《Isharta side - 1》『すべての邪気を呼び寄せるイシャータの受難』


 野太い野盗の腕のように八本の赤い柱が鐘閣のしころ屋根を支えている。深夜──その中央に吊られた巨大な青銅の時鐘を八度打ち終えるとイシャータは冷たい風の中で両手を擦り合わせた。白い息を細長い指で受け止め、背後にさりげなく視線を回す。


 先ほどから刺さるような『邪気』をイシャータは感じていた。幼い頃からいつも感じてきた“あれら”よりもやや強い、いや、かなり強い。ここまで大きいと邪気というよりは魔気に近い。



(また、呼んじゃったかな──?)



 イシャータは素知らぬ振りを装いながら警戒を強める。“気”は大きいが遠い……今いるこの場からはやや離れた場所にある。少なくとも身の周りでは──ない。そう確信するとイシャータは上体を屈め匍匐ほふくするように前に進み出た。そして遠目で鐘閣からうかがえる範囲の景色をできるだけ広く──ぐるりと見渡した。


『死の洞窟』からするりと飛び出してくる一羽のオオワシがイシャータの目に入ったのはその時だった。



 ここ、フォート=サガン寺院は丘陵や山崖を掘開し、内部空間を整備した所謂石窟?《せっくつ》寺院である。大魔法使いの翁であるズブロッカが魔道に沿った種を持つ者を各国より選りすぐり、修行させるための『魔導院』そして礼拝のための『塔院』を設備した窟院だった。



 その二つを基点として、周囲には断崖を断続的にくりぬいて築かれたいくつかの石窟がある。さまざまな魔道を専門的に取得するための空間、そして寝食をとるための簡単な住居施設──それらで構成されていた。


 イシャータの視線はそこからさらに南へと伸び、エル=トポと呼ばれる断崖に辿り着いた。それは、食器皿の上に無造作に置かれたパイのような形状をしている──巨大な一枚岩だった。その麓にある細長い入口をした洞窟こそが『死の洞窟』──フォグが魔法を封印するために入ったあの洞窟だった。



「──?」


 オオワシはそのまま断崖に沿って高く上昇していく。


 あれか──? いや、弱いか。待て。弱いけど……強い? これはどういうことだろ? だが、少なくとも今感じている“この”邪気のみなもとではない。あのオオワシが“おおもと”じゃない──


 オオワシはしばらく旋回しながら方角を定めているようだったが、翼を大きくはためかせると一路南の方角へと飛び去った。


 だとすれば、やはり発信源はあの中か──?


 すぐに視線を落とし、洞窟の細長い入り口を探る。さらに目を細め、奥へと侵入する。イシャータの肉体を離れ、『視界』だけがぐねぐねと入り組んだ洞窟の奥へ奥へとものすごい速さで侵入していく。だが──


「────!」


 急に蝋燭の火を吹き消されたかのように邪気は遮断されイシャータの『視界』は跳ね返された。額を棒で突つかれた時のような衝撃をくらう。髪の毛がふわりと揺れた。


──切断された。


 イシャータはこめかみに親指を強く押し込ませた。そうやって頭の痛みをやわらげると今度は大きく溜め息をついた。


「う~、まだまだ修行が足んないな……」



▼▲▼▲▼▲



「『原初プライマルヴォイス』に揺らぎを感じる──目覚めようともがいているのではないか──“竜の番人”たちはそう申しておりました。『ヴォイス』の監視、及び管理を怠るなとも」


 礼拝用の『塔院』──その中央で座禅を組むズブロッカにジェイクは低い声でそう告げた。セント=エルモの沖合いから今しがた戻ってきたばかりのジェイクの髪は潮によってちりぢりに焼かれ、肌も浅黒く変色していた。


「うむ──使い、御苦労だった」

「しかし翁、簡単に監視管理と言われても……そもそも『ヴォイス』の存在自体が私にはどうにも“あやふや”です。現在この時代とき、何ものに擬態し何処いずこに潜んでいるのか。それすら……私ごときでは見定めるすべも──」


 さほど手入れもせず伸ばし放題になっていた髭をジェイクは思案顔で撫でた。


 扉が開き、イシャータが入ってきたのはその時だった。外の風が壁一面に張られた札を一斉に揺らす。


「うーーっ、寒っ! 寒、寒、寒っ! 父上っ、時鐘の番、ただいま終わりましたぁっ!」

「これイシャータ、なんじゃその言いぐさは。慎めと言うとろうが」


 ズブロッカは振り向きもせず叱咤する。


「だってぇ、寒いもんは寒いっ! だいたいさ、こんな誰が聞くわけでもない鐘を毎朝毎晩鳴らしたってさ、意味ない気がするんだけどなぁ……」


「そりゃあそうかもしれんな」


 ジェイクはイシャータのそんなぼやきに思わず声を出して笑ってしまった。蝋燭の灯にぼんやり照らし出されたジェイクの姿を見てイシャータの顔が明るくなる。イシャータはその体に思わず抱きつくと深く顔を埋うずめた。塩を炙った時のような匂いがした。


「ジェイク! おかえりっ。いつ帰ってきたの、今? ねえ、今? そんな『気』ぜんぜん感じなかったよボク……やっぱ凄いなジェイクは」

「イシャータ、おまえの父上の言う通りだぞ。もう年頃なんだから少しは娘らしい言葉を選んだらどうだ?」

「だってぇ! だいたい『男も女もなく生きるのじゃぞ。よいな、イジャーダ』──なーんて言ったのは父上の方なんだぜ?」


 両の頬を指で掴んで下に引っ張り落とすとイシャータはズブロッカの真似をしながら言い返した。


「わしはそういう意味で言うたわけではない。それにそこまで頬は垂れ下がっておらん。そういう無粋な気持ちが先ほどの鐘の音にもありありと含まれておったわ。なんだ、あれは? おまえの心の浮わつきがこの目に見えるようだったぞ」

「『音』が『見える』なんて、へんなの……。あ、そうそう──実はそのことなんだけど、またボク“呼んじゃった”みたいなんだよね……だから、ついそっちに気をとられて──」


 ズブロッカが初めて目を薄く開いた。


《よびよせるもの》──それがイシャータに秘められたもうひとつの名であった。

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