放課後: 夕暮れと君 [リーゼリッヒ・ヴォルフハルト]
私は一人、放課後の町を歩く。
日差しが強い。太陽はまだ沈んでおらず、夕焼けの色鮮やかさが空を支配するにはもう少し時間がかかる。
周囲を見渡せば、この島の外側の湖を取り囲む石壁がそびえ立っているのが見て取れる。だが、不思議と圧迫感は無い。壁は湖を挟んで遠く、そして空が近くに感じられるせいだろうか。
遠くから学園で部活動に励む声が微かに聞こえる。爽やかな、と言うよりは力強く、刺々しい。
昨晩の襲撃を知らぬ者はもはやいない。奮い立っているのは警備を担う者だけではない。『刀、文武、そして伝統を命よりも重んじる<八岐大蛇>倒れし陸の鍛冶島』——遥か遠く離れたヨーロッパまで聞こえている噂は決して間違いではない。
この掛け声にシャルロッテや透子のものが混じっていると思うと心無しか異なる音色のように聞こえる。しかし、あの大人しい静が大声の気合いをあげるのは想像できない。
さて、透子から教えて貰った神社の麓にようやく到着したようだ。目の前には長く続く階段がある。百——いや、二百段程だろうか。登りきった先にあるものをこの場所からでは確かめることはできない。
一度、目を閉じる。……いる。学園から私をつけている者の気配を感じる。わざとらしい、と言う程ではないが、隠している訳ではないらしい。この先へ誘導するのは気がひけるが、後ろめたいことをする訳でもない。
それに、気配を消している本命の尾行者が何処かにいるだろう。気配のある尾行者を巻こうとしても、隠れている真の尾行者に追跡される。しかも監視を巻いた容疑を加えて、だ。
よし、と一息ついて私はまぶたを開ける。
<氷の貴婦人>を担ぎ直し、階段へと歩を進めよう。
この島を訪れて三日目、そして鳥上学園に通い始めて二日目だが毎日が驚きの連続だ。
私が日本の文化に慣れていないのもあるが、その大きな原因は不思議な温度差とでも言うべきか。
私の所属する弐年参組と言う組織(とは大げさか)が、どうにも掴みづらい存在であり、弐年参組を基準に考えてしまうとそれ以外のこと、私がこれまで接してきた人達などが、おかしく映るのだ。
おかしく、とは面白いと言う意味であり、変であると言う意味でもある。こう言う言葉遊びも日本語の奥深く、難しいところの一つだ。
彼ら、彼女らが私とシャルロッテを暖かく——と言うよりやや暑苦しく——迎い入れてくれているのは、どのような言葉で謝意を表しても表し尽くせるものではない。多大な恩をうけている者としては、このような発言をするのは無礼極まりないことであるが……彼らはいわゆる劣等恩寵者のはずだ。
鳥上学園は、日本国の定める等級分類に従い個人の恩寵を評価しそれを点数化していると言う。各学年ごとに優秀な者が壱組、それ以外が弐組と分類されるそうだ。本来ならば存在しない、いや分類できない劣悪な恩寵を持つと国が判断した者達——それが参組の学生である。
故に、彼ら、彼女らに対する差別的かつ攻撃的な他の学園生の反応は理解できる。初日の一騎打ちでのヤジ、部を尋ねた際の値踏みするようで何処かこちらを小バカにした雰囲気、私に負けた者への嘲笑——それらは劣等種への優位に根付くものと考えれば腑に落ちる。優と劣を区別するのは自分達ではない、この国なのだ。
恩寵の優劣による差別は、この国に限ったことはでない。むしろ私の祖国の方が酷いかも知れない。しかし、こう言った学園のクラス単位で区別するとは初耳だ。
修道院や騎士団などでは入門時点でふるいをかけ、最低限の素質を維持しようとする。特定の組織に属する集団の中で明確な差をグループ間に作ると、上は驕り、下はひがむ、そう聞いた覚えがある。
それもそうだろう。『人は皆、生まれながらに平等である』と口では唱えながらやっていることがあべこべではついてくる者などいやしない。
ふと、階段を進む足を止め、耳を澄ます。
部活の掛け声はもう微かにしか聞こえない。逆に、木と木がぶつかり合う鈍い音が上から聞こえだしてきた。さて、もう一息か——。
私がどうしても首を傾げてしまうのは、弐年参組の学園生達だ。
明るく前向き、まだ二日目でしかないがこの言葉が形容するのに一番なような気がする。だから、私にとっては不思議なのだ。
彼らは劣等であると見なされているが、強者は弱者を保護しなければならない、との弱者の理論を振りかざすこともない。他者をひがむこともなければ(そのように私には見えているが)、自分の身を嘆くこともないように見える。
階段はまだ上へと続いているが、踊り場に辿り着く。踊り場からは左右に脇道が延びている。この右手の先がそうだと聞いたが——。
やや傾斜のある道なりに進むと、年期の感じられる味わいの深い朱色の門が私を出迎えた。この国に古くから根付く宗教、神道における門、鳥居である。
はたと気づく。日本の神社には参拝の仕方があると述べていた書を思い出す。しかし、その内容を思い出せない。そもそも、異国の神を信仰する私が入ることを許される場所なのだろうか?
くっ、分からない。この地の知り合いの顔を順々に思い出す……エリザベート管区長ならご存知だろうか?
管区長殿からの『もしもし
旧時代では手のひらサイズのカラクリ
鳥居の前で、身だしなみと息を整える。この奥に奉られている『神』に失礼のないようにしなければ。いや、待て。参拝のやり方を知らない時点で失礼ではなかろうか。不覚……!
大きく深呼吸をし、雑念を振り払う。
深く一礼し、鳥居をくぐり、境内の中へと足を踏み入れる。
鳥居から伸びた石畳は真っ直ぐ伸び、その先に木造の神殿がある。右手奥からは、木と木が激しくぶつかる絶え間ない音が聞こえる。
右側に向かう前に、正面の神殿に深く一礼をし、己の非礼と無知を再度恥じる。
音のする方角へと静かに足を踏み出す。
「おーっす、転校生じゃん。どうしたん?」
私を声が呼び止めた。
「志水君か」
そこには同じクラスの、そして萌と同じ同好会に所属していると言う彼がしゃがみ込んでいた。水の入った桶の前に座り込み、木製の大型スプーン——柄杓、と言う名だったはず——を手に持っている。
「実は、」
「まま、一先ずこれ飲んでみ?」
と、水の入った柄杓を差し出される。
「? ええ、ありがとう」
礼を言い、受け取ったのは良いのだがはてさてどう飲むのだろうか。
「まーまー、作法とか適当で良いって。飲んでみそ」
眉間に皺を寄せ固まってしまった私に、彼が声をかける。
「そ、そうですか。では失礼して……」
柄杓に口を直接付けないように、そして中の水をこぼさないように慎重に運び、一気に飲み干した。
途端、喉に焼けるような熱さが走る。匂いなどまるでしなかったが、この味は間違いない、これは——
「アルコール度が高いようですが、これは酒ですか?」
「いや、酒だけどさ。もちーっとリアクション取ってくれても良いんじゃね?」
「そ、そうですか?」
「そんな普通の顔して一気飲みされてもなぁ。いきなり酒飲まされたんだぜ? 萌だったら顔真っ赤にしながら超ブッ飛んで、ゲーゲー言ってるって」
「む……」
確かに、彼の慌てふためく姿が目に浮かぶようだ。
「すみません。注意してはいるのですが、実際するとなると反応できていませんね」
昨晩の警邏前の国司殿の注意を思い出す。同じ過ちを繰り返すとは。不覚だ。
「まーまー、いーっていーって。堅っ苦しーなー、転校生。もっと普通に喋れって。もしかして学級長より委員長適正高いかもなぁ。んで、萌に用でもあんの?」
「む……。あ、ああ。透子からここが君達の所属する同好会の活動場所と聞いたのだが——」
彼の言葉にやや面食らいつつも、透子から聞いていた内容の確認を取る、萌と志水君の二人でやっている『古式剣術真鋭流同好会』、その活動場所がこの境内で良いのかと。
「おう。——っても俺はただの幽霊部員。やってるのは萌一人だけどな」
私から受け取った柄杓でクイッと奥を差す。その先に、木刀で打ち込みをする彼の姿があった。
彼は意外にも甲冑を着込んでいた。こちらから見える左の肩当てが、昨晩負った傷を示すかのように半分に切り取られている。
途切れることない打撃音が響いてくる。
「はっはーん……なるほどなるほど……」
そんな私を見て、志水君がニヤリと悪い顔をする。
「さぁ〜ってと。そろそろお仕事の時間ですかねぇ〜っと。んじゃ悪いけどお先。用具は何時もの場所にかたしとけ、って萌に伝えといてくれや」
彼がいそいそと帰り仕度をする。どうやら用事があるようだ。
「分かった。志水君は帰るのか?」
「おう。家の手伝いしないといけねぇーんだ。これがまた面倒で面倒で。ってな訳で、こいつは二人で、仲、良、く、飲み干しといてくれ」
仲良く、との言葉を協調されながら、ズイッと桶と柄杓を差し出された。
「それと
志水君、いや志水は私の返事など待たずスタスタと鳥居の方へと去って行った。
「あ、ああ……。ではまた明日」
彼の後ろ姿に別れの言葉を投げかけると、彼は振り返らずに手を振って私に答えた。
圧倒された。一本取られた感じだ。敗北感が確かにある。だが、そもそも勝負だったのかすら定かではない。
一流の剣士は刃を振るわずとも勝敗を決すると言うが——流石は音に聞こえた日本皇国、私などが理解するにはあまりにも、深い。
彼から受け取った桶と柄杓を手に持つ。萌の様子を近くで見てみよう。
稽古を続ける彼に気付かれないよう静かに近くへと歩み寄る。
彼は脇目も振らず木刀を振り続け、打音が鳴り響いている。
甲冑の擦れる音、木刀が空を裂く音、それら全ての雑音を掻き消す音がこの場にはある。
彼が握るのは木刀と言うより、昨晩持参していた木の棒に近い。
地面と水平に十本程の木が糸で結ばれて束となって支えられている。それを続けざまに萌が木刀で叩いている。
音が途切れない。先に叩いた音が鳴り終わる前に、新しい打音が発生する。
真上から叩かれた衝撃で木の束が微かに支え木から宙に浮く。束が下に落ちるより早く、再度上からの一撃が真下へと叩き付ける。
木刀を叩き付けながら、右足を前に出し、そして今度は左足を前にと足を組み替えながら振り続けている。
萌は木刀を肩の上に真っ直ぐ立てるかのように構えている。体勢が低い。その体勢から身体ごと沈み込むような一撃が真っ直ぐに木の束へと振り下ろされる。
打ち終わった木刀は先程とは逆の方の肩の上へ素早く立てられ、一拍の間を挟むことなく打ち下ろされる。何度も何度も、休みもせずに愚かしいまでの正直さだ。
激しく、疾い。上方からの二種類しかない打ち込みの単調さを補って余りある迫力と気迫がある。
ただ——少し変わった斬り方だ。両肩の真上から叩き付けるように、膝の高さに置かれた木の束に木刀を斬り降ろしている。右肩の上に構えた木刀を振り下ろし、左肩上方に掲げ上げ、再度振り下ろし、再び右肩の上に構え直す。萌の正面から見れば、剣先がVかYの字を描いているはずだ。
昨晩は気付けなかったが、見たことのない構えだ。
木刀の位置が不思議だ。この位置から見ていると、木刀が萌の後ろ側に一度も移動していないのが良く分かる。
剣を上方に取る構えは、
志水君、いや、志水から受け取った桶と柄杓を静かに置き、思考する。
思考——情報を際限なく取得できる私がどんな状況下でも冷静に、客観的にしなければならない動作だ。
ふむ……。
上段に構えつつ、剣を背に倒したり斜めに構えたりするのは間合いを相手に悟らせないためだ。萌のように剣を真上に構えたりすれば、私のような目を持たずとも、相手に正確な『斬り間』を把握されてしまう。恩寵が一般的になった今、『剣の間合いは一定である』と思い込むのは危険だが、それでも相手の間合いを認識することは立ち合いにおいて重要な一要素だ。
逆に考えてみよう。間合いを知らせる欠点がありながら、あのような構えをあえて取る利点は何だろうか? 間合いをあえて印象づけることで——……待て。萌の恩寵は、<何も無い>はずだ。しかも、昨晩の警備にはただの木の棒——いや、木刀か——を携帯してきた。ならば、彼の戦い方は恩寵を使わない純粋な古式と考えるべきだ。
利点、利点、利点……。もっと深く観察し、より深く思考すれば、見えてくるものがあるはずだ。
む。彼の頭が、撃ち込みに合わせるように上下に動いている。いや、頭ではない、動いているのは腰か。木刀の振り下ろしと同時に腰が落ち、振り上げに合わせて腰が戻る。
身体を落とす力を木刀の撃ち込みに乗せているのか。ならば——
突きを別にすれば、敵を斬るための剣先は円を描くように移動する。剣を振る回転動作においては、その切っ先に最も大きな力がかかる。
では剣を振り下ろす時を考えよう。萌のように剣を垂直に立てれば、半円を描く。頭上に剣を掲げながら背中側に倒していれば、相手からは剣の長さを悟られにくくなるが、剣先の描く軌道は上方へ軽く弧を描いてから、下方への半円になる。つまり、速さを競う場合、萌の構えの方が僅かながら早く目標に届く。
上段に構える利点は速さと威力だ。両腕で剣を振ることによる腕力に加えて、より高い位置からの振り下ろしにより重力を味方につける。
萌の構えと振りを見続けて気付いたことがまだある、彼の視界が常に確保されているのだ。
頭上から剣を振り下ろすとどうしても一瞬だけ自分と相手の間に腕が見え、相手の動作から一瞬だけ目を離すことになる。ほんの一瞬だが、生と死を分ける一瞬になる可能性はある。
まとめよう。萌のこの奇妙な構えからの斬り下ろしは、相手への視界を確保しつつ、速度と威力を最大限に発揮することを目的としている。静止した状態ではやや不格好に見えるかも知れない。しかし、それは無駄をできるだけ排除し、斬ることだけを突き詰めた結果だ。外見の良さや優雅さなどは生か死かの泥臭い斬り合いの中では何の意味もない。
思考が新たな思考を生み出す。
斬りに特化した構えだが、変化はあるのだろうか? それとも斬ることのみを稽古しているのだろうか? この構えから相手の攻撃を受けるとなると、いささか——
私の思考を遮るように、萌が木刀を振るう手を止めた。
騒がしかった境内が突然の静寂に包まれる。萌は木刀を空に向かって突き立てたまま静止し、今度は木刀をへそから真っ直ぐに地面と水平に取る。『青眼の構え』より剣先が低い。
両足を揃え、膝を外側に開くように折り曲げて体を落とし、先程まで打ち込みをしていた器具にぺこりと一礼する。
今の挙動が礼なのか。振り返るに——
などと考えていると、萌が大きく息を吐いた。構えを解き、立ち上がりながら私の方へとくるっと向き直った。
「!?!?」
ビックリされた。うきゃーとでも言いたげな様子でバババっと後ろへ逃げられた。
む……? そんなにおかしな表情をしていたのだろうか。管区長殿から顔が強張って怖いと指摘されているが……。
「すまない。驚かすつもりはなかったのだが——」
私の非礼を詫びようとすると、彼は両手を首をブンブンと横に振りながら真っ赤になって否定する。
「——!」
彼が唇を動かしながらブンブンブンと右手を横に振る。先程まで激しい稽古を続けていたのにも関わらず、疲れを全く感じさせない素早い動きだ。まだ余力を残していたとは。
「そ、そうか。ああ、萌。志水、のことだが彼は家の仕事があるとのことで先に帰ってしまった」
「?」
「これを飲んでくれと言われている。あと、用具は何時ものように片付けて欲しい、とのことだ」
萌に桶と柄杓を差し出すも、彼は首を傾げている。
振り子のように頭をゆっくり振りながら、仕事、仕事、仕事、と唇が動いている。
「——……〜……」
考え込まれてしまった。
「!」
かと思いきや、急にピコーンと閃く。反応が読めない。
「——!」
ぺこりぺこりと頭を下げ、私から桶と柄杓を受け取る。左手に持った木刀を地に置き、柄杓で桶の中の液体をすくい、口へ運ぶ……口へ運ぶ?
「待て、萌! それは——」
酒だ、と止めようとしたが、彼は実に旨そうに柄杓の中に汲み取った液体を飲み干した。ぷぱーっと。もう一杯飲む。
はてはて? もしや萌は大酒飲みなのだろうか?
待て。この国で飲酒が許可されるのは何歳からだったか……?
「——」
萌が私にも飲むようにと柄杓をずずぃと進めてきた。
「いや、しかし、」
「——!」
ずずずぃと進めてくる、ニコニコ笑いながら。断りづらい雰囲気だ。
彼の好意を無下にする訳にもいくまいか。それに志水から二人で仲良く中身を飲めと言われている。飲酒の罪を萌一人に押し付けるのは許されまい。まして——我ら聖コンスタンス騎士修道会の者として他者からの施しを無為にする非礼は許されざる行為ではないか?
面子、と言う言葉に拘りたくはないが、ここで引き下がっては剣の聖女の名に泥をぬってしまいかねない。
志水と国司殿の言葉もある。ここでどうリアクションするか、どんなリアクションを取れるかで私の日本国への文化理解度を計れるというものだ。面白い——この勝負、受けて立とうではないかッ!
「では、失礼して——」
萌から柄杓を受け取る。匂いなし、色なし、されど喉越し豊かな酒である。
チラッと萌を見ると、何やら期待に満ち満ちた表情で私をじぃーと見つめている。
いざっ!
意を決し、柄杓を傾け中身の液体を全て一気に飲み干す!
「……。水、ではないか」
水だ。水である。<強制視>をしていないが、百パーセント水だと断言できる。やや冷えており、稽古の後に飲めば格別の味がするだろう。間違っても酒ではないし、アルコールなど微塵も感じられない。
「おかしい……」
はて? 先程飲んだときは間違いなくアルコールの混ざった飲料だったが……?
そんな私を見て、萌は無言にて微笑む。
「むむ」
しまった。リアクションを間違えてしまったか。
「——!」
思わず渋い顔をしてしまった私を見て、萌が説明しようとしている。手をしゃかしゃかと動かし、口を大きく動かす。金属の擦れる音が微かに聞こえるが萌の声は聞き取れない。説明してくれているようだが——。
「!」
ぽんっと萌が手を叩いた。私の方にググッと顔を寄せてきたかと思うと、そぉ〜と両手を伸ばす。小さく震える彼の手が私の眼鏡のフレームの蝶番を掴もうとする。
チラリと、彼が頬を赤らめながら、やや上目遣いに私を見た。なるほど、確かに私の目で見れば彼が何を喋っているのかを見ることはできる。
「いい、のか?」
「——」
私の問いに彼は頷いた。
この目は見たいものを見るのではなく、見てしまう代物だ。人の過去や秘密、嘘——痕跡を視界内に捉えられれば可視化してしまう。質の悪い覗き見だ。
制御不可能ではない。彼の聞こえざる声のみを読み取るよう調整できれば……
両目を閉じ、自分から眼鏡を外す。胸ポケットに折り畳んで仕舞い、瞳の奥の痛みに備えながら、
「よし。大丈夫だ」
私の目の前に立つ彼を見据える。
——あの、僕の声、聞こえますか?
その声はとても綺麗な色で、思わず目の奥の痛みを忘れてしまうくらい、スッと、私の中へ染み渡ってきた。
「あ、……ああ。見えているぞ」
それに比べ、我ながら実に間抜けな返事だ。
——う〜ん。えーっと……。台形の面積の公式は何でしょう?
はて? いきなりの幾何学初歩の質問だ。
「? 上辺と下辺の長さを足したものに高さを掛け、二で割ればいい」
——わっ! 凄い! 本当に見えてるんですね!
何故だろう、ビックリされた。
「だからそう言っているだろうに」
——あう、ごめんなさい。でも、僕が喋っていることを分かる人って、リズさんで二人目だったから驚いちゃって。
「二人目?」
——はい。一番最初は僕に剣を教えてくれたお師匠様です。
「君の師か。私のような力を持っていたのか?」
——いえ。唇と顔の動きで僕の言うことぐらい全部分かっちゃうぞ、って言ってました。
読唇術か。言われてみれば……。
「確かに。君は思っていることが顔に出るタイプだ」
——えぇー!? やっぱりそうですかぁー!? はぅぅ〜……。
しゅ〜んと今度はしぼみだす。非常に豊かに表情が変化する。
「萌、君のリアクションは実に興味深い」
——えっ?
キョトンとした表情をするも、
——な、何ですかそれー! リズさん、僕のことからかってるんですかぁー!?
顔を真っ赤にして怒り出す。先程とは違う赤味が顔全体を覆っている。私が見える彼の声の色もそれに合わせてまるで少女のように変化している。
「いや、紛れもない私の本心だ。国司殿や志水からこの国におけるリアクションの在り方の理解不足を指摘されてな。君を見ていれば良い勉強になりそうだ」
——え、えっー!? いや、その……。あ、ありがとうございます? ……でいいのかな……。
この反応もまた実に味わい深い。そう、趣がある。
——それで、リズさんはどうしてここに?
「それなのだが、」
少々切り出し難い話題だ。
自然、萌の視線から逃れるように目を動かしてしまうと、地面に置かれている桶が見えた。
「そうだ、萌。その前に志水の件を伺いたい。その水は酒ではないのか?」
——はい、これ水ですよ。あ、飲みます? もう一杯どうぞ。
「む……あ、ああ。頂こう」
旨い。夏の日に飲むには絶好の冷たさだ。納得いかない旨さである。
——あー、リズさんもしかして志水君からお酒飲まされちゃいました? 僕も初めての時、凄いびっくりしちゃいました。
再度渋い顔をしてしまった私を見て、くすくすと萌が柔らかく微笑む。
「ああ……だが、これは水なのだろう?」
——今は水なんです。志水君の力なんですよ。水をお酒に還られるって言ってました。
彼の恩寵か。私の飲んだ酒が水に変わっているのだから、逆もまた然りか。彼は家の仕事を手伝うと言っていたな。<水質変化>、いや、<液体精錬>だろうか?
「ならば彼の家は酒屋なのか?」
——いえ、刀を鍛える時に冷やすお水を管理してるみたいです。でも志水君、何時か島を出て独り立ちして世界一のお酒を造ってやる〜って頑張ってるんですよ。
「実家の手伝いをしながら自らの鍛練をしているのか」
人は見かけによらぬもの、とこの国では言うそうだ。
「立派なものだ。我々も志水に負けておられぬな」
——うぅー〜、それはその……違うんですけど……うぅー、志水君のお節介屋ぁ〜……。
どうして頭を抱えるのだ、萌よ。鉢金の位置がずれてしまったのか? 蒸れたのか? 熱いのか?
——そうです、そう! リズさん、どうしてここに!?
なるほど、志水の家業や力のことはあまり話してはいけないのか。恩寵の話は萌にとっては快くないものであろうし、人の家業について他人である私があれこれと詮索するのも志水に失礼だ。
このようなさり気ない心配りも日本人の気質の一つであると聞く。ふーむむ……深い。
「実はだな……。君の剣を見せて貰えないかと思ってここに来た」
——……はぃ!?
何回目だろうか、ビックリされた。しかも毎回驚き方が違うではないか。ふむ、この萌の口の開き具合——絶妙である。
違う。感心している場合か、このバカ者め。
「昨晩の私の失態を繰り返さぬために、君の剣を拝見したい」
彼の目を見ながら、頭を下げ、
——え、え、えぇー!? あああ、頭を上げて下さい! 違いますよ! 昨日は、僕が悪いんですよ!
「違う。君の怪我は奴らの意図を読み取れなかった私の責任だ」
——そんなことないですよ! だってリズさん凄かったじゃないですか! 国司さんみたいにズババババーって! 僕なんかと全然違って! 僕がやられたのは、僕が弱かったからですよ!
彼の言葉の中に、揺るぎない意志が混ざっているのが見えた。いや、見えてしまった。だからだろうか、私は自分でも気付かぬ内に彼のことをもっと良く見ようと、恩寵の制御を弱めてしまっていた。
「萌、私には人が見えないものを見ることができる。故に、戦場において私が果たさねばならない役割は戦士ではない、偵察、観察だ。奴らの真の狙いが後衛にいた君と日鉢殿だと見抜けなかったのは私のミスだ」
環境への異常な適応力は怪異の力の一つだ。あの晩の変異をおかしいと気付くべきだった。対岸から放つ日鉢殿への弓撃への抑止力を奴らは発現させなかった。一匹残らず接近戦へ特化し、遠距離戦を決して挑んではこなかった。
結界が張られており、対岸へ行くには橋を通るしかないとしたら、最大の障壁はその橋の通行を押しとどめる蓋だ——そう考えてしまった。現に奴らが近接戦闘に特化するような変異を見せたのが勘違いを加速させた。
そうして奴らは引きながら戦い、私達は橋から遠ざけるため押し返そうとする、そこで隙間が生まれてしまう。私と国司殿の前衛と、萌と日鉢殿の後衛との間にだ。
こちらの意識を前線に集中させ、前衛後衛間に隙間を生じさせ、隠密接近、そして突破を計る——それが奴らの狙いだった。
私は見なければいけなかった。そこに存在すれば、見える。存在しなければ見えないが、あるものが見えなかったのは私が未熟だったからに他ならない。
しばし、私と萌で無言の睨み合いが続いた。
沈黙を破ったのは、萌の笑みだった。
——くすっ。なら、僕もリズさんもお互い悪かったってことで、おあいこですね。
分かってしまった、私には。彼が嘘をついていることを。他でもない、私だけが持つ特別な力で。
——あっ、でもリズさんは僕を助けれくれたじゃないですか? だからリズさんはプラスとマイナスでチャラですよ、きっと。ふふ。
彼が私に向ける言葉には嘘はない。私は分かってはいけなかったのだ。彼の優しさを。
彼は、私が上手く納得するような理論を並べ立てる。
彼の優しさと私の弱さが痛い。彼は疑っていない、全ての責は自分にあるのだと。それは私がどうにかできるほど柔な意志ではないのだ。
私は、腹が立った。何よりも自分自身に。彼に余計な気遣いをさせてしまった自分に。一瞬でも彼の言葉に頷こうとした自分に。
そして、彼の決意に。まるで呼吸をするかのように自然に流れ出た彼の言葉に。そんな強さを息をのんで見守ってしまった私自分に苛立った、
——あの〜、それで、僕の剣を見たいっていうのは……?
何よりも——何処か、心の何処かで彼のことを、見下していた自分に。
反吐が、出そうだ。
「あ、ああ……。その……」
——はい、何です?
ともすれば、謝罪の言葉を口にしてしまいそうなこの身を奮い立たせる。彼にこれ以上、
「君の、剣術を見せて貰えないだろうか?」
ダメだ、この目を潰してしまいたい。
「い、い、いや、無理な、た頼みだというのは十分承知している、のだが」
彼は気付いている、私の変化に。私の苦しみに。
「君の剣術を知っていれば、その、だ、な」
それを責めていない。意見を押し付ける訳でもなく、怒鳴りつけもしない。ただ彼はそれでいて、何時もと同じように接しようとしている。
だが、彼の眼差しに含まれる暖かさが私には見えてしまう。どこか、迷い子のように泣きそうになっている私を、ただ優しく手を差し伸べ、背中をさすろうとしている彼の姿を。
「今夜や、今後の夜間警邏の際に、必ずや助けになるのではないかと思ってな」
私は自分自身が、この上もなく恥ずかしい。理由も分からない。どうしようもない後悔と懺悔の念が私の胸の中にグルグルと渦を巻く。
「いや、その、だな」
すまない、と、思わず口から出そうな言葉を押しとどめる。
学園での彼とのやり取りを思い出す。頭を下げ続ける彼の姿、私への感謝の心を表し続ける彼を。そんな彼を、私はどう見ていたのか。
「つまり私が言いたいことは、だな。君の剣を良く知っていればより的確に戦況を見渡せるはずなんだ。いや、私などより国司殿達の方が経験を積んでいるし、ヒトガタのことを良くご存知だ、その通りなのだ」
己の内心の醜さを見せまいと、口が空回りを続ける。
「しかしだな、私は見ることができる。もとより、騎士修道会での従士としての私の役割は、観察し、分析し、報告することだ。場所と敵が違えども、培ってきた経験は応用できるは——ず……?」
私の空虚な言葉をよそに、私の瞳を見ていた彼の視線が宙に泳ぐ。
それを追って私も空を見てみたが、特に何も変わったところは見当たらない。
——あっ、ごめんなさい、リズさん。急な話だからビックリしちゃって。剣術を見るって、見学ってことですよね? 見学かぁ……うぅ〜んと……と。
「見学の希望だが、無理にとは」
——ええと……良い、と思うんですけど、僕だけで決めちゃっていいのかな? 同好会の活動だから志水君と話し合わないといけないような——あっ、でも志水君は真鋭流をやってる訳じゃないから……うーんと〜……。
「……」
——お師匠様は隠すものでもひけらかすものでもない、って言ってたから問題ないはずだけど……でも同好会としてやってるんだし……。あっ、志水君、適当に好き勝手やってくれって言ってし。なら後で話せば、でも今すぐの方が……って、あー! ダメダメ! 今話にいったら絶対冷やかされちゃう。それに何処にいるんだろ? 家にはいないだろうから、鍛冶屋通りの方だよね? うー〜……遠いなぁ〜……探してたら夕方過ぎちゃうだろうし……。
「……?」
——そうだよ! リズさん、忙しいんだから待たせちゃ失礼じゃんか!
私の葛藤などお構いなしのようだ。彼は頭を抱えたかと思えば、顎に手を当てたり、手をポンと叩いたりと、次に何をするのかが読めない。その間にも表情がコロコロとめまぐるしく変化する。私がこれまで知る中で一番の大変化だ。
——あの、見学、大丈夫ですよ。その、僕の稽古って凄い単調だと思いますけど、良かったらどうぞ。あ、あの、帰りたくなったら何時でもどうぞ。そ、その、一声掛けなくても大丈夫ですから。
口速にそう言い、彼は一礼した。私の返答を待たずにそそくさと木の棒を携えて、台から離れたところへ走っていった。
……。何やら胸の中に釈然としないものが残るが、ここは彼の優しさを受け取っておくのが礼儀だろう。
——ふぅ〜……。
全身で息を吐いた彼が、木剣を正面に構え両膝を曲げる先ほどの礼をする。先程の礼が稽古の終わりの合図で、今のが開始のそれか。
萌が右足を一歩前へと踏み出し、左膝を折る。自然と体が低くなる。木刀を握る右手を真っ直ぐ垂直に上げ、左手を柄に添える。
これが萌の『しんえい』流の構えなのか。先程は動き続けていたのでしっかりと見ることができなかったが、思っていたよりも体の重心が低い。両手の構え方は先程と同様だが、左足の折り方が深い。
改めて思う、やはり変わった構え方だ。攻撃一辺倒と言うか、相手からの攻撃への防御や、相手を崩すための変化が乏しいように見受けられる。どうしようか、ここは一つもっと良く見てみるべき……
——キィィィィィィィィィィィィエエエエェェーーーーーーッィィィィィ!!
彼の奇声が、全てをぶち壊した。
狂ったような金切り声をあげ、全速力で台に駆け寄ると、勢いをそのままに木刀を叩き付ける! 一度だけ、いや、一度で十分な程に気迫のこもった打ち込みだった。
呆気にとられた私を尻目に、彼は最初の場所へと駆け戻り、再び上空へと木刀を掲げると、
——キィィィイイェェエェェーーッ!!
先程と同様に萌が一直線に走り、打つ。今度は三度、右、左、右と間を入れずに打ち続ける。
そして最初の位置に駆け戻り、構え、狂声を上げながら、走り、打つ。
打つ回数はまちまちだ。一回だけの時もあれば、三回の時も五回の時もある。
聞こえてくる打音は途切れなく、それだけなら小気味よい。
続けざまに打つ様子は、ここに来た時に見たものと同じだ。違うのは、最後の踏み込みの一歩と同調するように初撃を放っているところだ。右足か左足で大きく踏み込みながら、逆の足を大きく曲げて、腰を落とす。踏み込みが完了すると同時に、体の落としと木刀の振り下ろしが終わる。体全体と運剣を同調させる鮮やかな動きは、日本剣術の特徴の一つだ。
だが、この声は一体なんなのだ? 私の<目>には木刀が置き木にぶつかる音よりも、遥かに大きく、鋭く、強く、高く、何よりも寒気を感じさせる彼の叫び声が<見える>。学園での彼からは想像もできない。
奇妙にも見える。滑稽にすら見えるかも知れない。この気がふれたような声は何なのかと。こんなにも不格好で、異様で、みすぼらしくて、それなのに『敵を斬る』と言うただ一点にだけある種狂ったように特化させた剣など私は見たことも聞いたこともない。
敵を斬る、それだけしか考えていない、そうとしか思えない。萌の目線は置かれた木には一度も止まっていない。そこに立っている敵を睨みつけるように視線は真っ直ぐ前を向いている。彼の走り込みも同じだ。そこにいる敵を捉えるために、一直線に全速力で進んでいる。躊躇いも戸惑いもない。
『斬りかかる』、ただそれだけだ。彼が単調だと言ったのもあながち嘘ではない。
彼の打ち込みが速度と威力を重視していると感じたが、この斬りかかりもそうだ。素早く斬るために最短距離である直線を全速力で駆ける。速く斬るために木刀を上空に掲げたままにする。最後の踏み込みの一歩と斬りおろしを同調させることで、前方への推力をそのまま木刀にのせている。速度と威力を両立させると言う理屈から考えれば納得がいく。
刀を立てながら走るのは長時間になると体力がいりそうだが……。それよりもこの掛声は一体?
——ィィィィィィイイイイイイイィィィエエエエエェェェーーッ!!
斬りかかる敵を威圧するような掛け声だ。いや、叫び声のほうが正しいか。私が彼の声を<見て>いるから余計に感じるのかもしれない。水中に生きる巨大なクジラの中には自らの鳴き声で獲物を痺れさせる種もいると聞く。
単調、か。確かに。だが、ここまで何度も反復すれば体が覚えてしまうだろう。
型稽古と言うものがある。相手の動きを想定し剣を振るう稽古だ。一人でする場合も、相手役がいる場合もある。こちらがこう動けば相手はこう動き、それに対応するにはこちらがこう動き——と繰り返す。
戦場に定型など無い。敵がこちらの思うように動くはずもない。故に型稽古など不要である、と言う意見もある。
これには諸説多種多様の意見がある。私の師は、型稽古とは一人で学ぶ時に剣の技を骨に覚えさせる稽古だ、と言っていた。実際に骨が技を覚えるはずもないのだが、思考ではなく反射で剣を振るえるようになるまで稽古をすべし、とのことだ。こう来たらこう返すと考え思考して動くのではなく、こう来たと分かった瞬間に体が自然と反応する、それが型稽古の目的なのだと。
言うなれば鉄の容器で水を沸騰させた時、容器に触れば熱いと感じた瞬間に指を離しているのと同じだ。その反射を運剣として体にしみ込ませる反復作業が型稽古なのだ。もっとも、これは私の師の教えだ。他流には他流の考えがある。欧州圏でもこの国でも剣を用いた型稽古は多くある。昨日学園の部活動を見学した際にも多くの者が型稽古をしていた。
型の意味するところはその流派の運剣の思想や特徴を多くはらんでいる。攻撃の受け方、かわし方、外し方、足運びから体捌きまで、その流派の基礎となる信念・思想が表れる。
型を完璧に身に擦り込ませることで、その流派が目指す剣士の体へと近づくのだ。見学したぐらいで分かるものでもないし、簡単に教わることができるはずもない。
彼の叫び声が静かな境内を壊す。
眼鏡をつけたままでは決して気づけなかっただろう。
境内に入る前にも打音は聞こえていた。それ自体も彼の稽古の凄まじさと、彼の勤勉さを表すもので驚嘆に値すべきものだ。
不格好、奇怪にすら映る彼の剣術は私の住む欧州圏では決して見られまい。私達の欧州圏は、諸派存在すれども、主の教えを信じていると言う一点で団結・統一している。
その教え自体が正しいか間違っているか、それは重要な点ではない。重要なのは、その教えが正しいと信じている者達により社会基盤が構成されていることだ。
社会は異物を嫌う。ましてや神は唯一絶対であるとする教えを基に成り立つならば尚更だ。信仰・神話を基にする教会や聖堂と言った建築物、教育体系、政治、経済——欧州諸国連合と呼ばれるのも同じ常識を持ち、それを脅かそうとする脅威に対して国境の垣根を越えて団結できるからだ。
剣を持つのは主の敵を倒すため、討つは主の敵、護るは主の羊達——現実としてどうかは置くとして、それが我々欧州人の根底にあるお題目だ。
それを信ずるか、否定するか、受け入れるか、拒絶するかは個々人の判断だが、そう信じている者が多いことは事実だ。
旧時代の超科学でも再現不可能な恩寵と言う、主からの贈り物としか思えない力を人が手に入れたことも、信仰が持つ意味を増す要因になっている。
私は比較的穏健派とされる『剣の聖女』の修道院で学べたことは幸運だった。極端に排他的な『恩寵主義派』や、教義に反する存在への抹殺を至上任務とする『異端審問局』の監督下で学んでいたらこの国に来ることもなかっただろう。
もし、萌の剣が欧州圏にあったとしたら、どのような形になるのだろうか? いや、前提から間違っている。彼のような剣は決して存在しないだろう。
——キィィィェェェェィィーーッ!!
背筋が寒くなるこの気迫、剣を持つ者の一人として驚嘆する他ない。だが、欧州圏でこのような掛け声で剣を振っていたら、間違えなく悪魔憑きか異端者として通報され、即時排除されるに違いない。
掛け声が違っていても、立場や面子を重んじる一部の——いや大多数の騎士達からは賞賛よりも嘲笑をあびることになるだろう。奇人の剣、華や礼など微塵も見られない獣の剣だと。
私達の剣は主への信仰を基盤としているためどうしても美しく、華やかにと、外見も考慮していることは否めない。主に逆らう悪しき輩を斬る。我々は光に包まれた正義であり、我らの刃は神聖なる裁きの槌である。いずれは大聖堂の壁画に掲げられて後世に永遠と語り継がれ、迷える子達を導く輝かしい道しるべとなるべきなのだ。そう本気で信じ、稽古に励む者は大勢いる。
そんな彼らが萌の剣を見ればどうだろうか? 認める訳もない。下半身と上半身のアンバランスさ、ただ斬ることだけを突き詰めた運剣法、せいぜい狂人の剣と吐き捨てられるのが関の山だろう。
ところが、私は、名よりも実を臆面もなく求めるこの剣術に、何処か魅せられていた。このような『激しい』剣術を、彼のような——と言ってもまだ知り合って二日目ではあるが——『柔らかい』人物が修練するアンバランスさに危うさも感じられるのだが、なるほどと納得できる一面もある。
私が分析を続けている間も、彼は私のことなど気にもしない様子で稽古を続ける。構え、叫び、走り、打ち、走って戻っては、構え、撃つ。
疑問が次々とわいては、消える。
もし、私が立ち合ったとしたら? 『目』を使い、彼の木刀が形作る『攻撃線』を読み取るべきか、それとも眼鏡をかけて『目』を使わずに戦うべきだろうか?
彼の剣筋をじっと<見る>。その動きを、体全体を、観察する。
読む必要は無い……はずだ。ただ走り、そして斬る。全ての手を彼が見せてくれているとは限らないが……。簡易である。故に破り辛い。
だが、大が小に常に勝る訳ではない。小が大に勝つために編み出されたのが技であり、術なのだから。
もし、私が彼と立ち会うのならば——初めの斬りかかりの一撃、初撃をどうにかして外すしか他ない。
防ぐことは難しい。私だけが<氷の貴婦人>で、彼がただの木刀と言うのもおかしな話だ。同じ
初撃を外せれば——勝機はある……ように思う。振り下ろし終わった後、変化や工夫は見られない。外されれば彼はどうするか? 決まっている。体勢を立て直しながら振り上げ、もう一度振り下ろし、仕留めに来るはずだ。その間の隙をつくことができれば、私が勝つ、できなければ斬られる。『斬り』と言う一動作に専心するあまり、そこまでの変化、そこからの変化が乏しいように見える。そこを攻めれば——
ごくり、と、自分でも知らぬ内に唾を飲み込んでいた。
外せるのか、あの攻撃を。横で見ているだけでこの迫力だ。真正面から顔を合わせて対峙したとすれば——……。
まだ疑問はある。
もし、敵がスピアや長巻などの長柄武器、こちらよりもリーチの長い武器を持っていたとしたら? 直線に走るだけでは相手に容易に迎撃される。こちらへ真っ直ぐに槍を構えられていたとしたら? 自分から突き刺ささりに行く道理はないはずだ。この剣がどう変化するのか?
次々と問いが浮かぶ。昨晩のように大勢を相手にするときはどうなるのか? 彼を援護するにはどうすればよいか? この前への推力を活かすにはどうすればよいか?
思考する。『目』はそのままに、ただ考える。思考の歯車を回し続ける。休むことなく、遅れることも早まることもない、情報と言う数えきれない歯車をただ回し続けることだけに専念する。情報と情報を組み合わせ、新しい情報を得る。それをまた組み合わせ、歯車を回す。平面的に、立体的に、歯と歯をしっかりと噛み合わせる。
何時までそうしていただろうか?
私は時が経つのも忘れていた。ただ見て、そして考える。情報を組み合わせ、考察し、新たな情報を確定、または推測する。私の意思や願望を挟む隙間は無い。主観を捨て、できうる限り全てを客観視する。
私と言う個人が情報を処理しているため、完璧に客観視することは難しい。己の中に、唯一絶対な判断基準を持っていれば別なのだが——。いや、主を信仰する者の一人として本来ならばそうあらねばならないのだが、私が追うべき責務から逃れているようで嫌なのだ。言い訳、なのかも知れない。
萌が稽古を止め、置き木に一礼をしてから木刀を左手に納めた。
激しい稽古を続けていたせいか、肩で息を吐き、体から力が抜けてぐにゃーっとなっている。
「ありがとう、萌。実に有意義な時間を過ごさせ——……む、どうしたのだ?」
私が声を掛けると、彼はキャーと文字通り黄色い声を上げてシバババっと後ろに飛び退いた。ぷるぷると小刻みに震えながら、顔を真っ赤にしながら私のことを信じられないものを見たかのような表情で見つめている。
「もしや君は、剣を持つと人格が変わるのか?」
——ちちち、違います違います、違います!
「それとも私はそんなに怖いか?」
——ちち、違います! 違いますよ! リズさんは凄い可愛い、って、何言わせるんですかぁー!
怒られてしまった。
——ふ〜ー。すいません、驚いちゃって。リズさんてっきりもう帰っちゃってるかと思って。
「そうか。驚かせてしまいすまない。素晴らしい稽古を見せて貰った。礼を言おう。ありがとう」
——え? あ、あの……。ど、どういたしまして……?
「我が身が引き締まる思いがした。実に見事な剣術だ」
——あぅぅ、恐縮です……。
体が何処かむずかゆい。彼の気迫に当てられたせいか、私も剣を持って体を動かさなければ収まりそうにない。
「一つ、聞いてもいいだろうか?」
——え、はい。何ですか?
剣術、特に古式(古流とも)と呼ばれる剣術には、その剣術が目指す思想を基に成り立っている。
私の場合を例にしよう。私は剣の師から古式剣術を教わった。『途切れることない連撃で敵を崩し仕留める』と言う思想の基に、全ての動作が攻撃を意識した剣術だ。
受ける時もかわす時も常に切り返しの一撃を考え、こちらから攻める際には三種類の攻撃手を考え、三手先を読むと言う専攻の剣術だ。これを基に師は自分の恩寵を用いた剣を考え、私も自分の『目』を使った剣術をどうにか編み出した。
日本の剣術をこの地で勉強し始めて二日目の私が言うのもおかしいが、剣術の思想と言う点ではこの国は深い。旧史より脈々と受け継がれてきていると言うのもあるが、歴史が途切れていないと言う点が大きい。
我々欧州圏では、いやこの国以外の国と言うべきかも知れないが、一度剣の歴史が途切れている。
これは『
逆に、この期間、三百年もの長い平和が訪れたこの国では剣術が発達した。『平時にこそ剣術が発達する』と日本のさるご高名な剣士が仰ったとされるが、その通りだと思う。争いの無い時があるからこそ、戦の中で培われた技が体系化され整理される。
その意味では私達が今まさに生きている時代は剣術に適しているのかも知れない。<赤き馬に乗った騎士>の討伐後、欧州圏では国家間の大きな争いは起きていないし、この国が戦火に巻き込まれたのは昔のことだ。
国境近くでのいざこざは依然としてあるし、何よりも怪異共がこの星の大部分を支配している中で平和と言う言葉はおかしいのかも知れないが。
「萌、君の剣術は、何を目指しているのだろうか?」
わざと曖昧な問いを彼に投げかける。
——目指すもの、ですか? う〜ーん……。
聞きたいことは正直山のようにある。全部聞いていたら朝になってしまう。ならば一つだけ聞いてみよう。一つだけしか聞けないのなら、やはり彼の古式剣術の根幹となる思想を聞いてみたい。その思想を基に彼の全ての剣は成り立っているはずなのだから。
——うー〜とー〜、難しいなぁ……。目指すもの、目指すもの……。うーん〜……。
そしてゆっくりと口を開いた。
——あの、その、僕の考える目指すもの、でもいいですか?
「ああ、是非聞かせてくれ」
さて、一体どのような答えが聞けるのか……!
——そ、その、僕、半人前未満ですし、あくまで、ですよ、あくまで僕個人の意見なんですけど……?
「ああ。頼む」
斬撃を主体においた剣術、即ち実戦派だ。
命をやり取りする場で相手を突く行為は存外に難しい。命を失う恐怖が理性を吹き飛ばし、武器をただ振り回してしまうからだ。逆に言えば、こちらを突いてくる敵はそれだけ場数を踏んでいると言える。
彼の剣は、激しい斬りと走りから察するに戦場での斬り合いに重きを置いたものと推測する。斬る行為はそんな理不尽な空間で自分の生命を保つのに適している。
気味が悪い程の合理的で不思議なあの構えから名よりも実を求めている。血肉、怒号飛び交う戦場では頼れるものは己の武器と戦友しかいない。
あの声もそうだ。奇声、狂声と言えるが、戦場の狂気を日常のものとしようとする狙いもあるのかも知れない。
構えの不格好さ、発声、変化の無い斬撃——これらを組み合わせれば答えは自ずと察することができる。実戦派、それが私の推察だが果たして、彼は何と答えてくれるのだろうか?
私と彼の視線が静かにぶつかり合う。
——ええと、その、ですね、
一瞬の間があり、
——それは、自分を好きになることです。
「…………——は?」
思わず、どうしようもなく間の抜けた声が口から出た。
目をつむり、右手を広げ両のこめかみを押さえる。指で強く押し、痛みで意識を覚醒させる。
目の奥がちりちりと熱くなっているが、大丈夫だ。負荷はあるが<見えて>いる。
ぐ、ぐ、ぐっ、と三度こめかみを押さえつける。
目を開けると、何処か楽しげで、何故か晴れやかな彼の笑顔が飛び込んできた。
「萌よ」
——はい、何ですか?
「その、だな。私には、君が『自分を好きになること』と答えてくれたように見えたのだが……?」
——はい、そうですよ。
「……。つまり、自分を好きになること、が君の剣術の目指すところなのか?」
——はい、そうです。
困惑する私に、彼が愛嬌のある微笑みを見せる。どこかいたずらっぽい。
眉をひそめてしまうのは失礼だと理解してはいるのだが、眉間にしわが寄ってしまう。
はて……? 彼が冗談や嘘を言っているようには見えない。あの剣撃が何故自己愛に繋がると言うのだろうか? 皆目検討もつかない。
「なるほど……。ありがとう、分かった」
——えっ!? ええー!? わ、分かっちゃったんですか!?
「ああ。『私には分からない』ことを理解した。問題無い、大丈夫だ」
——え、え〜ーと……。リズさん……?
「剣の運法、体捌き、とても参考になった。どちらも私の知る剣術には初めてのものだ」
改めて彼に礼を言う。萌が頭にハテナマークを浮かべているのが少々気掛かりだが、剣の極意はそう容易く分かるものではないし、流派外の私においそれと教えられるものでもない。彼を質問攻めにして答えを強要するのは私やシャルロッテを受け入れてくれた人達に無礼だろう。
「萌、今夜の集合時間と場所についてだが、行けるか?」
——はい、行けます。
あれ程の稽古をこなした剣士に対しこれは愚問だったか。
「よし、今夜は——……」
彼に今夜の警備の集合場所と時間を確認し、一先ずの別れを言う。警備が始まるまでまだ時間がある。彼の剣気にあてられたせいか、剣を振って汗を流さなければ収まりがつきそうにない。型を一から順になぞってみよう。
「それではまた今夜、宜しく頼む」
——はい。僕の方こそお願いします。
「ああ」
彼に深く一礼する。新たな決意を胸に、踵を返し歩き出す。
騒がしかった境内が嘘のように、私が歩く音が聞こえる。いや、見える。私の足音が、静かに空へ広がっていくのが。
眼鏡を外していた。けれど、そのことに違和感を抱かない自分がいた。
何処か調子がおかしい。しかし、その感覚すら心地よい。
視線をあげると、何時の間にか遠くの山々の谷間に日が沈もうとしていた。空が赤い。あと数刻で空は闇に包まれる。その時は——昨晩のような失態はおかすまい。
——リズさーぁん!
私の後ろから、彼の呼びかける声が<見えた>。その声は爽やかな風のように、私を追い抜けた。振り返る、彼の方へと。
彼は、手を振っていた。小さく、可愛らしく。頬を赤らめた、はにかんだ笑顔だ。
どうにも分からない。彼と言う人が。まるで少女のような仕草で、稲妻のような激しい剣を振るう。それなのに、いやだからと言うべきか、中性的である。
昨日、警備が始まる前の私なら、気合いが足りないと言ってしまったかも知れない。
彼に対し、頭を下げようとしてふと気づく、礼には礼を、手を振られたのなら振り返すべきではなかろうかと。
手を振り替えそうとすると、彼がニッコリと微笑むのが見えた。
私はポケットにしまってあった眼鏡をかける。こうするのが自然なように思えた。
彼に答え、右手を振る。うむ、我ながら非常にぎこちない。
そんな私を見てか彼が柔らかく微笑む。
夕焼けの中、遠い異国の地の神殿で、私は一人の剣士と、ただ笑いながら手を振り合った。
剣を持つ訳でもなく、言葉を交わす訳でもない。手の届かない、遠いようで近くの距離で。
心地良い時が、沈み行く太陽に照らされて、宝石のように輝いていた。
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