日曜日: 解き放たれる大蛇
明け方: 十字架 [リーゼリッヒ・ヴォルフハルト]
降り続いていた雨が止んだ。
分厚い雲の切れ間から、朝の入りを知らせる光が差し込んでくる。
思わず私は動きを止め、眩しさも気にせず食い入るように空の隙間にある光を凝視する。
黒騎士やヒトガタの襲来に合わせるように天候が日に日に悪化していった。今日こそは晴れるのだろうか。それとも一時的な気まぐれにすぎないか。答えは本日の昇武祭の予選が始まる頃には分かっているだろう。
空を見つめる頭を戻し、連撃の型『
下段からの執拗な攻撃は、一手一手が敵を追い込めるための布石だ。常に相手の急所、喉笛を噛み付かんとし、己一人による狩りではなく、群体としての狩りに徹する。五手先でこの剣を敵喉元へ突き入れるべく、手首、太腿、ふくらはぎと敵の注意を下へ下へと押しやる。
不意に、体の筋肉のバネを全て解放する直線の一閃が、明け方の冷えた空気を一気に切り裂く。
剣を戻しなどせず、柄頭の宝石に右手を移動させ、相手を地面へと押し込む。これより他の狼達による獲物への飛びつきへと動作は移行する。
“剣が重い”
テレジア殿の指摘が後ろから飛んだ。
気付かずに型へと集中していたと言えば聞こえはいいが、気付かなかったのは剣士としての資質を疑われる。
“何時からそこに?”
“貴様の面が精気なくした下らん表情を作ってからだ”
つまり、最初から、か。
“今日は、いや、昨晩と言うべきか、派手に怪異共がわめいていたな”
“ここ数日で一番の活動のようです。あとで正式に連絡が来ると思いますが、私やシャルロッテを含め学生は昇武祭の予選が済み次第、全員島外へと避難します”
“ほう”
テレジア殿がハルバード、<深遠からの咆哮>を引っさげ、柱の影から中庭へ、私の方へと歩み寄る。
“お嬢様には関係ない”
“え? シャルロッテも私と同じく島外への移動を余儀なくされると思いますが……?”
“下らん。お嬢様と貴様を同一視するな。お嬢様が残ると仰れば残り、出ると仰れば出る、ただそれだけのことだ。何人たりとも邪魔立てはできんし、私がさせん”
果たしてシャルロッテがそれを望むのだろうか、と私は思った。彼女のことだ、何が起きても全て楽しいと感じてしまうだろう。
まるで、思いっきり楽しまなきゃ、
『——人生なんて、』
彼に似ているなと思った瞬間、両手に持つ<氷の貴婦人>が重たさを増したような気がした。
“下らん思想に囚われているな”
だが続く彼女の言葉は意外なものだった。
“誠に結構なことだ”
“え? 迷いを持ちながら剣を持つことが良いのですか?”
“剣士としては下でも、戦士としては上だ”
思わず食ってかかった私の問いへの答えはそっけないものだった。
“貴様が悩めば悩む程に兵装とより深く同調できる可能性が広がる。剣士としての質が落ちようと、兵装とより深く同調することの方が戦力になる”
“…………”
だとしても、己の想いも受け止められそうにない私に何が成せると言うのか?
押し黙る私に、テレジア殿が私の傷口を広げようとする。
“何があった、昨晩の戦場で?”
答えたくはなかったが、答えずにはいられなかった。
“まさかとは思うが、あの小僧の話ではあるまいな?”
テレジア殿の顔が怒りで崩れていく。よっぽど嫌われてしまったな、萌。
「防壁を突破されました! 爆裂型のヒトガタです! 第一波、数は七!」
「どれどれ? うっわ、見るからに危なそうなお色だこと」
「日鉢燈! それに烏丸君、こちらの陣地に近づけさせるな!」
「弥生サン、ついでに橋ごとぶっ飛んじゃうかも知れませんけど、いいんですかね?」
「構わない! 多少の爆発で崩れるようなやわな建造物でもあるまい!」
「ひゅ〜ぅ、んじゃ正式に許可が下りたところで、派手に燃やしちゃいますかぁ! ね!」
「ええ、そう致しましょう」
日鉢燈——炎の蜂と化す火矢を番う弓兵と、烏丸
私は日鉢殿達と共に、中央広場に設けられた一番高い高楼櫓にいた。私の本分である<強制視>による偵察のために。
ではこの櫓上にいない同じ班である萌達は——
「おら、また一点減点だ! 突っ込むならさっさと突っ込め! 高え所にいるネエちゃんが気になるんなら刀置いて引っ込んでろ!」
——は、はい!
戦っていた。この陣の一番外側、土嚢による即席物で形作られた星形城郭の三番目の門の一角で。
雨に打たれ、泥をかぶりながら、それでも刀を鞘に宿したまま、圧倒的な暗闇の中を彼は戦い続けていた。
多勢に無勢——数で圧倒するヒトガタに対抗するのは、兵士達が培った技術と、
「どーーらぁ!!」
戦友達との絆に他ならない。
「やるな、大豪寺。何時も以上の張り切りようではないか」
大太刀を豪快に振るう大豪寺とは対象的に、学級長の十字槍は小さく細かな軌道を取り、ヒトガタの攻撃を防ぎ、的確に隙へと滑り込む。
「あン? 敵がこんなにいるのに張り切らねえでどうするよ、むっつり眼鏡!」
「いや、てっきりリズ君を介して自分の武勇伝をシャルロッテ君に売り込もうとしているのかと、な」
「ぶち殺すぞ、クソ眼鏡野郎!!」
全ての戦場を見渡せるこの場にいて、萌達のことがどうしても気になってしまうのは仕方のないことだろうか?
「賑やかなお友達だな、オイ。ま、そんな口を叩く前にその震えた声をどうにかする方が先じゃねえか?」
「こんな場で、平静を努めていられるのは、この辺が限界です」
「全く。一緒のクラスだからってそんなとこまで仲良し子好しにならんでもいいだろうに、なぁ、東雲!?」
日鉢殿の手から放たれた紅の一線が、新手のヒトガタの体内へと深々と突き刺さる。
「そんな君達の青春にカンパイ——な〜んてね」
轟音が、衝撃波となって襲いかかる。
「日鉢さん、今はそんなつまらないことを言っている場合ですか!」
「日鉢殿、いっつも国司殿に何を動かせと言われていますか!?」
「日鉢燈! 君の勤務態度は詰問に値するぞ!」
「え、やだ……お姉サンの味方は誰もいないの?」
土煙が湧き上がり、視界が遮られ、私の目が通じなくなる。だがその音量は日鉢殿の確かな戦果と、新たな敵の襲来を嫌が応にも告げていた。
“物量の押し付けか、下らん”
“それが一番有効ですからね。鉄に勝るにはより大きな鉄、です”
旧史の戦においてそうした金言があったと聞く。今でも形を変えて使われてはいる、恩寵に勝るのはより強大な恩寵のみ、と。
“剣士ではなく斥候として産まれたのを呪っている訳はなかろう。何があった?”
私はあの高所から動けなかった。
私の目の優良性を指揮官に買われ、高所から戦況を見るようにと言い渡されたからだ。
不服はない、むしろ望むところのはずだ。剣士としての私の力量など高が知れている。だが、この目の力はシャルロッテでも凌げない。ただ見て分かるだけの力だが、こちらに併せて千変万化する怪異を相手取るのならば、私は己の役割に徹さねばならない。
理解し、納得している。はずだったが——……
“萌が、”
テレジア殿の顔が歪む。
“こう言いだしたのです”
——僕が囮になります!
このままでは何処かの防衛戦が崩れてしまいそうな時、彼は私を見据えてそう言った。
「——くっ!」
「見えてねえフリしろ、女学生!」
現に、最も激しい攻防を繰り広げているのは萌達の区画だった。
「ちょっと、この修羅場で何その秘密のやり取り! お姉サン俄然やる気出てきちゃったぞー!」
「おい、萌ェ!? ちぃ! 萌を守るぞ、眼鏡!」
彼の発言を分かるのはこの場で、いやこの島で二人しかいまい。口の動きを読める国司殿と、強制的に言葉が読めてしまう私だ。いや、もしかしたら、風を操る力を持つ黒騎士も、国司殿と似たような原理で萌の言葉を推測できるのかも知れない。
——リズさん、僕が囮になって敵を引っ張ります! 敵を引き込んで下さい!
この広場に敷かれているのは、星型要塞の一種だ。八つの鋭角を持つ二重の防衛線が木材と土嚢で築かれている。それを『存在強化』の結界が城塞たらしめているのだ。
しかし、私の目には日が上がるよりも防衛線が崩れ始めるのが早いと映っていた。
——リズさん!
「無視だ、無視! シカトしろ!」
「え? ちょっと本気で東雲クン何叫んでるわけ?」
「何か大切なことかしら? ヴォルフハルトさん、あなたなら分かるのよね?」
「それは……」
「何だ!? 早く言え!」
それを私に口にしろと言うのか、君は。
私の心を分かってくれたのは、他ならぬ<氷の貴婦人>だけだった。
こんなむごたらしい、私の意志に反する言葉を言えと、理性が私の神経を逆なでる。
剣は、私の意を解しながらも、一歩踏みとどまらせたのだった。
しかし、私にはその剣を扱う役目は回ってはこない。剣を手に持つことはできても敵怪異へ振るうことは叶わないのだ。
「彼を——東雲萌を囮に使いましょう」
「へ!?」
「あら?」
「何を言う!?」
「彼は——恩寵を持たぬ、この世で唯一最も旧人類に近い人間です。彼の血は怪異を引きつけます。彼の隊を一時的に突出させて敵前線を突破させ、敵を引きつけましょう。その間に体制を整え、罠を敷き、そこにおびき寄せれば——」
この時ほど己の力を呪い、無力さを強く嘆いたことはなかった。
「そうか、国司班の異常なまでの怪異遭遇率は彼の恩寵の無さが原因か! よし、これ各隊これより策を実行する! 分隊長以下は私の指示を——」
“死んだか?”
“え?”
“それであいつはくたばったのか?”
テレジア殿の目は本気だ。冗談や酔狂で聞いているのではない。
“い、いえ、深手を負いましたが、この島の医術ならば夕刻までには完治すると聞いてます”
“チッ!”
テレジア殿が舌打ちし、地面へと唾を吐き捨てる。
“ここは神聖な修道院です。お気持ちは察しますが、そのような行為は困ります”
私は展開した兵装のスカートの裾でそっとぬぐう。
“知らんな、そんなことは”
こうなった彼女には主人たるシャルロッテの言葉しか通じない。
“釣り役には、萌を中心に六名が選ばれました”
前線に張り付いた怪異を引き離すため、餌を敵陣に投げ込む必要があった。釣り役の部隊が日鉢殿達の援護を受けて敵陣深くまで切り込み、そこでできる限りの時間稼ぎをする。防衛側は三方に伏せながら逆襲のタイミングを計る。
相手が人間であればこうした単身突出と反転後退による機動作戦を成功させるには、熟練した兵の練度、そして引きから逆襲に転じる機を逃さない戦場の空気を完璧に読みきる指揮官の判断が必要となる。
何より、釣り役は一歩間違えれば即死に繋がるのだ。押し込まれているのに敵を突破するバカげた行為、周囲全体を敵に囲まれながら時間を稼ぐ愚かしさに加え、そこから罠を張った地点へ逃げ延びなければならない。そして、その動きを敵に悟られずに進退しなければいけないのだ。
理性なく本能で動く怪異相手には伏兵は有効な手段とは言え、囮役が危険なのには変わらない。
周囲三百六十度からヒトガタが押し寄せるだけではない。我も我もと後ろのものは前のものを追い越して寄ってたかるのだ。後退に転ずる寸前などは、萌を中心としたヒトガタのドームができあがりかけていた。
“戦果は?”
“はい。一ヶ所、二重の防衛線を最後まで破られましたが、策は成功しました。萌や国司殿の粘り勝ちです。お陰で大量のヒトガタを討ち取り、結果勝利へと導くことができました”
“だが貴様はいらついている、だろう?”
“はい——。あの場では、あの作戦を取ることが最善と言わずとも次善であると理解できるのですが……”
釣り役の部隊を突破させるのはさほど難しいことではない。全方面の敵を射る防衛用の遠隔攻撃の火力を一時的に一点集中すればいいのだから。その空いた穴から突撃し敵を引きつけることも容易いだろう。
問題は失敗したらどうなるのか、と言うことだ。敵を引きつけて罠の地点に戻るのが無理でも、釣り部隊の壊滅と言う比較的小さなダメージでこちらは戦線を立て直す時間が得られる。
あの時、あの場では、試して損のない行動だった——そう分かってはいる。だが、一歩でも間違えていれば、萌が——……。
私の憤りを感じ取った<氷の貴婦人>が震え出す。剣も私と同じ想いなのか。それだけが私にとっての唯一の慰めかも知れない。
彼が死地に赴いているのに、私は全体の戦況を見渡し次なる策への最善手を進言しているだけだった。無情を通り越して呆れ、己に怒りを覚えるしかない。
そんな私と<氷の貴婦人>を見て、テレジア殿が意外なことを言い出した。
“あの小僧は癪だが、貴様にその魔剣を渡したのは間違っていなかったか”
魔剣と言う言葉に思わず耳を疑った。
“なっ——? <氷の貴婦人>には、破滅をもたらす呪いでもかかっているのですか?”
“知らん。が、貴様には知らせておくか”
テレジア殿が私の動揺をよそに冷然と言う。
“鍛えられたのは今から百数十年前、我が主家ルツェルブルグ子飼いの鍛冶師によってだ。急に聖コンスタンスの剣士に剣を贈りたいと申し出たそうだ。本人のこれまでの貢献と、本人からの初めての申し出ということもあり、エーデルリヒト鉱石を中心とした幻想鉱石による錬成を許可したとある”
それは——その風景は断片ながら私に伝わってきている。
“この剣が、本当に魔剣なのですか?”
邪念、邪気の類は一切感じられない。
“記録によると、その女剣士が五度目の研ぎに鍛冶師を訪ねた際、その剣で女剣士を刺し殺し、己の喉をついて自害した”
驚きに言葉も出なかった。
“その後は、貴様らの持つ『全ての物は管区の長に集められた後に分配される』と言うややこしいシステムのせいで、聖コンスタンスの別の剣士へと所有権が移った。なにせルツェルブルグが鍛えた剣だ、剣士ならば一度は触りたいと思うのは妥当な流れだ”
テレジア殿は抑揚のない声で続ける。
“だが持ち主となった者は皆、親しい誰かを傷つけて自死しようとしたそうだ。結果、魔剣の烙印を押されて丁重に主家へ送り返された”
振り返れば、この国に来るまでの間、シャルロッテが私の体のことをしつこく聞いていた。旅の最中の体調を気遣われているだけと思っていたが、なるほど、魔剣に侵されていないか心配してくれていたのか。
“その剣が、私に?”
“下らん話だ。恩寵兵装を持たぬ貴様をお嬢様に同行させる訳にはいかん。かと言って『本物』を持ち出せば、管区長はそれを我が物としどうでもいいものを貴様に与えるだろう。お嬢様のご旅行を形式上守る貴様にそんなみすぼらしいものを持たせる訳にもいかん。故に、聖コンスタンスに所縁のある血塗れの魔剣を貴様に渡すよう進言した。まさか同族殺しの剣を好き好んで使いたいと望む阿呆もいまい”
“それでこの剣が無事私の元へとついた訳ですか”
不思議と腹が立たない。テレジア殿の行動は理にかなっている。
この剣を握ってから断片的に浮かんでくる剣の記憶とも一致する。——が、私はあの鍛冶師が彼女をその手にかけ自害したと言うことが信じられなかった。まだ私は同調しきれていないのか。
“前に一度聞いたな、貴様は何故ここに来たのかと。答えは出たか?”
“それは——”
答えに詰まる。それは思い出してしまったからだ。彼との会話を。『運命じゃないですか』と素敵な言葉で肯定してくれたはにかむ彼の笑顔を。そして、知ってしまった彼の覚悟を。
私が答えに窮していると判断したのか、テレジア殿が意外なことを言い出す。
“医者を目指す者は、近親者を病気で亡くしていなければならないのか?”
“は?”
“己の無力さを噛み締め、ならば自分が医者となり自分のような人間を一人でも出すまいと決意した者でなければ、医者になる資格はないのか?”
“い、いえ。そのようなことはないと思いますが……”
“音楽家にならんとする者は、両親、祖父母が音楽の道に生きていなければならないのか?”
話の要点が見えない。
“剣を取る者は、終生を誓った友人や家族が怪異に殺されていなければならないのか? 己の目の前で死にゆく姿を見させられ、いや、自らの手で楽にせざるを得なかった重荷を背負い、奴らの全てを一匹残らず皆殺しにすると復讐を誓わねばならないのか?”
イエスとも言えるが、絶対にそうだとは言えない、そんな気がした。
“貴様は、何故私が正しいと思った?”
“それは——……私の理由など、テレジア殿からすれば取るに足らないものかも知れないからです”
万人が納得してくれるようなものではない。ただの憧れだ。彼はそれを認めてくれた。嬉しかった。だが、この女性からすればそれは見すぼらしいものに見えるのかも知れない。
“下らん。違うな、それは私が強いからだ”
私の洞察をテレジア殿は一笑にふす。
“貴様と私では背負っているものが違う。だが、貴様が答えに窮するのは、私が強いからであり、それを貴様が認めているからだ。そう、自分より強い者の言うことは正しいと”
“そんなことは……”
考えてもみなかった。だが、心の何処かでそう思っていたのかも知れない。
“力は正しい。戦では常に勝利こそが正しい。兵はばかし合いだと古の軍学書は説いているが、正にそうだ。暴力による勝利こそが正義だ”
“それは言い過ぎではないでしょうか? 力が正しいと言う面はありますが、それが第一義ではないはずです。力無き者の説く言葉に真実が含まれていないとは、強者の勝手な言い訳に過ぎません”
“下らん。だからその通りだと言うのだ”
“え?”
テレジア殿の言うことがコロコロと変わっているように感じる私は、この論争についていけていないのだろうか?
“私が何を言おうが、貴様がここに来た理由がどんなにバカらしかろうが——自分がそれを選んだのだと何故反論しない? 他人から批判されたぐらいでぐらついてどうする? そんなことで貴様に預けた剣が力を貸すとでも思っているのか?”
いや……それは正解でも間違いでもあるような気がした。私には、自分自身が揺らいでいるからこそ、剣との共感が進んで部分もあると感じる。
確固たる己があるからこそ、兵装とより深く共感できる、か。
『——それは、自分を好きになることです』
彼の言葉が、夕日に照らされたその顔と共に浮かび上がる。彼に抜かされて当然か、私には何も見えていなかったのだ。
だからと言って未来を諦めるような萌に賛成はしたくない。張り手の一つで彼が考えを変えるのなら幾らでも喜んで叩いてみせるし、何時間でも議論も罵倒もしてみせるが、彼の決心は動かないだろう。そう認めている自分自身の無力さにも、私は腹が立つ。
“他人が納得できるような理由など、笑い飛ばしてみせろ。不幸でなければ頂点に立ち得ないなど、虫唾が走る”
私には聞かずにはいられなかった、
“テレジア殿、貴女はどうして刃を執るのですか?”
彼女は私から目線を外し、ポツリと呟く。
“理由、か。忘れたよ、そんなものは”
地面に向けられた視線は暗くよどんでいる。しかし、その言葉が持つ強さは、彼女の言葉が全くの正反対であると物語っていた。
“お嬢様に押し付けられた責務を手助けする、今の私にはそれで十分だ”
“押し付けられた? そんなバカな。日本の騎士達の遺刀を返還することは我々にとって名誉あることではありませんか?”
“何も分かっていないな。こんな極東の島国なぞ滅びてなくなろうともルツェルブルグには何の影響も無い。こんな下らん雑務は、アイギスを名乗ることを許されていない血族が行ってしかるべきだ”
“ならば、何故シャルロッテはこの国に来たのですか?”
“……。お嬢様は、身寄りのない庶子だ”
これには流石に驚いた。
“ルツェルブルグの恩寵を発現したが故に迎え入れられたのですか?”
テレジア殿の沈黙が、私の問いかけを肯定する。
名家の場合、血統により発現する恩寵はほとんど決まっている。その恩寵を運悪く発現できなかった者は、家を出されるか、従者として生きるか、殺害されるか、悲惨な末路を辿る。
時として、そうして追放された者の子孫がごく稀に名家のみが持つ恩寵を発現することがある。そうした場合、引き取られると聞いているが……。
東の空からの光が、私達を密やかに照らす。
“厄介者なのだよ、お嬢様は。身寄りのない養女でありながら、ルツェルブルグ歴代最強の使い手だ。そんなお嬢様を厄介払いするのが今回のご旅行だ”
“そんな……”
彼女の笑顔の裏にそんな影があったとは……。
“下らん使命だよ。彼の地に赴き、剣を返還した後、その体で鍛冶師を釣ってこい、とな”
私はその言葉に思わず両手を握りしめていた。
だからテレジア殿は萌をそこまで憎むのか? いや、それはきっと違う。彼女なりのシャルロッテへの愛情表現なのだろう。テレジア殿がどう思おうと、私には彼女とシャルロッテは理想の主従のように思える。
“喋りすぎた。私も年だな”
エリザベート管区長殿が聞けばぷんすか怒り出しそうな発言だ。
“構えろ。まだ時間がある。貴様が醜態を晒そうと知らんが、それにお嬢様のお心を煩わせる訳にはいかん”
テレジア殿がハルバードを体の中心に持って行き、詠唱を始める。
迷いが新たな迷いとあやふやな答えを生む。
だが今は、少なくとも剣を持つ今だけは、ただ剣を振るうことに専念しよう。
彼に負けっぱなしのこの身が、どうしたら彼を笑い飛ばせると言うのか?
分からない。ただ——剣を持つこの時だけは、真実は刃の中にあるはずだ。
雲から差した朝焼けの明かりを白い甲冑が跳ね返す。
朝を迎えようとする修道院に、刃のぶつかり合う剣撃の音が響き渡った。
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