蒼緋双刃 -untalented vandalizer-

@hR2

プロローグ

ある冬の日

 それは、恐ろしくも幻想的な光景だった。

 満月の明りが夜の町に降り積もる雪を微かに照らす中、飲み込まれそうな夜の黒と、微かに輝く雪の白、そして凍てつくような空気が一枚の窓ガラスを隔てた先にあった。それがいつもの光景、この教会の屋根裏部屋から見れるいつもの雪の夜だった。けど、その日見えたものは違っていた。

 その夜、雪で覆われた町並みは月明かりを反射してキラキラとまばゆい光を見せてはくれなかった。窓から見えたのは、黒、黒、黒——満月の光や白い雪の色を霞ませる黒だった。ただ黒く、教会の窓の外の世界は塗り潰されていた。

 その黒の正体は、我々人類の敵、『怪異』と呼ばれる獣達、私達人間と決して相容れることができない化物達だ。

 私の住んでいた山の近くでは怪異は狼の姿をして、<黒い大狼シュバルツ ダイアヴォルフ>と呼ばれていた。その怪異達が隙間なく、びっしりと町を覆い尽くしていた。

 一面の黒から何千もの瞳が教会の中にいる私達を喰わんと血走った光を放ち、私達が立てこもる教会の扉へと注がれていた。この教会の<神聖城塞>を聖歌と祈りで増幅させていたけれど、無限に襲いかかってくる狼達の牙の前では数分も持たずにズタズタに引き裂かれ、中にいる村の皆(もちろん私も含めて)はたちまち奴らの胃袋の中に収まってしまっただろう。胃袋なんて持っていればの話だけれど。

 けれど——

 一条の閃光が走り、闇の塊を真っ二つに切り裂いた。獣達が最後の叫び声を上げるよりも早く、三人の『騎士』達が閃光により開けた道を駆け抜けた。

 その両手にある刃から幾筋もの銀光が煌めいた。霧状の黒い血が辺り一面に飛び散り、斬られた獣達を本来あるべき虚無の世界へと戻した。

 獣達は死んだ仲間のために泣くことも怒ることもない、ただ『人間を喰い殺す』と言う単純かつ凶暴な本能に従い『騎士』達へと踊りかかった。獣達はまるで巨人の手のような黒の塊となり、飛び込んできた三人と、後方にいる四人の『騎士』達をいっぺんに握り潰そうとした。

 刹那、暴風にも似た剣風が吹き荒れ、広場の闇が吹き飛ばされた。

 辺り一面に広がった闇が消え去り、月明かりを浴びながら異国の『騎士』達が七人、私達のいる教会前の広場に立っていた。

 自身の体格と不釣り合いなショートスピアを右手にぶら下げた大柄な戦士、

 反りのある片刃のロングソードを二本、双手に携えた精悍な剣士、

 質素な穂先のグレイブを下段に構えた黒髪の闘士、

 上部が大きく膨らんだ上下非対称のロングボウに矢をつがえた射手、

 穂先が十字架型の紫色のスピアを縦に構え、大きな角の付いた兜を被る槍兵、

 片刃のショートソードを逆手持ちし、黒刃のダガーを投擲せんとする斥候兵、

 反りのある長大なロングソードを鈴のついた鞘に収めたまま、体術のみで敵を圧倒する不思議な剣士——

 七人の『騎士』達は、それぞれ細部に差異はあるものの、薄板片レームを何枚も重ねた黒い薄板片鎧ラメラーアーマーのような防具を身につけ、その上から鮮やかな赤い丸が描かれた白い外套サーコートを着ていた。

 鎧の黒さは、光を吸い取るような獣達の不気味な黒と違い、まるで騎士達の気高さを表すかのような漆黒だ。外套に印された大きな赤丸には、騎士達の戦いへの決意が描かれているような美しさがあった。

 そして何より、教会の前に立ち、刃を持って怪異と対峙する気高さはまるで、詩人が歌い紡ぐ英雄のそれだった。

 私のいる教会の屋根裏部屋には、階下の礼拝堂にいる皆の必死な聖歌が聞こえてきたはずだった。でも、私の耳は、目の前で繰り広げられている光景の前に本来の役割を果たせないでいた。

 圧倒的な数の差だった。七人対無限、限りなく無限に近い獣の群れなのだから。

 にもかかわらず『騎士』達は、<黒き大狼>の群れを完全に圧倒していた。

 その日、奴らは日没前にやってきた。

 山奥にある寂しい私達の村は<黒き大狼>の群れにしばしば襲撃されていた。

 村ではいたずらっ子をたしなめるためにこう言って脅かしたものだった——『そんなに騒いでると狼達が山から下りてきて食べられちゃうぞ』——って。

 私達の村を囲む山々を根城とする大狼達は日が沈まないと決して現れなかった。たった一日、この日だけを除いては。

 黒い体躯を日の光に焼かれながら、腐った肉の焼けるような匂いと煙を辺りに撒き散らしながら、今まで見たこともないぐらいに大勢で、まるで黒い雪崩のように襲いかかってきた。

 瞬時に村は完全なパニックに包まれた。

 教会に駆け込む人、我が子を腕に抱いてうずくまる人、嘘だ嘘だとうわ言のように繰り返し唖然と立ち尽くす人、教会に行くのは間に合わないと判断して無駄だと分かっていても家に立てこもることを選んだ人——。

 村の若いお兄さん達は南で始まる戦争とやらに連れていかれてたため、私達には戦うと言う選択肢は無かった。

 誰もが絶望に包まれ、救いを求め祈りを捧げ、私の大切な人だけはどうか助かりますようにと願うしかなかったその時——『騎士』達がやってきたのだ。

 彼らは<黒き大狼>の群れをまるで紙を切り裂くかのようにいとも簡単に蹴散らし、逃げ後れた人達を教会へと送り届けた上で、村の皆が全員教会の中にいるのを二度も確認した上で、教会の中に避難するのではなく、私達に扉を閉めて祈りの唱和による<神聖城塞>を促し、外から扉を閉ざした。

 日が落ちた暗闇の中、たった七人で村を覆い尽くす無数の<黒き大狼>の群れと戦うことを選んだのだ。

 私はその光景をずっと見ていた。

『騎士』達は手に持った武器を、ある時は華麗な舞を踊るかのように滑らかに扱い、またある時は怒れる雄牛のように荒々しく振るい、月明かりで照らされた幾条もの銀閃の軌跡だけを残して獣を倒していった。

 お互いに背中を合わせ、水車のように回転しながら辺りの獣達を一掃したかと思えば、バラバラに散らばり、金槌で打ち込まれる杭のように奥深くまで群れに切り込んでいった。

 満月のように引き絞られた弓からは目もくらむような白光が矢となって発射されて獣達を切り裂き、槍兵の操る十字の穂先から発せられた真紫の雷電は奴らを一瞬にして塵へと変えた。

 獣達の黒で染まっていた教会前の広場が、時間が経つにつれ、段々と雪の白が見えるようになっていった。

 すごい——。

 幼かった私はただただその光景に見惚れていた。

 今ならば分かる、兵士としての戦闘技術、生まれ持った<恩寵>、怪異を倒す武具の練成度、これら三つの要素全てが芸術の域にまで高められていたからなのだと。

 戦場の様相は完全に逆転し、狩るものと狩られるものの立場が逆になっていた。

 しかし、獣達は止まらなかった。その本能に刻まれた唯一つのシンプルな命令を実行し続けた。例えそれがどんなに無駄な行動か理解していたとしても。


 その時——突如として月明かりが消え、完全な闇が周囲を支配した。


 生物としての本能が、魂までも凍り付くような圧倒的な存在の出現を告げた。

 が私の目に入ってきた途端、体が震え出し、歯がカタカタと鳴り始め、いやな汗が背筋をつぅーっと流れ落ちた。

 私の目の前、屋根裏部屋の窓の先、広場を挟んだ向かいの先にある村長さん家の屋根の上に、はいた。

 <黒き大狼>よりも何十倍も大きい山のような体躯で、たてがみの一つ一つが両手大剣ツヴァイハンダーのように長大で鋭かった。全身は絶望を表すかのような光を吸い取る底無しの黒で、こちらを睨む両眼は喰い散らかした人間の血のような禍々しい紅色だった。醜く歪み並んだ牙は闇の色で、見ているだけなのに吐き気が催された。

 この獣こそ、アルペンの白い山々を黒く染め上げる元凶にして、<黒い大狼>達を生み続けるもの、<原初の十種>の一つ、<三ツ首の狂犬ケルベロス>より生み出されし忌々しき人類の敵——空間そらを駆ける狂狼、<黒禍の祖狼ダイアヴォルフ フォン シュヴァルツェン ユーグリック>だった。

 各国が派遣した幾つもの軍隊や騎士団を壊滅させ、数えきれない人間を喰い殺した狂獣——その姿を一目でも見た者は決して忘れることはできないだろう。その狂気! 悪意! 全身から発せられる威圧感! その全てが『オマエを喰らってやる』——そう告げていたのだから。

 怖い、怖い、怖い!

 呼吸ができなくなり、胸が急に苦しくなった。いや、苦しいと言うのは正しくはなかった、ただ怖い!

 恐怖が私の感覚、全神経を支配した。体の震え、胸の動悸、全てが私の目に映る、一匹の獣が原因だった。

 何にも増して雄弁に私へと訴えかけた——その圧倒的な存在感が! この体の震えが! 私は、今日、ここで、に喰われてしまうのだと! 神様がきっと助けてくれるなんてはもうどうでもいい! だって神様がいるかいないか、助けてくれるかどうかなんて、こいつの前じゃ全然関係ない!



 恐怖に捕われた私が何も考えることができなくなった時、

 綺麗な鈴の音が聞こえた。



 昨夜の戦闘が嘘のように、翌日は雲一つ無い良く晴れた日だった。

 教会から離れたところ、村長さんの家の前にその人はいた。

 あの夜と同じだった。剣を鞘に納めたまま、ただ自然体で立っていた。

 その鞘についている綺麗な金色の鈴が微かな風に揺られていたけど、不思議と音色は聞こえなかった。

 ようやく見つけたその人へ、雪を踏みしめ走りながら、精一杯の大声で呼びかけた。

「んぁ? おおぅ、どした嬢ちゃん?」

 私の声に気付いてくれて、その人がゆっくりと振り向いた。

 息を切らしながら、その人の前に駆けつけると、私の口が直ぐに動き出した。伝えたいこと、伝えなきゃいけないことが多過ぎて、勝手に口から溢れ出し、完全に空回りしていた。

 自分でも何を喋ったのか本当に全く記憶に無い。

「おぅ? おぉぅ? ……ダメだ、さっぱり分からん……。独逸ドイツ語できるの大将だけなんだよなぁ……」

 私は身振り手振りで伝えようとした。感謝を。感激を。私が初めて見たあの光景のことを。

 そして何より、どうしても聞きたかった。あの一撃のことを。

「あ! もしかして、この家って嬢ちゃん家か!?」

 村長さんの家は、昨夜の戦いの場となったにもかかわらず、きちんと原型を留めていた。ある一点、地面もろとも家が真っ二つに斬られていたことを除けば。

 あの時、やつらの主、<黒禍の祖狼>が現れた時——誰もがその存在に目を奪われた。獣達は自分達の主が到着したことを知り、自分達の勝利を確信しただろう。自分達こそが狩るものであり人間は狩られるものなのだと思い出し、これから味わえる人の血と肉の味に舌鼓を打ったに違いなかった。

 やつらと戦っていた異国の『騎士』達とて、初めて対峙する<黒禍の祖狼>の発する黒々しい狂気に平静ではいられなかったと思った。だけど、なのだけど——この人は違った。

 私がこと——つまり、起こったことを口で説明するのは簡単だ。

<黒禍の祖狼>が村長さん家の屋根に出現した瞬間、誰もがその存在を認めた瞬間、<黒禍の祖狼>自身すらも己が喰らう獲物を見定めた瞬間——この人の行動は一瞬の間すらもなく終了していた。

 斬ったのだ、この人は。<黒禍の祖狼>を、その獣が乗る家も、その家が立つ大地もろとも真っ二つに。

 私はその光景をしっかりと見ていた。この人は、<黒禍の祖狼>の出現に誰よりも早く気付き、大狼の群れをかき分け接近し、片刃の長剣を腰の鞘から放ちながら、真下から真上へ、天空へ一直線に羽ばたくように飛び上がりながら、剣を抜き——斬った。

 私のと言う恩寵がなければ、何が起こったかなんて到底分かるはずもなかった。

 何せ、あの場にいた人——と獣達も含めて——の中で、この人の抜き打ちの一撃が見えた人なんていやしない。十字の槍から発せられた紫電の一閃よりも、大弓から射ち出された白光の矢よりも、この人の一撃は遥かに速かった。

 刃の動きも、と言うかどうやって近づいたのかすらも見えなかった。ただ、そこに至った軌跡が私の恩寵によって微かに見えただけ。恩寵がなければ全く分からなかった。<黒禍の祖狼>は自らの命が消え去るその瞬間まで、自分が斬られたことすら気付きもしなかっただろう。

 あの一撃は、速いと言う次元すら超えていたように思う。そして何より、幾人もの高名な騎士や剣匠を退け、討伐することはもはや不可能とまで言わしめた<黒禍の祖狼>をたったの一振りで仕留めたその威力も尋常ではなかった。

「くぁー、スマン、スマン! ついぶった切っちまった。たぁ〜やっちまったなぁ〜。これじゃ隙間風が入り込んで夜とかメチャ寒そうだなぁ……。大将、すぐ出発するって言ってたから直すの手伝う訳にもいかんし……。弁償——って、やべっ! この国の金なんて持ってないな、俺。くぁ〜、ど〜っすっかぁ〜……」

 この人は右手で頭をかきながら、私に何度も頭を下げた。

 この人達の喋る言葉が何を意味するのか、当時の私は全く分からなかったけど、この人が私に何かを謝ろうとしていることぐらい分かった。

 私は、何と答えたのだろうか。やはり思い出せない。助けて貰ったのは私達なのに、急に謝られて私はどうしようもなく恥ずかしくなった。私が変なことを尋ねたせいだと思い、湯気が出そうなほど顔を真っ赤にしながら両手を振って、違うんです、あなた様が謝る必要はないんです、変なことをお聞きしてごめんなさい——とか、頭を下げながら必死に弁解したのだと思う。端から見ると、別々の言語を喋りながらお互い頭を下げ合ってたのだから滑稽だったかも知れなかった。

「んぅ? なぁーんか、俺ら、話が噛み合ってないような……? おっと、噂をすれば。大将ー! こっちっす、こっちー! すいやせーん! ちぃとこの嬢ちゃんの通訳して貰えませんかねー!?」

 丁度この人達のリーダーが教会から出てきたところだった。

 村長さんと司祭様との話が終わったのだろう、私達のところまでやって来てくれた。

 私は喋った、喋りに喋った。恥ずかしいやら嬉しいやら感激やらで——やはり何を喋ったのかさっぱり思い出せないけど、必要なことはしっかり伝えられたと思う。私や村の皆がどれだけ感謝しているのかを。皆さんのお陰で安心して夜を過ごすことができますと。皆さんこそ、真の騎士であると。

 そして、もしできるのなら、<黒禍の祖狼>を倒したあの一撃について教えて貰えませんか、と。

 私のしっちゃかめっちゃかな話をリーダーの人は、時折頷きつつ、相づちをいれつつ、しっかりと聞いて、この人にきちんと伝えてくれた。

 この人は静かに聞いていた。ただ、ちょっと照れていたようにも思えた。そして、最後の話になった。私が一番この人に聞きたいこと——どうやって<黒禍の祖狼>を倒したのか、教えて貰えませんか、と。

 私の問いが意外だったのか、この人の両目が大きく開き、少し驚いたような表情になった。

「ああ、あれか……」

 暫くの間があった。

 この人が私と同じ目線の高さになるよう腰を屈め、右手で握り拳を作った。自分の胸をポンポンと二回叩いた後、

「あれは——」

 ぽすんと私を優しく軽く叩き、にやりと、どこまでも不敵で素敵な笑みを浮かべながら、こう言った。


「……『チェスト』、だ」


 澄んだ鈴の音が、冬の村にこだました。


 この不思議な響きを持つ単語こそが私の最初に覚えた『日本語にほんご』であり——、

 この異国の『騎士』達が極東の島国『日本にほん』から来た『さむらい』達であると知るのは、もう少し後のことになる。


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