第一章
「さあ、それでは天使様に祈るのです」
天使教会の象徴である
「大丈夫ですよ。きっとよくなりますから」
秋川神父はかたわらで涙を流している娘の両親に優しく語りかけた。
「お母さん、秋川神父を信じて」
もう一人、浅黒い肌をした長身の神父が母親の肩に手を置き、落ち着いた声で優しく語りかける。彼は
「さあ、椿君。彼女をしっかりと抑えて」
秋川神父は加織神父を気にしながらも、補佐の少年にいつもどおりの指示をした。
「はい。神父様」
直巳は少女のお腹にそっと左手を当てると、硬い毛皮の手触りを感じた。
(ここが一番ひどいな)
少女の服をめくれば、腹部に異変が見てとれるだろう。今回は獣のような毛皮になっていたが、もしかしたら石化していたかもしれないし、草が生えていたかもしれない。どのような状態になっていても不思議ではなかった。
直巳が秋川神父に目配せをすると、秋川神父は大きく呼吸をして、大げさに祈りの言葉を唱え始めた。
「おお、偉大なる天使様! どうか少女の体を地上に引き留めたまえ! それは天使様に良くお仕えするため! 天使様の教えを広めるため! いましばらく、人の体にいることを許し給え!」
少女の腹部が一瞬だけ微かに光ったが、服の下であったため、直巳以外は誰も気がつかなかない。それから数秒後、少女の呼吸は落ち着き、目を覚ました。
「……ここ……どこ?」
「あかり! お母さんよ!? わかる!?」
「あ……お母さんだ……」
少女がにこりと笑うと、母親は耐えきれずに少女に抱きついた。
秋川神父はその様子をにこにこと見守っている。
「本当に……本当にありがとうございます、神父様……!!」
「聖職者として当然のことをしたまでです。娘さんが無事でよかった」
こうして、秋川神父はまた一人の少女を救った。
加織神父は小さく拍手をした後、少女の家族達が安心できるよう、笑顔で優しい言葉をかけていた。
秋川神父は少女の両親から多額の謝礼を受け取り(礼儀として何度か断ったが)、天使教会の信徒となるべく洗礼を受けさせた。洗礼は天使教会本部からきている加織神父が行なった。加織神父が天使教会本部の偉い神父なのだと伝えると、家族はとてもありがたがり、喜んだ。
「しんぷさま、ありがとう!」
あかりと呼ばれた少女は秋川神父の膝に抱きつく。色白で太っている秋川神父は、少し苦しそうにしながらもしゃがみこみ、あかりと目線を合わせて微笑んだ。
「これからは、ちゃんと天使様にお祈りをするのですよ」
「はい! わかりました! おにーちゃんもありがとう!」
あかりは、直巳の膝にも抱きついてきた。
「いや、俺は別に……」
「おにいちゃんの手、あったかいのわかったよ! だから、ありがとう!」
「……そっか。治ってよかったな」
直巳があかりの頭をくしゃくしゃと撫でる。
「へへー」
あかりは嬉しそうに、自分の頭を撫でる直巳の手を握る。
小さく、柔らかく、温かい手、少女の手に、直巳の胸が少しだけ痛んだ。
あかり達家族を見送ると、加織神父が秋川神父に賞賛の言葉をおくり始めた。
「これが噂の秋川神父の奇跡ですか。いや、実に素晴らしい。実際目にすることが出来て光栄です。これは、一体どのような仕組みなのですか? 秋川神父は天使付きではありませんでしたよね?」
天使付きとは、降臨した天使が人間について、特別な力を与えることだ。非常に珍しく、該当者は世界中を見ても多くはない。
秋川は加織神父の問いかけに対して、すらすらと慣れた感じで返答をした。
「私は天使付きではありません。ただ、これは人に教えられるようなものではないのです。そもそも、言葉に出来るようなものでもないし、無理に言葉にすれば消えてしまうかもしれない。そういった力なのです。なので、内容については天使教会本部の命令と言えど、明かすことはできません。悪魔に類する力ではありませんのでご安心ください」
秋川神父の用意していたかのような、なめらかな拒否の返答を聞いても、加織神父の笑顔は崩れなかった。
「それは残念ですが、秘儀とはそういうもの。無理に聞こうとは思いません。ただ、一つ心配があるとすれば、この力がやがて失われてしまうのではないか、ということです。どうか、その点だけは十分にお考えいただきたい」
秋川神父は、これに対してもすらすらと返答をした。
「ご安心ください。この力はいずれ、ここにいる椿君に譲るつもりです。彼にはその才能がありますから。また、熱心な天使教徒であり、やがては天使教会神父となるでしょう。そのための勉強として、今もこうして補佐をしてもらっているのです」
秋川神父の言葉に、直巳は「そのつもりです」とだけ答えた。
「それならば安心です。椿君、頑張ってくださいね。ただ、天使教会の神学校に通うには、かなりの学力も必要ですからね。そちらも頑張ってくださいよ?」
加織神父が冗談めかして言うと、直巳は「頑張ります」とだけ答えた。
直巳は入学以来、テストの点数で10位以内から落ちたことがないのだが、わざわざそれを言うのも自慢するようで嫌だったので黙っていた。
直巳は高校を卒業したら、天使教会の神学校に推薦で入る予定だ。その際には、この秋川神父の口添えが役に立つだろう。加織神父にも口添えしてもらえれば、もっと楽だなと、直巳は考えていた。
加織神父が帰った後、(本部からの視察なのでしばらくいるらしいが、今日は帰った)直巳は秋川神父の部屋で二人きりになった。部屋にはわざわざ鍵もかけている。
秋川神父が、小声で直巳に封筒を差し出す。
「椿君、ご苦労様でした。これが今日の分です」
直巳は無言で封筒を受け取ると、その場で中身を確認した。
「――結構ありますね。誤魔化してないでしょうね」
「誤魔化してなどいません。彼女のご両親からは50万いただきました。その半分できっかり25万。嘘はついていません」
「わかりました。次、嘘ついてるのわかったらおしまいですからね。俺は、他にも収入源はあるんですから」
「収入よりも、私とのコネがなくなったら困る、でしょう?」
「まあ……そうですね」
「目先のお金よりも、ですよ。その腕の力をきちんと使えれば――《神秘呼吸》(アルカナ・ブレス)でしたっけ? あなたは最年少で神父になり、やがては天使教会の本部で働くことだってできる。今は将来への投資だと思いなさい」
直巳は卒業後、神学校に通い、天使教会の神父になろうと考えていた。直巳の能力があれば教会で出世することは簡単だろう。やがては聖人にだってなれるかもしれない。そのためのコネ作りとして、秋川神父に協力をしている。
「しかし、加織神父はあまり突っ込んできませんでしたね」
「出所不明の力を使う神父は他にもいるのですよ。あまり突っ込むと、天使教会の教義と矛盾が出てしまう。それで破門するよりも、黙って天使教会に力を貸してくれた方が、本人のためにも教会のためにも良いのです」
「なるほど。じゃあ、今回の視察は力の確認、ということですか」
「でしょうね。あまりうるさくは言わないはずです。とにかく、筋書きどおりにいきましょう。今はわたしの力。それを後々、あなたに譲る――いいですね?」
よくもまあ、大胆な筋書きを考えるものだと関心する。直巳は「わかってます」と答えたが、ばれたらどうしようという不安も、もちろんあった。
直巳の難しい表情を見ると、秋川神父は笑いながら言った。
「大丈夫ですよ。お互いが気をつければ、真実を突き止める術はありません。天使は――」
「天使は自分の羽根を踏まない、でしょう」
直巳は、聞き飽きた秋川神父の決め台詞を言うと、教会から出た。
教会から出てすぐに、胸にかけていた二翼十字を外し、カバンにしまった。
世界に天使が降臨するようになって、100年が経過したと言われる。天使は降臨するたびに近くの人間に様々な影響を与えた。それは良いこともあれば悪いこともある。すべてが人間の益になるわけではなかった。
まず、天使降臨の衝撃で人が怪我、または死亡することがある。降臨位置に近ければ近いほど危険だが、降臨の衝撃は毎回違うので、絶対に安全な距離があるとは言えない。目の前に降臨されて生き残った人もいるし、半径数百メートルがクレーターになったこともある。
天使が降臨すると、「天使の奇跡」と喚ばれる光りを放つ。この光りを浴びると人間の体に影響が出るのだが、これは良い影響と悪い影響がある。難病が治る、欠損部位が回復する。失われた五感が戻る。その他にも様々あり、若返るなんていうのもある。これらは「奇跡」や「救済」と呼ばれて、人々は天使に感謝をする。
そのまま逆のことが起きるのが悪い影響なのだが、悪いことは良いことより多く発生した。人が二人に分裂する、動物になってしまう、自然物になってしまう、消えさってしまう。天使に連れられて空へ帰っていった、なんていう報告もある。これらは「試練」と呼ばれて、受けた人間はさらに天使を信仰するか、天使を憎むかに分かれる。
これらの天使に対する感謝と畏怖を原動力に生まれたのが天使教会だ。年々、増加する天使降臨の数に比例して天使教会も力をつけていった。天使教会は、天使による数々の所業すべてを「奇跡」や「試練」と呼び、否定することはしない。それが本人や家族にとって、どんなにつらいことであろうと、すべて受け入れろという。なので、教会を良く思っていない人間も多数いる。
先ほど、直巳がいたのも天使教会の一つだ。この教会では神父の秋川が行っている治療により、少なからず評判を得ている。
それは「魔力暴走」の治療だった。天使降臨の悪影響の一つに、「魔力暴走」と呼ばれるものがある。天使が降臨すると、周辺に強い魔力が立ちこめる。人によっては、その魔力を受け止めきれず、身体に変調をきたすものがいる。魔力は、「何かを引き起こす純粋な力」であると言われており、何が起きるかわからないため、非常に厄介だった。
魔力暴走は、肉体と世界の境界線が怪しくなり、最悪は死に至る。身体の一部が獣に変化することもあれば、石や金属に変わることもある。全身の皮膚が鱗や羽根、甲殻になるということもあり――とにかく読めないし、規則性がない。
秋川神父はそれを治療することができた。魔力暴走も天使による奇跡の一つであり、それを治療、すなわち否定することは許されないというのが教会本部の見方なので、天使教会は見て見ぬ振りをし、秋川神父は個人的に施術をしている――ということになっている。
だが、実際は違う。治療をしているのは椿直巳であり、秋川はただのパフォーマーだ。
直巳の両腕には、「神秘呼吸」《アルカナ・ブレス》と呼ばれる能力がある。左腕で触れれば対象の魔力を吸い取り、右腕で触れれば魔力を与えるという力だ。なぜこんな能力があるのかはわからない。幼いころから使えるのだから、なぜと聞かれても困る。
直巳は数年前、この噂を聞いた秋川に力を見せた。すると、秋川はすぐに魔力暴走治療の話を持ちかけ、直巳はそれにのった。直巳が一人で力を使って目立つと、教会から異端認定される可能性が高い。直巳は「天使付き」ではないため、力のことを教会は快く思わないだろう。
ならば、秋川が奇跡を起こしたことにしよう、と言うことになった。神父がやったのであれば、先ほどの加織のように、たいした問題とはされない。秋川は神父としての名誉と金を。直巳は金と教会へのコネを手に入れる。利害が一致した。
それから、直巳は秋川の要請があれば教会へ行き、手品のようなやり方で魔力治療を行っては報酬を得ていた。
誰にも知られず、報酬のために力を使う。やがては秋川のコネを使い天使教会に入り、最年少での神父を目指す――天使なんか信仰してない。ただ、それが一番良さそうだからだ。
直巳は、それが一番正しい人生の歩き方なのだと信じていた。
人助けをしている。医者だって治療をすれば報酬をもらう。それと同じじゃないか。
罪悪感はない。
ただ、不思議と空しさはあった。
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