第20話 少年は犬になる

 人をバカにしたような耳ざわりな声が電話口から響いたのは、昨日の午後六時過ぎだったと記憶している。


――『取引しようか、直樹くん』


 それ以前に何度か声は聞いていたから、すぐに三月兎……テオだとわかった。

 声を聞いたとたん直樹の頭にカッと血が上る。

 電話口から聞こえてくる声の主は、直樹が姉とはなればなれになっているあいだずっと姉のそばにいた男だ。

 直樹から唯一の肉親を奪った男だ。

 姉もこんな男と一緒にいるくらいなら、直樹に顔くらい見せればいいのに。なんで自分を放っておいてこんな男と一緒にいるのだろう。

 ああもう、この男も姉も大嫌いだ。


――「……なんだよ?」


 自分から姉を取った男と話していると思うと声も自然と低くなる。すると電話ごしに男が楽しそうに笑った。

 ああ、頭にくる。


――『ウイルスの情報をうちから盗んだのはお前だろう?』


 クスクスと笑いながら、男は確信をついてくる。


――「……そうだけど?」


 思ったより早くバレたようだ。ウイルスのデータを盗んだのもそのウイルスを使ってペットの値段をつり上げていたのも姉に対するあてつけだからバレるのは別にかまわない。

 ただ、うまく隠せば姉と長く一緒にいられると考えていた分、こんなに早くバレたのは少し残念だ。向こうもバカではないということだろう。


――『データを返してもらいたい。お前が製造したワクチンとウイルスもだ』


――「……それ、取引じゃないよね? こっちのメリットはなに?」


 男がまた電話口で笑った。

 ああ、頭にくる。


――『姉と一緒にいたくないか?』


 それが何を意味するのかわからないほど、直樹はバカではない。


――「僕が今回やらかしたことは見逃してくれるの?」


――『もちろん』


 この取引を受ければ、きっと直樹も姉のように一生利用される人生を送るのだろう。姉の希望とは違う人生を歩むことになる。

 上等だ。


――「……わかった」


 これは家族なのに直樹の気持ちを無視した祐未への報いだ。せいぜい苦しめばいい。

 それが自分勝手な意見だと直樹も知っていた。だってそれが成立するなら、自分も姉の気持ちを無視しているのだから、なんらかの報いを受けなければならない。けれど姉はきっと直樹を断罪したりしないだろう。だから直樹のこの考え方は、はなればなれで暮らしていた姉に甘えた、歪んだ理論だ。


――『それと知っていることは全部話してもらいたい。今回感染者が町に逃げ出したのはなぜだ?』


――「管理が甘かったんだと思うけど、梶山陸って男が知ってると思うから」


――『そいつのいる場所に、祐未を案内できるか?』


――「……べつにいいけど」


 そうして直樹はいけすかない男の支配下に置かれることになった。現在は彼らの本拠地へ向かうため国際空港のロビーを歩いている。


――『ようこそICLOへ』

 

 直樹に飛行機のチケットと地図を渡してテオは嘲笑を浮かべた。

 すべてを見下しているような男の態度が直樹は気に入らない。

 テオにとって直樹は駒なのだろう。むろん姉も同じだ。

 この取引も、使い勝手の良い駒を増やすためのもの。テオは駒を増やして仕事も終えた。きっとさぞ気分が良いだろう。

 今回は完全にあの男の一人勝ちだ。


「……くそっ」


 それが余計イライラする。

 あの男は直樹から姉をとったのだ。

 なにを考えているかわからない。

 なんとか利用してやろうと思ったのに、それも空回りでしかなかった。


「いまに……見てろよ……!」


 全部わかってるような態度をとりやがって、いつか鼻をあかしてやる。

 これから機会はいくらでもある。

 今から直樹はあの男の飼い犬になるのだ。少しでもチャンスがあれば腕の一本でも食いちぎってやる。

 空港のロビーから見える青空を睨みつけるようにして、直樹はまた歩き始めた。

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