートが行われる。社員の仕事ぶりや、店舗の労働環境、待遇などを無記名で自由に記入してもらうアンケートだ。

「もしかしたら内部で何か、本社には言えないような問題があるのかもね」

「なんですかそれ。着任前から脅さないでくださいよ」

 冗談っぽく切り返したが、日和の中で不安な要素が一つ増えたことに変わりはなかった。本社には言えないような内部の問題。それはほとんどアルバイト同士の人間関係に起因する問題であるが、現場レベルでしか解決できない問題であるだけに根深い問題として残留していることが多々ある。

 今はまだ想像の域を出ないが、アルバイトが長続きしない何かしらの問題があった上に、前任店長が死亡した店舗。日和を不安にさせるには十分すぎる材料が揃っていた。

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